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2024年5月1日水曜日

古書をめぐる旅(49)『Japan Story of Adventure of Ranald MacDonald:ラナルド・マクドナルド伝』 〜幕末の日本に密入国したアメリカ人の物語〜

 日本は隣国。自分のルーツは日本人。そう信じ、日本に強い関心を抱いていた男が19世紀、日本の幕末、アメリカ西海岸にいた。彼の名はラナルド・マクドナルド:Ranald MacDonald。ついには鎖国下の日本に遭難を装って密入国する。そこで彼が見たものは。今回は発掘された彼の自伝原稿をもとに編集した、「ラナルド・マクドナルド評伝」:Ranald MacDonald The Narrative of his early life on the Columbia under the Hudson's Bay Company's regime; of his experiences in the Pacific Whale Fishery; and of his great Adventure to Japan; with a sketch of his later life on Western Frontier 1824-1894.を紹介したい。本書の後半部がマクドナルド自身のオリジナル原稿「日本冒険記」:Japan Story of Adventure of Ranald MacDonald  First Teacher of English in Japan A.D. 1848-1849となっている。東ワシントン州歴史協会:The East Washington State Historical SocietyのWilliam S. Lewisと東京外国語学校校長の村上直次郎の共同編集である。1923年の初版で1000部の限定出版である。


1893年のオリジナル「自伝」原稿表紙
晩年のRanald MacDonaldの写真(1891年7月5日撮影)
彼の姪が所有していたものだという

1923年に東ワシントン州歴史協会編集の評伝表紙


彼の教え子
一人は森山多吉郎(出典はハイネ「ペリー艦隊日本遠征記」)

マクドナルド自作の日英語彙集

ラナルド・マクドナルド:Ranald MacDonald(1824−1894)は、イギリスの北米植民会社、ハドソン湾会社幹部で毛皮商人、アーチボルト・マクドナルド(エジンバラ大学出のスコットランド人)を父に、地元チヌーク・インディアン族長コム・コムリーの娘を母に生まれた。ハドソン湾会社の開拓植民地であったコロンビア(現在のカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州、アメリカワシントン州)で生まれた。当時はこのような入植者と地元有力者が共同して開拓、事業経営を行うために婚姻関係を結ぶことは一般的であった。ラナルドは一族の族長からの言い伝えで、チヌーク族は日本人がルーツであると聞かされてきた。これにより、まだ国を閉ざしていた未知の日本に大いなる興味を持ったと、のちに書いている。人類学的にこの日本人ルーツ説が正しいかどうかは定かではないが、現在ではアメリカ大陸の原住民/ネイティヴ・アメリカン、インディオは、ホモサピエンスのグレートジャーニーで3〜4万年前にアジアからベーリング海峡を渡って移動してきた一団がルーツであることは知られている(彼らにはモンゴロイド・アジア人に共通する蒙古斑がある)。こうしたグレートジャーニーの記憶が、チヌーク族の中で伝承されてきたことじたい大変興味深い。

また彼は、日本の漂流民がイギリスハドソン湾会社のテリトリーであったブリティッシュ・コロンビアに辿り着き。地元部族に捕らえれれて奴隷にされて、ハドソン湾会社に売られた話を聞いている。彼らの一部はロンドンに連れて行かれた。これは以前紹介したジョン・マシュー・オットソン:John Mathew Ottoson:山本音吉の漂着(1832年)の話である。マクドナルドは子供の時にこの日本人漂流民のことを聞かされ、日本に関心を持つきっかけの一つとなったと書いている。

彼は、父の勧めで勤めていた銀行を辞めて、捕鯨船の乗組員として太平洋に出た。1848年、ついに憧れるだけでは済まず、日本に密航することを決断し実行した。当時は外国艦船の接近に異常な反応を示していた鎖国日本にである。アメリカの捕鯨船プリムス号に乗り込み、蝦夷地の焼尻島付近を航海中、単身でボートをおろし遭難を装って上陸。しかし人がいないので再びボートで利尻島に向かい上陸。日本では密航だと死罪。遭難なら悪くとも投獄、送還と聞かされていたからだという。利尻島で(幸運にも)役人に捕まり松前から長崎に連行された。日本密航の動機は、色々と記述されている。同じルーツの日本への憧れ。日本人に親近感を持たれるのではという期待。西欧教育を受けているので日本でしかるべき仕事に就くことができるのではという期待。そういった夢想から、彼が経験した人種差別、失恋といった現実的な問題、等々。無鉄砲な若者の冒険は思慮深い判断からは生まれない。

