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2025年11月19日水曜日

カール・ポパー『歴史主義の貧困』:Karl Popper ” The Poverty of Historicism” 〜歴史の行く末は予測できない?〜

 

Karl Popper (1902~1994)


歴史をめぐる旅人「時空トラベラー」としては避けて通ることのできない著作がある。カール・ポパーの『歴史主義の貧困』である。「歴史は未来を予測できない」と断じた著作である。

カール・ポパーは、オーストリア出身で、ナチ政権の弾圧を逃れてニュージーランド、イギリスへ渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス:LSEで長年教鞭をとった20世紀を代表する哲学者の一人である。ファシズム批判、コミュニズム批判など全体主義批判で知られる。本書は戦前から戦後の冷戦時代に盛んに読まれた哲学書である。90年代のソ連崩壊以降の世界で最近はあまり読まれなくなったようだが、その科学哲学における「反証主義」理論の衝撃は今も衰えることはない。そして今再び注目を集めている。

私は、80年代初頭LSE修士課程在籍中に、一度だけこの著名な哲学者の講義を聞きに行ったことがある。せっかくLSEにいるのだからこのカール・ポパーの顔くらい見ておきたいという、まるで有名人を見に行くような軽薄な関心であった。今から思えばなんとも恥いるばかりの浅学非才の若造の行動であった。講義は「社会科学における合理性とは」と言った内容だったように記憶するが、どんな講義であったかしっかり覚えてもいないし、今回取り上げる『歴史の貧困』を読んだのもずっと後の、あの91年のソ連崩壊の時のことだ。「なぜ共産主義、社会主義は破綻したのか?」と言う分析、評論が相次いだ時だった。なんたる大馬鹿者!もったいないことをしたものだ。しかし若き日のあの出会いの思い出が、時空を隔てて我が記憶の底から蘇り心に強く響き始める。もう少し人生の前半で知っておくべきであったが、今からでも遅くはない。いや、歴史の反動や科学的合理性への懐疑など、21世紀の今(再び)起き始めた大きな哲学的思潮のムーブメントを考える時にこそ本書を読み返す意味がある。

「歴史に学べ」「歴史は繰り返す」「愚か者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」。人はよくそう言うが、確かに人間は過去に犯した過ちに学ばず、同じ過ちを犯す。歴史は様々なことを現在の我々に教えてくれる。また未来を予測すらしてくれる。前車の轍を踏まないよう未来を歩む、それが歴史を学ぶことの意義だと信じている。おそらくそれは間違っていないのだが、歴史の発展に何か普遍の法則や理論があるのだろうか。だから未来は予測可能だと信じているのか。社会科学は自然科学のような科学なのか。歴史学は科学なのか? 本書でポパーは「歴史の行く末は予測できない」「歴史的運命への信仰は迷信である」「歴史学は反証不可能であり科学ではない」と論証してみせた。理論物理学はあっても理論歴史学は存在し得ないと。社会科学の諸分野で、経済学を除いては、すべて物理学的な方法論を試みて成功したものはなかった。そうした自然科学的方法論の適用可能性を論ずるなかで、「歴史(法則)主義:Historicism」が適用可能な方法論であるかの如く扱われ、それが自明のことであるかのようにさえ考えられてきたことを批判した。さらにこの「歴史(法則)主義」がファシズムやナチズム、コミュニズムのような全体主義を引き起こしたと批判している。

歴史を学ぶことの意義を考えるにあたって、ポパーはこのような重要な問題を提起しているわけで、私にとっては衝撃的であった。本書の元となった論文の上梓は1944年である。そして英語版の初版刊行は1957年である。世界がファシズムと戦い、やがて勝利し、あらたなコミュニズムという全体主義の脅威にさらされた時期の著作である。彼は本書の献辞で、「歴史的運命の不変の法則というファシズム的、共産主義的信念の犠牲となったあらゆる信条の、あらゆる国の、あらゆる民族の無数の男たち、女たち、子供たちを偲んで」としている。彼の反「歴史法則主義」はこうした全体主義に結びついてゆく危険性への批判から始まっていている。これはもちろん歴史に学ぶことの重要性を否定するものではないが、歴史に科学的な法則を見出そうとする、一見合理主義的な考え方の落とし穴、あるいは科学哲学上の矛盾を指摘しているのである。

本書の序文で、「歴史主義」の矛盾を次のように指摘して批判する。

(1)人間の歴史の道筋は知識の成長に大きく影響される。

(2)合理的または科学的な方法により、人間の知識が将来どのように成長するかを予測することはできない。

(3)従って、人間の歴史の将来の道筋を予測することはできない。

(4)このことは、理論物理学に対応する歴史の社会科学である理論歴史学が成立不可能であることを意味する。歴史の発展に関して、歴史的予測の基盤となりうる科学的理論というものはありえない。

(5)それゆえ、「歴史的発展の理論」、すなわち歴史主義の方法の根本目的は誤って構想されている。歴史主義は破綻する。

論点の根本は(2)で、「成長する人間の知識というようなものがあるとするなら、明日にならなければわからないことを、今日予知することはできないのである」。まさに予測不能な未来を論理的に予測することの矛盾を説いている。歴史の法則というようなものが未来に起きる必然を言い当てることはできないのである。こう言い切っている。

振り返ってみると、学生時代に学んだマルクス経済学。まずは入り口でフリードリヒ・エンゲルスの『空想から科学へ』を読まされる。社会や歴史の発展には法則がありそれに従って進んで行く、それはまさに空想ではなく科学であると。そしてカール・マルクスは、上部構造は下部構造が規定する。すなわち経済が政治活動や思想、信仰を決定付けると。資本主義が成熟すると、「持てるもの」と「持たざる者」という階級間の矛盾が生まれ階級闘争が起き、やがて資本主義は「徒手空拳のプロレタリアート」が生産手段を所有するという共産主義へと移行すると論じた。ヘーゲルの弁証法、唯物史観による「歴史法則」を説いたのである。「そうか、世の中は科学的な法則により動いているのか、歴史には発展理論があるのか」。ナイーヴな学生の頭には魅力的で理路整然とした説明であった。世の中の仕組み、歴史理論が分かったような気がした。若者が熱狂するはずである。また、自然科学の新発見であるダーウィンの進化論に触発されたハーバート・スペンサーの「社会進化論」にも「適者生存論」にも、社会や歴史の発展段階を科学的、合理的に説明する説得力を感じたものだ。

しかし、ほんとにそうなのか。社会科学は検証可能な出来事が繰り返される「合理性」を持った科学なのか。普遍的法則で歴史上の出来事は説明できるのか。そして未来を予測できるのか。この疑問はやがて、現実の社会では理論や法則に従ったとは思えない、検証不可能で再現性のない事象が出現し、むしろ矛盾に満ちた歴史が紡がれてゆくことを知ることとなり、より深まっていった。矛盾が取り除かれない事象は科学的に検証不可能なのではないか。ポパーが言うように確かにそこには「歴史(法則)主義」の落とし穴、矛盾があるのかもしれない。そう気付かされた。

なぜマルクスが言うように資本主義が極限まで発展したイギリスではなく、資本主義すら経験も成立もしなかった農奴制国家、帝政ロシアがいきなり共産主義国家に移行したのか。なぜプロレタリア階級の理想政治のはずが独裁者による恐怖政治になったのか。なぜ歴史の発展段階における必然とされた社会主義、共産主義は100年も経たないうちに崩壊し世界から消えたのか。なぜ中国では共産主義崩壊後もプロレタリア独裁政党は生き残り、しかも専制的で強大な国家資本主義国家に変質したのか。マルクスやレーニンの理論と矛盾するではないか。理論的に実証されたはずの出来事が次々と瓦解する、あるいは非合理的な変質を遂げ、矛盾したまま存在し続ける。歴史は科学なのか。

一方でファシズムやナチズムはどうか。歴史法則に則った合理的必然なのか。いやむしろ歴史法則の必然性を否定し、カリスマ的な独裁者による「意思」と「行動」により「人種的競争」における勝利を勝ち取り、「優越人種」が「劣等人種」を淘汰するといった「非合理的歴史観」いや「空想」に立っている。すなわちコミュニズムのいう「合理的歴史観」の台頭に恐れをなして沸き起こってきた、いわば恐怖の対抗概念である。現代の「陰謀論」のルーツと言って良い。たしかに両方(いわゆる極左、極右)とも、民主的な討論を嫌い、反対者を弾圧する独裁主義、あるいは全体主義である点は共通するが。ポパーの言う、歴史(法則)主義、歴史的運命の不変法則が全体主義を生み出す危険性があるという主張。それはコミュニズム(マルクス・レーニン主義)の歴史観には当てはまるが、ファシズム、ナチズムの非合理的歴史観には当てはまらないのではないか。そもそも科学的な「実証」も、ポパーが言う「反証」も不可能な「空想」に過ぎないのだから。あるいはダーウィンの「適者生存」理論を誤って解釈、適用した「理論」と言って良い。

再び世界は今、陰謀論を振りかざす極右(ファシズム、ネオナチ)の台頭、選挙など民主主義的システムを利用して全体主義的な思想、体制が生み出される事態に直面している。民主主義やリベラリズムの衰退を懸念するそんな歴史の反動の時代を迎えている。一方で、経済的格差が極大化する社会に於いては、イデオロギーの左右の対立よりも、中間層の失われた所得階層ピラミッドの、ほんの一握りの上層と大多数の下層の対立がより大きな問題となっている。新たな「階級闘争」である。そんななかで新自由主義経済システムの矛盾を指摘し、富の偏在から再分配を実現しようという「社会主義」が見直され始めている。ここでは「全体主義的な社会主義・共産主義」ではなく「民主的な社会主義・民主社会主義」を目指そうという、保守主義への対抗思想である。またAIの進化に伴い発生する雇用機会の喪失、労働価値の低下、それにともなう格差社会、すなわち科学的合理性への懐疑、経済合理性への強烈な疑問が湧き起こっている。専制主義・権威主義と民主主義・リベラリズムの分断。経済成長、科学技術発展の果実を独占するトップ・オブ・ピラミッド(TOP)と富を享受できないボトム・オブ・ピラミッド(BOP)の分断。さらに言えばAIを使う人とAIに使われる人の分断。こうした分断と対立の構造も変化し始めている。

