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2025年8月23日土曜日

「藤田嗣治 絵画と写真」展を観に行った

    

 熟達の画家、時代の寵児であったFujitaも、写真に関しては一介のアマチュア写真家でしかなかった。彼は生涯で少なくとも9台のカメラ(大判カメラのほかライカとニコンユーザであった)を所有したようで、写真を始めた1913年以降、撮影歴は50年に及び、現在でも数千点の写真が確認されている。にもかかわらず彼の写真が一般に公開されたり、少なくとも作品として大衆の目に触れることはなかった。特に戦前にあってはFujitaの名が写真家として世間に記憶されることはなかった。しかし、戦後、木村伊兵衛は、Fujitaの撮影したリバーサルフィルムによるカラー写真の中に写真家も驚愕するような作品が数多く残されていることを発見した。作品に仕上げるポストプロダクションの技法は写真家のそれに及ばないものの、いわば撮って出しのその構図、特に色使いなど卓越した表現に溢れた作風を高く評価した。特に、当時はモノクロによる写真表現が主流であったところへカラーフィルムが登場し、写真家の多くがその濃淡のほかに色彩という要素をどう使いこなすか苦慮していた。そこに色使いの名人の「作品」登場である。衝撃であったようだ。木村伊兵衛はFujitaがカラーリバーサルフィルムでの撮影に不可欠な厳密な露出を最新の精密露出計を活用して実現していることを指摘している。特にモノクロ時代に写真家が頼りがちであった「カン」の不確かさを見せつけられたと言っている。その作品の一部が日本で「アサヒカメラ」などの写真誌に紹介され世の中に知られるようになった。

写真が発明された頃から画家が写真を絵画創作の補助的なツールとして使っていたことは知られているが、藤田のそれは単なる補助や画題収集としてだけではなく、画家としての眼差しで写真についても自己の芸術的表現手段として活用していた形跡がみられる。フランスで交流のあったウジューヌ・アジェ、アンドレ・ケルテス、マン・レイなどの写真家の作品に大きな影響を受けており、アンセル・アダムス、木村伊兵衛、土門拳など当代きっての写真家との交流もあった。こうした写真家達は彼に何をインスパイアーしたのであろうか? 絵画と写真。異なる表現手段であるようであるが、お互いに共鳴し合う何かがあったに違いない。天才が共有するインスピレーションと言っても良いのかもしれない。一方、彼の独特の風貌、スタイル(おかっぱ頭、丸メガネ、ちょび髭、ピアスなど)を自己表現に活用しアーティストとしての自己プロデュースを積極的に行なった。彼を被写体とした写真家が多くいたのも事実で、彼は当時のいわばファッションアイコンとしても名声を博した。Fujitaは写真の持つ威力を十分に理解、評価していた。そして旅に出るときはいつもカメラを手に世界中の人物や風景を撮った。今回の展示では彼が旅行中に撮影した写真から構図や人物表現を絵画作品に反映させた例を対比展示していてとても興味深い。このように彼は写真を身近な記録、取材手段として活用しただけでなく、重要な表現手段としていつもカメラを手に携えていた様子が窺える。彼が残した膨大な数の写真はなにをもの語るのか?その分析と評価、研究はまだ緒についたばかりだという。この企画展示が、新たなFujita像探訪のスタートになるのであろう。我々鑑賞者もその探訪に参加してみてはどうだろうか。まさに写真という視点で見つめ直す藤田嗣治の世界。久々にワクワクする企画展である。

「藤田嗣治 絵画と写真」展@東京ステーションギャラリーで開催中。8月31日まで。



ドラ・カルムス(マダム・ドラ)撮影の猫とFujita



アンセル・アダムスによる肖像写真が表紙を飾る「展示会ガイド」


丸の内南口と東京ステーションギャラリー入り口

丸の内口広場の「水盤」

子供が喜ぶ施設

多少は涼しさを演出できる

猛暑の丸の内口広場
照り返しが強くてフライパンの上にいるような暑さ!
「水盤」も「焼け石に水」か




(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4。展示室内は撮影禁止)

2025年8月15日金曜日

終戦から80年の夏 〜米国グルー駐日大使日記「日本滞在10年」:"Ten Years in Japan" を読みかえしてみた〜

 

80年目の終戦記念日 戦没者の御霊よ安らかなれ


8月15日「終戦の日」がやってきた。今年も猛暑の夏だ。今年は80年。節目の終戦記念日。心から先の大戦で亡くなった数多くの戦没者の御霊に哀悼を表したい。

今年の終戦記念日にはジョセフ・グルーの日記、「日本滞在10年」:Ten Years in Japan を読み返してみた。これは終戦の前年の1944年、すなわちまだ日本との戦争が継続していた中、ニューヨークとロンドンで出版されベストセラーになったものである。80回目の終戦記念日。そしてアメリカへの敬意が薄れゆくこの時代、そもそもなぜ80年前に日米開戦に至ったのか。今回は当時のアメリカ駐日大使ジェセフ・グルーの立場から振り返ってみたい。

ジョセフ・グルーは1931年の満州事変勃発の翌年にアメリカの駐日大使として東京に赴任。1941年の日米開戦とともに日本側の捕虜として東京で抑留され、翌年捕虜外交官交換でアメリカに帰国した。終戦交渉の時にはワシントンの国務次官として原爆投下などの無差別殺戮に反対し、ポツダム宣言の無条件降伏に対し天皇制を維持した民主国家としての日本の存続を主張したことで知られる。彼は反共主義者でありソ連の参戦を恐れた。戦後は日本占領政策に大きな影響を与えた人物である。吉田茂はグルーを日本の恩人として高く評価し称えている(吉田茂「回想録」)。グルーはアメリカには珍しいキャリアの外交官である。国際連盟大使、ポルトガル大使などを歴任後、知日派の大使として東京に赴任した。日本がまさに泥沼の日中戦争に突入し、国内では2.26事件などの軍国主義が徘徊。統帥権を盾に議会制民主主義が崩壊に瀕していた。日本は戦線を資源を求めて南方、太平洋に拡大し、日独伊三国同盟に走り、いよいよ英米との開戦必至という情勢であった。そうしたまさに日本の緊迫した実情を東京から発信し、日米開戦の回避に奔走した人物である。

彼の果たした役割、記述された日記の内容にはいろいろな評価がある。多くの分析評論、研究成果も発表されている。日記にはもちろん外交機密に属するテーマや、まだ交戦国である日本の関係者に迷惑がかからないような配慮がなされているが、生々しいやり取りや、緊迫感、新しい発見もある。しかし今回読み返してみて私が感じた一番のポイントは、逐一の出来事の歴史的意味はともかく、彼のような知日派で日本の政財界との太い人脈を有した人物、しかも徹底した非戦論者であった大使にも日米開戦を阻止できなかったということ。そしてグルーが対峙した日本側の政治指導者も決して日米開戦論者ではなく、(彼によれば)大方がそんな無謀な選択肢はないと考えていた。軍部の一部の跳ね返りの「過激派」を危惧して開戦に向かわないよう奔走した人々であったということ。東條を首相にしたのも陸軍内部を抑えられるのは彼しかいないと天皇側近の元老西園寺、城戸内大臣が考えたからだ。アメリカ側も国務省はじめルーズベルトもドイツとの戦争に加えて太平洋で先端を開く余裕はなかったし、日本が米国に対して宣戦布告することはないとみていた。そうして両国ともに開戦はありえない、あるいは開戦回避に向かっていたにもかかわらず、なぜ日米は戦争に踏み切ったのか。これは様々な歴史的検証がなされているが、いまだに明快な分析、説明を聞いたことがない。様々な要因が絡み戦争の総括と検証はまだ終わっていない。

このグルーの日記にもそれを検証し説明できる新事実を発見することはできないが、一つだけ言えることは、彼にとって天皇側近の元老を含めて日本側の開戦回避派の人物の影響力が思っていたほど大きくなかったことであろう。グルーは天皇はじめ日本の指導者層と緊密な関係を築き、非常に友好的な米国大使としての在任期間を過ごした。天皇が戦争に消極的であったことも考えると開戦の意思決定への流れはある意味で誤算だったかもしれない。グルーの付き合い範囲がそうした日本の指導者グループの非戦派、ないしは親英米派に限られていたのではないかということである。国際連盟から脱退したり、追い詰められてドイツとの同盟を選んだ指導層の動きにもやや鈍感だった。日中戦争を牽引した陸軍の参謀や、統帥権をふりかざす参謀本部のエリート軍人、革新官僚と呼ばれた軍国主義官僚とのパイプが細かった。あるいは過小評価していた。日米の圧倒的な国力差もあり、そのような開戦主導派は少数である(とグルーは自信を持っていた)にもかかわらず気がつくと真珠湾に突っ込んでいた、という感覚だろう。

グルーの情勢分析が甘かったといえばそれまでだが、プロの外交官ですらこのようなことが起きる。いや、優れた外交も狂信の前には無力だ。共有すべき事実を認識することを拒絶する人々には通じない。これは今のSNSの世界で自分と同じ世界観、価値観の人物をインフルエンサーとし、「いいね」ボタンとフォローとシェアー拡散しているようなものだ。同じ価値観と目線の人物とばかり付き合い、フォローし共感しあっていると、それが主流の世相だと思ってしまうのにどこか似ている。自分が身を置いているコミュニティー(それは権力の中枢であると思っている)では戦争はあり得ない。しかし実際には共感できない狂信的なコミュニティーから戦争が始まる。日露戦争でおぼえた「一撃講和」がアメリカ、イギリスとの戦争でも有効だ、と根拠なく信じる楽観主義者たちである。資源を求めての南部仏印進出が、アメリカの対日禁油措置を招き、それが世論の反米感情の悪化を招いた。日本の指導部の中では、圧倒的な日米の国力差は理解していたが、この機に短期決戦「一撃」を与えて「講和」に持ち込む。これで勝てる、という流れが一気に主流となっていった。グルーは日本の非開戦派を信じてはいたが、一方でワシントンの、日本は日中戦争の泥沼化で疲弊していて、アメリカとの戦争など非現実的だとの観測に対して、日本は西欧諸国とは異なる思考様式を持つ国である。自国の名誉のためには決死の戦争をも辞さない国であるとして警鐘を鳴らし、開戦の可能性を否定していない。一方でハル国務長官の対日強行路線に対するグルーの和平策、開戦回避策、具体的には近衛/ルーズベルト会談の工作は、欧州におけるチェンバレンの対独融和策のように捉えられ不本意ながら実現しなかった。アメリカも揺れ動いていた。日米の狭間でのグルーの葛藤を感じ取ることができる。戦後の極東裁判ではグルーは開戦阻止派の指導者を不起訴で救おうとしたが、従容として死刑執行に臨んだ広田弘毅や自死した近衛文麿などの友を失う。外交官グルーの悲劇、そして日本の親英米派、非戦派の悲劇はそこにありそうだ。

戦争なんて、熟考と練りに練った戦略の末実行されるものではない。一部の声の大きな人間(ときにはエスタブリッシュメントから失笑を買うような人物)の勢いやプロパガンダ、フェイクニュース。そしてそれを煽るマスコミとそれに煽られる大衆世論によって始まる。熱狂し、気がつくと「大変なこと」になってしまい収拾がつかなくなり、なにがなんでも強硬に戦争を継続する。そこに組織のメンツや独自の論理が加わる。止め時のシナリオのない戦争は滅びるまでやる。「一億玉砕」。「わかっちゃいるけどやめられない」。事実、天皇の6月の「終戦の聖断」から、8月15日のポツダム宣言受諾、無条件降伏まで、50日以上かかっている。その間に本土都市への無差別爆撃、広島、長崎への原爆投下、ソ連の参戦があり、この戦争で亡くなった民間人の実に50%はこの間になくなっている。後から振り返るととても理性的、あるいは合理的な意思決定とは言えない。しかしその時は気が付かない。それでも「本土決戦」を叫ぶ一部の軍人。これが狂信である。これは現代の戦争を見ていても同じだ。簡単に始めるが簡単には終わらない。

そして今のアメリカにあの時のグルーのような知日派の人物の姿が見えないことにも愕然とする。グルーとて聖人君子ではないし、あとから日本贔屓の偉人に仕立てるつもりもない。当然ながらアメリカの外交官、利益代表として辣腕を振る舞ったのだが、そこには相手国へのレスペクトと、自国に意見する見識と胆力、世界を歴史を俯瞰することのできる知性があった。そのような人物は今のアメリカにいるのだろうか?いやいるはずだがなりをひそめているのだろう。少なくとも今の政権中枢にポジションを得ているようには思えない。久しぶりに取り出してみたグルー日記「Ten Years in Japan」が、戦争は思いがけず起きることを思い出させてくれた。そして、開戦前夜の日本で起きたリベラル勢力とそれに反発する極右勢力の対立構造が、現代のアメリカで起きていること。そしてその波は再び日本にも。戦後80年。「アメリカの時代」の終わりを予感させられる日々である。そんな今年の終戦記念日。