マクドナルドは長崎の牢(崇福寺の末寺)に繋がれた。彼に与えられたスペースは格子はあるがいわゆる座敷牢で待遇はそれほど悪くはなかったと書いている。ペリー艦隊来航の5年前である。当時その牢にはアメリカやハワイの漂流民14名が収容されていた。彼らは長い投獄生活で疲弊していたようだ。彼は取り調べの中で、「踏み絵」を踏むよう促されたと書いている。最初それが何かよくわからなかったが、どうも聖母子像であったようだ、と回想している。自分はカトリックではないので踏むことに躊躇はなかったとも書いている。しかし、入牢中、彼は聖書を手元に置きたいと要求。最初は拒否され、2度と聖書の話を持ち出さぬよう役人から釘を刺されたが、次第に彼が聖公会プロテスタントで、キリシタン(カトリック)では無い(?!)ことがわかり、聖書を手元に置くことが許されるようになったと回想している。プロテスタントとカトリックの区別はオランダ人からすでに聞いていたのであろうが、それにしても当時の扱いが苛烈なものではなくなっていた様子がわかる。

マクドナルドはハドソン湾会社のコロンビア植民地で英語での教育を受けていたので、長崎奉行所役人から英語の指南を期待され、そこで14名の幕府通辞に英語を教えた。当時の通辞はオランダ語のみで、英語はオランダ商館を通じて入手した書籍で多少学んだものがいるくらいで、しゃべれるものがいなかった。しかし、幕府も時代はオランダ語ではなく英語であることは認識していた。中でも、のちにアメリカのペリー艦隊、イギリスのエルギン卿使節団との交渉の通訳を務めた森山多吉郎(栄之助)を育てたことが大きい。そうしたことから日本で初めて英語を教えたアメリカ人:「First teacher of Einglish in Japan」と、本書では紹介されている。森山は当初マクドナルドの取り調べを担当していたが、彼から英語を学ぶことになる。マクドナルドによれば、森山たちは蘭英辞書を入手していて英語の文法や語彙はかなり勉強していたようだ。ただネイティヴと話したことがないことから発音、アクセントがダメだったと述懐している。したがって彼の英語教授は口頭での発音練習に集中した。森山は教え子の中でも、最も優秀で、発音、アクセントをのぞくとほぼ完璧に英語をマスターしていたと驚嘆している。

マクドナルドが牢で作った手書きの「和英語彙集」のコピーが本書に掲載されているほか、活字化した語彙集が数ページにわたって紹介されている。彼が耳から得た日本語の発音をそのまま書き取っているためか、かなり意味不明な日本語もある。当時の日本人のしゃべり言葉をそのまま英字にしたのだろう。またどの程度正確に聞き取れたかも疑問がある。しかし興味深い資料だ。面白いのはマクドナルドが聞き取った語彙のなかに多くの長崎弁が混じっているのがご愛嬌だ。例)Cheap=Yaska:安か、Pain=Itaka:痛か、Dark=Kuratka:暗か、Dirty=Eswashy:えずわしい、Entertain=Omosiroka:面白か、など九州出身者には懐かしい、あるいは今は使わない方言が入っているのが興味深い。また森山:Moriyamaをなぜか最後までMurayamaと記している。こうした間違いを指摘するものもいなかったのだろう。本書では編集者がこうした彼が聞き取った日本語の読みと、現在使われる正しい読みを併記している。