そういう時代にポパーから何を読み取るのか。今は200余年前の「フランス革命前夜」「産業革命直後」の状況に似ており「歴史は繰り返す」、とする世のコメンテータの論調は一見するとわかりやすいように思える。しかしそれは「歴史のアナロジー」ではあり、そこに「歴史の法則」を見出すことはできない。ポパーの「反証主義」が現代においても答えを導き出す手立てとなりうるのか。私はこの著作から、新たな思考の視点を得ることができたが、まだ確たる答えをそこから得ることはできていない。しかし歴史に「法則」は見出せなくとも、少なくとも「教訓」は見出せるに違いない。ゆえに歴史を学ぶことの意義は失われることはない。ポパーもそれを否定しているわけではなく、それを「理論」「法則」と主張して誤った答えに到達することに警鐘を鳴らしているのである。いわば「理路整然と結論を誤る」。本書について、世の読書人の評価を聞きたいものだ。


1989年アメリカでのペーパーバック版

日本語訳は2013年初版 日経BP社刊
岩坂彰訳、黒田東彦解説


ポパーの「反証主義」Falsificationism

ポパーの科学哲学思想の基本は「反証主義」である。すなわち科学における「実証主義」:Critical rationalism、「帰納法」:inductionに対する、「反証主義」:Falsificationism、「演繹法」:deductionである。

彼は、科学的理論の正当性は、それが正しいことの証拠を挙げる「実証」ではなく、それが間違いであることの事例の検討、すなわち「反証」により決定される。反証事例が挙げられない理論は科学ではない。科学と非科学を線引きするものは「反証可能性」である。ポパーは、経験主義:Empiricismの系譜上にあるベーコン、ロック、ヒュームの「帰納と実証」ではなく、「演繹と反証」によって科学の当為(あるべきこと:Sollen)を基礎付ける。すなわち「反証可能性」がない理論は科学ではないとする。

「科学的真理」とは、現段階であらゆる反証事例の検討に耐え抜いた「仮説」であり、それはいずれ反証される「暫定的な真理」である。ニュートン物理学が光速度と量子の発見によって否定されたように。科学の進歩は「実証」ではなく「反証」により実現されると考えた。

ポパーの「歴史法則」「社会進化の法則」「歴史発展の理論」などが科学的な理論ではないという指摘は、すべて彼の「反証主義」から自然に導き出される結論である。

ちなみにポパーの言う「歴史主義」は、哲学史でいうところの「歴史主義」すなわちHistorismと区別する意味でHistoricismと称している。日本語訳としては「歴史法則主義」とした方が理解しやすい。



2025年11月15日土曜日

御殿山、八ツ山橋界隈のイチョウ並木 〜第一京浜は黄葉のドライブコース〜




東京と横浜をつなぐ産業、生活の大動脈、国道15号線。通称「第一京浜国道」。普段は季節感を感じることが少ない忙しい道路だが、この季節になると品川、八ツ山橋界隈の銀杏並木が美しく色づき、普段とは異なる景色が広がる。三菱開東閣の森、そして反対側の延々といつ終わるともしれず続く品川駅再開発のクレーンを背景に、目にも鮮やかな銀杏並木が出現する。都会に秋の訪れを感じる一瞬だ。











御殿山下のJR回廊。 新幹線、東海道線、京浜東北線、山手線が走り抜ける大動脈。江戸時代には将軍家の御殿があり、庶民にも開放された桜の名所であった。江戸名所百景にも取り上げられた。しかし幕末のお台場建設の土取りで山が切り崩され、維新後は鉄道開設のため、さらに開鑿され御殿山は消滅した。ここも「近代化」の犠牲になった名所の一つである。




現在の御殿山庭園。わずかに残された江戸の桜の名所「御殿山」の痕跡。春には桜が今も美しく咲き誇る。秋は紅葉の名所でもある。しかし東京都心の紅葉シーズンはたいてい12月初旬。ここもまだまだ紅葉には早い。

紅葉はまだまだ先だ


庭園の滝の紅葉もまだ緑





(撮影機材:Leica SL3 + Sigma 20-200/3.5-6.3 DG このSIGMAの高倍率ズームは比較的廉価なレンズであるが、広角側が20mmから始まる便利なレンズ。非常に解像にも優れており高画素機SL3でも遜色ない、歪曲収差、周辺光量落ちもうまく補正されている。28~85mm域ではマクロ的撮影も可能な万能レンズ。軽量で取り回しにも優れブラパチの友としては最高だ)


2025年11月3日月曜日

古書を巡る旅(72)Yone Noguchi『Lafcadio Hearn in Japan』〜なぜ日本語が不自由なラフカディオ・ハーンが名作『怪談』を生み出せたのか?〜

 

「Yone Noguchi, 野口米次郎 日本人」と自筆で書かれている(Wikipedia)


なぜラフカディオ・ハーンは日本語が十分にわからなかったにもかかわらず日本人の心情や日本文化の基層を理解し、後世に残る「怪談:Kwaidan」「神国:Japan An Interpritation」などの多くの名作を生み出すことができたのか。そして日本だけでなく欧米で大きな反響を起こし、今なお読書人の愛読の書となっているのか。これは私の中では一つの謎であった。文学作品というものは普通は言語で理解し構想し、言語で表現され、言語で読まれるるものであるはずである。しかし、彼は日本語の古い伝承物語を読むことも、土地の古老の語りを聞き取ることもできなかった。にもかかわらず日本人以上に日本人の心を理解し、それを英語で表現し伝える「再話文学」の金字塔を打ち立てた。そしてそれが人間の普遍的な感性として世界中で受容された。なぜ?どうやって?

それゆえに、ハーンはほんとうに日本を正しく理解し、正しく伝えているのか?という懐疑と批判があったことも事実である。これはアメリカで出版されたハーンの伝記の中で辛辣なハーン批判が展開されたことがきっかけであった。これを受けてアメリカの新聞、雑誌の書評で批判されることもあった。すなわち、彼の日本文化論は完璧なものではないのではないか。したがって小説や文学作品としても不完全であるというもの。

これに対し、ハーンが日本文化理解の正しさとその深い洞察力と感受性を存分に備えていると、日本の立場から反論したのが野口米次郎(Yone Noguchi)である。ハーンへのこのような評価や懐疑に関する論争に、野口は、しばしばアメリカやイギリスの文学界、言論界の友人から、日本におけるハーンの評価について意見を求められてきた。彼自身、若き日に渡米しアメリカやイギリスにも長く生活し世界を巡った、日本を代表する国際人であり文化人である。Yone Noguchiとしてその作品が日米欧のみならず世界中で高い評価を受けているバイリンガルな詩人、文芸評論家である。その彼のハーン評は欧米の文芸人士にとって興味深いものであったろう。この求めに喜んで応え、世に問うたのが本書、『Lafcadio Hearn in Japan』である。1910年にロンドンと横浜で刊行された本書は、ハーンに敬意を表し、家紋入りの日本伝統の和綴本となっている。

野口は、その序文のなかで、ハーンが日本語を十分に理解しておらず、書くこともしゃべることも十分でなかったとの批判があるが、彼の日本語文献の解読は、多くのアカデミックな日本人アシスタントのサポートにより極めて正確であり、その真意や繊細な情緒も正しく理解されていること。そして夫人の小泉セツの日本の民話や怪談の口頭伝承や文献収集などのサポートが、ハーンの言語を超えた啓発、インスピレーションにとって極めて肝要であったとして、このような批判に真っ向から反論している。またハーンには小説家や詩人としての想像力が欠如している、との批判に対しても、彼のイマジネーションとそこから紡ぎ出されるロマンの世界が、我々日本人が忘れていたものを思い出させてくれた。まるで「魔法のような想像力」によってである。そしてハーンのロマンは新たな日本の伝説となり、その作品はやがては遺産となるだろう。このように反論している。

ハーンが言語としての日本語を習得していなかったことが、日本文化の理解になんら支障をもたらすものではなく、むしろ、それゆえによりハーンの人間への共通理解、共感が、日本人の基層に横たわる霊的な感性や心情と共鳴し合い、より深化された理解を得ることができたことを野口は指摘している。すなわち、心から心へと言語を介さずにストレートに伝わったに違いないと。言語化できるものには限りがある。それを超えた理解をするためにはむしろ言語が妨げになることすらあると断じている。すなわち言語化することでイマジネーションがある言葉で固定化されてしまうことがある。セツ夫人がハーンに語り聞かせた英語/日本語混じりの怪談や民話のなかに、日本人の心情や、日本文化の基層にある自然崇拝、祖霊崇拝の宗教観が漂っており、ハーンはそれを音感として鋭く受け止め、その真髄と普遍性をうまく心で掬い出したと解説している。まさに文学の持つ芸術性の一端をハーンは垣間見させてくれた、と野口は感じたに違いない。

本書はこうした「ハーン論争」に対して一石を投ずるために、元々はNew York Sun, JapanTimes, Atlantic Monthlyに投稿した評論に、野口の評価を裏付ける論拠として、さらにハーンに関するエピソードを新たな章として加えて一冊にまとめたものである。

第1章「A Japanese Appreciation of Lafcadio Hearn:ラフカディオ・ハーンその日本における評価」では、野口はハーンを日本文学における現代(1910年当時)の上田秋成であると評している。上田秋成は江戸後期に活躍しや読本作家で、あの怪奇小説「雨月物語」の作者として後の山東京伝や曲亭馬琴などの職業作家に大きな影響を与え、日本の文学史にその名を刻んでいる。野口は、その日本文学界における巨匠、上田秋成に準え、ハーンは「耳なし芳一」の作者として長く後世に記憶され、日本の文学界に影響を与え続けるだろうと書いている。ハーンの日本文化理解に懐疑的な論評や、小説家、詩人としてのイマジネーションの欠如云々、といった批判に真っ向から対峙する一文である。

