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2010年6月11日金曜日

邪馬台国は九州にあった。そして大和王権に征服された!

最近の巻向遺跡における神殿跡とおぼしき建物の発掘や黒塚古墳からでた三角縁神獣鏡、箸墓古墳の年代測定法により、卑弥呼の時代の造営が確認、などの発表から、邪馬台国は近畿大和地方にあった、とする説が有力視されつつあり、この論争にも決着の時が来たかの感がある。
しかし、この時期に、こうした決着に反論する本が出された。奈良県の生まれで大阪大学国史学科卒業のこてこて関西人研究者の論ずる、邪馬台国九州説に大いに興味を引かれた。

邪馬台国の滅亡=大和王権の征服戦争=(若井敏明著 2010年4月 吉川弘文堂 )が、その本。

邪馬台国と倭国を語る文献としては、中国の史書である三国志の魏志倭人伝、という限られた資料しかない。従ってその読み解き、解釈をいかように試みようとも限りがあること。また考古学的検証は、マクロ的な歴史認識を補強するにはあまりにもミクロ的に過ぎること。点が線や面に繋がっていないこと。これらを著者は意識する。

歴史学者としての著者は、資料としての古事記、日本書紀という日本側の文献の意味を見直すべしと主張する。戦後、学会においては、一斉に皇国史観批判から記紀の歴史書としての意義に懐疑的、慎重な扱いがされて来た。しかし、ただですら少ない文献を活用して、丹念に読み解いてゆくことが必要、と論じ、そこから邪馬台国が北部九州にあったことを論証。さらに大和王権が、その邪馬台国を盟主とする倭国連合を征服して全国統一を果たして行った、という新しい古代史解釈を描き出している。

その論点:
1)邪馬台国は北部九州の倭国連合の国。魏志倭人伝にいう邪馬台国は九州にあった(福岡県山門地方にあったとする)。魏志倭人伝に記されている倭の国々は九州内にあった、とする。
2)倭国は祭祀を行う女王(邪馬台国の女王卑弥呼や壱与)をシンボルとして集合した連合国家群
3)一方、大和王権は奈良盆地に発生した農耕集落の発展系ではなく、北部九州から2世紀ころ東遷した征服王朝が発展したもの(「神武天皇の東征神話」は後世の作り話とは言い切れないとする)。
4)しかし、邪馬台国自体が勢力を拡大して東へ移動したのではなく、群雄割拠していた北部九州の倭国連合から離脱して出て来た国
5)やがて近畿一円、中国、東海、東国を版図として統合した大和王権(征服王朝)が九州へ勢力を伸ばす
6)これが記紀にいう、仲哀天皇、神功皇后の熊襲、三韓征伐伝承の基になる動き
7)但し、九州中部(熊国)、南部(襲国)の征討が先で、最後に北部九州を制圧、すなわち邪馬台国のある倭国連合を征伐するのには手間取った
8)なぜならば当時の倭国は東征する程の力は、もはやなかったが、朝鮮半島、特に新羅との同盟関係があり強大であった。
9)これらの軌跡の確認は記紀の伝承を丹念に読み解くことによって可能。
10)記紀を天皇支配を正当化する為の、後世(天武天皇時代)の創作、とかたずけてしまうことへ反省。全てが史実であるとは言えないが、何らかの史実に基づく地域の伝承を元に創作、編纂されたものとして読み解く。

浅学非才の歴史愛好家に過ぎない私が、いちいち史実の検証をしたり、批判をしたりすることは出来ないが、荒唐無稽ではない面白い考察であると感じた。邪馬台国論争の決着が近いと思われた時期に、再び一石を投じるものとなった事をファンとして喜びたい。

私は九州出身者ではあるが、最近の考古学的発掘成果や、研究者間の論争、いくつかの歴史解説書により、邪馬台国はやはり奈良盆地の三輪山の麓、巻向辺りにあったのだろうと考え始めていただけに、邪馬台国位置論争はまだ結論は出ていないことをあらためて知らされた。

あるいは「邪馬台国」がどこにあったのか?という学者、素人を巻き込んだ江戸時代からの謎解き論争自体が、日本の古代史を分かりにくくして来たのかもしれない。なぜなら邪馬台国がそのまま大和王権、大和朝廷へと繋がり、さらに今日の日本に発展して来た、との推論が疑いのない史実であるかのように語られて来たからだ。