1849年、10カ月ほど長崎に滞在し、そのうち7ヶ月を英語教授に費やしたのちに、漂流民の引き取りに長崎に寄港したアメリカ艦プレブル号で、他の漂流民とともに帰国する。短い滞在であった。しかしこの日本での体験は彼にとって貴重で好ましいものであったようで、生涯を通して彼は親日家であった。のちに彼は、帰国の5年後の出来事である、ペリー艦隊の日本遠征、日米、日英の条約締結と日本の開国を感慨深げに振り返っている。自分がそうした歴史的な事件に幾許かの貢献ができたことを誇る気分が行間に満ちている。また日本にいた時の「教え子」、森山多吉郎ほか14人の消息を求めて、カナダの有力者や、エジンバラ大学に留学した日本人、日本人ジャーナリストなどのツテを頼って調べようとしたことが縷々記述されている。しかし、森山多吉郎は1871年にすでに他界していることを知り、そのほかの多くの教え子も他界したか、消息が途絶えていたかで連絡が取れた教え子はいなかった。彼は終生「日本での教え子」のことを想い続けた(「二十四の瞳」ならぬ「十四の口」か!)。なぜか朝日新聞の創業者村山氏を森山の子息である、と誤解し続けている。MoriyamaとMurayamaをここでも混同しているようだ。編者が脚注で、この二つの名前は別の家族で、村山は森山の子孫ではないと注記している。

マクドナルドが密航時に考えた「日本で自分に何かできることがある」は、英語を教えることである程度達成できたようだ。それが5年後の日米、日英の条約締結、日本の開国につながったことを考えると大きな成果であり夢が叶ったといえよう。しかし、「日本人と血が繋がっている」は、彼の記述の中でもそれにまつわるエピソードは出てこない。ちょっと期待が外れたのだろうか。日本人を共感する(?)には滞在期間が短すぎ、交流する人にも限りがあっただろう。思ったより早くアメリカから救出船がやって来てしまったのかも。ちなみにこの頃すでに、漂流民救出目的とはいえアメリカ艦船が長崎に入港していたことになる。その10年ほど前の1838年には日本人漂流民(あの山本音吉:オットソンたち)を送ってきたアメリカ商船モリソン号を浦賀沖で砲撃して追い返していた(モリソン号事件)というのに。ペリー来航の4年前、すでに日本列島周辺には多くのが外国船が航行しており、特にアメリカの捕鯨船が多かった。日本の港に入港して薪水炭の補給や、乗員の休養、漂流民の救助、送還などが求められていた。マクドナルド自身も捕鯨船でやってきた。ペリー来航と日本の開港要求の目的の一つがこの北西太平洋上の航路上のアメリカ捕鯨船の安全確保であったことは既に述べた通りである。

それにしても、日本の開国というこの歴史的な出来事の陰に、彼のような若い(無鉄砲な)冒険者の存在があり、その冒険が森山多吉郎のような英語通訳を育てることに一役買い、森山たちが日米交渉、日露交渉、日英交渉の重要な裏方を担ない、条約締結、開国という大きな成果につながったことを知った。歴史は決して表舞台の登場人物だけが作り出したものではないことを実感する。1923年のこの書籍の出版まで、マクドナルドの事績が後世に伝わることもなく、彼は全く未知の人物であった。またアメリカにおいても漂流民からの日本に関する聞き取り証言記録が議会に残っているが、それ以外はほとんど公的な記録が残されていない。しかし、彼の個人的な回想録原稿が地元コロンビア(現在のワシントン州)で発掘され、彼の冒険物語が初めて明らかになった。また本書の編者によって当時のアメリカ側の海事関係記録や新聞記事、日本側の松前藩、幕府、長崎奉行の記録も発掘され、翻訳されて彼の行動を立証する証拠として本書に提示されている。ペリーとの交渉に活躍した森山多吉郎(栄之助)については「ペリー艦隊日本遠征記」:Narative of The Expedition of American Squadron to China Sea and Japan in1854に肖像画と記述があり(下記写真)、森山が「アメリカ人漂流民であった航海士に英語を習った」と書かれている。しかし、その航海士の名は記されていないので、マクドナルドの存在はこれまで伝わっていなかった。帰国後のマクドナルドの後半生は、さまざまな交易事業に従事し、オーストラリアやインドに旅したようだ。先述のように、晩年に至り回想録を書くにあたって、かつての日本の「教え子」の消息を、さまざまなツテを通じて尋ねている。また日本での経験物語を日本の新聞社に送ったりしていたようだが、行き違いもありあまり注目を浴びなかったようだ。日本の開国後、あれほど憧れて密航までした日本の姿を見てみようと、再訪を試みた様子も書かれていない。彼の晩年は貧しく、70歳での没後は彼の生まれ故郷のネイティヴ・アメリカン居留地(現在はワシントン州)に埋葬された。先述のように彼の記録が発見された事で、あらためて歴史の隅っこから日の当たる場所へと登場することとなり、彼の事績が再評価されるようになった。改めて「記録を残す」ということの重要さを認識する。1923年の本書の出版が、マクドナルドの顕彰事業の一つであり、また顕彰碑がカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州、アメリカ・ワシントン州と長崎、そして上陸した利尻島にある。