グルーの肖像と表紙

政界、軍部、財界と多様な人脈を形成していたグルー

秩父宮、広田弘毅、重光葵、樺山伯爵、近衛文麿などの高官との写真
全員が親英米派高官

麻布善福寺のアメリカ公使館跡にタウンゼント・ハリス記念碑を建立
若き日にアメリカ公使館に勤務していた益田鈍翁も


2025年8月10日日曜日

古書を巡る旅(67)Wlliam G. Aston " NIHONGI":アストン英訳「日本書紀」

 


表紙

伊奘冉、伊弉諾二神像として掲載されている


William George Aston (1841~1911) Wikipedia




本書は、1896年にロンドンの日本協会雑誌付録第一「日本記」全2巻、Transactions and Proceedings of The Japan Society, London Supplement I,  NIHONGI, Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D.697としてロンドンで刊行された。出版社はKegan Paul, Trrench, Truebner & Co Ltd. である。著者のウィリアム・G・アストン(William George Aston:1841-1911)は、アイルランド生まれでダブリンのクイーンズカレッジ卒業後、英国外務省の日本語研修生としてアーネスト・サトウとともに採用され、1864年に江戸の英国公使館に通訳生として赴任する。公務に従事する傍ら、日本語研究に取り組み、退官帰国後には、数多くの日本に関する研究書を発表した。その中には「日本神道論」「日本文学史」「日本古代史」があり、なかでも西欧の日本研究者に大きな影響を与え、研究の進歩に貢献したのがこの「日本紀」である。本書はその貴重な英訳初版本である。

このアストンの「日本記」は、8世紀に編纂された日本初の国家としての正史「日本書紀」の初めての英訳であり日本の古代史研究資料としても貴重な書籍である。しかしなぜかアストン没後は再版、改訂されることはなく、日本においてもその存在を知る人も少なかった。不思議なことである。戦後の1956年になってようやくロンドンで再版された。出版社はGeorge Allen & Unwinである。初版の2巻本が1巻にまとめられたが内容は全く同じである。これ以前にはチェンバレンによる「古事記」の英訳がある(以前のブログ参照 2025年5月17日古書を巡る旅(64)チェンバレン英訳「古事記」)。アストンはチェンバレンの古事記を読んでおり、彼の原稿を所有していたため関東大震災で失われた原本を復刻することができた。この復刻版ではアストンが新たに注釈をつけ、これが現代の英訳古事記の底本になっている。そういう意味においてアストンの古代日本語の流麗で正確な翻訳、注釈には定評があり、この評価はあたかもチェンバレン版「古事記」のアストン訳注で発揮されたもののように受け止められがちである。しかし、これに先立つアストン版「日本紀」にこそ、その翻訳の力量が遺憾なく発揮されている。

本書は、全2巻で、第1巻は神話と神武天皇から武烈天皇まで。第二巻は継体天皇から持統天皇まで。神話部分と神武天皇から持統天皇までのクロニクルな年代記として訳出されている。日本書紀は元々漢文で記述されており、その文体、用語法の違いから、執筆者には渡来人(ネイティヴの漢人)と倭人(外国語としての漢文を学んだ)の2種類が存在していることが最近の研究で明らかになっている。アストンもその内容と文体が中国からやってきた人物(渡来人)の影響を受け、そうした文化的な背景を受容して記述されていることを指摘している。この古代日本を知る上で、それに影響を与えた中国語(漢字)、思想、政治制度、文化についての理解と注釈なしで、歴史書として日本紀を解読することは困難であると考えた。そもそも日本書紀の編纂の背景には、古代東アジア世界の超大国である中国(唐王朝)を意識して、新興国家「日本」(かつて倭国と呼ばれた)の独立と、神代から続く天皇の支配の正当性を対外的に宣言することがあり、その表明の書としての正史編纂であった。アストンはそうした国家アイデンティティー表明の中にもその内容に多くの中国王朝からの影響が見て取れると指摘している。本居宣長が古事記を「やまとごころ」の書としたのに対し、日本書紀を「からごころ」の書とした所以である。 

アストンは日本紀の解説書として、18世紀末の江戸時代寛政年間に出版された「書紀集解」(国学者河村秀根)を用いている。それ以外にも釈日本紀などの歴史書や、フローレンツのドイツ語訳を参照し、チェンバレンや、サトウの著作を参考に彼の幅広い日本語能力、古代史知識、中国文化の知識をフルに活用した翻訳となっている。しかし、「書紀集解」を典拠とする点で日本書紀研究の現代的視点から見ると、いまや過去のものとみなされる解釈も多いのは致し方ない。特に古事記と日本書紀の成立経緯や成立意図を現代の研究者ほど明確に意識しないまま比較している面がある。また日本紀の原本として「帝紀」「旧辞」をあげており、蘇我宗家の滅亡とともにこれらの原本が失われたことは指摘してたうえで、「旧辞」を「旧辞記」しているのは何かの混同だろうか。しかし、当時の(いまから130年前の英国人研究者による日本古代史史料の解読、研究姿勢とその成果には舌を巻くほかない。特に史実と伝承、神話を明確に区別して考察する姿勢は、現代の「記紀」史料研究では既定のものであるが、この当時においては注目される。しかし、6世紀以降の天皇の事績に関する記述が多くの点で史実であるとみなした点は、現代ではその多くが潤色されたものであるとの見解で一致していることから見ると資料の批判的解読に限界があると言える。それにしても、そんな研究深化の過程での誤りを現代の視点で批判することにどれほどの意味があるのか。こうした先人の業績の積み重ねあればこその日本書紀解釈であり、古代史研究である。アストンの当時としては最も正確な翻訳、これを世界に紹介した功績は偉大である。

明治期に日本が欧米列強に対し、国家的表象としての古代史、国の正史(あるいは国家創世神話)を求めていた時期にこのアストンの英訳「日本書紀」が大きな役割を果たしたと言われる。「記紀」の復活。皇国史観の確立に向けた時代であった。そもそも「日本書紀」の編纂目的が8世紀に倭国から日本(ひのもと)と名乗って、中華帝国(唐)、東アジアに国家デビューを果すための漢文による正史編纂事業であったことを考えると、1100年後の19世紀の明治維新という新たな近代国家デビューの時期に再び「日本書紀」「古事記」の存在が脚光を浴び、それがイギリス人研究者によって英訳復活したことには歴史のシンクロニシティーを感じざるを得ない。無論アストンはそのような明治国家の意図を汲んで英訳を試みたわけではないが、そのような要請に合致することとなった。

このようなアストンの注釈豊富な翻訳姿勢は、のちのドナルド・キーンの英訳のような読んで面白い文学的な訳文ではなく、逐語訳で正確性を期したもの、比較歴史学、神話学研究的な姿勢によるである。その意味においてはチェンバレン版古事記が、文学作品的な味わいがないと評されるのとと共通している。元々「文学作品」として取り扱っていないのである。歴史的史料、ないしは比較言語学、比較神話学の文献資料として扱っている。そもそもアストンもチェンバレンもこうした日本古代史料の現代英訳を日本人の読者を意識して出したわけではない。アストンは巻頭言で明確に「ヨーロッパの研究者向けに翻訳を試みた」と書いている。当たり前だというかもしれないが、これらの英訳本が日本人に評判が良いことを思い出して欲しい。つい我々は、日本人ですら解読が難しい古代史料を英訳したことに感動する。そして日本を美しくユニークな国、人、文化として評価してくれていると思い嬉しがる。明治期以降の日本人が大好きな「外国人が見た日本」!、現代的にはCool Japan!現象だ。親日家、だとかジャパノロジストだとか言ってもてはやす。もちろん彼らは日本に興味を抱き、深く愛したが、しかし研究対象として日本を客観的、批判的に分析する視点を忘れてはいない。チェンバレンに「その観察は日本にシンパシーを持ち過ぎている」と批判されたラフカディオ・ハーン(古書をめぐる旅(66)ラフカディオ・ハーン「神国」)ですら、イギリスやアメリカ、欧米諸国の読者向けに彼らが東洋で見つけた新たな事実、物語を紹介しようとしたものだ。「西洋文化に対する東洋文化」という比較文化論的な視点での研究書あるいは論評書なのだ。決して日本贔屓したり、日本人を持ち上げようとする媚びへつらいの意図はない。われわれ日本人がこれらの研究書、作品集に接するときにその著者の意思を尊重して接しなくてはならない。

それにしてもこのような日本の古典研究が、明治期にこうした英国の外交官、御雇外国人によってなされたことに注目したい。そこには当時の大英帝国の国家としての情報収集能力、異文化研究能力、人材育成能力の卓越したパワーを感じざるを得ない。オルコックもパークスも、館員に、1日の半分を日本研究のために費やすよう命じた。大英帝国の余裕のなせるわざではあるが、その余裕は単に国家の経済的な優位性、軍事的な優位性によるものだけではなく、同時に「インテリジェンス」重視の知性の優位性によるものであった。現代においてジャパノロジストを見なされる日本研究者、オリファント、サトウ、アストン、ミットフォードもみな若き駐日英国公使館員であった。チェンバレンは、公使館員ではなくお雇い教師であったが、なんと帝大の「国文学」講座の初代教授であった。ジャパノロジストはこうして生まれた。「英国諜報部員」の実相は007のようなアクションスターだけでなく知的研究者であった。

そうした大英帝国時代以来の外国研究の伝統は、ロンドン大学 東洋・アフリカ研究学院(The University of London, The School of Oriental and African Studies)にそのレガシーと最新研究が引き継がれている。


2025年7月23日水曜日

日本人は交渉下手なのか? 〜日米関税交渉本日決着〜


ベッセント財務長官と赤沢大臣(ブルムバーグ)

今日、8月1日期限の日米関税交渉がまとまり、トランプ大統領、石破首相から発表があった。この決着をどう評価するかは意見が分かれるだろう。25%の脅しに粘り強く交渉して15%まで降ろさせた。いや一方的関税拒否だったはずが15%を受け入れたのは脅しに屈したことはおなじだ。見返りの5500億ドルの対米投資は日本にどのようなメリットがあるのか。米の輸入枠は増やさず、その枠内でアメリカ産を増やすだけなので米農家は守られた。参院選挙に負けた自民党の総裁続投の苦心の交渉。中国や他国との交渉が行き詰まる中、日本との交渉が妥結したことでトランプも胸を撫で下ろした。等々。この交渉が日本にとって上手くいったのかどうか。その評価はこれからだ。いずれにせよ日本からアメリカに輸出される自動車にこれまで2.5%だった関税が15%課されることになる。25%に比べれば日本の経済への影響は多少軽減されたとは言え、依然、一方的で法外な関税であることには違いない。鉄鋼、アルミは50%だ。その結果はアメリカの消費者にも皺寄せがくる。そもそもアメリカの突出した国際収支の赤字がこれで解消することはない。これで産業空洞化が解消されるわけでもない。二国間協定で関税を一方的につりあげて相手からディールを引き出す手法が受け入れられないことも変わらない。その詳細分析に立ち入ることが今回の目的では無いのでここまでとするが、そもそも「日本人は国際的な交渉が上手いのか下手なのか」についてこの機会に考えてみたい。

国際的な交渉は難しい。難しいと言って仕舞えばそれまでで、それをやり切るのが国を背負う政治家であり、エリートなのだから「難しい」なんて言わせない。しかし「難しい」のだ。当事者でないものが外から見てると何やってんだと思うことも多い。交渉の駆け引きや全体像がわかっているわけではないし、交渉の逐一が情報共有されるわけでもないので、ついついマスメディアはじめ、根拠不明のSNSインフルエンサーなど「外野が騒がしい」ことになりがちだ。また、こうした交渉の常でその結果についても100%双方がウィンウィンなどと言うことはなく、かならずどこか不満が残り、双方持ち帰ると、交渉に負けたんじゃないか。その「責任論」云々が議論されがちだ。合意内容が「玉虫色」で実行過程で食い違いや思惑違いが出ることもままある。歴史を振り返ってもよくわかる。日露戦争の終戦交渉、ポーツマス条約などがその典型的な例だろう。勝ったのに賠償金が取れないと、国内では暴動となり日比谷焼打事件などが起きた。満州おける日本との鉄道事業参画を目指すアメリカの鉄道業者代表が東京で暴徒により危険に晒されたりした。言論統制下の国民は、勇ましい勝利のニュースしか聞かされておらず、戦争の悲惨な実態や日本がこの戦争で国家存亡の危機に瀕していることなぞ知らない。そもそも薄氷を踏む勝利で、金を使い果たしギリギリの停戦交渉であったことは後で分かった。勝ったという高揚感。一等国になったという欧米列強に対する劣等感の裏返しとしての優越感。そしてアジア同胞へ向けられた優越感。そればかりが国中を覆い尽くし、現実を謙虚に受け止めることができなかった。その感情論が40年後の国家破綻の前哨戦となるなどとは、その時誰も考えなかった。国際的な交渉の難しさという経験を、幕末の開国条約交渉に限らず日本は経てきたはずであった。