また、この時代の日本が、朝鮮半島や中国という東アジアの動静に深く関わっていることも見逃してはならない。倭国や日本という限られた地域内だけの出来事で判断するのではなく、あるいは「倭人」「日本人」の話ではなく、強く大陸の周辺部という地政学上の位置に属するエリアの歴史であることを忘れてはならない。

2010年6月8日火曜日

難波宮から望む二上山

そろそろ梅雨入りか。今年は6月に入ってもさわやかな天気が続き入梅の気配がなかったが、さすがにそろそろか。
窓から見える二上山、金剛山方面に低い雲が垂れ込めている。

ここの所、東京と大阪の行き来が激しく、時空を超えて大阪と難波、奈良と飛鳥を行き来出来ないのが寂しい。
我が時空旅の出発点、近鉄上本町も阿倍野橋も、とんとご無沙汰だ。

今日も窓から遥か河内平野の彼方に二上山が見える。気になるのはその二上山の手前に(八尾のあたりだろうか)高層マンションが建設中で、やがて二上山の美しい姿を遮る形で完成に向けて着々工事が進んでいることだ。かつて縄文時代後期にはこの上町台地に抱えられるように水をたたえた河内湖であったのが、やがて弥生時代頃から八岐大蛇のような大和川の合間の湿地帯となり、いまや大阪のベッドタウンとして、日本のモノ造りのシンボル、東大阪の中小企業の街として、殷賑を極める地域になったのだから景観の変貌も致し方ないのかもしれないが。

窓から景色を眺めながら、古代の河内の姿を想像力たくましく思い描くしかない。

生駒、葛城、金剛山系の谷間に沿って飛鳥故宮、藤原宮、平城京と河内、難波津を結ぶ古代官道、横大路、竹内街道が走っている。今も第二阪奈道路が走るその横にそびえる二上山。悲劇の皇子、大津皇子の墓がある所だ。ヤマト側から見ても大阪側から見ても、そのツインピークスの山容はまさに関西のランドマークだ。

万葉集でうたわれる二上山はヤマトの地から眺めた、日の没する西に位置する山である。二上山は、弥生の神々にとっては三輪山に日が昇り、二上山に日が没する、東西を軸とした世の終末を表し、仏教伝来後のヤマト世界では西方浄土へのあこがれを表す山だ。入江泰吉氏の「二上山残映」は、まさに夕陽に映える山容を写し取ったものだ。

しかし、こうして難波から東に向って眺望する二上山は、河内平野の向うにそびえる日が昇る山だ。大陸から渡って来た人々、あるいは遣唐使として日本に戻って来た人々にとっては、ここ難波津に降り立ち、はるかシルクロードの東の終点を間近にして、これから向う都を想い一息入れながら眺めた山なのだ。

あるいは、飛鳥の地から難波に遷都し、即位した孝徳大王。斉明大王と中大兄王はその後孝徳大王を難波に置き去りにして飛鳥へ戻ってしまう。この孝徳大王は失意のうちに難波宮から二上山をあおぎながら、遥か山の向うの飛鳥の故宮を恨めしく思ったことだろう。

歴史の風景も異なった位置から眺めてみると、また別の感慨を味わうことが出来る。


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                                   (難波から二上山を望む)

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                                   (夕暮れの難波宮跡)
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                                   (上町台地の光芒)



2010年5月24日月曜日

Nikon F3に憧れる

ここんところ、故あって時空旅に出れない状況が続いている。

季節も新緑の候、あおによし奈良の都も人であふれているというのに、私は、遥か都を離れ、天さかる鄙の坂東の地で悶々としておる。

こんなときはカメラネタだ。

久しぶりにニコンF3を防湿庫から出してみた。なかなか手にいい感触が伝わってくる。スクエアーなフォルムが精悍な感じだ。もっとも当時はジウジアーロデザインの洒落たモデルだったのだけど、今見ると無骨な感じで印象が違うのが面白い。

出た当時はメカニカルな精密機械に電気で動く装置をいれるなんて「弁当に生ものいれるようなものだ」と、カメラ批評家先生方から評判がよろしくなかった。すなわち日持ちしない、すぐ腐るようなものを入れてはいかん、という訳だ。