また第2章「A Japanese Defense of Lafcadio Hearn:ラフカディオ・ハーン日本からの弁護」では、アメリカで出版されたハーンの伝記がハーンの姿を正しく伝えていないと批判している。そもそも野口は「伝記」というものには明と暗があり、とくにその暗部として、伝記作家の悪趣味が、読者に本人への共感をしばしば妨げることがあるとして、「伝記」と言う形態で評論すること自体に不快感を示している。ハーンの友人であったとするジョージ・グールド:Dr, George M. Gouldが刊行したハーンの伝記、『Concerning Lafcadio Hearn』を取り上げ、個人の手紙を無断で公開するような暴露趣味は、本人の実像を歪めるだけでなく、筆者の意図するハーンの評価を貶めるものとはならず、むしろ筆者 自身の評価を貶めるものとなっていると痛烈に批判している。

野口はまた新たな章を付け加え、小泉セツ夫人による「夫ハーン」、そして子供たちの「父ハーン」の思い出、ハーンが夏に子供を連れて海水浴によく訪れた焼津の漁師、音吉(「音吉だるま」のモデル)の思い出、ハーンの松江時代の教え子で帝国大学英文科在学中の助手、のちに著名な英文学者、俳人として活躍する大谷繞石(ぎょうせき:正信1875〜1933)との交友エピソードを紹介している。さらに帝大研究室でのハーン、そして帝大最後のあの感動的な最終講義について紹介する中で、ハーンの文学、芸術の背景にあるいわば人的ネットワークのユニークさ、アカデミックコミュニティーの誠実さ、そしてハーンがいかに日本の庶民や若者に感動を与えたかを紹介している。そしてその豊かなイマジネーションと想像力は死してなお止まることを知らぬげに溢れ出ようとしているのだと。セツ夫人の回想録の最後に述べられている言葉が象徴的である。「ハーンの未完の物語は彼が亡くなった後もまだまだ彼の書斎の机の引き出しに暖められている。少なくとも彼の心の中にはまだまだ多くの物語が未完のまま仕舞われているはずだ」。ハーンの物語は生前の既出の書籍や原稿、書簡にとどまらないのである。

特に、野口は、先述の通りアメリカで盛んに試みられていたハーンの書簡集や伝記を出版することに懐疑的であった。これにはハーンの生涯の友人であったエリザベス・ビスランド:Elizabeth Bislandによる、現代でも定番とされるハーン書簡集や伝記:『The Life and Letters of Lafcadio Hearn』についても同様であった。ハーンの書簡を掲載してプライバシーを侵害したり、それによって誤ったイメージを定着させることを懸念している(注:ビスランドは出版後に日本のハーンの家族を訪ね、以後交流を続けその伝記の印税収入を家族に送っていることもあり、その内容についても「ハーン伝」の定本として現在では肯定的に受け止められている)。上述のグールドの暴露本的な伝記出版については、ハーンとその家族の日本での支援者であるミッチェル・マクドナルド(アメリカの退役軍人で横浜グランドホテルの創業者)も同様に不快感を示しており、ハーンに関する手紙や原稿を返還するよう交渉を行なったと言われている。ハーンとグールドは最初は友好的な関係で書簡の交換を行なっていたが、徐々に考え方の違いが明らかになり、最後は没交渉となった。そのような人物がなぜハーンの伝記や書簡集を出そうとしたのか。野口は、本書を刊行するにあたって、その序文で「わたしは伝記を書くつもりはない」と断っており、「ハーンの様々な人的交流のエピソードを紹介する中から彼の「人となり」や文学/芸術的な感性の背景にあるものを描くことが目的である」としている。本書が「ラフカディオ・ハーン伝」と位置付けられることを嫌った。

ラフカディオ・ハーン:小泉八雲は、国や文化や人種、民族を超えて、近代文明が忘れさせてしまった人々の心の底流に潜む神、精霊、あるいは妖精や迷信の存在を思いださせ、その普遍性を表現した。彼はカトリックでもプロテスタントでもなく、キリスト教布教以前から欧米文化の深層にある霊的なもの、アニミズム、自然崇拝の心を思い出させ、それを霊的な経験として異文化の人々とも共有することがでることに気づかせた。そのハーンの原体験は幼少期のケルトであり、またニューオーリンズで体験したクレオールでありブードゥーであり、その旅の終着点で出会った日本の民間信仰、習合した神や仏であった。それは言語化された知識として「理解するもの」ではなく、「感じるもの」であった。しかし、ハーンが偉大であるのは、その「感じるもの」をさらに言語化して人々に伝えたことである。それこそ野口が言うように「魔法のような想像力」によって文字として残し後世に伝えた。彼はケルトの語り部でもなければ、ブードゥーの司祭でもない。そして神道の巫女でもない。しかし彼らの口頭伝承や民間の伝承から得られたストーリーや「感じたもの」すなわち「感性」を言語化して「知性」として定式化した。しかしそれは民俗学や宗教学の論文としてではなく、文学作品としてであった。そうすることで国境を超えた人々に繰り返し読み継がれることができるようにした。そこが比較言語学者でキリスト教徒として日本を見つめたバジルホール・チェンバレンの日本理解と異なる点であろう。ハーンは単なる日本贔屓のジャパノロジストではない。「私は日本的なのではなくケルト的なのだ。教会より森に霊性を感じるだけなのだ」。著作『神国』でハーンはそう述べている。そういう意味で野口米次郎も同様の感性を共有できたのだろう。ゆえにハーン共感した。ゆえにハーン批判に反論した。この著作を通してそれを強く感じた。そして私の中にわだかまっていたハーンの謎が少し解けたように思う。


参考過去ログ:

2025年9月17日 古書を巡る旅(69)小泉八雲「英文学史」講義録

2025年7月5日 古書を巡る旅(66)「神国:Japan An Attempt of Interpretation」

2020年6月12日 古書を巡る旅(2)ラフカディオ・ハーンを訪ねて


野口米次郎:Yone Noguchi (1875〜1947)

明治、大正、昭和初期に活躍した英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の日本への紹介、海外への日本文化の紹介に貢献し大きな足跡を残した。

英語での作品、著作を数多く発表して、岡倉天心、新渡戸稲造、内村鑑三と並び、欧米諸国において日本の知性を代表する人物の一人として知られている。

1893年、慶應義塾を中退して18歳で渡米 サンフランシスコ、パロアルト、シカゴ、ニューヨークで多くの文人に教えを受け、スピリチュアルなコミュニティーにも参加した。その交流の中で多くの詩や評論などの文芸作品を発表し、才能を開花させて行った。さらには1902年にはロンドンへ。イエイツやロゼッティ、バーナード・ショーなどと交流。1905年帰国後には慶應義塾の英文科教授 1913年に再渡英、1914年オックスフォード講師 1919年アメリカ全土で講演旅行 1935年頃からアジア研究に傾斜、インドに滞在 各地でタゴール、ガンジーなどの多彩な人物と出会い、交流を深めてきた。

野口米次郎自身は、生前のラフカディオ・ハーン:小泉八雲とは直接の交流はなかったようだが、ハーン没後の小泉家とは交流があり,第3章「Mrs. Hearn's Reminiscences:小泉セツ夫人の回顧」にその様子が描かれている。野口のアメリカ人のパートナー、レオニー・ギルモアは、一時期ハーンの長男の英語の家庭教師を務めていたことがあるようだ。ちなみにアメリカの著名な建築家、彫刻家であるイサム・ノグチ(1904~1988)は野口米次郎とレオニーの子供である。

2016年11月15日 イサム・ノグチ美術館探訪記





ケース(左)付き日本伝統の和綴本
小泉八雲家家紋「下げ羽の鶴」






2025年10月27日月曜日

Leica M EV1登場 〜M型ライカから光学レンジファインダーを取ったら何が残るのか?〜

 

Leica M EV1  (Leica Camera AGウェッブサイトより)


Leica M11 Silver(比較用)

フィルム時代のLeica MD






10月3日、以前から噂されていた電子ビューファインダー搭載のLeica M EV1ついにが発表になった。Mシリーズの新製品登場!しかしどうしてあまり興奮しないのだろう。なぜか物欲が全く刺激されない。したがって「速攻予約」とはならなかった。

M EV1は、M11から光学式距離計ファインダー(レンジファインダー)を取り除き、Leica Q3の電子ビューファインダー(EVF)に置き換えたもの。言ってみれば「ミラーレスM」である。もともとMにミラーはないので、ニコンのような一眼レフからペンタプリズムとミラーを取り除いたカメラとは異なり、「レンジファインダーレスM」ということになる。それ以外の基本スペックはM11と全く同じ。EVFによりバッテリー使用時間がM11より短くなり、貼皮がQ3と同じダイアモンドパターンに変わり、ISOダイアルが廃止された。レンジファインダーがなくなった分、ボディーサイズが薄くなり重さが494gと若干軽くなった。価格はM11よりは若干低く設定されている。やはり高価な光学プリズムと繊細なメカでできているレンジフィンダーはコスト高なのだ。

私は保守的なMユーザではないし、レンジファインダーに拘ってもいないので、電子ビューファインダは歓迎だし、SL3やQ3でそのメリットを大いに享受している。しかし、このM EV1にはどうも惹かれない。まず外見がセクシーじゃない。Mから正面のファインダー窓がなくなり、それに伴う段差もなくなり、さらにISOダイアルも無くなった。怪談に出てくる「のっぺらぼう」みたいでショックを受けた。にもかかわらず、レンジファインダー用の測距窓だけは残している。セルフタイマーの点滅ライトだという!?一眼レフカメラと異なりレンジファインダーカメラは「ミラーレス化」すると、ファインダー窓のある特徴的な外見は大きく変容を強いられる。デザイン的な工夫がないと、ただ「レンジファインダー」を取っただけの姿になりむしろ痛々しい。フィルムライカの時代にファインダーのない「のっぺらぼう」モデルもあったが、医学用などの特殊用途向けであった。伝統的なデザインとスタイル。それに最新技術を組み合わせる。デジタル化の過程でライカMはその試行錯誤の歴史を歩んできたが、今回もその次のステップへの一里塚なのだろう。