今回の関税交渉の詳細な内実について我々が知りうる立場にはないし、どんな駆け引きや取引があったかも詳細はわからないが、交渉をまとめることがいかに茨の道かは、私もささやかながら海外事業の経験で身に染みているつもりだ。ビジネスパート、敵対買収相手、規制当局と、一筋縄ではいかない相手との交渉でストレスの連続であった。むしろ身内との交渉に時間と労力を取られてストレスを感じることもあった。いやその説得の方が時間を要した。国家間の戦争や外交交渉とは比べ物にならないとは言え、その結果が「双方にとってウィンウィンの合意となった」と言う公式発表にも関わらず、全ての人に満足のいくものとは限らないのはM&Aディールでもおなじだ。その結果、交渉担責任者は国賊扱いされたり、会社に損害を与えたとして懲罰対象、左遷人事になったり、誹謗中傷にさらされたりもする。よくやったという評価は表に出ない。交渉には常に妥協と譲歩、コンセッションがつきものなのだ。また合意内容の実行過程で齟齬が得たり事情変更があったり、時間が経たないとその結果は見えてこない。その交渉の成否は歴史が評価することになる場合もある。

それにしても日本人は交渉が下手だ。これは感じる。自分自身の経験を振り返っても内心忸怩たる想いが残るものばかりだ。留学中も学生同士のディベートやスピーチでの良くトレーミングされた表現力、論法、相手への敬意、突破力に敬服したモノだった。それは欧米人だけではない。むしろ途上国の若者の説得力ある論旨と実に堂々たる態度に驚嘆した。そんなかれらが実社会で修羅場を潜り、経験を積み、尊敬を勝ち取り、人脈も形成して政治や外交でビジネスで本領発揮する。それに比べると日本人は真面目でおとなしく、お行儀が良いが、相手に強い印象を与えない。「顔が見えない」というやつだ。そもそも長い鎖国を経験し戦争や外交下手の歴史を歩んできた日本に、広い視野と戦略思考、そして強かな交渉人は育たなかったのだろうか。「男は黙って!」「巧言令色仁少なし」を美徳とする文化。歴史を振り返っても国家のリーダーですら、国際問題、外交、戦争に関する広い視野と知見をもって大局的に判断し、タフに交渉できる人物、そして相手からも尊敬される人物は少なかったように思う。歴史上の人物であえて挙げるならば、徳川家康か。あるいは外交官としては幕末の幕府三英傑(彼らはすごい。鎖国下のどこであれだけの外交交渉力を習得したのか?)、明治の日露戦争終戦処理の金子堅太郎や高橋是清、小村寿太郎、諜報力を象徴した明石元二郎。戦後のGHQと渡り合った白洲次郎もすごい。大局観を持てないリーダーと相手の話を聞かないリーダー、相手へのレスペクトをもてないリーダー、そして責任を負わないリーダー。そんな彼らの根拠のない楽観主義に基づく意思決定、その結果があの未曾有の敗戦だ。そして戦後はアメリカの核の傘の下で戦争や外交のコストと修羅場を避けて、ひたすらエコノミックアニマルに徹していた。その結果の高度経済成長。幸せなことと言えば幸せだが、不幸といえば不幸。外交力を失うと言うことは諜報力も失うということ。あの日露戦争で発揮した日本の諜報力、外交力は、戦後影を潜め、今や日本ほど諜報力の貧弱な先進国もない。Ninjaの国が... 安全保障という言葉は声高に議論されたが、自らの安全保障を真剣に考えたことはなかった。そうこうしているうちに経済力も失われ始めてしまった。これからは振り向いても後ろにアメリカはいない世界で生きてゆかねばならないだろう。

世の中は、「話せばわかる」相手ばかりではないことは今さら言うまでもないだろう。かと言って気に食わないからと感情論で相手を罵倒したり誹謗中傷してはまとまる話もまとまらない。喧嘩して「啖呵切ってケツまくってやった!」は浪速節の世界ではカッコいいが、そんな「匹夫の勇」は世界ではなんの結果も生まない。カオスの世界を生き残るメンタルの冷静さとタフさがいる。相手への共感力、突破力がいる。人と人との信頼関係が何より大事だ。バカは困るが頭が良いだけでもダメだ。平和ボケ、思考停止の失われた30年、気がつけば外国エージェントのボットによる認知戦のターゲット国になり、それに左右されるSNSポピュリズムに政治も席巻される時代だ。交渉も一筋縄ではゆかない。日本は大丈夫なのか?大丈夫じゃないね。国家、企業、あらゆる組織のリーダーの資質に赤信号が点っている。与党も、野党もどの面を見てもトランプや習近平、プーチン、とやり合って勝てる面構えじゃない。「永田町」という政局の論理でしか考えられない。優秀だと評判だった官僚もいまや単なる「官僚的サラリーマン」だ。企業戦士も24時間戦えなくなっている。しかしそんなことボヤいている場合ではない。日本はこの敗戦以来の80年目の危機に直面している。否応なしに外交力、交渉力が鍛えられることになるだろう。ただその経験値を積むまでは死屍累々だろう。そして外交の基礎は諜報力、発信力だ。これも一朝一夕ではできない。世界を俯瞰できるかどうか。その手始めが今回のトランプ関税交渉だ。第三の開国だ。




おまけ1

私の極めて限られた経験をもとに交渉相手の感想(あの時の彼らの顔を思い浮かべつつ)を述べると、アメリカ人は、一般にタフな交渉スタイルで有名だが、理屈よりも情だ。意外に人間関係がモノを言う。交渉担当がほぼ全権を持って決めるが、交渉担当者の能力は個人差がまちまちで。理性的な人物に当たれば話は早いが、時には訳の分からんこと言って(きょうは気分がのらんとか、妻の誕生日なので帰るとか)翻弄されるような人物も。イギリス人は、驚くほど諜報能力が高く、よく相手を研究している。さすが大英帝国の伝統。ファクト、エヴィデンスベースで攻めてくる。一番タフな交渉相手だ。アメリカ人のようにフレンドリーさは見せないが、信頼できるとなれば本音を見せる。捻りのあるジョークや嫌味に絡め取られないようにしなくてはならない。中国人は常に法令集を傍に置き参照しながら交渉し、最後はトップに伺わなければ決まらない。今までの交渉はなんだったんだと言うこともある。その場で決まることはほぼない。結果が出ない。ガードが硬く官僚的で交渉担当に権限はない。終わった後のエンドレスのカンペイは勘弁してくれ〜。日本に近い?

まあ、こうした各国のカウンターパートの違いをカリカチャライズすることは、話としては面白いが、あくまでも個人の経験に基づく感想なので、誤解と偏見をもたらすことにならぬようこの辺でやめておく。要は交渉とは多様なバックグラウンドをもった相手(人、組織、制度、文化)との総合格闘技のようなものだ。それを受け入れる懐の深さと、多くの引き出しいっぱいの話題が必要だ。最後は相手を説得する突破力が不可欠。しかし長い交渉の中で信頼関係を築き、お互いレスペクトし合える関係を持てることは楽しいことでもある。そうでなければ結局交渉ごとはうまくいかない。「敵ながらあっぱれ」。あの交渉を共に戦った仲間、という連帯感すら感じる。そういう友人達とは今もつながっている。

しかし、今回のような一方的な恫喝、無理筋をディール成功のための有効手段だと思っている人物との交渉はタフだろう。気まぐれで、感情的で、へつらう人大好きな親分相手じゃ、いくら取り巻きや側近をエビデンスベースで説得し理屈で納得させても、最後は親分への効果的な「情」に訴える一撃がなければだめだ。すなわち「俺が勝った!」と思わせる舞台設定。そのために3ヶ月で8回もワシントンに参りをしたと言う「忠誠心」の証(その気が無くても)も大事かもしれない。若い頃、会社の拠ない仕事で、とある筋の親分のところに売掛金の回収交渉に行ったことがある。法的な措置と言っても、そんなことわかって恫喝で踏み倒しているのだから、正論の通じる相手ではない。何度も通い、今回のベッセント財務長官のような合理的思考の持ち主である組織の経理担当者が当方の立場を理解してくれて、親分との面談を仲介してくれた。その結果、親分は「お前の何回も来たしあいつの顔を立てて払ってやる」で決着した。メンツが全てのロジックに優先される世界だった。理屈や合理性ではなく信頼関係とも無縁なディールもある。そんなことをふと思い出した。


おまけ2

交渉の場で日本人がよく聞かされるアメリカ人のおべんちゃらジョーク。我々が下手くそな英語で話すことを自嘲気味に詫びると、決まって彼らが返す定番ジョーク。

You know
The person who speaks two languages, Bilingual!
The person who speaks three languages, Trilingual!
The person who speaks only one language, American!

あるいは、
I am not able to speak Japanese as you speak English well.

You speak perfect English!  Where did you learn?

これをトランプが英語が公用語の国の大統領にベンチャラして失笑されたのは記憶に新しい。


おまけ3

トランプのやり方は極めて乱暴かつ国際的な品位に欠くが、アメリカの関税率引き上げは共和党支持者の70%以上が支持している。なぜか?

中国の国家資本主義によるアメリカ市場簒奪。中国の外需頼みの経済成長への反発。これは日本やドイツについても同じ。アメリカの国際収支の赤字は世界でも突出しており、これがアメリカが「搾取されてきた」というトランプ流のレトリックにつながる。
アメリカの国内産業空洞化、金融、ITなどの知的産業部門の伸長は、労働力、雇傭の移動を促さず、貧富の格差が拡大。反知性主義、ポピュリズムへ。労働市場政策の失敗。
GATTで一定の成果を挙げた自由貿易体制だが、WTOの自由貿易体制は中国や日本、ドイツに大きな利益をもたらしたがアメリカは大きな赤字を抱えることになった。中国はアメリカだのみの経済成長で内需拡大が進んでいない。日本やドイツも同じ(80年台の日米貿易不均衡問題と同じ)という認識。この貿易不均衡問題はなかなか解消されていないと言うのがアメリカの主張。トランプで爆発しこれを支持する国民が根強くある。
だからといってトランプの政策に合理性があるとは言えず、二国間協定による一方的高関税圧力が、世界の貿易促進につながることはない。かつての重商主義貿易体制への後戻りであり、反動政策であることには違いない。現実に関税率20%を超える国は(一部の最貧国を除いて)ない。新しい多国間貿易の仕組みを考える必要。中国の国内需要の拡大も課題。そして何よりもアメリカの雇用と富の分配の問題を解決しなければならない。









2025年7月5日土曜日

古書を巡る旅(66)Lafcadio Hearn『神国 Japan An Attempt At Interpretation』〜小泉八雲の日本論〜

 

表紙


1904年の初版

神道の巫女


1906年の第9版



初版と第9版



今年後半のNHK朝ドラ「ばけばけ」。ヒロインはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の妻、小泉セツがモデルだ。ハーンに日本の古い伝承話を数多く伝え、彼の著作に大きな影響を与えたと言われている。ドラマの展開がどうなるのか楽しみにしている。アイルランド出身のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「怪談」「心」「骨董」などの日本の伝承説話集が知られているが。彼の晩年の著作に『神国 Japan An Interpretation』(1904年)がある。これは彼のいわば日本論の集大成ともいうべき著作である。1904年9月にニューヨーク、ロンドンのThe Macmillan Companyから初版が刊行された。ハーンは同年4月に東京にて没しており、この初版刊行を見ることはできなかったが、多くの人々に読み継がれた人気の著作で、重版を重ねている。和訳本が「神国日本」として昭和7年に第一書房から戸川明三の訳で出版されている。


「神国」とは?