確かにニコンのフラッグシップとしては初めての電子シャッター、AE導入だったのだから、ニコンFやF2などの純粋なメカニカルカメラに慣れていたプロ達には、道具としての信頼感に大きな違和感があったのだろう。ニコンの新技術導入プロセスには独特のものがある。初物には極めて慎重である。電子シャッターやAEなどの技術はまず、中級機であるニコマートシリーズに投入し、技術的な完成度や枯れ具合、市場の反応、そしてプロの受け入れ可能性などを、綿密に評価した上で、フラッグシップ機、ニコンFシリーズに導入する。

こうして生まれたのが日本初の電子シャッター+AE化されたニコンのフラッグシップ、F3だ。今のデジカメ一眼レフに比べると、シンプルで、剛性感が高く、硬派の機械に仕上がっている。しかし当時は何とはなしに軟弱な印象があった覚えがある。

なんと言ってもでかいペンタプリズム部が特徴的。ファインダーは等倍でとても見やすい。カメラはやはりファインダーだ。そういう意味では、保守的かもしれないが、ペンタプリズムを持たない光学ファインダレス一眼が最近はブームだが、これじゃあ、写欲が半減する。ライカの売りも、あのレンジファインダーの見え方の美しさだ。

当時の評者が、眉をひそめた「弁当のなかの生もの」すなわち腐りやすいはずの電子部品も、我が所有機では快調に動いている。何故かメカニカルなサウンドすらするので、思わずメカニカルシャッターだったっけ、と思ったりする。さすがにシャッタースピードを表示する液晶画面は小さくて見にくいが、最小限の「生もの」を入れてみた感じだ。もっともこちらもしっかり機能している。

デジカメは便利だ。しかし、そのデジカメ、という短縮系の響きに、カメラのソリッドで信頼感ある道具、というイメージは沸いてこない。お手軽な家電製品化したんじゃあつまらない。家一軒分の価格だったライカや、それほどでもないにしても、高嶺の花だったニコン(事実なかなかアマチュアには回ってこなかった)、というあこがれの域にあったカメラ達。

ニコンというブランドの信頼感とあこがれが、このF3を掌に転がしていると蘇ってくる。










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2010年5月11日火曜日

連休も終わり...東京にいてボンヤリ考えること

 気候不順な連休の始まり、そして初夏のような連休後半。時空トラベラーはなぜか東京の自宅で家族団らん。春日大社の砂ズリの藤も、平城遷都1300年イベントも、高速道路無料化狂想曲にも結局無縁。

 この頃、東京という街は経済活動の中心ではあっても、本当に豊かな文化や心安らぐ生活のよりどころになる街なのか、疑問を持ち始める。歴史や古い文化や、懐かしい生活の匂いなどが、かなりかき消されてしまった街だ。そんな街に郷愁を覚える世代が出来るのだろうか?東京が故郷だ、と自慢出来る世代が育つのか?

 明治初期にベアトが愛宕山頂上から撮った東京(江戸)の街の乾板写真には、黒瓦わら、白壁、土蔵の連なる巨大な都市の姿が写し出されている。ある意味壮麗な景観を有する都市である。今その痕跡はかけらも見取ることは出来ない。明治期の近代化という名の都市改造、関東大震災、東京大空襲、そしてバブル経済真っ盛りに起こった「地上げ」という都市破壊などで徹底的に街の姿が変わってしまった。これほど100年程の間に都市景観がこれほど変わってしまった都会も珍しい。しかも建造物はまるで消耗品でもあるかのように次々と造っては壊されて、日々街の様相が変わってゆく。ダイナミックではあるが、心の落ち着きは感じられない。

 「東京化」を目指した地方の大都市も、多かれ少なかれ望み通り様相が変わってしまってミニ東京が実現できたではないか。あの大阪でさえ...