それにしてももう少しなんとかならなかったのか。フジフィルムのようなハイブリッドファインダーは考えなかったのか?Mからファインダー窓を取ったらMじゃない。むしろQシリーズ(元々レンジファインダーを前提としてないところからスタートしたデザイン)でレンズ交換できるモデルを追加して欲しいとさえ思う。幸いM11は継続発売されるし、レンジファインダー機は無くならないので、モノクロ専用モデルや液晶省略モデルと同様の、いわばMの派生モデルの位置付けなのだろう。またM EV1とあるので近い将来に改良版の2が出るのだろう。どんな答えを出すのか期待したいが、MはMのままでよい。当面、Mレンズ資産を「ミラーレス」で使いたけらばはSL3ボディーがあるので問題ない。

このカメラでどのような撮影体験ができるのだろう。言うまでもなくカメラは写真撮影にとってとても大事な「お道具」なのだから、まずその「良い仕事しているお道具」に惹かれなければワクワクする撮影体験もできない。スマホで代替できない所以だ。技術的な合理性だけでは感性は刺激を受けない。「今日はこれを持って街に出よう!」と言う高揚感を刺激してくれる「お道具」。それがライカの魅力のはずなのだ。次を楽しみに待とう。

ちなみにLeica MのMは、Messsucher、すなわち「距離計」を意味する。


正面のファインダー窓と段差がなくなった
背面

軍艦部 正面の段差がなくなった分だけ薄くなった。ISOダイアルがなくなり寂しくなった


電子ビューファインダ まるでQ3のファインダーだ




(写真はLeica 社HPから引用)

2025年10月20日月曜日

古書を巡る旅(71)The Life of Sir Isaac Newton :『ニュートン伝』 〜近代科学の祖にして最後の魔術師?〜


The Life of Isaac Newton 『ニュートン伝』


ニュートン肖像(1698年)Wikipediaより


アイザック・ニュートンとは何者か?

 17世紀後半、イギリスで活躍したアイザック・ニュートン(1642〜1727)。ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに学び、のちに教授となる。哲学者、自然科学者、天文学者、物理学者、数学者、光学者、神学者、政治家、造幣局長官。数々の経歴を持つ彼は、総じて言えば自然哲学(Natural Philosophy)、すなわち後の自然科学(Natural Science)の祖であり、科学革命を起こした人物として歴史に名を刻んでいる。哲学と諸科学が未分化であった時代に自然科学を打ち立てたと言っても良い。中でも教科書で学んだように「万有引力の法則」「光のスペクトル分析」「微分積分」ほニュートンの三大発見と言われている。また天体観測用の反射望遠鏡を開発したことでも知られる。しかし、彼の歴史における事績とその評価は、このような教科書に書かれているような事柄だけなのか。もっと違う横顔があるのではないか。少し異なる角度からニュートンの実像に迫ってみたい。


『プリンキピア』と「万有引力の法則」

1687年に著された主著『プリンキピア:Principia』。すなわち『自然哲学の数学的諸原理』のなかで彼は、「われ仮説をつくらず」。「あくまで観測できる物事の因果関係のみを示す」として、当時主流と考えられていたデカルトの自然哲学の仮説の理論的矛盾を指摘した。つまり「引力はなぜ発生するのか」「何のために存在するのか」といった問いには答えず、「引力の法則」がいかに機能するかの説明に徹した。形而上学的問題を避け、予測、計算、検証可能な普遍原理を追求した。これまでの自然哲学はギリシアのアリストテレス以来のスコラ哲学に基づく形而上学的な宇宙、自然理論が主流であった。そこにデカルトの演繹論に基づく合理主義的自然理論が勃興してきて、物事の運動、重力には必ず何か究極的な原因があるはずで、それを「エーテル」の圧力や渦動に求めた。しかしニュートンは、実験や観測で実証され得ないものを原因とすることを批判した。すなわち思弁的、観念的な仮説に過ぎずないもので証明しようとする矛盾を指摘した。自然を観察、観測、実験に基づく実証的な方法で解明し理論化し、それを数式化することで一般法則を見つける。近代的な自然科学(Natural Science)が始まった瞬間である。

ニュートンといえば「万有引力の法則」:Law of Universal Gravitationの発見であろう。それは世の中にどのようなインパクトを与えたのか、それまで長く自然を支配する運動法則は天上界のそれと地上界のそれは別であると考えられていた。これはガリレオの地動説が認められてからも依然として有力な考え方であった。しかしニュートンは『プリンキピア』の中で質量、運動、慣性、力の定義を行い、三つの基本法則(慣性の法則、運動方程式、作用反作用の法則)を打ち立てた。いわゆる「ニュートン力学」と言われるものである。地上でリンゴが落ちる引力(重力)も天体を動かす引力(重力)も同じであるということ(万有引力:Universal Gravitation)を理論化してみせた。デカルト主義の哲学者、科学者は、重力や運動には何か究極的な原因があるはずで、演繹的思索の果てに、それを宇宙に充満するエーテルの力だと結論付けた。いっぽうでケプラーは磁場の力をその原因であると主張した。しかしそれらを証明する証拠は何も見つかっていないとニュートンは「プリンキピア」において指摘した。こうしてニュートンはこれまでのガリレオ、ケプラーなどの先人が発展させてきた物理学を「ニュートン力学」として体系付け、これにより古典物理学は完成を見たと考えられている。20世紀における新たな物理学的発見、すなわち「相対性理論」や「量子力学」により「ニュートン物理学」で説明がつかなかった領域があることが明らかになったが、それでも我々の日常の事象を説明する理論としての価値は不動のものである。今年は「量子物理学」発見から100年の節目である。


「プリンピキア」初版の表紙


ペストが産んだ世紀の大発見

この「万有引力」理論発見のきっかけてなったとされる「りんごの木」の話は、今でも伝説的に語り継がれる逸話である。かれは1665年から1666年にかけて、ペストの二回目の大流行でケンブリッジ大学が休校となりやむを得ず田舎に避難していた。この時期に大学を離れ、自然豊かな環境(おそらくリンゴの木もあったのだろう)でゆっくりと思索に耽った。そのなかから生まれたのが「万有引力の法則」である。「リンゴの落下」はその象徴として伝説になった。「光学スペクトラム」「微積分」もこの時の思索からアイデアが生み出されたとされる。後世にニュートンの「創造的休暇」と呼ばれたもので、ペストというパンデミックが思いがけない時間を与え、それが思いがけない歴史的な成果を生んだ。現代のコロナパンデミックは、後世に何か創造的成果を生み出す機会になったのであろうか?これからの世界に何らかのインパクトを与えるニュートンのような人物が現れ、画期的発見、考察、理論が姿を表すのだろうか。それを楽しみにしたいものだ。


イギリス経験論哲学の継承者

彼がケンブリッジで学生、教授として活躍した時代は清教徒革命から1660年の王政復古。さらに1688年の名誉革命の時代である。政治的には激動の時代であったが、イギリス啓蒙主義が起こり、経験論的な哲学思想、科学的な合理主義が主流となっていった時代でもある。やがて産業革命の時代、大英帝国躍進の時代へと変化してゆくその前夜と言って良い。一方でニュートンの理論(『プリンキピア』で論じられた)は大陸の自然哲学者からは認められなかった。むしろ怪しげな実験や観測手法を用いるオカルトの一種とみなされたこともあった。先述の通り、ニュートンの思考方法とアプローチはデカルト合理主義(演繹論的)とは異なり、フランシス・ベーコン、ジョン・ロックの経験論哲学(帰納法的)を起源とする。フランシス・ベーコンは以前にも紹介したように、デカルトとは対極にある。ベーコンが「知は力なり」、実験や観察を重視する実証的な手法による合理性を唱えた最初の哲学者であるのに対し、デカルトは「我思うゆえに我あり:Cogito ergo sum」、すなわち人間の理性を第一原理とし全ての出発点と考えた。ベーコンの経験論哲学はジョン・ロックによって体系化され、ニュートンはそのロックとは交友関係にあり大きな影響を受けた。二人の間に多くの書簡が残されている。ニュートンはまさにこのイギリス経験論哲学の継承者の一人でありその実践者である。そしてその果実が『プリンキピア』なのである。

2024年8月10日「古書を巡る旅(54)」ベーコン書簡集(1)


人間の感性とロマンの破壊者?

このようにニュートンは近代合理主義、科学の時代を生み出した輝かしい人物として評されている。ここまでは教科書に記述された我々が学んだ定番のニュートン像である。しかし、彼は科学革命を起こした近代科学の祖であり、理性の価値を高めたとされる一方で、人間の感性のもたらす価値を相対的に後退させた元凶とみなされることもある。産業革命後の科学万能、合理主義万能に対する反発は、文学や芸術の分野の文化人から起こり、ロマン主義の復活とともに沸き起こって行った。スウィフトの『ガリバー旅行記』に出てくる架空の国「ラピュタ」も科学万能主義への痛烈な皮肉である。19世紀ヴィクトリア朝時代末期には・ジョン・ラスキの「自然に帰れ」という思想や、アール・ヌーヴォーのウィリアム・モリスなどその影響を受けたロゼッティ兄弟の、いわゆる「ラファエル前派」のグループが、ニュートンを「文学の詩情の破壊者」と公言して、科学万能主義や合理主義への反動運動を起こした。ウィリアム・ブレイクの詩集『ミルトン』にはニュートンをイメージした挿画があしらわれ、人間のロマンと感性を破壊した象徴として描いている。ただ、このムーヴメントは20世紀に入ると衰微して、世紀末的芸術思想とみなされるようになるが、近代合理主義、科学万能への批判が出るたびに、その「元祖」ニュートンが象徴的に槍玉に上がる。人間の理性(頭)と感性(心)、合理主義とロマン主義。この二項対立は、圧倒的な技術革新(イノベーション)、科学万能、技術優位の動きが加速した20世紀、21世紀にこそ先鋭化しがちなテーマである。しかしこの二つは相剋しつつもブレンドし合う「糾える縄の如し」である。この論争はこれからの世界でも繰り返し起こるに違いない。「産業革命」の次の「情報革命/デジタル革命」の時代を生きる我々の現代的な課題、例えば「AIと人間の感性」、といった二項対立に持ち込みがちな問題も、歴史的に俯瞰してみる視座と思考回路が求められる。これもニュートンが扉を開いた新たな自然哲学(自然科学)、科学革命が引き起こした哲学上の課題であろう。21世紀の現代に世界中で起きている科学の進歩、民主主義、資本主義にまつわる諸問題の理解、分析、解決を試みる際に、イギリス経験主義哲学の系譜の上に花開いたジョン・ロック(民主主義)、アダム・スミス(資本主義)とともにアイザック・ニュートン(科学)もその哲学思想の原点に帰って理解し、その現代的意義を再評価してみることは有益な試みである。

2024年2月10日古書を巡る旅(45)「ジョン・ロック全集」、 

2023年1月5日古書を巡る旅(29)「アダム・スミス全集」


ウィリアム・ブレイクの描くアイザック・ニュートン
産業革命後の科学万能時代を批判する意図で描かれた


ニュートンの実像: 近代科学の祖?最後の魔術師?