(参考)「ペリー艦隊日本遠征記」に掲載された森山多吉郎(栄之助)の肖像と彼の署名入り公文書翻訳写し







追記:

ちなみにマクドナルドは何人なのか?国籍は?表題には「アメリカ人」と書いたが、彼が生まれたアメリカ北西コロンビア植民地は、当時はイギリスのハドソン湾会社の入植地で、彼は父のイギリス国籍を引き継いでいることになる。しかし地元のチヌーク族の母の血を引くことからネイティヴ・アメリカンとも言える。またこの一帯は、イギリス人とアメリカ人の雑居地域で、現在のブリティッシュ・コロンビア州も、カリフォルニア州もオレゴン州もワシントン州も未だ成立していない。したがってアメリカ国籍でもなく、ましてカナダ国籍でもない。のちにはアメリカ合衆国ワシントン州、オレゴン州の一部になり、彼の墓はワシントン州にある。彼自身も自伝の巻頭言ではアメリカ合衆国ワシントン州在住と書いている。今ではこの両州もカナダも彼を地元の歴史上の偉人として扱っている。本書も東ワシントン州歴史協会が出版している。このように19世紀半ばの北米西海岸はまだ国境が確定せず、州の成立も、ましてカナダという国家も成立していない時代であった。彼は、国籍などこだわらなかったのだろう。そういう意味でも自他共に認める無国籍人だったのかもしれない。


Ranald MacDonald
1853年に撮影されたとされるダゲレオタイプの肖像写真


森山多吉郎(栄之助)(1820−1871年)

幕府オランダ通辞。代々オランダ通辞の家に生まれ、ペリー来航やプチャーチン来航時の首席通訳を務めたほか、初代アメリカ公使タウンゼント・ハリスとも頻繁に会談している(「ハリス日記」にもしばしば登場する)。1850年には幕府の命令で和英辞書の編纂に取り組んだ。1862年の文久遣欧使節団(兵庫開港延期交渉)の首席通訳としてイギリス公使オルコックの船で渡欧。帰国後は江戸で英語塾を開き人材の育成にも努めた。門下生には津田仙(津田梅子の父)、福地源一郎(ジャーナリスト)、矢野二郎(東京高等商業学校校長)などがおり、明治期に活躍した多くの逸材を育てた。また福沢諭吉も折々に彼をたづね指導を仰いだ。しかし、維新後は明治新政府には出仕せず、市井の人として東京で生涯を終えている。長年の激務がたたり、晩年はかなり体調を崩していたようで、明治4年、51歳で没した。


幕府主席通辞、森山多吉郎(栄之助)Wikipedia

長崎からマクドナルド等14名のアメリカ/ハワイ漂流民を乗せて本国へ帰還した米艦プレブル号(英語版Wikipediaより)

長崎のマクドナルド顕彰碑


参考図書ほか:

ラナルド・マクドナルド「日本回想録」〜インディアンの見た幕末日本〜 刀水書房1979年:本書の日本語訳。この副題はちょっとミスリーディングなように思うが

吉村昭「海の祭礼」文春文庫1986年初版:マクドナルドと森山の出会いを描いた長編歴史小説

NHKドラマ「わげもん」2020年:長崎通辞の物語 森山と漂流民マクドナルドが登場する歴史ドラマ