 明治維新から戦後のこれまでの経済成長路線の中で、忘れ去られ、打ち捨てられ、破却され、草むしてしまったものの中に、実は我々日本人が大切にして来たものが残っているんではないかと思うようになった。自分自身がこれまで捨てて来た、あるいは顧みなかった「価値」に「価値」を再発見する旅に出たいと思うようになった。

 「都会」と「田舎」という二分法で語るならば、または、「東京」と「地方」という東京人(そのほとんどは「地方」出身者だが)独特の分類法で語るならば、その「田舎」や「地方」にこそ、幸いにもそれらが残されていることに気付く。うれしい。

 皮肉にもご維新や戦後の経済成長から取り残された、過疎地、僻地や田舎と呼ばれる、まるでなんの価値をも生み出さない地域のように形容される所にこそ、それらが生きながらえている。人間の経済的な欲望の所作の埒外に置かれて忘れられた空間。空襲にも遭わず、地上げにも遭わず、打ち壊しにも遭わず、近代化の波にものまれず、地価も上がらず、買い手もなく、若者がみな都会へ出て、静に朽ち果てた「田舎」に、安らぎの景観が保存されている。

 東京にいてそんなことを考える連休もまた楽し、か。

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2010年4月29日木曜日

奈良七重七堂伽藍八重桜 ー平城遷都1300年記念祭のにぎわいを避けるとー




「時空トラベラー」ブログは、文章が長くて、教科書みたいで読む気がしない、と評判が悪い。あまり自分以外の読み手を想定していないのと、時空旅すると、故事来歴、うんちくを記録したくなってしまうのとで、ついつい...

今回はいたって短く。

2010年の今年は、710年の平城京遷都からちょうど1300年。
広大な平城宮跡には立派な大極殿が再建され、ここをメイン会場に「平城遷都1300年祭」が盛大に催されている。

人出でにぎわうことを想定したイベントは苦手なので、すこし落ち着いたら大極殿の建物を見に行くつもりだ。
今回は、その喧噪を近鉄電車の窓からのぞきながら(平城宮跡を横切って走っているので、大極殿も朱雀門もよく見える)パス。春日大社の森を若宮へ抜け、高畑町から新薬師寺、白毫寺を散策。

白毫寺からの奈良の都の展望は、まさに「奈良七重七堂伽藍八重桜」。

帰りはいつもの奈良町をぬけ、たまたま開いていた今西家邸宅を拝見(公開日時が限られている)。庭園の大輪のあでやかな牡丹を楽しんだ。

雨が上がり、よく晴れた静かで穏やかな一日を過ごすことが出来た。

以上、おしまい。

































2010年4月26日月曜日

田村圓澄先生の「飛鳥の時代 倭から日本へ」を読む

 書店で田村圓澄先生の「飛鳥の時代 倭から日本へ」(2010年4月1日第一版)を見つけた。買っておいてから、なかなかまとまった時間が取れなくて読むことが出来なかったが、この週末、一気に読んだ。
明快で、説得力を持った飛鳥の時代の新たな解釈に引き込まれた。

 田村圓澄先生は1917年のお生まれだから、今年93才。失礼ながらこのお年で新たな著作を世に問われた事だけでも舌を巻く。この古代史、仏教史の巨人の、衰えぬどころか益々研ぎすまされた歴史を見る眼。新たな視点に基づく飛鳥時代研究のアップデートが明解に展開されていることに驚嘆するとともに、まさに尊敬の念を禁じ得ない。

 学生時代、法学部の学生だった私も、時々先生の講義を聴講させていただきに出かけたが、私のような未熟な学生には難解な講義であったような印象が残っている。この著作では、先生の永年の脈々たる研究成果が、最新の研究でアップデートされており、その解説に目から鱗の感動を頂いた。時に部分部分の事象にこだわって全体の流れが見えなくなるのは私のような浅学非才の徒の陥りがちな傾向だが、この著作では繰り返し全体の俯瞰図を示していただいており、非常によく歴史のトレンドを理解することが出来た。

 「やっとわかりました、先生」。「いやいやまだ君はわかっとらん」? 浅学非才を恥じるばかりだが...

 さて、この最新の著作では、新たな次の二つの視点で日本の古代史、特に聖徳太子(厩戸王)以降の飛鳥時代の考察を試みておられる。

(1)飛鳥時代の「倭」が、隣の朝鮮半島、中国の動向と深く関わっていること。
(2)この時代に出現した、人民の集団としての「百姓」と「仏教」の役割。

 この2点を新たな視点として、厩戸王の仏法を基礎とした政治改革から「大化の改新」、「壬申の乱」を経た後の天武天皇の時代、すなわち「倭」から律令国家としての「日本」への成立過程を説明している。

