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2009年8月8日土曜日

筑紫君磐井 ヤマト体制組入れに抗戦 その時東アジア情勢は.....


 東西10数キロに及ぶ八女丘陵は、12基の前方後円墳を含む約300基の古墳からなる八女古墳群を背負う。
中でも岩戸山古墳は九州でも最大級の前方後円墳で、東西約135m、後円部直径約60m、高さ約18mで、周濠、周堤を含むと全長約170mにも及ぶ。この古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記述にあるように、筑紫君磐井の墳墓である。このように古墳造営者と年代が分かっている古墳は全国的にも珍しい。

 岩戸山古墳には一辺43mの方形の別区が存在しており、ここに珍しい石造りの人形、動物、器具等(石人、石馬、犬、鶏、盾、刀など)が並んでいた。いまはそのレプリカが置かれており、オリジナルは近くにある岩戸山歴史資料館に保存展示されている。こうした石像はこの辺りで見られる阿蘇凝灰岩で造られたもので、同時に円筒形埴輪も出土していることから、粘土製の埴輪の代わりに石製のものを、しかも等身大を基本に並べた、と理解されている。

 要するに6世紀初頭に、ここ筑紫の地にはこれほどの墳墓を構築出来る(ヤマトの大王クラスの)権力者が存在していたことを大和朝廷成立後8世紀になってに編纂された官製の史書である日本書紀も認めているわけだ。考古学的にも八女丘陵に集約された300からなる古墳群の存在も、ここにヤマトに匹敵する倭国の権力基盤が存在していたであろう事を物語っている。

岩戸山古墳
別区の石人、石馬像

ヤマト王権/天皇支配体制の正統性を記録する為に編纂された日本書紀の記述によれば、磐井は「筑紫の国造」、すなわちヤマト王権の地方長官であり、中央の「大和朝廷」の意向に反して、ヤマト王権が軍事的に同盟を結んでいた朝鮮半島の百済に敵対する新羅から「賄賂」を受け取って「反乱」を起こした、となっている。しかし、この当時の「大和朝廷」の倭国支配権はまだ充分に確立していたとは言えない。そもそも「朝廷」など未だ成立していない時代である。とりわけ歴史的、経済的、外交/軍事的、文化的にも倭国の一大先進地域であった筑紫のヤマト体制編入には随分時間を要したはずだ。当時の磐井は筑紫を支配する大豪族で、いわば筑紫の「大王」ともいえる、ヤマト体制からは独立した存在だったのであろう。従ってヤマト体制の地方官僚職である「国造」でもなければ、その地方官僚が新羅から「賄賂」を受け取ってヤマト/百済同盟に「反乱」を起こしたのでもなく、筑紫の大王が、百済と同盟したヤマトの大王と争って、その倭国における権力基盤と経済的支配権を確立する為に新羅と同盟した。そして筑紫におけるその支配権を簒奪しようとしたヤマト政権に対抗した、というのが正しいだろう。




しかし、結局は磐井はヤマトの大王、継体天皇から派遣されてきた物部荒甲(あらかひ)の軍と2年に渡る闘いの後敗れて殺され、その子が糟屋の屯倉をヤマト政権に差し出し筑紫はヤマト体制に組み入れられる事になる。磐井の一族は息子を含め滅ぼされる事はなく、ヤマト体制に移行して後の筑紫の安定を果たす役割を期待されている。遠征軍による支配は困難である事と、その地方の有力者が体制に帰順してくればそれに勝る支配はない事。洋の東西を問わぬ人類の歴史的経験だろう。

 一方、この紛争は倭国と当時の中国、朝鮮半島を含む東アジア情勢の変化の中での出来事である。歴史的にも1世紀の「漢委奴国王」時代以来、6世紀の初頭まで、倭国の政権は中国への柵封外交政策を取り続け、政権のレジティマシーを維持しようとしていたのだから。倭国の支配権をより上位の権威によって正当化する作業を脈々とし続けてきた。晋書に倭の五王の記述があり、さらに宋に遣使した倭王武(雄略天皇)の上奏に、自ら甲冑をつけ、「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」と。大王自ら中国皇帝の藩塀として東辺の蛮族を征討して地域の安寧を保つ努力をしているのでその権威を保証してくれ、と頼んでいる。大陸により近い筑紫の権力者は歴史的にヤマトの権力者よりも、より緊密に朝鮮半島や中国との外交関係をコントロールする能力に長けていても不思議ではない。多くの渡来人も筑紫にはいたであろう。官製の史書には出てこないが磐井にはヤマト/百済同盟への対抗軸としての新羅との太いパイプがあったはずだ。

 6世紀には朝鮮半島では新羅と百済の争いが激化し、倭国の朝鮮半島での拠点が置かれたという任那、伽耶は562年に新羅に滅ぼされる。さらに時代が下って100年の後、唐/新羅による百済の征討が660年。さらに白村江の戦いで日本が半島から撤退を余儀なくされたのが663年。新羅と結んだ磐井の戦いの後の100年は東アジアの勢力図が大きく変わった時代でもある。倭国、日本がその激変の一方の当事者であった事を思い浮かべれば、倭国内の争い(いわゆる「筑紫国造磐井の反乱」)が単なる国内政権内での「反乱」ではなく、このもう少しマクロ的な視点での争いと無縁ではなかった事は明白だ。

 岩戸山古墳は未盗掘墓だそうだ。また、墳墓の中の調査は行われていないとも。岩戸山資料館の女性館員の方が詳しく説明をしてくれた。大方の八女古墳群の墓は盗掘されているが、岩戸山だけが未盗掘。いろいろな副葬品や当時をうかがえる考古学的資料が手つかずのまま眠っている?と、不思議に思っていたら、彼女いわく「結局磐井はここには埋葬されなくて、ここはカラの墓なんですよ」。

 確かに磐井が築造したらしい事は、江戸時代の久留米藩の歴史学者矢野一貞による地道な調査により明らかになっている(もっとも彼の研究成果が日の目を見るのはご維新後の明治になってから)。確かに磐井が埋葬されているはずはない。なぜなら彼はヤマト政権の筑紫方面派遣軍司令官の物部あらかひに殺されているのだから。征服者が非征服者の亡骸をこのような巨大な墳墓に埋葬する事はないはずだ。資料館に展示されている石人像なども剣でたたき割られたものが多い。ヤマトからの遠征軍を苦しめた磐井に対する反感、兵士の憎しみがうかがえる(写真の石馬も首が切り落とされている)。

 こうした考古学的な成果物からは、日本書紀の記述だけでは分からないいろんな事が見えてくる。筑後平野の南に位置する今はお茶と果物で有名な平和な農村地帯、八女地方が、かつて、我が国の歴史の表舞台で脚光をあびた時代があった。玄界灘の彼方の朝鮮半島を視野に入れた戦略を持った大王がいた。九州人の反「中央」意識はこの頃から伝承され続けてきたのだろう。九州人が「中央」に出て行って権力中枢で活躍するようになるのは明治維新以降だ。


(岩戸山古墳から眺める八女地方の風景はなんと大和の三輪山山麓の風景に似ていることか.....)


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