ニューヨークを離れて早くも5年になろうとしている。マンハッタンでの単身生活とコネチカット州グリニッチ、NY州ホワイト・プレーンズでの家族と暮らした時間も含めると通算で6年半程過ごした。
グリニッチで家族と過ごした2年半は楽しい思い出でイッパイだ。この街は東部のエスタブリッシュメントの住宅街で、もちろんニューヨークで仕事する多くのビジネスマンや投資家やジャーナリストのベッドタウンでもあった。
私もOld Greenwichの駅から、New Haven Lineの電車に乗ってGrand Central Terminal経由でMidtownのオフィスへ通っていた。妻は地域のコミュニティーの活動にいそしんで多くの友人を得た。その時の友人達とはいまも交遊が続いている。
小学生と幼稚園児であった息子と娘は日本で大学を出て、息子はロックバンドのベイシスト。一時期はヒットチャートでトップランキングに入る人気バンドであった。あのときは全米ツアーでニューヨークにも寄り、グリニッジビレッジの伝説のライブハウス、ニッティングファクトリーで公演した。彼にとってはニューヨーク凱旋公演であった。いまは日々の暮らしにも事欠く有様。この業界の浮き沈みの激しさを肌身で感じている。でも息子は決して音楽の夢を捨てていない。相変わらず詩を書き続け、ライブのステージに立ち、時にはソロで弾き語りをする。明るくポジティブに生きている、結婚して嫁さんと助け合いながら。
娘はいまニューヨークのブルックリンでフォトジャーナリストを目指して修行中。大学在学中から某有名写真家のオフィスで働きながら写真の世界にふれた。ニューヨークへ渡りフォトジャーナリスト集団マグナムゆかりの学校に入り、いまはフリーのフォトグラファー。そういうと聞こえが良いがそもそもフリー(定職なし)で食えていない。将来に向ってあがいている真っ最中。それでも回りの人たちの暖かいご指導ご支援と、日本のとある出版社の特約フォトグラファーとしての契約でなんとか糊口を凌いでいる。娘も信じられないくらいに楽天的でポジティブ思考だ。
この二人のこの人生に対する価値観、すなわち、集団のアイデンティティーよりも個のアイデンティティー重視という思考、そして自分の掲げたゴールに向って自分を信じて駆り立てるエネルギー、そして信じられない程の楽天主義は、まさににアメリカのもの、なかんずくニューヨークのものだ。三つ子の魂百までとはよく言った。
私にとっては,ニューヨークはもちろんビジネスの街だ。多くの多国籍企業がしのぎを削る戦場だ。多くのチャンスが転がっている。同時に数知れない挫折もそこかしこに。この世の最高のものと最低のものが同居する街。ここに新しい事業拠点を設け、M&Aで手に入れたアメリカの会社との統合とリストラクチャリングを行った。そのプロセスは緊張と挫折と「小さくガッツポーズ」の連続であった。アメリカでのビジネスの影の部分を垣間みて身の危険を感じる事すらあった。優しいだけでは生きて行けない厳しい現実がそこにはあった。 が、多くの仲間と友人の支え、メンターのアドバイスと支援が度々私を救ってくれた。またビジネスパートナーとの信頼関係がいかに大事かを肌身で感じる経験でもあった。そして東京がいかに遠い存在であり前線から隔絶された存在であるかも知らされた。
そして思いがけない前線からの撤退、帰国命令。結局はサラリーマンの身である事に気付かされた。事業は道半ば、まだ戦いは終わってない。心は折れてないのに敗軍の将になっていた。生身で戦ってるのにいきなり後ろから首を刎ねられて成仏出来ず、魂がまだ戦場をさまよっているようであった。人事ローテーションは淡々と進んで行く。組織の不条理を思った。
日本に帰って、しばらくはニューヨークの事を思い出すのも辛かった。人に聞かれてもしゃべる気がしなかった。在NY日本商工会議所などの講演で体験談を話してくれと言われるのが一番辛かった。今はしゃべりたくない...が本音であった。豊かで平和で文化の香りに満ちあふれる日本の美しさに心癒された。遠い昔に忘れ去っていたものに「美」を見つける日々が始まったのだ。成仏しない魂が現世を徘徊しつつも安穏な生活に心の平穏を感じる毎日であった。特に関西へ転勤させられてからは、いよいよアメリカとは全く無縁の日々を送る事に。遠い遠いアメリカでの戦場体験を忘れ、ひたすら大和心に酔いしれる。
しかし、5年という月日が、あの心のニューヨークを,私の中でゆっくりと熟成させ始めている事に気がついた。辛い想いも,悔しい想いも、楽しい想いも、メルティングポットの中で絶妙にブレンドされて新しい想いとして心に蘇ってくるのを感じ始めた。あるいは岩塩鉱に放り込まれたなんでもない小枝が時間とともに塩の結晶がつき、輝き始めるように、様々な想いが美しく語りかけ始めた。やはり時の経過がこれらの熟成とクリスタライゼーションには必要なのだろう。
ふと忘れ始めていた心の宝物を取り出してみたくなった。この想いを一気に書き出す事は到底無理だ、これから折りにふれて徐々に書き出して行くことにしよう。熟成したワインをゆったりと味わうように。
全ての俗世の恩讐、功名争い、煩悩を記憶の彼方に残置して...
Billy JoelのNew York State of Mindが心に突き刺さる。