しかし、ニュートンのこうした歴史上の偉人、レジェンドとしての姿は、後世に人々によって形作られたものである。ただその人生は観察や実験、数理的定式化、自然科学的な合理性では説明がつかないものであった。大学でのロバート・フックとの「万有引力」発見の先取り争いなど、学究生活のゴタゴタで疲弊し、長く勤めたケンブリッジの教授のポジションを捨てて下院議員として政界入りしたり、王立造幣局長官のポジションに移ったり。これはまた彼の実績が経済的に評価されない(報酬という面で)ことへの不満の現れでもあったと言われる。哲学者、科学者ニュートンの姿はどこへ行ってしまったのか。政治家としては活躍しなかったようだが、そこには行政官としての力量を発揮し、贋金作り撲滅に没頭するニュートンがいた。晩年には王立協会の会長に推挙され、死後は国葬を持ってウェストミンスタ寺院に埋葬されるという栄誉によくするが、人間ニュートンは世俗の煩悩から解放された孤高の存在ではなく、むしろその中で呻吟し一時は精神を病む生身の人間であった。また「南海泡沫事件」(17世紀イギリスのバブル崩壊事件)で有名な投機目的の南海会社に巨額の投資をして失敗し財産を失っている。「わたしは天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算することはできない」という名言を残したことでも知られる。

20世紀に入り、1936年にニュートンの遺稿が大量に見つかりオークションにかけられ、その半分を経済学者のケインズが落札した。驚くことにその大半は錬金術やオカルトに関する論文だった。また彼は神学においても著作を残しており「ヨハネの黙示録」など独自の終末論を展開した。自然哲学と同じくらい神学にも力を注いだ。彼はニュートン物理学を確立したが、それがキリスト教の教義と矛盾するとは全く考えていなかった。ケインズはその著書『人間ニュートン』のなかで、数学と天文学は彼の仕事のほんの一部に過ぎず、彼が最も興味を抱いたテーマではなかった。「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく最後の魔術師である」「古代/中世に片足を置き、もう片足で近代科学への道を踏んでいる」と評している。17世紀は確かに近代科学が始まった時代で、まさにニュートンがその扉を押し開いたのであるが、まだ中世の残滓を多く引きずった時代でもある。半世紀前のフランシス・ベーコンが苦闘した「魔術から科学へ」の時代からそれほど進化していない時代と言っても良いだろう。左はさりながら、このことでニュートンの哲学者、科学者としての業績が過小評価されるものではない。


デヴィッド・ブルースターの『ニュートン伝』

本書は19世紀のスコットランド人で、セント・アンドリュース大学総長、エジンバラ大学総長などを勤めたデービッド・ブルースター:Sir David Brewster (1781〜1868)による『ニュートン伝』である。彼はブルースター角(偏光角)と屈折率の関係の発見(ブルースターの法則)、色の三原色定義や万華鏡を生み出した著名な光学研究者、物理学者である。このブルースター版『ニュートン伝』は、ニュートン研究にとって重要な著作の一つであり、彼が後世に残した業績の一つである。彼自身が光学研究者であることからか、この評伝もニュートンの光学者としての功績からスタートしているが、万有引力、微積分の研究など、自然哲学(自然科学)の祖としての評価、偉大なる科学界の先達を顕彰する評伝となっていることは不思議ではない。もちろん20世紀における新たな物理学の発見、すなわち「相対性理論」「量子力学」の成果以前の著作であるので、あくまで古典物理学の世界での話ではある。また先述のケインズの「ニュートン最後の魔術師」説について、その一面を示すエピソードについては言及がない。ただ神学者としてのニュートンについては一章を設けており、神学と近代科学が両立しうるものであることをニュートンは疑っていなかったとしている。またベーコンの経験論の影響を受けたと言われるが、ニュートンが実践したのは「実験」と「観察」だけでありその経験論哲学はベーコンとは異なる独自のものだとも評している。ニュートンに関しては数多くの伝記作家や科学史家の評伝があるが、光学研究の泰斗が著したという点でユニークである。しかし、ニュートンの多面的な人物像を描き出していることも指摘しておきたい。

この書は1831年の初版、1855年の改訂版を元に1868年のブルースター死去後に、王立グリニッチ天文台のW. T. Lynnによって改訂、編集されたものである。出版社はCall & Inglis (London, Edinburgh)で、出版年は記されていないが1870年代以降であろう(蔵書者による1881年というメモ書きがある。恐らく入手した年ではないか)。イギリスのこうした書籍にしては珍しく索引:Indexがついておらず、少なくともこの版に関しては学術的な研究書として刊行されたものではないのではないか。装丁も豪華で、ブルークロス装に金文字、四方金のアール・ヌーヴォー調の外装を纏った美しい書籍である。科学者による「近代科学の祖」の伝記としてはやや不釣り合いにも見える、先述のよう反合理主義、科学万能主義への反発が文芸、芸術界で沸き起こった時期の刊行である。まさにアール・ヌーヴォーの全盛期に入ろうという時代、そのアール・ヌーヴォーを纏った『ニュートン伝』。これは科学界から文芸/芸術界への何らかのメッセージなのであろうか。あるいはただ読書家向けの愛蔵版を企図した出版社のコマーシャリズムに過ぎないのか。ある意味で時代を映し出す不思議な書籍を残したものだ。考え落ちなのだろうか。

参考: CiNiiによれば日本では東北大学図書館、山梨大学図書館に収蔵されている。


ニュートン肖像と表紙(彼の生家だとある)


ニュートン式反射望遠鏡




アール・ヌーヴォー調の豪華なデザインの装丁

Sir David  Brewster(1781〜1868)







2025年10月10日金曜日

古書を巡る旅(70)The Voyages And Adventures of Ferdinand Mendez Pinto  〜「種子島に鉄砲を伝えた」と自称するポルトガル人メンデス・ピントの『遍歴記』英訳版〜

1897年「The Adventure Series」の一冊として復刻されたもの。装丁は「冒険小説」をイメージさせるものとなっている。
 London, T.Fisher Unwin刊行である。

フェルナン・メンデス・ピント (1509~1583)(Wikipedia)

これまで「古書を巡る旅」でも、18世紀のイギリスで刊行されたデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』(古書を巡る旅(62)『ロビンソン・クルーソ』)やスウィフトの『ガリバー旅行記』(古書を巡る旅(68)『ガリバー旅行記』)などの冒険小説を取り上げた。この二つの作品は、ノンフィクションの体裁をとったフィクションであったり、奇想天外な架空の国々に仮託した風刺小説:Satierであったり、要は旅行記と言いながら文学作品である。今回紹介する17世紀のポルトガル人の「冒険物語」は、16世紀後半の大航海時代に実際に冒険者が体験した、未知の国々での出来事、実在の偉人の事績を語るノンフィクションである。作者は自分の数奇な冒険旅行体験を一人称で語り(自伝)、あるいは自分の目で見たり伝え聞いた珍しい話を語る(見聞録)。と言いながらも事実の中に存在の不確かなロマンを盛り込み、空想も真実の延長だだと言わんばかりの、検証不能なストーリーを随所に散りばめた、いわば「虚実ないまぜの物語」でもある。「大航海時代」という時代空気を反映した、未知の世界に船出した冒険者たちの真実と空想のハイブリッドストーリー。そしてこれを書き残すことで「オレは歴史を作った」という自己主張のナラティヴである。間違いなくこの16世紀のポルトガル人冒険家の記録は、18世紀のイギリス人作家が「ロビンソン」や「ガリバー」を着想する原点となったであろう。


ピント『遍歴記』とそのインパクト

その「冒険物語」とは、16世紀のポルトガル人の冒険家、商人、著述家、フェルナン・メンデス・ピント:Fernao Mendes Pinto(1509〜1583)『Peregrinacam:遍歴記』である。彼がどんな人物であったのか詳細な経歴は不明であるが、インドから東洋を股にかけ、20年余にわたって旅した冒険商人であった。これはその自伝であり東洋見聞録である。ピントは旅から帰国すると、その記録を1569年頃から書き始め、1578年に全文を書き終えたとされる。この時ピントはほとんど無一文の貧困状態であったと言われている。その写本が出回り人気博したようだが、なぜかピントの生前には刊行されず、彼の死後31年経った1614年にポルトガルで初版が刊行された。その後『遍歴記』はヨーロッパ各国語に翻訳され、イギリスでは1663年にHenry Coganによって英訳刊行された。今回紹介する『メンデス・ピントの航海と冒険:The Voyages and Adventures of Ferdinand Mendez Pinto』である。彼自身の実体験をもとに書かれたという点では先述のデフォーやスウィフトの架空の冒険小説とは異なる。ただ、かなり粉飾された誇張や創作が含まれるフィクションだとの評価がある一方で、東洋の現地に出向いた実体験をもとに書かれた記録で、必ずしもホラ話や想像による記述とも言えない説得力を持っているという評価もある。常にフィクションなのかノンフィクションなのか論争がつきまとう厄介な作品である。