ハーンは、日本が「八百万の神々」の国であり、人々が自然や祖先を神聖視する文化を持っていること。日本人が生まれながらにして宗教(神道的感性)と共にあるということ。彼はこうした日本の特性に驚き、敬意を込めて日本を「神国」と呼んだ。特に「死者は生者の中に生き続ける」という祖先崇拝の思想に着目し、それが日本人の社会の秩序や道徳を支える基盤となっていると評価している。ややショッキングな表現であるが「死者が生ける者を支配する国」とも表している。すなわち人は死ねば墓に埋葬されて肉体は土に還る。しかし霊魂はその体から抜け出て天界に行って神になる。しかしその神は「全知全能の神」になるわけではなく、生前の「人格」をそのまま受け継いだ神である。その神は常に生ける家族、部族、国家と共にあり守護神となる。だから祖霊を厚く敬い、家に位牌を祭り、祖霊の教えに従って生きる。かつてローマ・カトリック教会が、異教徒へのキリスト教布教にあたって、家族での位牌などの個人の祭祀を禁じ、破却を命じた。全知全能の神が唯一の神で信仰と祭祀の対象であるとしたが、ハーンはこれは全ての世界で受け入れられるものではないと主張する。神道においては祖霊を祀ることそれは宗教ではなく、その精神構造に根付いた習俗であり霊的体験である。これを否定する事はできない。これらをハーンは合理主義的な研究者や客観的視点から論ずる批評家としてではなく、「外から見た愛ある観察者」として書いている。日本の精神世界を敬意と共感を持って世界に紹介しようと試みた。ハーンは次のように述べている。

1. 神道の本質
神道を「宗教というより習俗・感情の体系」とみなす。祖霊崇拝と自然崇拝からなる。
祖霊崇拝には、1)家族の祖先の礼拝、家庭の祭祀 2)氏族/部族の祖先の礼拝、鎮守の神、産土神の祭祀 3)帝国祖先(皇祖神)の礼拝、国家の祭祀、がある。 その中心となるのは家族の祭祀でありこれは習俗である。そして自然物(山、川、木など)に神が宿るとされる自然崇拝、アニミズム的感性が自然なものとして受け止められ、自然や日常の中に神聖さがあると感じている。神道は「信仰」というより日本人の精神構造、霊的体験に深く根付いた習俗である。

2. 祖先崇拝と死生観
日本では死者は消え去る存在ではなく、「家」の中に残り、生きている子孫と共にある。
先祖は守護霊として日常生活に影響を与え、祭祀を通じて身近なものであり、その加護は子孫達に感謝される。これは「個人」より「家」や「共同体」を重んじる価値観と結びついている。

3. 西洋キリスト教との対比
西洋のキリスト教は祖霊信仰を認めず、唯一最高神こそが信仰の対象であり「個人の救済」につながる。日本では「個人」よりも「家」や「社会との調和」が優先される。西洋近代の合理主義・科学主義とは異なる「霊的直感」が日本文化の中核をなす。

4. 文化的持続力と秩序
日本人の秩序や道徳の根底に神道的世界観(目に見えないものへの敬意)があると考える。この世界観が、長い歴史の中で日本の社会的安定や美意識を育んだと評価する。そして仏教は神道とうまく習合して日本人に取り入れられた。古来からの習俗である祖霊祭祀を否定せず、むしろうまく受け入れて行った(仏壇の位牌と神棚の共立)。また神道が教えや教義をもたらさなかったのに対し、仏教は説話を通して教義を説いた。日本に新しい哲学をもたらし教育の場を与えた。その道ならしをしたのは倫理、道徳を説いた儒教であると。神道、儒教、仏教という習合が文化と秩序を形成したとする。この点が習合が起こらず受容されなかったキリスト教との違いである。


ハーンのキリスト教観 ケルト文化への共感

キリスト教を抑圧的・排他的・権威的な宗教と見ている。特に、善悪二元論的な世界観、罪と罰、地獄・救済といった構造に違和感を覚えていた。またキリスト教が霊的多様性を否定し、他宗教を異端視する傾向を持つことに批判的である。「神を信じなければ永遠に地獄に落ちる」という唯一絶対神的な考え方は、彼にとって非寛容で人間的ではないと映った。

またキリスト教的道徳観がしばしば「他者への支配の道具」になっていることに懸念を示している。こうした教義や道徳観の押し付けは、スペインやポルトガルがキリスト教布教を領土的征服、民族支配の道具として用いた事例から理解されるとしている。彼にとって本来の宗教とは、人々の感情や生活に自然に溶け込むものであり、上から押し付けられるものではないと考えた。

そもそもハーンはアイルランドや古代ケルトの神話・妖精譚などに親しんでおり、その霊的多様性、自然信仰、死者との交感に強い親近感を持っていた。日本の神道や民間信仰、伝承に出会い、それを理解する際にも、このアイルラン人の心の古層に息づくケルト的感性が彼の内面で共鳴していたと考えられる。この、いわば「ケルト回帰」は年少期にカトリック教育を押し付けられ、それに違和感を持ったことがきっかけとしている。さらに子供の頃から木、石、水などに霊が宿るとするアニミズムの感性を自然なものとして受け入れており、それが日本文化との親和性を高め、「一木一草に神宿る」「八百万の神」的世界観は、彼が「子どもの頃に感じていた世界の神秘」に近いと感じた。日本においてもアイルランドにおいても、大陸周縁部の島国には大陸の文明、宗教を受容する以前の、その土地古来の宗教、習俗、霊的感性がありそれが人の心の古層に今も息づいていると。単に日本が好きだ、という以上に、自らの心のルーツやオリジンに触れる感覚を得た、という方が当たっているかもしれない。

彼は文中で「私の心は東洋的であるよりも、むしろ古代ケルト的である。私は教会よりも森に神を感じる」と書いている。


「イエズス会禍:The Jesuit Peril」という一章

ハーンのこうしたキリスト教観と日本の歴史への眼差しにおいて注目すべき一章が本書に掲載されている。題して「The Jesit Peril:イエズス会の禍」。彼はイエズス会の伝道活動、キリスト教の布教は日本にとって大きな厄災であったとする。キリスト教化することが征服の前提で、アメリカ大陸の先住民やその文化をキリスト教布教で抹殺し征服した歴史を日本で繰り返さなかったことは幸いであった。まさに家康の国と文化を守るための冷静で賢明な政策であったとその功績を高く評価している。弾圧や島原の乱で大勢のキリシタンが殺害されたは、これをイエズス会のあやまった活動のせいであり日本が被った厄災であると断じている。この一文は、明治期の欧米人の「キリシタン弾圧、禁教令、鎖国」史観としては衝撃的であった。これほどまでにキリスト教伝道(特にイエズス会、フランシスコ会、ドメニコ会の誤った方針)が日本に災いをもたらし、それを家康が賢明にも見抜いてそれを防いだ、という歴史観を欧米人側から表明した評論は少ないだろう。大抵はキリスト教殉難の歴史の一環として理解されているからである。ハーンは、スペイン、ポルトガルによるキリスト教(カトリック)布教の失敗の原因は、日本人の祖霊信仰、多神教的宗教観を理解しなかったこと。あるいは容易に「奇跡」で信仰を獲得できると信じたこと。また天皇の存在(家父長的な宗教権威のトップに位置している)の意味を軽視したこと、日本の世俗的権力のトップ(皇帝=将軍)の力量を見誤ったことだとする。そこにプロテスタント国のイギリス、オランダが現れ、家康に宗教対立の実相、世界各地の植民地化の動向が報告されたことだ。少数の派遣軍部隊で軍事的にあれよあれよという間に征服されたアメリカ大陸の諸文明のようなわけにはいかなかった。またハーンは明治になって、禁教令が廃止されてもキリスト教信者は増えていないのはなぜか?と問うている。

こうした彼の主張を今見てみると、皇国史観、神道至上主義、家父長制度礼賛、個人より国家、というふうに見えるかもしれないが、これは一面的な見方であると感じる。たしかにバジル・ホール・チェンバレンの「Sympathetic understanding of Japan」ような批判(古書を巡る旅(12)チェンバレン「日本事物史」)もあったが、彼の主張は、一神教、キリスト教至上主義への懐疑が第一義であって、こうした自然と祖霊を礼拝する霊的、多神教的な宗教観がその一方に厳然としてあることを西欧諸国に知らせたかった。そうした「一木一草に霊が宿る」「祖先の霊魂の存在」「木霊の声を聞く」という宗教観はヨーロッパにおいてもキリスト教布教以前にヨーロッパ諸民族の心の底にあった霊的観念ではないか、ということを思い起こさせることであった。そもそもハーンの著作の多くは読者として欧米人を想定しており日本人に向けて日本を論じたつもりはない。「神国」の真の意味も日本人が受け止めがちなそれとは異なるメッセージがそこにある。ハーンの宗教や信仰というものは多様である。しかもそこには初源的で普遍的な共通する心があるはずであるという指摘は、現代の一神教の教条主義者たちの寛容性を欠く終わりの見えない血生臭い対立に一石を投じるものとなると考える。

ちなみに、本書には古事記、日本書紀に関するアーネスト・サトウ、ウィリアム・アストンなどの研究、著作の引用が頻繁になされている。しかし、ハーンが影響を受けたとする古事記を英訳したバジル・ホール・チェンバレンの関する引用がない。不思議だ。またハーンの神道に関する知識は江戸時代の賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の国学者の研究、書籍を原典としている。それを19世紀のハーバート・スペンサーの進化論という最新の思想、理論で批判的に解析している。ハーン独特のアプローチが面白い。


ハーバート・スペンサーの日本への助言書簡

ハーンの著作は人気を博し、1904年の初版以来、2年間で9版を重ねている。手元にはもう一冊、1906年2月の第9版がある。出版社はニューヨークのGrosset & Dunlap社である。興味深いのは、初版にはないハーバート・スペンサーから金子堅太郎あての日本に関する助言書簡が、この版には追録されていることである。

当時ダーウィンの進化論に影響を受け、それを社会に適用した社会進化論、適者生存論がスペンサーによって唱えられた。これは一世を風靡し、大きな論争を巻き起こした。スペンサーは欧米だけでなく日本でも盛んに研究され取り入れられた。モースや森有礼がスペンサーを引用し、帝国大学で講義した。ハーンもおおいに影響受けたようで、たびたび彼の社会進化論的な解釈を本文中で展開している。初版には間に合わなかったが、このスペンサーの書簡を入手し追補しようと考えたにちがいない。

条約改正が外交課題として佳境に入っていた時代、伊藤博文、森有礼ら政府高官はスペンサーなど欧米の有識者に日本の外交課題や進むべき方向についての意見を求めた。そうした伊藤博文の意を受けて金子堅太郎はハーバード留学ののちルーズベルトなどの人脈を活用してアメリカ、イギリスの重要人物との接触を試みていた。ロンドン滞在中にスペンサーに会おうとしたが、結局は会うことができず、書簡を送ることにした。これに1892年8月26日にスペンサーから金子宛返信があった。スペンサーは日本について強い興味を抱いており日本にとっては格好の知識人(知日派)であった。しかし彼は、日本は西欧制度を一挙に入れる(replace)のではなく、日本古来の制度に接木(grafting)するように導入すべし」という保守的な(言い換えれば漸変主義的)助言をした。例えば外国資本を国内に無闇に入れてはならない。土地を外国人に売ってはならない。外国人との結婚を奨励してはならないなど、極めて保守的な内容であった。憲法(1889年)も国会(1881年)も出来たばかりの未熟な国に、治外法権、関税自主権撤廃は時期尚早と。社会の発展段階、国家の成熟度に合わせて徐々に進めるべしと。

スペンサーの死後、The Timesに公開された書簡をハーンは読み、予想通り保守的な助言だとしつつ、スペンサーに共感している。ハーンは日本の伝統的な文化や思想が西欧化することで一気に失われることを恐れていた。たとえ日露戦争で日本の軍艦がロシアの軍艦を轟沈させたとしても(この時点ではまだ日露戦争の結果は分かっていなかった)、軍事的成功と産業的成功は別であると主張。当時の日本の富国強兵ムードに危機感と違和感を抱いたハーンの警鐘と言って良いだろう。しかしハーンは「やがてそんな心配をしなくても良い時代がやってくるだろう」、「その時には(スペンサーのいう)保守主義を捨てても危険はない。しかし現在一時だけは保守主義を救済の力としなければならない」と締めくくっている。このスペンサー書簡をハーンの著作「神国」に掲載する予定であったものと思われる。この時ハーンはすでに亡くなっていた(1904年4月)ので、出版社は彼の遺志をついで改訂版で追補した。ちなみに金子堅太郎は、スペンサーの助言に謝意を示した上で、日本は古来、外国文化を受容し上手に変容してきた歴史を持つので心配ご無用、と返信している。