 特に、厩戸王、天智大王の歴史的役割の再解釈を問うた上に、壬申の乱で勝利した天武天皇の歴史における役割の新たな評価に、あらたな興味を持って読ませていただいた。東アジアの「倭」地域に統一国家「日本」が成立したいきさつが明解に解説されている。

 私は日本の歴史の中で、統一国家として成立する過程に、大きく3つのマイルストーンあったような気がする。一つは明治維新。二つは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続く天下統一。そして三つが、この「倭」から律令国家「日本」の成立。
この3番目の解釈評価はまだ十分に定まっているとは言えないが、先生の考察で私の頭はかなり整理された気がする。
 
ちなみに、日本が経験した直近の大きな対外戦争での「敗戦」の事実がもう一つの大きなターニングポイントであるが、長い歴史の中で、これから客観的に分析され評価されて行くことと思う。まだまだ感情が煮えたぎっていて、歴史の時間の中での熟成と「歴史認識」の客観化が出来ていない。まだ生々しいのである。

 さて、いかに「倭」が「日本」になったかだが、そもそも「倭」と「日本」とはどのように違うのか?

 「倭」
(1)「倭」は一世紀の奴国や3世紀の邪馬台国のように弥生時代以来の農耕集落がクニとなり、クニグニの連合体 となったもので、国王が国土と人民を統一支配する「国家」ではない。
(2)自ら名乗った国号ではなく、大陸の中華帝国の王朝が名付けた、東の海に浮かぶ島々を中心とした「地域」の 名称である。
(3)4世紀に成立したであろうヤマト王権後も地域の氏族・豪族(物部氏、蘇我氏などの)が分割支配。
(4)地域の氏族・豪族が土地と人民を領有・支配する「私地/私民制」。
(5)「八十万の神々」という多神教の世界。それぞれの神はそれぞれの地域の氏族・豪族とその土地(私地)、人 民(私民)加護する。
(6)神々には姿形はなく、教えも説かない。
(7)「連合王国」の首長は「大王」であって「天皇」ではない。皇祖神を持たない、神につながらない存在。
(8)仏教伝来後も氏族仏教(蘇我氏の法興寺、厩戸王の法隆寺など)。

「日本」
(1)天皇が国主として全土の土地と人民を統一・支配する「国家」である。
(2)政治制度としての律令制を取り入れた。
(3)氏族・豪族に代わり天皇が生産手段としての土地と人民を支配する「公地・公民制」。
(4)この天皇の支配を権威づける皇祖神の創出。氏族ごとの神(八百万の神々)の体系か。すなわち「大王」は「天皇」を名乗り「神」となる。
(5)これまでの「八十万の神々」の上に立つ最高神、皇祖神としての天照大神を設定。
(6)これは金光明経(仏教)の「帝王神権説」に基づき創出された国家理念。
(7)姿形を有し、言葉を持ち、教えを説く神、仏教を国家理念の中心に据える。
(8)国家仏教(大官大寺建立、地方にも寺院建立)へ。仏教による中央集権化。

 この「倭」の「日本」化を進めたのが天武天皇(大海人王)である。初めて「大王」から「天皇」となり、国号も外来の「倭」を嫌い「日本」とした。天武天皇が事実上の初代の「日本」の「天皇」となる。

 時代背景としては、天智大王が中大兄王時代から飛鳥で繰り返した、血なまぐさいクーデター(のちに「大化の改新」とよばれ、最近は「乙巳の変」と呼び直されている)や、権力内部での殺戮の連鎖。さらには人民「百姓」をも駆り出して挑んだ対外戦争の大敗(660年の白村江で唐・新羅連合軍との戦いの敗戦)。大王家の故地である飛鳥とその民の放棄(難波宮への遷都、さらに孝徳大王を見捨てての飛鳥帰郷。さらに近江京遷都)などから、人民「百姓」の心は大王からはなれ、「百姓」の集団での抵抗にあった時代であった。

 天智大王亡き後の「壬申の乱」は、ただの皇位継承争いではない、とする。すなわち倭の「軍国」化を進めた天智大王の近江王朝を廃して、新たな「国家」造りに挑んだのが天智大王の弟、大海人王であった、という解釈である。

