葛城古道 |
日本古代史の中で、「王朝交代」説は戦後様々な学者によって唱えられてきた。戦前の「万世一系の天皇」説のアンチテーゼとして唱えられたものである。主な説は、3世紀に起こったと言われる三輪山の麓の三輪王朝(崇神王朝)から、河内王朝(応神/仁徳王朝)、6世紀になって越の国からヤマトに入ったという継体王朝へと変遷したというもの。しかし、この他にも、三輪王朝以前に奈良盆地の西の葛城山麓に有力な勢力がいて、葛城王朝を形成していたという説が唱えられている。
この説では、古事記、日本書紀に記述されているが、その実在性が薄いと言われている初代神武天皇から9代開化天皇までの(10代崇神天皇より前の)、いわゆる「欠史八代」(在任中の事蹟の記述が無い)の天皇は、実はここ葛城を拠点に実在した可能性がある、とする。現在の奈良県御所市、葛城山から金剛山の麓に南北の連なる葛城地方は、古代豪族、葛城氏の拠点として知られる。さらに時を遡れば、鴨氏(京都の上賀茂/下賀茂神社や鴨長明の祖先)の故地として知られる地だ。
ここには鴨一族縁の高鴨神社や高天彦神社があり、神話の世界を彷彿とさせる高天原の地名も残る。チクシの日向の高千穂と並ぶ、もう一つの天孫降臨伝承地となっている。また「欠史八代」の天皇の一人、神武天皇の三男で二代天皇に即位したと言われる綏靖天皇の高丘宮跡伝承地もあり、石碑が建っている。ちなみに「葛城王朝」説によると,神武天皇が王朝の始祖であるとする。
なるほど、東の三輪山を神聖視する崇神王朝が、西の葛城山を神聖視する葛城王朝に対峙する、とする奈良盆地内の勢力変遷の考え方は、地政学的には面白い。奈良盆地には物部氏、巨勢氏、平群氏、蘇我氏、大伴氏などの有力豪族がそれぞれ山の麓(ヤマト)に本拠地を構えて対抗していた。後に蘇我氏が廃仏派の物部氏を滅ぼし、飛鳥にヤマト王権を支え、そして巳支の変(いわゆる「大化の改新」)で滅ぼされ、新興の中堅氏族である中臣氏(後の藤原氏)が取って代わりヤマト政権中枢に入り、奈良時代、平安時代を通じ権勢を振るう。このように日本古代史には、大王(天皇)の「権威」を、姻戚関係を持った(持てた)有力豪族の「権力」が支える構造が見える。
「葛城王朝」説によれば、初代神武大王(ハツクニシラススメラミコト)以降の「欠史八代」の歴代天皇は、葛城山の麓にいた古い土着の鴨一族と姻戚関係をもって伸長し、奈良盆地に(すなわち倭国国中)に勢力を拡大したとする。そして、やがて3世紀には三輪山の麓を本拠地とするもう一人のハツクニシラススメラミコト崇神大王(第十代天皇)の三輪王朝に取って代わられた、と。
5世紀に入ると、鴨氏に繋がる葛城氏が、河内に勢力を有する応神/仁徳大王(同一人物という説もある)の一族と姻戚関係に入り、ヤマト王権を支える有力豪族にのし上がったと言われている。そして5世紀の中国の史書に言う雄略大王(ワカタケル)などの「倭の五王」の時代へ。やがて、武烈大王で河内王朝の血統が途絶えたのか、応神大王の遠い血族である、と言われる継体大王が、6世紀初頭に遠く越の国からヤマトに入り継体王朝が始まるわけである。
「欠史八代」の大王(天皇)の実在性を説明する「葛城王朝」説は、学説では主流となっておらず、いまだ多くの謎に包まれている。しかし、この葛城山、金剛山の麓を歩き、背後に甘南備た山々を背負い、東に奈良盆地、大和三山を展望すると、なるほどここも「国のまほろば」。有力な勢力がヤマト世界を睥睨しながら、時代の権勢を誇ったとしてもおかしくはない佇まいを持っているではないか。三輪山の麓から見渡す、あのヤマト国中に相対峙する,もう一つの世界がここに広がっている。
それにしても古代の豪族達は平地を見渡せる山の麓(山処:やまと)が好きだったんだなあと、あらためて思いを巡らす。そういえば、この奈良盆地の平地にいた有力豪族というものを聞かない(下記の参考図を見ていただきたい)。平地にいて川のほとりに環濠集落を構えていたのは水耕稲作にいそしんだ弥生人の農民だけであったのだろうか。権力者一族は高見にいて生産とそれにより生ずる富を支配したのだろう。そういえば「三輪王朝」の拠点であった纏向の神殿遺跡も、微高地に位置しており、全く庶民の生活臭のない人工的な街区にあった。一方、農耕環濠集落遺跡である唐古鍵遺跡は、纏向から遠く離れた田原本の平地に広がっている。
もう一つここ葛城の地に伝わる面白い伝承がある。一言主の存在だ。今は樹齢1600年と言われる巨大な大銀杏がシンボルとなっている一言主神社。ここに大神は祀られている。古事記と日本書紀でやや記述に差異があるが、古事記では、雄略大王が供を従えて葛城山に狩りに出かけ、この地を通りかかった時に、大王と同じ立派な身なりをした人物に出くわす。雄略は怪しんで「我は倭国の大王だ。お前は誰だ?」と聞いた。「我は一言主の神である。お前こそ誰だ?」と。雄略大王は恐れ入って、武器と供の衣服を差し出しひれ伏した、と。
8世紀初に天皇支配の正統性を示すために編纂された、古事記や日本書紀に、雄略天皇(大王)が恐れいりひれ伏した神が葛城にいたということが記述されているわけだが、この出会いは何を意味するのだろう? いまだヤマト王権に服さない在地勢力がこの奈良盆地にいたという事なのだろうか? 雄略大王といえば、記紀にいうヤマトタケルの倭国平定伝説や、中国宋書にいう倭王武の上奏文「ソデイ甲冑を貫き、山河を跋渉して寧所にいとまあらず」、埼玉稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳で出土した鉄剣に彫り込まれた「ワカタケル大王」の文字など、この時代の英雄伝の主人公であるといわれる。その雄略大王すらもおそれひれ伏した神とは?
この一言主は地元の鴨氏の神であると言われている。当時の鴨氏や、後にその縁に連なる葛城氏は、先述のように、ヤマト王権に対する大きな影響力を有していたのだろう。応神/仁徳大王の河内王朝の歴代大王も葛城氏から后を娶り、その勢力を基盤にヤマト王権を維持してきたという。この雄略大王の一言主との出会いは、その有力な在地勢力との関係を示すエピソードなのかもしれない。
(アクセス:近鉄御所駅から,バスで櫛羅ないしは猿目橋下車で南へ歩く。あるいは風の森まで乗車して戻る方法も。バスの本数は少ないので事前に確認しておくこと。全コース徒歩で約10キロ強)
(参考:奈良盆地の豪族の分布図。このように奈良盆地を取り巻くように山裾に集中している。盆地中央に本拠地を持つ豪族が居ないのは何故だろう。)