この追補は、日露戦争開戦と富国強兵に傾斜してゆく日本、伝統的な考え方や価値観が崩壊してゆく日本。急速に変わりゆく日本の行末を危惧するハーンの心情を表すものとして重要であると考える。いわば本書「神国」全体に通底するハーンの観察、主張を最後にスペンサーが追認してくれると考えたに違いない。自由民権運動が国会開設、民選議員制度で懐柔され、日清戦争に伴う三国干渉への反発、「臥薪嘗胆」、むしろ「民権」より「国権」優先の空気が漂う時代であった。明治政府はただ一途に「一等国」への道を直走った。スペンサーの助言を横目に、ハーンの懸念をよそに、条約改正、富国強兵の道をつきすすんだ。1894年の日英、日米通商航海条約で初めて幕末以来の懸案であった「不平等条約」解消、「平等な改正条約」が調印された。長年の懸案が解決された瞬間であった。しかし日本政府は、西欧列強諸国と並んで市場を開放し、外資の導入、外国人の土地所有、外国人との結婚は認めたものの、その実態は厳しく外国に規制を設ける保守的なものであった。ハーンはスペンサーの保守的な助言はここに生きているとしている。しかしハーン自身も日本人と結婚し日本に帰化し、小泉八雲と改名したが、その子孫は、その「保守主義」のせいで高級官僚や高級軍人などへの登用に制約が設けられた。急速な変化で古き良き日本の伝統が破壊されてゆくのは忍びないが、「保守主義」が守られたことで家族には思わぬ制約ができてしまった。日本を愛し帰化したハーン、いや小泉八雲は複雑な心境であったと思う。




参考:古書を巡る旅(2)ラフカディオ・ハーンと尋ねて

2025年6月27日金曜日

「重商主義」とは? 〜あの時の革新は今や反動?〜


(ロイターより)


トランプの関税政策、自国優先主義、保護貿易主義を見ていると、「この道はいつかきた道」。こんな時代、歴史の教科書で習ったような気がする。そう、17世紀から18世紀のイギリス絶対王政と結びついた重商主義政策を見るようだ。デジャヴというやつだ。それが絶対王権に抵抗し独立し自由貿易主義の旗手であり続けたはずのアメリカで、21世紀になって起きていることに思わず目を疑いたくなる。重商主義は帝国主義的な植民地主義や覇権主義に結びつくのだが、やがてその中から、絶対王権や特権階級に独占される経済利権に反発し、自由貿易主義を主張する新しい社会階層(新興の都市ブルジョワ、ジェントリー)が現れ、やがて現在につながる自由貿易体制が生まれた。戦前のブロック経済体制など、幾たびかの反動を繰り返しながらも、WTOやPTTなどの多国間協定により自由主義貿易、グローバル経済システムが発展していった。ちょっと歴史を端折り過ぎたが、こうして歴史の発展段階の中で消えていったはずの重商主義は、21世紀になってトランプによって墓から掘り起こされてゾンビのように復活する。グローバリズムへの反動としての重商主義的ナショナリズムとでもいうべきか。議会の優位も法の支配も自由と民主主義も認めない絶対君主の登場と言うべきか。確かに富の偏在と格差が顕在化し、分断が進んだアメリカで、彼はこの自由主義体制、グローバル経済の恩恵から取り残された人々の声を背景に大統領になったというのだが、問題はその恩恵を最大限享受してきた富豪の彼が、彼の対極にある人々の救済という「高邁な」志と革新的ビジョンを持っているのかということだ。彼のこれまでの行き当たりばったりの言動と朝令暮改を見ているとそれは甚だ疑わしいだろう。そもそも彼に歴史の理解とそれに基づく戦略、ビジョンがあるとは到底思えない。歴史の反動は、時としてこのような独善的で自己承認欲求の高い人物を担ぎ出す。そして取り巻きにより神輿に乗せられ反動のシンボル化されてゆく。ポピュリズムである。彼自身に我欲と自己顕示欲以外の確固たる理念、戦略とそれを実現する方法論があるわけではない。世界の強かなリーダーに太刀打ちできないのも仕方ない。彼の出現は歴史修正主義、反知性主義、反動の現象の一部に過ぎない。ちなみにアメリカ独立戦争の発火点となったボストン.ティーパーティ事件は、イギリス本国の重商主義、保護主義的な関税政策に反発して起きた植民地の抵抗だったはずだ。彼はそのアメリカ建国の歴史を学ばなかったようだ。それとも彼はアメリカを絶対君主が支配する王国に先祖返りさせる、アンシャンレジームを目指しているのか。


Boston Tea Party


重商主義:mercantilism:マーカンテリズムとは?

経済思想史の教科書を復習してみると、意外に重商主義を正確に定義することは難しい。また誰を重商主義者と呼ぶかも諸説ある。学生時代にあまり重商主義について関心を持って勉強した記憶もないので改めて研究する必要を感じる次第である。とりあえず通説的な解説に従って簡単に振り返っておきたい。

16世紀後半〜18世紀、絶対王権と結びついた経済政策。一般的には、金銀の蓄積と国外流出を抑え、特権的な商人による独占的な商業活動を保護し、対外貿易を重視して輸出を最大化し、関税障壁で輸入を最小化するという保護主義、管理貿易主義をとる経済政策である。歴史の発展段階としての、封建主義社会(封建領主による土地、荘園経営を主体とする)から、商品経済の伸長に伴う商業重視の都市資本主義社会への移行過程で生まれてきた。また絶対王政にとって不可欠な官僚制と、常備軍を維持、増強する必要から国富の極大化は必須であった。したがって絶対君主制と重商主義は表裏一体であった。重商主義と言ってもその形態は大きく二つに分けられると言われている。

1)重金主義: 初期の重商主義。金銀の獲得と蓄積が国家としての重点事項となる。鉱山開発や海外での金銀の獲得(略奪)など、大航海時代初期のスペインやポルトガルの海外進出モデル、南米の「黄金郷」探検/奪取やポトシ鉱山開発、日本の石見銀山の銀の獲得などがその例。フランスのルイ14世時代のコルベールや、イギリスのトーマス・グレシャムも重金主義的重商主義者と見做されている。香辛料のような金銀に匹敵する価値を有する換金作物商品の獲得/蓄積もこれに相当する。

2)貿易差額主義: 端的に言えば輸出を増やして、輸入を抑え貨幣収入を増大させる。そのために輸入関税を引き上げ、自国産業を保護するという国家による保護主義的管理貿易である。産業革命以前のイギリスの東インド会社のトーマス・マン、共和制を引いたオリバー・クロムウェルなどがその中心と見做されている。ジョサイア・チャイルドもその一人であるが、彼は初期の自由貿易論者(リベラルな重商主義者?)とも位置付けられている。現代における自国優先の保護主義的な政策や非関税障壁なども重商主義的と見做されてる。かつての日本の「護送船団方式」による輸出ラッシュによる貿易不均衡が貿易差額主義的重商主義であると批判されたことがある。

3)対抗概念としての自由貿易主義: やがて植民地の搾取や、保護主義的管理貿易、特権商人の王権との癒着などから生じる問題が顕在化して、新興の都市ジェントリー層からの自由主義的な貿易が待望されることとなる。また産業革命、資本主義の進展に伴い「富の拡大/蓄積」という観点からも、航海条例に象徴される自国優先/保護主義的な重商主義政策の限界が指摘されてゆく。もっとも自由貿易政策は、独占に代わる自由競争が生産性の向上と富の拡大に寄与したが、植民地の搾取や富の偏在や権力との癒着の問題を解決したかどうか疑わしい。「自由貿易体制拡大」の名の下に植民地化はますます加速化され(自由貿易帝国主義)、植民地における富の収奪は止まるところを知らない。これは20世紀の第二次世界大戦終結の時代まで続いた。また本国でも「持てるもの」と「持たざる者」の格差は広がる一方であった。18世紀の重商主義者の代表格と目されるジョサイア・チャイルドも東インド会社の大株主、総督という特権的地位を利用して巨万の富を得ていながら自由主義的な貿易を主張していて、初期における「レッセフェール」の提唱者であるとも評されている。なぜこのような評価がなされるのか不可思議であるが、「重商主義貿易政策」と初期の「自由主義貿易政策」はそもそも絶対的な二項対立概念ではなく、フェーズ転換を伴わない斬変的、相対的な概念であるような気がしてならない。本格的な自由貿易体制は戦後のWTOやTPPなどの多国間協定を待たなければならなかった。


日本における「重商主義」 田沼意次の時代

ちなみに、日本で重商主義的な経済政策が姿を現したとされるのは、江戸時代18世紀後半の老中、田沼意次の時代だと言われている。今年の大河ドラマ「べらぼう」に登場するあの渡辺謙演じる田沼意次だ。江戸時代の日本にヨーロッパの重商主義的経済思想が伝わっていた形跡は無いが、封建社会の農業と荘園を中心とする経済システムが行き詰まると、洋の東西を問わず人が考え出す知恵は同じだということなのか。しかし、日本の歴史においては田沼流重商主義経済政策はあまり芳しい政策としては記憶されていないようだ。幕府財政の逼迫を受けて、それを立て直すための革新的経済政策であったはずだが、「質素倹約」「緊縮財政」「商業活動抑制」を旨とする、八代将軍吉宗の「享保の改革」や、松平定信の「寛政の改革」が、武家らしい「清く正しい」ご政道で、田沼時代はその合間に咲いた仇花。われわれの学校の歴史教科書では、武家政権にあるまじき、卑しむべき商売や金銭を重視した負の歴史、あるいは「賄賂横行の政治」として扱われていた記憶がある。

しかし、最近ではその評価が見直されつつある。田沼意次の政策は、封建制社会の土地と米中心の重農主義経済から、商業活動による富の増加と蓄積を旨とする商品経済、貨幣経済、すなわち重商主義経済への転換を図ろうとしたものであったという評価である。幕府財政立て直しのために、印旛沼の新田開発も実行しつつ、山師を使った鉱山開発にも手をつけ、質素倹約だけの縮小均衡型の経済政策ではなく、既存の閉鎖的な商業組合である「株仲間」を解体し、新規参入を促進、公認し、活発に商業活動をおこす。文化面でも新しい出版、芸能を奨励し、お金を回す政策を打ち出した。また「鎖国」下にあっても幕府の管理による海外貿易(蝦夷地におけるロシアとの交易)を拡大しようとした。いわば拡大再生産政策である。また江戸と大阪の金本位、銀本位の決済システムの二本立てが国内商流活性化の阻害要因となっていることから、貨幣統一(小判1枚と銀8枚を等価とする)をおこなうなど金融政策を実行した。これらは庶民を助ける「仁政」というわけではなく、絶対王権である徳川幕府を財政的に立て直そうという幕臣による「忠義」の経済政策であった。この絶対王政と結びつくという点においてもイギリス重商主義経済モデルの日本での出現と言って良い。いっぽうで海外進出や植民地主義には結びつかない、いわば「内向きの」重商主義とも言える。

しかし、この革新的な経済政策への守旧派からの反発もはんぱではなく、やがて天明の飢饉や政治スキャンダルによって田沼意次は失脚させられ「日本の重商主義政策」は敢え無く崩壊する。その後の松平定信の質素倹約を旨とする縮小均衡型の「寛政の改革」というあらたな反動の時代を迎えることとなる。田沼の政策には、幕藩体制という政治システムと、それを支える武士と農民という社会システム、重農主義経済システムを打ち破る(すなわち「近代化」に向かう)インパクトはなかった。この革命は明治維新を待たねばならなかった。当時のオランダ商館長イザーク・ティチングの記録に「田沼の失脚で日本が諸外国と交易を拡大する機会は失われたのは残念である」と記しているように、田沼政策は蝦夷地を皮切りに日本の海外貿易拡大の画期との受け止めもなされたようだ。そしてその60年後、その重商主義の次のフェーズである自由貿易主義がアメリカやイギリスによって日本にもたらされ、開国と共に幕府による管理統制貿易体制「鎖国」、さらには幕藩体制そのもの、封建制システムは崩壊することとなったわけである。

とここまで書いて、大御所様、徳川家康のことをふと思った。田沼意次を遡ること150年前の初代将軍徳川家康。田沼にとっては神である「東照大権現」「神君家康公」である。家康こそ、佐渡や石見の金銀開発を進め、スペイン、イギリスなど海外との貿易に力を入れ、国富の増大化を試みた絶対君主であった。朱印船貿易による海外交易を奨励した。彼こそ日本初の重商主義者であったのではないだろうか。まさにユーラシア大陸の向こう側では、エリザベス1世が絶対君主として重商主義的な経済政策を始め、東インド会社を設立し海外に進出していった時期である。そしてあのウィリアム・アダムス(三浦按針)という大航海時代のアイコン、重商主義貿易政策の落とし子が、エリザベスのイギリスから、はるばる(意図せずにではあるが)徳川家康のもとにやってきた。これは単なる歴史上の偶然なのであろうか?家康亡き後、秀忠、家光の時代には国を閉ざす「鎖国」になってしまうのだが、この「鎖国政策」とて初期においては一種の幕府主導の統制貿易体制であり重商主義経済政策の変種であるとも言える。のちには「外国船打払」「攘夷」といった排外的な「鎖国」へと変質してしまうのだが、家康の対外進出促進的な重商主義政策が受け継がれていたら江戸時代は、日本はどうなっていたのだろう。これはまた別途稿をを改めて妄想しなければなるまい。