 氏族・豪族の「私地・私民制」を天皇の「公地・公民制」に変革するイデオロギーとして、「八十万の神々」の上に最高神「天照大神」を置き、天皇家の皇祖神とし、「大王」が「天皇」すなわち、氏族/豪族に共立された権威ではなく、神に繋がる権威としての天皇となって「国家」を統一・支配するという、新しい国家像を創出した。ここに国家の統治制度としての律令制を導入して国家の形を整えた。この基本になる理念が仏教の「金光明経」の帝王神権説であるというわけだ。そしてこの天皇を中心とする新しい国家像を権威づける為に「天照大神」を皇祖神とする系譜を表した古事記、その天皇が支配する倭国に変わる「日本」起源をまとめさせたのが国史としての「日本書紀」である。

 この天武天皇の国家理念は、皇后であり皇位を継承した持統天皇に引き継がれて、日本という国家の礎が出来上がったとされる。この時代、天武天皇は自ら政治を執り行う天皇親政を行ったと言われる。ちなみに明治維新の時の「王政復古」の大号令は、この天武親政時代の国体を復古せよということなのだ。また持統天皇の時期まで遣唐使の派遣を取りやめている。新しい「日本」の体制固めを優先したのだろう。従って「日本」という国号が唐に認められるのは遣唐使が再開されて粟田真人が長安の則天武后に謁見を許されるまで待たねばならない。

 この意味では、歴史のターニングポイントは我々が習った645年の「大化の改新」ではなくて672年の「壬申の乱」と、天武・持統天皇の時代を待たねばならないのかもしれない。また「日本」という国号を用いた最初が、聖徳太子(厩戸王)の遣隋使小野妹子が随の皇帝に持参した「国書」にいわく「日の出る國の天子...」だとされている解釈にも修正が必要、ということになる。

 まだまだ新たな事実の発見、異なる考察があり続けるだろうが、先生が93才にしてアップデートされた飛鳥の時代のイラストレーションは、私にとっての永年の疑問に対する明解な回答を示してくれた。先生の益々のご健勝と歴史の謎を解明する新たな考察を期待しております。

未知の世界への扉の一つがまた開けられたことに感謝。これから明日香を訪ねる時の一つの「歴史認識」が出来た。この本は時空トラベラー必携のガイドブックという訳だ。時空旅はますます佳境に入ってゆく。

(先生は2013年7月10日に福岡で永眠されました。これからというときに残念の極みです。ご冥福をお祈り申し上げます。)




飛鳥時代 倭から日本へ飛鳥時代 倭から日本へ
価格:¥ 2,415(税込)
発売日:2010-03


2010年4月20日火曜日

空のシルクロードは大混乱

 アイスランドの火山噴火の影響でヨーロッパ各国の航空当局が空港閉鎖を決めて、もうかれこれ6日。

 我が家のゲスト、娘の友達で、イタリアから来たフォトグラファーも昨日ミラノへ帰る予定が、完全にスタック。
連日、電話とウエッブサイトで運行状況を確認するも全くフライト再開の見通しは得られず。電話は全くつながらないので、成田まで出かけてカウンターに並びようやく得た回答は一番早くて30日のフライト予約なら受け付ける、と。
 まあ、10日間のエクストラホリデーだとポジティブに考えて、日本の写真撮りまくってください。
おかげでニューヨークへ明日、帰る予定だった娘も、出発延期してこの友人に付き合うことに。
困った時の助け合いは大事。友情を確認し合うことができるのも怪我の功名かもね。

 彼女もたくましい。さすがマルコポーロの子孫にして、西ローマ帝国の首都ミラノから来たイタリア人だからか、どんな辺境地域でも旅するフォトジャーナリストだからか。
 代替ルート検討のオプションが面白い。モスクワまで飛び、そこから鉄道でミラノまで帰る。いやいやウラジオストクからシベリア鉄道でモスクワまで行こう。やはりこの際、釜山か上海までフェリーで行ってそこからバスや車乗り継いで陸路ミラノまで帰る。まさにシルクロードの旅ではないか。
 ようはユーラシア大陸は地続きなのだから、という発想。私もそんなシルクロードの旅を学生時代に夢見たことはあったが...

 そんな検討している間にも時間とともにモスクワ便も満席。しかも運賃が跳ね上がっている。シベリア鉄道だと一週間かかる。結局はかかる時間と資金とを勘案して、黄金の国ジパングで30日まで待って直行便で帰る、という選択肢を「今時点では」とったようだ。考えることは型破りだが、選択は極めて合理的。ううん...