この英訳版が出された時期は、ヨーロッパ各国で16世紀の「大航海時代第一ステージ」の、スぺインやポルトガルによる航海、海外での植民地獲得や商業活動や、キリスト教布教活動の記録が多くの言語に翻訳され刊行された時期である。もちろん国家や教団としての公式記録は門外不出で、少なくとも当時は情報規制があったが、商人や冒険者個人の記録は比較的出回ったようだ。東洋への関心が高いものの情報量が限られており、ポルトガルの商人でマカオ拠点に活躍したトメ・ピレスの『東方諸国記』(1515年)が初めてのアジアに関する体系的な記録で、1595年のオランダ人リンスホーテンの『東方案内記』が出るまで長く唯一の東洋関連情報源であった。ピントもこの『東方諸国記』を読んだのであろう。そしてこのピントの『遍歴記』もそうした「東洋情報ハングリー」な「大航海時代第二ステージ」の新興国イギリス、オランダ、フランスにとって注目の情報源となった。英訳版が刊行された1663年は、ちょうどイギリスは「王政復古」の時代であり、大航海時代のポルトガルやスペインの記録、文献の研究翻訳が進められた時代である。イギリスはオランダとの海洋覇権争いに勝ち、撤退を余儀なくさせられていた東インド、日本への再進出を試みた時期である。ジェームス2世は1673年に日本に東インド会社のサイモン・デルポーを使節として送り、1623年に撤退した平戸(あのウィリアム・アダムスの仲介で開いた)にかわり長崎での交易再開交渉を行った。結局はこの交渉は失敗するが、改めてアジアへの挑戦が始まり、その研究が進められた時期と重なる。ジョン・ドライデンの英訳『ザビエル伝』は1688年の刊行。その元ネタとなったドミニク・ブーフのフランス語訳は1682年の刊行である。オランダ人地理学者にして著述家のアルノルドス・モンタヌスがイエズス会報やポルトガル/スペイン人の著作や手紙、オランダ商館長の江戸参府報告などをもとに『東インド会社遣日使節報告』を著したのが1669年。その翌年1670年には早くも英訳が刊行された。ちなみにモンタヌスは日本にも東洋にも行っていない。イギリスやオランダなどの後発「海外進出国」がスペイン/ポルトガルの「大航海」「大発見」時代の足跡を辿ることで、海外情報キャッチアップしようと翻訳本が盛んに出版された。イギリスやオランダの海洋帝国への道は、先行するスペイン、ポルトガルによって地ならしされたと言っても過言ではない。2021年11月17日古書を巡る旅(17)聖フランシスコ・ザビエル伝:ドライデン英訳021年12月12日東西文明ファーストコンタクト第一章「バテレンの世紀」ポルトガル人、スペイン人の日本見聞録


日本渡航関係記事

ヨーロッパ人にとって東洋進出のメインターゲットは、インド、東インド(東南アジア)、そして中国であった。そこはヨーロッパにはない香料や銀、綿、茶、絹織物や陶磁器など豊かな財物の宝庫であり、一攫千金を求める冒険商人が群がる開かれた市場であった。その中で「偶然に発見」したのが日本であった。13世紀マルコポーロが「黄金の国ジパング」として紹介し、大航海時代の幕開けのきっかけになったとさえ言われたジパングは、16世紀にはすでに「おとぎばなし」として冒険的商人に忘れられた存在となっていた。インド、マラッカ拠点に中国沿岸や琉球で交易に参画していたポルトガル人が偶然に漂着した島が種子島であり、初めてヨーロッパ人が日本に出会った。これをきっかけに日本本島にもポルトガル人、スペイン人が訪れることになる。まさにこうした「日本発見」という歴史的出来事を記述したのがピントの『遍歴記』なのである。今回入手した英文版の中から特に日本渡航関係に絞ってその要点を整理してみた。ピントは合計で4回日本に渡航したとしている。


第一回:
中国人海賊のジャンク船で種子島に漂着した3人のポルトガル人の一人として登場する。「ここがあの幻の「ジパング」か!われこそ初めてそのジパングに上陸したヨーロッパ人だ!」と「日本発見」の瞬間を興奮気味に記述している。種子島の王Nautaquim(種子島時堯(直時)のことか?)は好意的で歓待してくれた。漂着したポルトガル人の一人Diago Zaimotoが鉄砲と火薬を種子島の王Nautaquimに売却。王は夢中になり瞬く間に自分たちで鉄砲も火薬も製造することができるようになり、5ヶ月半の滞在中に600丁の鉄砲を製造したとある。やがて日本中に鉄砲が広まったと書いている。種子島滞在中、豊後王の使いが来て会いたいというので、ピント一人がそこから豊後に渡り王に会い歓待を受けた。王の次男のArichandono(誰のこと?)が大いに鉄砲に興味を持ち勝手に取り扱って事故に巻き込まれる。この事件でピントは罪に問われそうになるが、許されて無事豊後を離れる。この後琉球:Lequio島への航海を経てマラッカに戻る。ポルトガル人の種子島来航、鉄砲伝来は1542ないしは43年と考えられているが、ピントの記録によれば1544年とある。

第二回:
マラッカから種子島経由で日本へ第二回目の渡航。第一回の渡航(漂着)から帰って後、Liampoで「私たちが発見した日本には、大量の銀があり、中国で得た商品と交換し大儲けした」という話を広め、日本渡航を企てるポルトガル人が殺到するが、ほとんどが嵐で日本に辿り着けず琉球で捕虜になったものもいたという。その中でピントはアジア諸国を巡った後、再び種子島経由で日本渡航に成功し豊後府内に向かう。しかし豊後の王一族の騒乱(1550年の大友家の内紛「二階崩れ」のことか?))に巻き込まれて命からがら脱出。豊後での商売は失敗する。しかし鹿児島で大儲けができた。1547年1月16日に2人の逃亡日本人を連れて鹿児島、中国経由でマラッカへ。そこでイエズス会インド布教区のフランシスコ・ザヴィエルと出会う。鹿児島から連れてきた日本人「Anjiro:あんじろう」を改宗させ、ザヴィエルに引き合わせたとしている。

第三回:
ザヴィエルの日本渡航と布教活動の話が中心となる。ザヴィエルは「あんじろう」と共に1549年8月15日鹿児島上陸。平戸、ミヤコ(公方様:Cubuncamaに謁見するため)へ布教の旅に出る。ミヤコは戦乱で荒廃していて布教活動の成果があがらなかったので平戸へもどり、山口で布教活動。3000人を改宗させた。さらに豊後に向かい1551年に豊後王(大友義鎮/宗麟)に謁見。ボンズ:Bonz(仏教僧)と宗論を展開し説き伏せた。王は政治的理由で結局この時はは改宗しなかった(1578年に改宗するが)。ここではピントはザヴィエルに同行したのではなく、豊後で出会ったように書かれている。その後、ザヴィエルは日本布教のためにはまず中国布教が重要と考え日本を離れ中国Sanchao(三州)へ渡航。ピントは別れてSanchao経由でマラッカに向かった。1552年12月2日ザヴィエルはSanchaoで病を得てそこで没す。遺体をマラッカへ移送。ピントは生きているかのようなザヴィエルの遺体を目撃したと記述。1553年12月23日ゴアへ、壮麗な葬儀が執り行われた。ピントは豊後王からインド副王への親書を手渡し、布教のための神父派遣を要請したとする。  
ザヴィエルの日本における布教活動の事績はイエズス会記録や書簡に詳細に記述されており、このピントの記録のどこまでがこうした記録からの引用でどこからが実体験なのか不明な点が多い。

第四回:
ザヴィエル亡き後、イエズス会Belchior神父(メルシオール・デ・フィゲイレド(Melchior de Figueiredoのことか?の日本渡航に随伴したとする。ピントはこの時インド副王:Francisco Barretの大使という重要な役目で日本に向かった。ここは一人称単数でその模様が記述されている。ピントの第四回目の渡航である。1554年4月16日ゴア出発。1556年5月7日苦労の末に豊後府内到着 臼杵にいた豊後王が府中に戻り謁見。インド副王の親書を手渡した、神父一行は王に大いに歓待されたが、しかし王の改宗には至らず1556年11月4日に離日。ゴアに戻る。この頃ピントはイエズス会に多額の寄進をしており、そのことはイエズス会の記録にもある。この記述は実体験によるものと考えられている。

その後、ピントは1558年9月22日にポルトガルに帰国。インド副王による彼の業績を讃える証明書とともに、東洋での彼の活動業績、母国への貢献を訴える手紙を国王に上奏し、恩賞/年金を請求するが認められなかった。ちなみにポルトガル船の長崎来航は1567年、織田信長のルイス・フロイス謁見は1569年。大友宗麟の受洗が1578年。天正遣欧使節1582〜90年である。晩年のピントはこのような(彼が切り開いたとする)日欧の交流の進展をどのような思いで聞いたのであろう。1578年に「遍歴記」の筆を置き、貧困のまま1583年に没している。


『遍歴記』の史料としての評価

彼は、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着した(日本を発見し上陸した)ポルトガル人の一人である」「日本に鉄砲を伝えたポルトガル人である」。さらには1549年に「アンジロウをザビエルに引き合わせ日本布教を助けたのは自分」と主張している。日本史の画期となる出来事に悉く立ち会っているというわけだ。マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。ピントのその「日本再発見」という臨場感あふれる「証言」はヨーロッパにインパクトを与えたことだろう。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であると考えられている。イエズス会記録(後述のジョアン・ロドリゲス『日本教会史』など)や書簡にも彼の名前が登場する。イエズス会に入会し、多くの財産を寄進したこと。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したこと。これらはピント自身の体験をもとにした記述であろう。しかし、ザヴィエルの日本における布教活動に関する事績などはやはりイエズス会記録などに基づく伝聞であろうし、鉄砲伝来譚などは、後述するがポルトガル側の記録や書簡があまり残っていないので、誇張や、事実と異なるエピソードも多く含まれていると思われる。ドライデン英訳『ザヴィエル伝』には「あんじろう」との出会いの記述があるが、日本から何らかの罪を問われて逃亡してきた人物とされている点は一致するが、誰が引き合わせたかという記述はない。