革新としての田沼重商主義、反動としてのトランプ重商主義

見てきたように18世紀の田沼の重商主義政策は、封建的な土地と米本位の経済、重農主義経済からの脱却を目指した革新的な政策であった。それだけに保守反動勢力からの強い抵抗に見舞われ、その大胆な試みは潰えた。革新としての田沼政策は時期尚早であったようだ。田沼がこれを日本の近代への移行プロセスと意識したとは思わないが、結果として日本の近代化はここで一旦止まった。そしてその近代化プロセスが再び始動するのは19世紀後半になってアメリカとイギリスからもたらされるまで待たねばならなかった。開国と明治維新である。

しかし、この時日本に開国を迫り自由貿易をもたらしたアメリカは、その150年後には17〜8世紀的(貿易差額主義的)な重商主義政策(保護関税、自国産業優先)を持ち出してきた。日本にも高関税の受け入れを迫っている。「自由貿易体制はアメリカにとって不利益だ!」「われわれはずっと同盟国に搾取されてきた。」「これからは自国優先:America Firstでゆく」「こうしてふたたびアメリカを偉大にするのだ:Make America Great Again:MAGA!」と。しかしこの勇ましいスローガンがなぜか「既成概念を打ち壊す革新的」な響きがないのはなぜだろう。巨額の財政赤字と貿易赤字を抱えるアメリカにとっては、一見革新的なようでアメリカの一定の層から喝采を持って支持されているが、その実は自由主義経済とグローバル経済に対する反動政策であるからだろう。いわばアメリカの「鎖国」と言っても良い。17世紀ならいざ知らず、高関税政策と移民排斥でどうやって国内製造業が復活するというのか。関税収入増で財政赤字が解消すると言うのはいかにも楽観的すぎる。労働力不足は建国以来の課題のはずだ。それを移民が支え今のアメリカを生み出した。関税による値上がり分は物価に反映され高いツケを払うのは国民である。20世紀型製造業(モノ)の貿易収支は赤字だが、むしろアメリカが圧倒的な強みを持っているハイテク、サービス産業収支は大幅な黒字である。アメリカの多国籍企業(GAFA)は世界中で市場を圧倒し独占に近いメガパワーとなっている。しかし、それを支えているグローバルなサプライチェーンが関税で破壊され、移民排斥で労働力が不足し、大学研究機関の予算削減で世界に冠たる研究開発が力を失い、よって同盟国の対米投資も止まってしまうと話は違ってくる。

一方で、人は「絶対君主」に媚び諂っても、市場はポピュリズムに影響されない。金融政策は独立した組織が行い「絶対君主」が脅しても動かない。彼らの意思決定ロジックは政治ではなく市場だ。これは人類が生み出した「知恵」なのだ。このまま時代錯誤な保護関税政策「重商主義政策」を続けるなら、国内のインフレは収束するどころかますます増進し、失業率も下がらず、賃金も下落、株価は下落し、ドルも下落。市場は正直に反応する。アメリカの財政赤字・負債の多くの部分を占める米国債は利率が急騰し、放置すると信用不安から売浴びせられて国家としての財政破綻(デフォルト)につながりかねない。ちなみに最大債権国は日本だ。ここでは人為的「ポピュリズム」ではなく「神の見えざる手」が働くのだ。すなわち「絶対君主」と「ポピュリズム」は経済で足元を掬われるのだ。

結局、21世紀型「重商主義」とも言われる時代錯誤な政策は問題の解決にはならない。革新的:Innovativeでも革命的:Revotutionalでもない。まさに反動政策だ。強いアメリカが復活することはない。格差も解消しないし財政赤字も解消しない。むしろ衰退を加速する方向に働くだろう。そもそも歴史を辿れば重商主義の矛盾と弊害が自由貿易主義を生み出したのだ。重商主義的ナショナリズムと選挙で選ばれた「絶対君主」の登場という時代逆行は、アメリカの信用と国富を大きく毀損しつつある。ましてそのやり方が「朝令暮改」という乱暴で粗雑なものならば、政策の信頼を大きく揺るがすことになり尚更だ。私はアメリカの知性と理性を信じたいが、ひょっとするとアメリカにその威信を維持する体力、復元力がもはやなくなっているのかもしれないという不安もよぎる。悲しいことだ。どうやらわれわれは今、大きな歴史の転換点に立っているようだ。


田沼意次(Wikipediaより)

2025年6月8日日曜日

古書を巡る旅(65)Samuel Butler's『Hudibras』〜『ドン・キホーテ』にインスパイアーされた17世紀英国王政復古期の風刺詩〜


 




17世紀イングランド(英国)は激動の時代であった。清教徒革命、王政復古、名誉革命、三王国戦争に、カトリック、国教会、ピューリタンの宗教対立。この混沌の中から現代の民主主義、資本主義、自由貿易主義が生まれた。そう現代社会の揺籃の時代と言える。いまそれが300年経って揺らぎ始めているのだが、その話は別としよう。今回は王政復古期の英国の文芸の話だ。

1660年にチャールズ2世が亡命先から帰国して王位についた王政復古:Restrationの時代は、イングランド王国の文学、演劇界にとっては画期的な時代であった。クロムウェル共和政時代には禁欲的なピューリタン主義により、「退廃的な」演劇や、風刺詩、音楽が禁じられ、シェークスピアすら上演されることが少なくなった。イングランドが文芸的、演劇的に不毛な時代であった。それが演劇好き、文芸好き、いや贅沢好きな王様が帰ってきて一斉に文芸復興が起きた。いや度を越した退廃的な文化すら沸き起こる。ピューリタン共和政時代の反動である。

この時代はまた転向の時代でもある。ピューリタンで共和派のジョン・ミルトンが王政復古で投獄の憂き目に遭って失明しても、節を曲げなかったのに対し、ジョン・ドライデンはピューリタン、クロムウェル礼賛から一転して王政を礼賛し、王室桂冠詩人となる。もっともこの時代の変節は普通のことで特に道徳的に非難されるべきことでもなかったようだが、現代の道徳観から見るとやはり尊敬に値しない姿勢と言わざるを得ない。晩年にイソップ物語やセネカ論集を英訳したロジャー・レストランジェが、王党派の立場から新聞や政治パンフレットを発刊し、国王のために言論統制を行い、王政時代の言論人として活躍した時代でもある。

こんな時代にもう一人ピューリタンを徹底して風刺した長編詩を発表し、チャールズ2世の愛読書となる『ヒューデブラス』:"Hudibras"を産み出した男がいた。その男はサミュエル・バトラーである。このサミュエル・バトラー:Samuel Butler (1612−1680)、生まれはそれほど高貴な家柄でもなく、教育もケンブリッジに短期間在籍しただけの、いわば家系や知性をバックグラウンドとして持つ人物ではなかった。地方官や貴族の秘書や執事として働くうちに頭角を表し韻文の世界に入っていった。セルバンテスの『ドン・キホーテ』を翻案したとも思える風刺詩『ヒューデブラス』1662年が大ヒット。王政復古で帰国、即位したばかりのチャールズ2世の愛読書となり、国王から爵位と年金を得ることになるという幸運に恵まれる。時代が産んだ寵児と言って良いだろう。

これはピューリタンや革命に対する風刺、揶揄を込めた韻文作品であり、愚人を英雄に仕立てたいわゆる「擬似英雄詩」である。主人公のピューリタンの騎士ヒューデブラスが、従者のラルフォーを伴って諸国行脚の旅に出る。そこで巻き起こる騒動を、ピューリタンの偏狭さと偽善と狂信を痛烈に皮肉る長編の韻文で表現している。まさにイギリス版「ドン・キホーテ」である。のちに、人気の画家ウィリアム・ホガース(1697−1764)がこれに彼独自の風刺の効いた挿画を提供するに至って、さらなる人気を博することになる。

今回紹介する本書は、バトラーの初版から約100年後の1744年版で、英国国教会の保守派スポークスマンで反ピューリタンの牧師ザッカリー・グレイ:Zachary Grey(1688-1766)が、「イギリス革命」の時代の歴史考証をもとに膨大な注釈を加えて再編集した、いわばGrey版とよばれるものである。先述のホガースの挿画を大幅に取り入れ読みやすい書に仕立てている。ケンブリッジ大学印刷でロンドンの複数(あのドライデンと組んだJ.Tonsonを含む)の出版人から出された。サブスクライバーのリストがある。グレイがこの時期にバトラーの『ヒューデブラス』を取り上げたのは、清教徒革命から100年経過し、王政復古から80年余りが経ち、名誉革命を経て政治的には立憲君主制の時代である。英国国教会の正当性を改めて論じることが目的であったようだ。時代はニュートン科学やそれに続く産業革命の進行や、近代合理主義の萌芽期でもあり、イングランドやスコットランドで啓蒙主義が盛んになっていった時期である。一方でそうした時代の大きな流れに対する「保守反動」が台頭した時期でもある。また芸術的にはカトリック的な中世ゴシック文化へのノスタルジア、ロマン主義が沸き起こった時期でもある。グレイ版ヒューディブラスは、そうした歴史評価の相剋の中で復刊された。

しかし、これ以降『ヒューデブラス』がイギリス文学界で脚光を浴びることは少なく、次第に忘れられた存在になっていった。ちなみにほぼ同時期に、国教会ブリストル大司教のトマス・ニュートンがピューリタンで共和派のジョン・ミルトンの『失楽園』を復刻した(1749年)(古書を巡る旅(21)ミルトン『失楽園』)。ミルトンは長く人気があったが、王政復古期の文芸はドライデンですら看過された時代が続き、20世紀になってようやく再評価の機運が高まったくらいだ。バトラーの作品は、18世紀のグレイの復刻にも関わらず、イギリス革命期を物語る歴史的資料としてはともかく、文学作品としては評価されなかった。ちなみに日本での翻訳出版は、2018年松籟社刊「ヒューデブラス」(飯沼万里子他)がある。しかし日本人に馴染みのある詩人とは言い難いだろう。

王政復古期はこうした文芸復興の空気がみなぎっており、多くの詩や劇作が発表された。また先述の通り、時代の流れを敏感に読み取り、共和派だった人物が王党派に転向したり、ピューリタンから国教会やカトリックの宗旨替えしたり。時の権力者や主流となる動きに迎合する人物も多く出た時期でもある。一貫してピューリタン、反王政を貫いて投獄されたミルトンは別にして、ドライデンもレストランジェも、そしてバトラーも王権に寄り添う「文化人」であった。彼らはみな名誉革命でその政治的地位と名声を失うことになる。しかしドライデンは失脚し桂冠詩人の地位を追われるが、その名声を生かしてギリシャ/ラテン古典翻訳(エルギウス詩集)や劇作に精を出し(古書を巡る旅(60)ドライデン『喜劇、悲劇、オペラ』)、レストランジェも、失脚後はまた古典翻訳作品(イソップ寓話集、セネカ論集など)を発表して名を残すことになる(古書を巡る旅(63)レストランジェ『セネカ論集』)。詩や演劇作家はこれまでの王侯貴族というパトロンとは訣別し、新たに台頭してきた出版人(Jacob Tonsonのような)とともに物書きとして生き残っていった。いわばジェントリー層や都市富裕層をターゲットとした出版ビジネスモデルが創出され職業作家が生まれた時代だった。ただバトラーは、生前にこの人気作品があったにも関わらず彼自身には金銭的な実入がなかったと言われ、貧困のうちに没している。これ以外の目立った作品が残っていないようだ。もっとイングランドの激動の時代が産んだ風刺詩作品の一つとして注目されても良いのではないだろうか。


 ドン・キホーテとサンチョ・パンザよろしく、中世風騎士を気取るヒューデブラスが従者ラルフォーを伴って旅に出る冒頭シーン(以下、全てホガースの挿画)

熊いじめとバイオリン弾きの村人と出会い揉める

一人勇ましく村人と戦うが、捕えられて晒し者にされてしまう。

当時はやっていた「スキミントン晒し者行列」に遭遇する

金持ちの未亡人に取り入ろうとするヒューデブラス



追記:

本書には蔵書票が添付されている。Sir Stafford Henry Northcote. Bart(準男爵スタッフォード・ヘンリー・ノースコート卿)とある。彼は19世紀ヴィクトリア女王治世で活躍したディズレイリ、グラッドストン首相時代の保守党政治家で、Chancellor of Exchequer, Secretary of State for Foreign Affairs, President of the Board of Trade, First Lord of the Treasuryなどの重要閣僚ポストを歴任した人物である。

なぜそんな著名人の蔵書が今私の手元にあるのか?英国から日本への旅路は不明であるが、本書はとある関西の大学図書館の除籍本である。ここにヒントはあるのだろうか?日本人研究者が英国で手に入れて大学図書館に寄付した... あるいは日本の古書市場に現れるようになった「流転の経緯」に何か奇なるストーリーがあるんじゃないか。なんて妄想を膨らませることも古書を巡る旅の楽しみの一つである。



Sir Stafford Henry Northcote. Bart (1818~1887)
Wikipediaより




2025年6月2日月曜日

「MAGAだよ!」と君が言ったから6月2日はファントム記念日 〜あれから57年、九州大学も米軍板付基地も、そしてパクスアメリカーナもどこかへ行っちまったねえ〜

 あれは今から57年前の1968年6月2日の出来事だった。九州大学に建設中の大型電算機センターに板付基地に着陸しようとした米軍のファントム戦闘機が墜落炎上したのは。人的被害は出なかったのが不幸中の幸いであったが、ベトナム反戦運動、70年安保反米闘争、大学紛争真っ只中の時期に、学生運動の炎に油を注ぐ出来事であった。まさに「飛んで火に入る夏の虫」。それ見たことかと一気に反米闘争が盛り上がった。そもそも九州大学は(戦後にできた)米軍板付基地の侵入路の直下にあって、離発着機の騒音でしばしば授業が中断されるという全国、いや全世界でも稀な環境の大学で、いつこういうことが起きてもおかしくなかったのだが、よりによってこんなタイミングに!

