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2009年12月20日日曜日

帰って来た来た阿修羅 ジャニーズ系八部衆の時空旅

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(若草山から望む興福寺の五重塔、南円堂、そして奈良の街)

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(阿修羅像は撮影禁止。九州国立博物館の写真をお借りした)

紅葉の季節も過ぎて、年も押し詰まった週末はこの冬一番の冷え込み。雪こそ降らなかったが風の強い寒い一日だった。こんな時に奈良公園を散策する通も世の中にはいないと見えて閑散としている。我はよほどの趣味人だと自覚。人影のないひっそりした観光地は、どこか寂しげで、鹿のせんべい売る人達も寒そうにただ佇んでいた。もちろん角切られてさっぱりした鹿達もヒマそう。

しかし、時空旅行者にとっては、観光客のいない奈良公園は興福寺の昔の栄華を夢想するにはうってつけ。あの阿修羅像も興福寺国宝館に戻り、八部衆の一員としての定位置でいつもの決めポーズで立っている。そして阿修羅像の前には誰も並んでない。東京と太宰府での2時間待ち行列は、いったいなんだったんだろう。

改めて阿修羅像をゆっくりと拝観させて頂いたが、ほんとに今風の若者の風貌であることに時空を超えた普遍性を感じた。阿修羅だけでなく八部衆はジャニーズ系だ。ははあ、アイドル見たさにみんな行列したのかな? いや,東京でも太宰府でも後ろ姿が見れるのは今回だけ、と宣伝してたっけ。後ろ見て「ああコウなってるのか」と、これで2時間並んだ甲斐もあったと,皆さん満足して帰ったのだろう。

興福寺は平城遷都の710年に藤原の不比等によって建立された藤原一族の氏寺。聖武天皇発願の官寺,東大寺と並ぶ南都の大寺として繁栄を誇ったが、その1300年の歴史の中では度重なる戦火、天災で堂塔はで大きなダメージを受けた。特に1180年(治承8年)の平家による南都焼き討ちで寺は焼失するが鎌倉期に再建される。江戸期に入り1717年(享保2年)の大火では中金堂を始め中心伽藍のほとんどが焼失した。直近の破壊は明治維新後の廃仏棄釈の嵐によるものだ。このときは興福寺自らの仏の道の放棄による荒廃も進んだ。五重塔は250円、三重塔は20円で売却(その後破壊を免れたが)、僧侶はことごとく還俗し、あるいは春日大社に帰属し、一時は西大寺の住職によって寺としての命脈が保たれた時期もあった。

こうした中、国宝館には数多くの仏像が今もその姿を止めていることは奇跡に近い。もちろん天平のジャニーズ阿修羅もその一つ。明治期初期には多くの仏像が破却され、川に流され、あるいは海外に流出した。かつての文化大革命における中国3000年の文物の破壊や、タリバンによるバーミアン石窟の爆破の例は対岸の理不尽ではない。この日の本でも起こった。人間の歴史においては時代の大きな変換点ではこのような極端な文化の破壊が起こって来た。

阿修羅はこうした過酷な歴史をくぐり抜け、場所を換えながら生き残って来た。長く厳しい時空旅から戻った。慈愛に満ちた観音の表情とは異なる少年のまなざし。その眉はジャニ系アイドルのそれじゃなくて、人の修羅を見て来た眼と一対になった眉だ。いま興福寺の復興とその復興事業のシンボルとしての中金堂再建のための資金集めに、この阿修羅が地方巡業で一役買ったのが東京と太宰府への旅だったとはね。

この日は他に奈良国立博物館もゆっくりと見ることが出来た。仏像の宝庫とは聞いていたが.....ううん。その数はすごい。しかし、こうなると信仰の対象というよりも、如来も菩薩も明王も天もここでは鑑賞の対象だ。仏教古美術のショーケースという佇まいだ。当世はやりの「歴女」「仏女」のにぎやかな歓声がますます、抹香臭さどころか世俗の匂いをまき散らしている。楽しくなって来た。

師走の日没は早い。寒さも一段と増して来たので,そそくさと近鉄奈良線の快速急行三宮行きで大阪上本町(うえろく)まで帰る。いつもの時空旅の週末のように上本町近鉄百貨店の銀座アスターでアスター麺食って帰ろうっと.... あっ、その前に,本屋に寄っていつも立ち読みしかしなかった杉本博司の「現(うつつ)な像」を今日は買って読もう。
現な像現な像
価格:¥ 2,520(税込)
発売日:2008-12