 しかし、異常事態だ。9.11テロ事件以来の大規模な空港閉鎖。ヨーロッパ域内のトラベラーは鉄道や船やバスに換えて、大混雑とはいえなんとか目的地に到達できるものの、遠くアジアやアメリカやアフリカに旅し、帰途につくヨーロッパ人、ヨーロッパに旅して帰途につくアジア人、アメリカ人は、異国の空港に取り残されてなす術もなし、の状況。いわば難民化しているわけだ。
  泊まる所もなく、カネも底を付き...何時帰れるかもわからない。こういう時一番困るのは、的確な情報を得られないこと。もっとも合理的な選択肢を検討しようにも判断の材料がない。あきらめようにもあきらめる根拠がない。見通しがつかないというのが一番フラストレーションが溜まる。

 私もアメリカ時代、航空機での移動にはいつもこの不安がつきまとっていた。今でも悪夢のように思い出されることがある。出張で行ったミネアポリスから、NYラガーディアへ戻る最終便がチェックイン後に突如キャンセルになったときが一番腹立った。

 カウンターのおねえさん(オバさん、か)たちはキャンセルになった、といって、居並ぶ客を尻目にカウンターにPosition Closedの札を無造作に置くと、どこかへいなくなってしまった。
なぜキャンセルなのか、何の説明もない。突然すべてのプロセスが止まり、情報のない世界に取り残される。

 客に丁寧なサービスなんてハナから期待してないアメリカ人の客達もさすがに、イラッとしてたが、そのうち誰もいなくなってしまった。どこへ行ったのだろう?みんなの後をついて行きたいけど、クモの子散らすようにちりじりにいなくなった。航空会社がホテルの手配してくれる気配など全くない。自力本願の世界だから。

 最終便だから、乗り換えは翌朝だ。その手続きしたくても他のカウンターは電気が消えてて誰もいない。ホテル予約しようにも、だだっ広いコンコースにいるのは掃除のおじさんと警備員だけ。quality of serviceも、CRMも、CSRも、accountabilityも、ビジネススクールで教えてもらったキーワードなどどこにもこの場には存在していない。「途方に暮れる」とはこのことだ。

 結局、別の航空会社のNJニューアーク行きの最終便が出発遅れで待機中との情報をキャッチ。このウエイティングの最後の一席をなんとか確保して乗り込んで帰った(私が乗るとドアが閉まり出発した)。捨てる神あれば拾う神あり、とはこのことだ。

 夜も白み始める未明のニューアークに降り立ち、タクシーでラガーディアまで飛ばす。だって車をラガーディアのパーキングに置いて来たんだもん。

 成田でスタックしているトラベラー達も同じ経験してるんだろうなあ。日本のサービスは少しはいいのかな?寝袋や水や、ハンバーガーを配っている所がTVニュースに流れている。「こんなうまいハンバーガー食ったことない」とフランス人ツーリストがNHKのインタビューに答える。ここではフランス人が冷笑するアメリカ食文化の象徴ハンバーガーに舌鼓をうっている。ほらみろ、世界にはボルドーやトリュフよりもうまいものがあるだろう...ってか。

 まあ、パニクってる人には、食い物、寝袋も大事だが、的確な情報を流してもらって、見通しを得ることが優先だが。空港でこれから暮らそうって訳じゃあないんだから。

 そういえば日本人女性宇宙飛行士を乗せて帰還予定のスペースシャトルも、地上の天候回復待ちで、まだ地球の軌道を周回しているとか。なかで残りの寿司でも食ってるのかな?

 いつの時代も遠方へ出かけるときは、「風待ち」はつきもの。遣唐使も長安にたどり着く前には那の津や坊津で何日も「風待ち」をした。鑑真和尚も何度も「風待ち」「漂流」したあげく日本に漂着した。オランダ船リーフデ号もロッテルダムから沿岸沿いに「風待ち」を繰り返しながら、九州大分の府内に漂着同然にたどり着いた。どんなに交通手段が高度化しても自然の力にはかなわない。それを謙虚に受け入れて、人はdisaster recovery, risk management, contingency planningに意を尽くすことだ。そういった事態に即してもじたばたしない鷹揚さを持って。




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(読売他日系各紙より)