その後、米軍基地は1972年に返還されたが、板付飛行場は民間の空港へと変身。都心に近い日本一発着密度が高い福岡国際空港になり、今年には滑走路も2本に増えて騒音と危険度は以前にも増して高まるばかり。とうとう九州大学はこの建学以来の伝統あるキャンパスを放棄して糸島の田舎に移転してしまった。かくして更地になってしまった旧帝国大学跡地にはぺんぺん草が。くだんの電算機センターも綺麗さっぱり取り壊され痕跡もない。

それにしてもあの頃の学生運動のエネルギーはすごかった。「孤立を恐れず連帯を求めて」。その学生が社会に出て企業戦士に。「24時間戦えますか」。そうして高度経済成長、グローバル化の嵐の中で悪戦苦闘し、「世界に冠たる経済大国!」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」。やがてバブル崩壊で思考停止の30年。あの時の血気盛んな学生も、いまや燃え尽きた「昭和老人」に成り果ててしまった。あの大学キャンパスは「夏草や兵どもが夢の跡」。あのアメリカはもうファントムを他国で飛ばす余力も気力もないだろう。「オレは同盟国に搾取されてきた!」などと喚きながら、「自分さえ良ければ良い」America First! そして混乱を世界中に撒き散らしながら、関税というオモチャで遊び旧友を痛めつけてドヤ顔。MAGA引き篭り老人に成り果てる。さらばアメリカ帝国主義、さらばファントム、さらば憧れのアメリカ。

「MAGAだよ!」と君が言ったから6月2日はファントム記念日

「諸行無常」「驕れるものは久しからず」



1968年6月2日夜 米軍ファントム戦闘機、九州大学に墜落炎上(西日本新聞)

一夜明けて(朝日新聞)

突き刺さったままの米軍機(毎日新聞)


2025年5月17日土曜日

古書を巡る旅(64)The Kojiki or "Record of Ancient Matters":初の英訳「古事記」〜生成AIによるチェンバレンの評価は?〜





1906年の日本アジア協会紀要第10巻補遺の表紙

1906年リプリント書籍版の表紙

Basil Hall Chamberlain (1850~1935)

W.G.アストン注釈版「古事記」1982年ペーパーバック初版
(表紙デザインと中身は関係ありません!)


バジル・ホール・チェンバレン:Basil Hall Chamberlain(1850-1935)のThe Kojiki or "Record of Ancient Matters"は、世界で初めての「古事記」英訳として、1882年(明治15年)4月12日、5月10日、6月21日に日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)で講義:read、発表され、翌年に出版された。本書は1906年(明治39年)2月に、同協会の紀要の第十巻補遺に再掲され、同時に同協会から書籍として刊行されたものである。チェンバレンが海軍お雇い外国教師の時代の著作である。革装、マーブルボードの美しい装丁である。また日本アジア協会紀要のオリジナルの表紙(1906年版)が挿入されるなど、おそらく所有者がリバインディング、再製本を手がけたもののようだ。かなりの部分がアンカットのままで、読まれた形跡がない。愛蔵版あるいはオリジナルの保存版として所蔵されたのであろう。現在Tuttle社から出版されている1982年の英訳新版(ペーパーバック版)は、ウィリアム・アストン:William George Aston(1841-1911)の注釈、解説による、いわば「アストン注釈版」である。出版社巻頭言によれば、1923年の関東大震災の時に、1882年の原本と残部数の多くが消失したため、アストンがチェンバレンから譲り受けたとされる手持ち原稿を元に復元再販したとある。またオリジナルの「日本アジア協会版」は1919年と1920年に再版されているとあるが、しかし1906年版には言及されていない。存在が確認されていなかったのかもしれない。書誌学的には不明な点があるが、この1906年版が関東大震災以前の最も古い「日本アジア協会版」であるとすれば貴重な「生き残り」書籍である。ちなみにわずかに現存するオリジナルの1882年版コピーは東大図書館に収蔵されている。


チェンバレンの翻訳の特色

チェンバレンは、古事記を文学作品、あるいは神道の聖典としてではなく日本、日本文化の源流を知る上での「古代の出来事:Ancient Matters」の「記録:Record」、すなわち文献史料として取り上げた。したがってその翻訳にあたっては客観性と正確性を重視するよう心がけている。彼は本書の巻頭言で、この古事記英訳の目的と方法論を明確に述べている。これがチェンバレンのいわば「古事記」研究総論であると言って良い。その姿勢は文学者、言語学研究者というよりも、むしろ文献史学者的ですらある。したがって、物語や叙事詩のように読んでいて面白みがある訳ではない、ないしはあまりにも素朴な文体で表されているとして、後世の研究者,特に文学研究者から批判される所以である。先述のように、のちにウィリアム・アストン(「日本書紀」の翻訳がある)は、チェンバレン訳に、注釈、補筆、修正を加え、よりわかりやすい解釈を加えている。また20世紀のドナルド・キーンなどの新訳ではそうした物語としての魅力が表現されるようになる。しかしチェンバレン自身は、そもそも古事記の表現に、文学作品のような文体の美しさがない。したがって素朴な響きを感じるのは元々そうだからだと言っている。彼の翻訳にはさまざまな議論があるが、日本古代史の画期となる歴史書で神話の体系である「古事記」を英訳し西欧に伝えたことは、翻訳史上,学術的に画期的な成果であった。チェンバレンはまた、巻頭言でこの翻訳にあたって、その前提となる日本の古代思想や宗教、習俗、政治思想の起源、古伝説などについて解説している。インドアーリア語族のものとも異なり独自のものであること。中国文化と同一視しがちな西欧人向けに、日本古代文化は、中国から多くの思想、宗教、文化を入れているが、使われている文字(漢字)以外は、日本が受容し変容した独自の世界観が表現されていると評している。もっともそう説明しながらも、そこに表されている神話や世界観に、古代中国やギリシアなど西欧神話などとの共通性も指摘している(後述)。翻訳にあたっては、まず日本文化を深く理解するため古事記だけではなく、日本書紀、続日本紀等の史書や、そのほかの多くの古典にあたり、万葉集、古今和歌集、和名類聚抄など、48種の古書籍を参考にしている(巻頭言の最後に参照文献リストが掲載されている)。古事記注釈書である本居宣長の「古事記伝」をしばしば引用、言及している。またチェンバレンは本文中で、訳文に細かく注釈をつけて、登場する神々の名前、天皇の系譜と事績、日本古語の意味、そのように解釈した理由、その背景などを逐語的に解説している(したがって本文よりも注釈に多くの紙幅を費やしている)。また追補で本文中の和歌のローマ字表記、歴代天皇を紹介し、索引は46ページにわたるものである。これが人名辞書、地名辞書の役割を果たしてくれており、外国人が日本の古代文化、日本を学ぶ上で役に立つ、一種の注釈書,コンメンタールとなっている。こうした本書の構成を見ても、この翻訳作業が、極めて学術的、まさに書斎学派的な営みであったことがわかる。


比較神話学の視点

古事記の英訳は、古事記が日本の神話体系、宗教的伝統のルーツとなっている点を紹介したことで、ヨーロッパでは比較神話学的な観点からも大きな反響を呼んだ。すなわちヨーロッパ人は東洋にもう一つの新たな神話の存在を知ることになったわけである。ただ、チェンバレンは古事記の神話体系は、日本独自に創造されたのものではなく、世界各地の神話に共通する要素が散りばめられており、例えば混沌/カオスから天地が生まれたする点、人間的な多くの神々の登場し、さまざまなストーリーが生まれるなど、例えばギリシア神話との共通点も多いと指摘。また古事記に描かれた神話と神代と区分なく人代の王権(天皇)の歴史(皇祖神の存在とその子孫による、万世一系の天皇系譜など)を語るストーリー展開も、これは何も日本だけが誇る独自の世界観ではないとしている。世俗の王の統治権威が、聖なる神に由来する天から与えられたものである。こうした説、理論は西欧(”devine right of Kings”)にも中国(天帝思想、易姓革命)にも認められるという。しかし、そのこの地の統治者(天皇)自体が天から降臨した神の子孫である、という「皇孫思想」は中国の「天帝思想」とは異なる。また西欧の「王権神授説」とも異なる。いずれも天帝、神から統治権威を与えられる地上の「王」は神の子孫ではなく人である。したがって、神の承認を得られなくなると王権交代が起きる(いわゆる「易姓革命」)。古事記では、こうした中国の「易姓革命」の思想は取り除かれ、神の子孫による万世一系の皇統が主張されている。この点でチェンバレンが分析したような「共通性」には注釈と修正が必要となっている。8世紀の創出された古事記の世界観は、当時の東アジア情勢を反映して中国の世界観(中華思想)に対抗する意図を持って創造された思想(小中華思想)である。これが現代の定説になっている。ただ、チェンバレンの分析、考察は戦後になって皇国史観への批判、古事記/日本書紀の批判的研究が解禁になってもたらされた研究成果の先駆けとなるものであったと言える。また古事記のストーリーが一貫せず矛盾に満ち満ちた筋立てであるのは、太平洋諸島、中国などの大陸諸国に伝承された神話の数々を8世紀の編纂当時に取り入れた結果であり、必ずしも日本独自の神話だけで統一性を確保できているわけではないとも分析している。たしかに各国に伝わる神話が世界的に類似したエピソードを共有していることや、それらが地域を超えて交流していたことは最新の神話学、民俗学的研究でも証明されてきている。この分析、考察も当時としては画期的であった。これまで西欧諸国においては、ギリシア神話やキリスト教創世神話、北欧神話中心の比較神話学であったが、これに新たな素材を発掘提供し、一石を投じた影響は大きい。また神道という日本古来の宗教的伝統の存在とそのルーツを西欧に紹介した意義も評価されるべきものだろう。


チェンバレンの日本観 ハーンとの比較

チェンバレンの日本観はよくラフカディオ・ハーンのそれと比較される。二人はともにジャパノロジストとしては著名であり、ともに親交があり、その記録として「往復書簡集」が残っている。しかし、日本への向き合い方には違いがあり、それが激しい論争にも発展する。ハーンがジャーナリスト、文学者の視点に立ち、人々との接点を重視するフィールドワークの民俗学的、実証主義的であったのに対し、チェンバレンは学者の視点、すなわち書籍、文献資料を通じた研究者の視点、研究アプローチ(いわゆる「書斎学派」)をとる。そこには西欧文明と対比する比較研究的(comparative study)な姿勢が根底にある。チェンバレンはマルチリンガルでコスモポリタンであるが、基本的にはアングロサクソンの視点に立脚し、ラテン言語圏の文学作品を評価の基点としている。まずギリシア哲学、キリスト教を底流とした西欧文明があり、これに対比される「異教徒の文明」という東洋観、日本観になっている。この頃の来日外国人の中にあった「文明開花とはキリスト教文明化することである」という暗黙理解が底流に潜んでいたが、チェンバレンもその一人であった。この点はハーンが、キリスト教世界観と西欧的価値観への懐疑に立脚して、むしろケルト的原点回帰、多民族主義的視点、心情で日本を理解していたのとは大きく異なる。ハーンは、日本の文明を観察、研究の客体ではなく、むしろ共感(Japan sympathy)の対象として捉えた。