『遍歴記』はピントの帰国後の1569〜1578年頃に執筆されたものと考えられており、この時には既にイエズス会記録や書簡などの先行資料は入手可能で、執筆にあたって参照、引用(借用)できた事だろう。1614年の出版後はヨーロッパで『遍歴記』は冒険物語として多くの読者にもてはやされたが、本国では「法螺吹きピント」とあだ名をつけられ、「ピントのような嘘をつく」という言葉が流行ったという。1620〜1634年頃まとめられたイエズス会通辞ジョアン・ロドリゲス(ルイス・フロイスの後任として日本で20年以上にわたり布教活動に携わり『日本文典』などの著作もある)の『日本教会史』ではポルトガル商人ピントと彼の『遍歴記』に言及している。そのなかで彼が日本に来ていたことは認めているが、彼の話(種子島鉄砲伝来当事者である、豊後でのザヴィエル布教活動に関する一連の行事に関する記述)は作り話で娯楽のために後に創作したと思われると書いている。ロドリゲスは20年以上の日本(長崎)滞在経験から、ピントの記述を仔細にみると、実際の現地の地形や街の様子、人々の風習などを知らない者が書いたものとしか思えない、と実証的に「史料批判」を行っている。こうしたことから、常にこのピントの『遍歴記』にはその内容の信憑性について論争がつきまとう。たしかに史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いが、全体としては彼のアジアでのリアルな体験、見聞に基づく記述が含まれており、東西交流史の側面史として、また歴史研究の二次的史料として無視し得ない著作であると考える。また当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観、認知度合いが描かれている点でも貴重な著作だ。「歴史書か文学書か」という問いは置いておいて、その内容はユニークかつ極めて興味深い。


「鉄砲伝来」その時ピントは種子島にいた?

本書で最も話題となるピントの「鉄砲伝来譚」をもう少し詳しく見てみよう。ポルトガル人の種子島上陸(ヨーロッパ人による「日本発見」、日本人の「初めてのヨーロッパ人遭遇」)と鉄砲伝来に関する記録は、日本側では、南浦文之(なんぼぶんし)の『鉄砲記』1606年があり、ヨーロッパ側では、アントニオ・ガルバン『世界新旧発見史』1563年などがある。いずれも伝聞による後代の記録であり、現地におけるリアルタイムな出来事を伝える史料ではない。種子島家に伝わる『種子島家譜』には時堯が鉄砲を買ったことが記録されておりこれが唯一のリアルタイム記録である。『鉄砲記』は江戸時代初期に刊行されたもので、これによると100人ほどが乗船する異国船が種子島の海岸に漂着。ほとんどが中国人で、その一人の儒学者王直(明国の倭寇の頭目のことか)と筆談で会話したとある。数人の明らかに中国人とは異なる風体の異人がいて、かれらはポルトガルから来た商人であると王直に説明されたとある。その後ポルトガル人からの鉄砲、火薬の入手の経緯や製造方法の習得に関する詳細な記述があり、全国に瞬く間に広がって行った経緯についても書かれている。これが現在では鉄砲伝来に関するもっとも信頼される史料であると考えられている。ここでは鉄砲伝来は1543年となっている。その時ピントはそこにいたのか?しかし少なくともピントらしき人物の名前は出てこない。しかしピントの記述にある鉄砲を売ったポルトガル人の同僚Diago Zeimotoは、ガルバンの『世界新旧発見史』1563年にも登場する。ピントがその場にいた目撃者であったかの印象を与えるが、記述の年代から見てガルバンの記事の引用かもしれない。無論ピントが(彼の死後に刊行された)日本の『鉄砲記』を参照したことは考えられない。

先述のジョアン・ロドリゲスも、この話はピントの娯楽を目的とした作り話だとしているが、彼が日本にいたことは認めている。『遍歴記』そのものは、自身の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、東シナ海ではポルトガル人は中国人倭寇と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことが仔細に記述されている。したがってピントが中国船ジャンクで琉球や日本沿岸を航行し、「鉄砲伝来その時」に種子島にいなかったとしても、その途中で種子島に上陸し、さらに日本本土に渡航したとしても不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達もこうした中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。ピントの「ホラ話」の中の誇張や、「盛った」話を丁寧に取り除いてみれば、そこに史実を読み取ることができる。考えてみれば「歴史書」や「記録」というものは、事実だけを客観的に記述したものではなく、編纂者や記録者の意図が反映され多かれ少なかれ粉飾があるものである。それは国家の正史であれ、社史であれ、個人史であれ同じである。歴史研究にあっては、常に史料批判の対象となるわけだが、事実はともあれ話としては「その時ピントは種子島にいた!」の方がワクワクする。そして「歴史的事件の目撃者」としての報告は、それが「フィクション」でも「臨場感を感じる。それがまさにピントの狙いであったに違いない。


1663年ヘンリー・コーガンの英訳版表紙
ポルトガル人が用いた最新鋭のフスタ船

アジア人

インド以東のアジア図 日本は左上に位置する


以下に掲載するのは、ピントのポルトガル語オリジナル版1614年刊行の復刻書籍である。

こちらは「遍歴記:Peregrinacam」1614年リスボン刊
天理図書館善書復刻版

「遍歴記」表紙


参考過去ログ:

2025年9月25日木曜日

NHK朝ドラ「あんぱん」いよいよフィナーレ 〜父の従姉の「ファミリーヒストリー」〜

 


1950年代後半のやなせたかし、のぶ夫妻

「おむすび」からバトンタッチした「あんぱん」。そのNHKの朝ドラ「あんぱん」が、いよいよ今週でフィナーレを迎える。やなせたかしの妻、暢(のぶ)をモデルとしたドラマである。主人公「朝田のぶ」「柳井のぶ」として登場する。朝ドラとしては高視聴率でドラマを毎日楽しみに見ていた。主人公のことが気になって見逃しは再放送を見たりしてフォローしていた。それはこのドラマが面白いからというだけではない。私にはもう一つ別の関心があったからだ。

主人公「朝田のぶ」のモデル「池田暢(のぶ)」は、実は私の父の母方の従姉である。私には親戚のおばさんなのである。しかし今までどのような人生を送ってきた人なのかあまり知る機会がなかったので、ドラマから何か足跡がたどれるかと楽しみにしていた。私が子供の頃、祖母から「漫画家やなせたかし」の話はよく聞かされた。まだアンパンマンがヒットする前でそれほど売れっ子というわけでもなかった時代だ。祖母は「やなせが...」「たかしが...」とまるで親戚の子供のことのように話していたのを覚えている。高知出身の「名高い」漫画家だと自慢していた。最初はやなせたかしが祖母の甥かなにかと思っていたが、どうもそうではなく、その嫁さんが祖母の姪であるらしいことがだんだんわかってきた。夫唱婦随の仲の良い夫婦だと言っていた。むろん子供の頃はそんな親戚関係に興味もなかったし、多分会ったこともなかったかもしれない。「漫画家のやなせたかしは親戚だそうだ」。「その嫁さんが父の従姉らしい」くらいのことで済ませていた。

ところが、時代は移り変わり今や、やなせたかしはアンパンマンブームで超有名人だ。そこへ今年のNHK朝ドラ「あんぱん」のヒット!しかも今回はやなせたかし本人ではなく、その嫁さんの暢が主人公だという!つまり「父の従姉」がヒロインのドラマだ!ということで、もう少し暢さんについて知りたくなった。しかし、時すでに遅し。祖母も亡くなり、父も亡くなり、詳しいことを聞く人もいなくなってしまった。祖母は我が家の「語り部」であった。記憶力抜群で我が家のルーツや家族の昔話を祖母から聞かされた。晩年は耳にタコができるほど同じ話を聞かされることもあったが、おかげで我が一族の「ファミリーヒストリー」が「口頭伝承」されてきたと言っても良い。しかしそれももう聞けない。もう少ししっかり聞いておけばよかった。『暢おばさん、あなたは一体どんな人だったの?」

しかし、こうしたドラマがヒットすると面白いのは、その登場人物のモデルとなった人々の実像、エピソードを発掘するライターがゾクゾク出てきてネットに投稿することだ。NHKのウェッブサイトにもこのドラマの脚本家の中園ミホ氏のインタビュー記事が出ている。主人公の「のぶさん」について色々調べたようだが、やはりやなせたかしはともかく、その妻の情報は極めて限られていたようである。主人公のイメージを創出するのに苦労したという。しかしそこはネット時代。ドラマがヒットすると、やなせたかしの自伝『やなせたかしはじまりの物語』をはじめさまざまな情報がネット上を飛び交う。おかげで私もここへきてようやく、今田美桜演じる主人公の「朝田のぶ」、いや父の従姉、祖母の姪「池田暢」がどんな人であったのか少しずつわかってきた。ネット上にはさまざまな情報が散在するが、元ネタは限られているようで、行き着くところは先述の自伝や高知新聞の記事や同僚の証言のようだ。不確かな書き込み、出典不明な写真もあるが、それらを突き合わせ整理するとだいたい次のようになる。初めて知ることが多いが、なるほどと思い当たることもある。


池田暢(のぶ):「朝田のぶ」「柳井のぶ」のモデル

 1918年(大正7年)大阪生まれ。池田鴻志(こうし)と登女(とめ)夫婦の三姉妹の長女。大阪の阿倍野高等女学校を出て、一時高知に移り、1939年(昭和19年)そこで日本郵船に勤めていた小松総一郎と結婚する。しかし終戦の年に夫は病死。戦後の1946年(昭和21年)高知新聞に入社し、初の女性記者として雑誌の発刊などに活躍。この時やなせたかしと出会う。その後に上京し高知選出の女性代議士の秘書に。1947年(昭和22年)に東京でやなせたかしと再婚。「困った時のやなせさん」「遅咲きの漫画家」と言われたやなせたかしを支え、叱咤激励した「はちきん」(男まさりの女性)の嫁さんであった。まさにNHK朝ドラ主人公にうってつけのヒロインであった。しかし実生活では表に立って活躍するというよりも「内助の功」的な役割に徹していたと聞く。それでもお茶の先生をしたり、趣味の登山を楽しんだり、自分の世界もしっかり持っていたようだ。1988年(平成元年)末期の乳がんが見つかり余命3ヶ月と宣告されるが、たかしの献身的看病と抗がん剤治療が功を奏し回復。その5年後の1993年(平成5年)に亡くなっている。二人に子供はいない。