チェンバレンは「日本事物誌:The Things Japan」の中でも、ヨーロッパ人の日本への理解の浅さと、西欧中心的な価値観に基づいた一方的観察、あるいはエキゾチシズムから来るロマン主義に警鐘を鳴らしている。しかし一方で、日本の文学についてこう述べている「日本文学は、その文学性において、英文学の詩歌と比べ劣るものである」「古典作品においても、想像的才能、思想、論理的な把握力、深さ、幅、多面性に欠けている」「総じて狭小で偉大ではない」と。たとえば「古事記」の世界観においても、ギリシア神話の神々は世界を見渡しているのに対し、古事記の神々は日本の支配者のルーツとその統治正当性しか語っていない。このチェンバレンの日本の文学への評価を、ハーンは西欧文明とは異なる日本独自の文明に根ざした文学の基層を理解しない言説であるとして異を唱えている。そしてその背景には、日本の文学作品はキリスト教世界観、思想に裏打ちされておらず、所詮は「異教徒」の文化の限界がそこにある、という理解があると批判している。また神話の共通性についても、ハーンはギリシア神話やキリスト教創世神話に基づく世界観を前提とした理解であり、それ以外の文明を十把一絡げにして論じていて、その多様性、独自性を見ていないと批判している。チェンバレンがヨーロッパ人読者に「無理解による誤解」や「ロマン」を戒めていることを考えると皮肉に見える。おそらくチェンバレンのこの視点と評論は、短期間に西欧文明を取り入れて消化したと称する明治期日本人の高揚感への皮肉と、一方でも選民意識の拠って立つ「皇国史観」への盲信に警鐘を鳴らし、西欧文明(キリスト教とギリシャ/ラテン文明の上に成り立つ)の範を示すべき西欧人としての反応、そして反論であったのかもしれない(アーネスト・サトウの日本観にも共通するものが散見される)。過去のブログ:古書を巡る旅(12)Things Japanese:「日本事物誌」チェンバレン


「古事記」に出てくる固有名詞の英訳例

先述の通り、チェンバレンは「古事記」を「the Record of Ancient Matters」と訳している。すなわち、これは物語や聖典ではなく、記録であると捉えた。したがって翻訳にあたっても、記録としての正確さの復元を目指し、意訳を避け直訳をもちいた。例をあげよう。

天照大御神:the Heaven-Shining-Great-August-Deity

伊邪那岐神:the Deity of the Male-Who-Invites

伊邪那美神:the Deity of Female-Who-Invites

大国主命:the Deity Master of the Great Land

高天原:the Plain of High-Heaven

葦原中国:the Land of the Middle of the Reed-Plains

根之堅洲国:Distant Land(本居宣長の解釈は翻訳不能としている)

「神」を「god/goddess」ではなく「deity」と訳している。これはキリスト教でいう、あるいは聖書に記された「god」とは異なる「神」であることを意味しているほか、「神性;divine nature of gods」を表す言葉として使われる。ギリシア神話のゼウス、アポロンなどの不死身の人格神に近いが、古事記の人格神には人と同じ寿命があるので同じではない。悩ましいところだ。記録としての古事記に用いられた変体漢文の文字を逐語的に英訳しているので、英語として理解しにくい訳であろう。むしろこれらの名前の由来を知っている日本人には「神性」を持った「人格神」の英語名として理解しやすいかもしれない。いわば意訳を極力廃し直訳を用いたので、逐語的な注釈が必要だった。地名についても同様で、「天空に広がる平原」「地上に広がる葦の平原」「木の根っこの国(地中の国)」と直訳しているので、聖書に出てくる神の存在と「天国:Heaven」と「地獄:Hell」の観念との関連が掴みにくいだろう。このように英語読者にとってはそれぞれの言葉が解説を必要とする上に、全体のストーリーとしては想像力を掻き立てる物語というよりは、客観的、具体的、硬い論文を読むようである。学術的史料解析に徹していて古代史や神話のロマンは感じにくい。チェンバレンの英訳「古事記」の再和訳が出ると面白いと思う。日本にはチェンバレン「古事記」の研究者も結構いるはずだが、むしろ上代日本語と英語の翻訳論的研究が主流なのだろうか。昨年話題となったアーサー・ウェイリーの英訳「源氏物語」再和訳と比べ、読者を掴みにくく出版事業としては売れないだろう。余計なことだが。ドナルド・キーンの現代的解釈で編纂された「日本文学史」で取り上げられている「古事記」解説が興味深い。



参考: 生成AIはチェンバレンの英訳をどのように評価するか?

今回初めてGoogle GeminiとChatGPTを使ってみた。結果は双方ともよくまとまっていて、ほぼ同じコメントである。が、いずれも可もなく不可もない回答。質問が一般的なのでこうなるのだろう。もう少しキーワードを挙げれば詳細かつより多くの回答が得られるのだろう。更問いでアストンを入れてみた結果が二番目。ネット上で出回っている多くの評論、紹介を総合的にまとめるとこうなる、という例みたいなもので、驚き、感動はない。優等生的な回答だが、試験の論文:thesisとしては「可」がいいとこか。

質問「バジル・ホール・チェンバレンの「古事記」英訳の評価と意義について」

以下原文のまま引用。

 Google Gemini:

1)バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850–1935)による**『古事記』の英訳**(1882年刊行)は、近代初期に日本の古典文学を英語圏に本格的に紹介した、非常に重要な業績です。その評価と意義について整理します。


評価

  • 先駆的翻訳

    • チェンバレンの『古事記』英訳(The Kojiki: Records of Ancient Matters)は、欧米で初めて古事記を体系的に紹介したもので、翻訳史上きわめて画期的でした。

    • 彼の翻訳は、日本語原文への忠実さを重視しつつも、英語話者が理解しやすい形でまとめられています。当時の水準としては非常に学術的かつ高品質なものでした。

  • 学術的正確さ

    • チェンバレンは原文の微細なニュアンスや神話体系をできるだけ丁寧に説明しようと努めました。脚注や補足解説も豊富で、単なる翻訳にとどまらず、日本神話の背景知識までカバーしています。

  • 限界も指摘される

    • ただし、当時の日本学(Japanology)の限界もあり、誤訳や文化的誤解が一部存在するのも事実です。

    • さらに、彼は古事記を**「文学作品」というより「資料集」**として扱う傾向があり、物語性を重視した現代的な翻訳とはやや異なります。


意義

  • 西洋への日本神話紹介

    • 西洋社会にとって、日本の神話世界はきわめて未知の領域でした。チェンバレンの翻訳を通じて、欧米の学者や知識層は初めて、日本の神話・古代史に本格的に触れることができました。

    • これは、日本文化への関心(特に明治期以降の「ジャポニスム」現象)をさらに後押ししました。

  • 比較神話学への貢献

    • 同時代のヨーロッパでは、比較神話学(インド=ヨーロッパ神話などの研究)が盛んでした。チェンバレンの翻訳は、日本神話を比較神話学の枠組みで分析するための重要な素材となりました。

  • 日本学の発展への基礎

    • チェンバレンは日本文化・言語の研究者としても知られ、彼の業績は後の日本学(特に神道・古代文学分野)の発展に大きな影響を与えました。


まとめ

チェンバレンの『古事記』英訳は、
▶ 「日本古典の国際的紹介の礎
▶ 「比較神話学・文化研究の素材提供
▶ 「近代日本学の出発点のひとつ
と位置づけられます。学術的な限界を抱えつつも、その意義は今日でも非常に高く評価されています。


2)チェンバレンの古事記英訳の評価とアストンの役割

バジル・ホール・チェンバレンによる『古事記』の英訳は、日本最古の文献の一つである『古事記』を西洋の学術界に初めて本格的に紹介したという点で、非常に重要な貢献を果たしました。彼の翻訳は、1882年にアジア協会の紀要の補遺として出版され、その後書籍としても刊行されました。

チェンバレンの古事記英訳の評価

  • 先駆性: チェンバレンの翻訳以前にも、『古事記』の一部の英訳は存在しましたが、彼のものは全訳であり、詳細な注釈と解説が付いていたため、学術的な価値が非常に高いものでした。これにより、西洋の研究者が日本の古代神話、歴史、文化に触れるための基礎が築かれました。
  • 学術的厳密性: チェンバレンは、当時の日本の国学者たちの研究成果を踏まえ、原文に忠実であろうと努めました。彼の注釈は、神話の解釈、固有名詞の読み方、歴史的背景など多岐にわたり、読者の理解を深める上で重要な役割を果たしました。
  • 文体: チェンバレンの英文は、当時の学術的な文体に特徴的な、やや硬質なものでした。しかし、その一方で、物語の持つ詩的な要素や劇的な展開を伝えようとする意図も見て取れます。
  • 限界: 後の研究者からは、チェンバレンの翻訳にはいくつかの限界も指摘されています。例えば、神話の解釈において、当時の西洋的な視点や進化論的な考え方が影響を与えている可能性や、一部の性的な描写をラテン語で記述している点などが挙げられます。また、日本語のニュアンスを完全に伝えきれていない部分もあります。

アストンの役割

バジル・ホール・チェンバレンの『古事記』英訳において、**ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston)は直接的な翻訳作業には関わっていません。アストンは、日本古代史や神話の研究において、チェンバレンと並ぶ重要な学者であり、『日本書紀』の英訳(1896年)**を完成させたことで知られています。

しかし、チェンバレンの『古事記』英訳が出版された後、アストンは自身の研究に基づいて、チェンバレンの翻訳に対して注釈や修正を加えています。チェンバレンの翻訳本の余白には、アストンによる手書きの注釈が残されており、これは後の版を編纂する際に参考にされました。

したがって、アストンの役割は、『古事記』の英訳そのものを行ったわけではありませんが、チェンバレンの翻訳をより正確で理解しやすいものにするための重要な貢献者であったと言えます。彼の批判的視点と深い知識は、初期の『古事記』研究の発展に寄与しました。

まとめると、チェンバレンの英訳は『古事記』の海外紹介におけるパイオニアであり、学術的な基礎を築きました。アストンは、直接翻訳には関わっていませんが、その後の研究を通じてチェンバレンの翻訳を補完し、より深い理解へと導く役割を果たしたと言えるでしょう。


ChatGPT:

バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850–1935)は、明治期日本に滞在し、日本研究に大きな貢献をしたイギリス人学者です。彼の『古事記』英訳(1882年刊行)は、最初期にして最も影響力のある英訳のひとつとされています。その評価と意義について、主な点をまとめます。


評価

  1. 画期的な初訳

    • チェンバレンによる『古事記』英訳(The Kojiki: Records of Ancient Matters)は、西洋世界にとって『古事記』を知る初めての本格的な機会を提供しました。

    • 当時、まだ近代的な日本学(Japanology)は発展途上であり、彼の翻訳は日本神話・古代史を英語圏に紹介する重要な役割を果たしました。

  2. 正確性と注釈の丁寧さ

    • チェンバレンは、ただ訳すだけでなく、数多くの注釈を付し、日本語原文の難解な表現や神話的背景、文化的文脈を解説しました。

    • そのため、単なる翻訳にとどまらず、学術的なリファレンスとしても高い評価を受けています。

  3. 限界も指摘される

    • 当時の言語学的・神話学的知識の限界から、現代の日本古典学や比較神話学の観点から見ると、訳語や解釈にやや時代的な偏りや誤読もあります。

    • 特に、神々の名前や儀礼の描写において、現在では異なる解釈が主流になっている箇所もあります。


意義

  1. 日本文化・宗教への関心を喚起

    • チェンバレンの訳によって、西洋の学者や読者たちは、日本独自の神話体系や**宗教的伝統(神道)**に初めて体系的に触れることができました。

    • 特に「天地開闢(てんちかいびゃく)」や「イザナギ・イザナミの国生み神話」などは、以後の日本イメージ形成に大きな影響を与えました。

  2. 比較神話学・東洋学への影響

    • 世界神話研究の中に日本神話を位置づけるための基礎資料として、チェンバレン訳は大いに役立ちました。

    • たとえば、北欧神話やギリシア神話と比較して、日本の神話の特色(生成過程、性別観、自然観)を論じるための材料となりました。

  3. 後続の翻訳・研究への橋渡し

    • チェンバレン訳を踏まえ、後の研究者たち(例:ドナルド・キーン、ウィリアム・アストンなど)が、さらに緻密で洗練された日本古典の紹介を進めました。

    • チェンバレン自身が『日本事物誌』(Things Japanese)や『日本語文典』(A Handbook of Colloquial Japanese)なども執筆しており、彼の『古事記』翻訳はその広範な日本研究活動の一部と位置づけられます。


まとめ

バジル・ホール・チェンバレンの『古事記』英訳は、「学術的先駆性」と「日本文化の国際的紹介」という二重の意義を持っています。完全な訳とは言えない部分もあるものの、その影響力と歴史的重要性は今なお大きいものがあります。