一方で、私の父は1920年(大正9年)生まれなので,暢は2つ上の従姉である。父も大阪生まれ。天王寺区北山町で生まれ、旧制高津中学を出ている。暢が住んでいた阿倍野とは近かったので、それなりの行き来があっただろう。それらしいいとこ同士の集合写真も出てきた(後述)。しかしあまり祖母からも父からもこの従姉、暢の生い立ちや大阪での生活を聞いたことはない。祖母にしてみれば早くに兄が亡くなってしまったので姪たちとは多少疎遠になったのであろうか。その後、東京へゆき、やなせたかしと再婚したころから「あの暢ちゃんが!」ということになったのだろう。

ところで暢の父、祖母の兄、池田鴻志とはどのような人物であったのか。ドラマでは「朝田結太郎」として登場し、家業は継がず海外を飛び回る商社マンとして活躍するが、海外出張の帰国途中で急死する。この父は開明的な考えの持ち主で、「のぶ」の成長物語において新しい女性としての生き方を支持し、暖かくその未来を応援する役回りである。


池田鴻志(こうし):「朝田結太郎」のモデル

 1885年(明治18年)高知県安芸郡安芸町生まれ。実家は裕福な商家であった。高知商業、大阪の関西法律学校(現関西大学)を出た後、しばらく高知にいたようだが、長男であったが家業を継がず、1916年(大正5年)、当時の日本最大の総合商社鈴木商店にスカウトされ、傘下の九州炭鉱会社に赴任。その後に大阪本部の木材部をへて台湾嘉義木材経営のため台湾赴任。さらに1919年(大正8年)には北海道の開発に拠点、北海道釧路出張所長、監査役を歴任。1924年(大正13年)39歳の若さで釧路で病死している。暢が6歳の時である。洋洋たる商社マン人生をおくったようで、当時の釧路日日新聞刊行の『釧路の人物』に彼の経歴や功績が紹介されている。死亡にあたっては官報、新聞に訃報が掲載されたことなどの記録が残っている。この時家族を大阪に残して単身赴任していたようだ。忙しい仕事の中で家族、特に娘たちにどのような影響を与えたのか。それに関する記録や証言、エピソードは見つかっていないが、後述のように3人の娘を高等女学校に進学させ、それぞれに結婚しても自立した女性として生きていったので、未亡人となった母、登女の教育を通じて父の薫陶を受けたものと考える。

祖母も高知安芸生まれの高知育ち。おそらく子供の頃は両親の下で兄の鴻志と一緒に安芸で育ったはずだ。しかし祖母からは、兄が高知商業出の商社マンであったという話以外、あまりこの「大叔父」のエピソードを聞かされた記憶はない。祖母の母(私にとっての曽祖母)ことは何度か聞かされた。ドラマでは浅田美代子が演じる「くらばあ」、すなわち「のぶ」のおばあちゃんである。わたしの祖母が小学校の時、級長に選ばれたので、母を喜ばせようと「級長になった」と耳元で小声で報告すると、「そうかえ」と一言だけ。そして臨終の床で「なんちゃあじゃ無いもんじゃ」と一言つぶやいて旅立った。この人生を達観したような、ややペシミスティックな「曽祖母」の話は祖母から何度も聞かされた。祖母にはこのほかに姉の金恵がいて、大阪の真珠商池田久寿弥太に嫁いでいた。この一家とは祖父母、父ともに付き合いが長く、高知を出て大阪・天王寺に居を構えていた祖父母とともに、西宮夙川、奈良と転居をともにした間柄である。孫の私も、奈良に隠居していた「池田のおばさん(大叔母)」「真珠のおばさん」に可愛がってもらった。この「池田のおばさん」こそ小柄なのに「はちきん」の代表のような女丈夫で、まさに大阪の船場の「ごりょんさん」さんであった。こちらはこちらで、ドラマ顔負けの波乱に満ちた物語を紡いできた一家で、小説やテレビドラマになってもおかしくないが、今回はここまでにしておく。


池田三姉妹、暢(のぶ)、瑛(えい)、圀(あき):「のぶ」「蘭子」「メイコ」のモデル

暢が6歳の時に父、鴻志が亡くなったわけで、この時はまだ暢たちは大阪にいた。家族は母、登女(とめ)、次女、瑛(えい)、三女、圀(あき)であった。ドラマのように祖父母と一緒ではなかった。父が亡くなっても大阪にいて高等女学校まで出ているのだからそれなりに裕福であり、教育熱心であったのだろう。ドラマで次女の「蘭子」のモデルとなった瑛は1920年(大正9年)生まれ。父と同い年だ。暢と同じ阿倍野高女を出て、教員となり同じく同僚の教員の曽我部鹿一と結婚、2男1女を設け、満州に渡る。やがて夫は現地で召集され戦死し、終戦とともに地獄の逃避行を経験して日本に引き揚げてきた。この姪の経験した悲劇は祖母から聞いたことがある。それが暢の妹の話だということが今つながった。東京で暢の計らいもあり、上京しやなせたかしの秘書となり、事務所の経理や編集者との交渉など重要な仕事に従事した。現在「やなせスタジオ代表」で、やなせたかしの思い出を綴った『やなせ先生のしっぽ』の作者、越尾正子(ドラマでは古川琴音演じる「中尾星子」のモデル)は、高齢となった瑛(2003年(平成15年)没)の後任として暢の依頼で入社し秘書をつとめたという。結局、暢が先に他界したので、晩年のたかしを公私に渡って世話をし見送ったのは越尾正子である。三女の「メイコ」のモデルである圀(1924年(大正13年)生まれ?)に関する情報はほとんど残ってないようだ。子供の頃「宝塚音楽学校に進学したい」と言っていたという話が、先述のやなせたかしの自伝に出てくるが、これが唯一の情報。これが歌手志望でミュージカル「怪傑アンパンマン」にメイコが出演するストーリーになったのか。祖母や父からもこの三姉妹の話を詳しく聞いたことはなかったので、父の従姉妹たちの人生について今回多少なりとも知ることができたのは幸いである。


このように実際の池田暢の人生は、ドラマの設定とはかなり違っている。「朝田のぶ」のモデル池田暢の情報が限られている分だけ、脚本の自由度が大きくストーリーを豊かにすることができたのであろう。中園ミホ作品は秀逸である。ドラマでは「のぶ」と「たかし」が同級生で幼馴染であったことになっているが、先述のように暢は大阪生まれの大阪育ち。柳瀬嵩は東京生まれの高知育ち。実際にはこの二人は高知新聞勤務時代に初めて出会っている。「のぶ」の実家「朝田家」は高知市後免の石材店となっている。「のぶ」の父、「朝田結太郎」が商社マンで家業を継がずに外地へゆき、早世した点はモデルの池田鴻志の人生をなぞったものだが、池田家は先述のように安芸の商家であり高知ではない。父、鴻志は暢が6歳の時に亡くなっている。ドラマよりはかなり早く亡くなっている。またドラマでは「のぶ」の妹の「蘭子」の「八木信一郎」との恋物語が後半の伏線だが、「蘭子」のモデル瑛は(先述の通り)満州で夫を亡くし子供3人を連れて引き揚げてきた苦労人であった。「メイコ」に至ってはそのモデルの圀の情報がほとんど残ってないので、先述のようなストーリーが創出されている。祖母が語っていた通り、実際の暢の性格も「はちきん」であったし、二人はとても仲の良い夫婦であったこともドラマで描かれている通りだ。「夫唱婦随」であったというのはどうなのか。ただ「夫に従う妻」ではなく、お茶を教えたり、登山を楽しんだり活動的な女性であったようだ。ただドラマの「柳井嵩」がハンサムすぎて線が細くて、やや暢の尻に敷かれているように描かれており、実際のやなせたかしとはキャラがかなり違う感じだ。余談だが、ドラマの登場人物の高知弁は、私の祖母から聞かされてきたネイティヴ高知弁とちょっとずつ違う。特に連発する「たまるか〜」は、ホントは「たま〜るか」なんだけど...

まあそんな細かいことはこのドラマを楽しむにあたってはどうでもよい。このように主人公の実像に関する情報が少ないので、脚本でいくらでも面白く描ける。それがドラマ(フィクション)だしエンターテイメント作品としてこれだけ多くの人に楽しまれているのだからそれで良いだろう。私もこの物語を十分に楽しませてもらった。そしておかげさまで血縁関係にある暢おばさんの謎も、これがきっかけで少し解明された、我が家の「ファミリーヒストリー」にまた一つエピソードが加えられた。あの世で祖母も父も「あれえ、暢のことは話しちゅうろう?」と言ってるだろう。「いや聞いてないぜよ」。そして「たま〜るか!ドラマの暢はえらいべっぴんさんじゃいか」と笑っていることだろう。そういえば父はあんぱんが大好物だった。

次の朝ドラは「ばけばけ」、小泉八雲とその妻せつが主人公。これまでも「あんぱん」「ゲゲゲの女房」とおなじ有名人の女房が主人公というパターン。「マッサン」「らんまん」など内助の功物語が続いたが、この同じパターンでそれぞれのドラマに特色を出すNHK朝ドラ企画のウデも見上げたものだ。それは別として、次の小泉八雲とせつ物語は楽しみだ。内助の功物語だけで終わらないことを祈る。


池田鴻志家集合写真
前列、左から父、暢、登女(鴻志の妻)、瑛、圀
いつの写真か不明。父は旧制中学の制服だから13歳くらいか。ということは暢は15歳で高等女学校時代

暢 高知新聞社時代か?

暢の父 池田鴻志(鈴木商店釧路出張所時代)
釧路日日新聞社刊『釧路の人物』掲載の写真

やなせたかしの自伝(高知新聞社刊)



やなせたかし/暢夫妻 1991年叙勲の園遊会で

園遊会で(共同通信写真)