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2018年10月13日土曜日

古代最大の内乱「壬申の乱」とは? 〜倭国の対外戦争に終止符を打った内乱〜


 672年の「壬申の乱」は古代最大の内乱であると言われる。それは日本の古代史においてどういう意味合いを有しているのか。その後の日本の歴史にどのような影響を及ぼしたのか。大乱と云われるわりには、その評価が定まっていないような気がする。日本書紀に記されているように、大海人皇子が王位継承を辞退して吉野に隠棲したのに、大友皇子によって滅ぼされそうになったので、反撃した正当防衛の戦いだったのか。単なる身内同士の王位継承の戦いであったのか。なぜ大海人皇子は蜂起から短時間で地方豪族を味方につけ、勝利することが出来たのか。663年の「白村江の戦い」の敗戦から9年後の意味は。歴史を読み解くためにはもう少し俯瞰的に周囲を見渡して、その時代背景を理解する必要がありそうだ。今年は明治維新から150年。これを機に「壬申の乱」を私的に再評価して見たい。

 まず登場人物の立ち位置を見てみよう。

 中大兄皇子(のちの天智天皇)は朝鮮半島の百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島南部の倭国権益を守ろうとした。朝鮮半島への進出と百済との同盟は4世紀以来の倭国の伝統的外交戦略である。その百済の滅亡、復興をかけた白村江の戦いで百済の要請に応じて派兵するも、唐/新羅連合軍に大敗し撤退。朝鮮半島における権益を失う。しかし、勝者である新羅と唐の対立が激化し、新羅は唐の朝鮮半島支配を排除した。こうした中、今度は唐からの強圧的な派兵要請に応じて、天智天皇の子、大友皇子は唐の要請に応えて再び朝鮮半島に派兵し新羅と戦争を起こそうとした。

 これに対し、天智天皇の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)は先の敗戦(白村江の戦い)を受けて対外戦争には慎重。これまでの相次ぐ半島での武力闘争と白村江の戦いの敗戦による地方豪族の離反、中大兄皇子の性急な豪族支配強化政策(庚午年籍など)により、国内の豪族、百姓(人民)の疲弊、反発が蔓延していた。そこへ半島への再出兵の決断、それに伴う再徴兵と戦費調達強化に大王(おおきみ)への反発が頂点に達した。とくに筑紫や西日本の豪族は相次ぐ出兵と徴発に不満が鬱積していた。こうした対外政策・豪族への締め付け策への抵抗を背景に、対外戦争遂行派の近江朝(天智天皇の子、大友皇子:のちに弘文天皇と追号)を滅ぼすことになった。

 天智天皇の弟と息子という身内の王位継承争いというよりは、優れて当時の東アジア情勢に強く影響された内乱であったというのが真相である。これまでの倭国の歴史を振り返ると、4世紀終盤から5世紀にかけては朝鮮半島をめぐる超大国中華帝国との外交上の攻防が、倭国の外交史の中核であったといえる。まさに朝鮮半島における倭国のプレゼンスの保証、承認が国の安全保障、経済権益、存立基盤の中心課題と考えられていた。このための朝鮮半島三国との合従連衡策であった。この対外政策の考え方の転換点となったのが「壬申の乱」である。

 これまでの倭国の外交/対外戦略の歴史を振り返ってみよう。

 1〜2世紀には、チクシ倭国の奴国王が後漢に朝貢して冊封体制に組み入れられた(57年。後漢書東夷伝、「漢委奴国王」金印)。また倭面土国王帥升等が後漢に朝貢した(伊都国王ではないかと推定されている。107年。後漢書)。

 3世紀、邪馬台国を中心としたチクシ倭国連合は魏王朝への朝貢、冊封により、統治権威の保障を得てきた(卑弥呼239年帯方郡を通じて魏に朝貢。親魏倭王の印綬を授かる。いわゆる魏志倭人伝)。この頃はまだ列島を統一して支配する王権は形成されておらず、地域連合が各地域に並存し、それぞれに大陸との交流を持ち、あるいは持とうと争っていた。大陸に近い北部九州の邪馬台国卑弥呼を盟主とした30カ国のチクシ倭国連合がその最先進地域であった。聖的権威である女性の巫女(シャーマン)と世俗権力である男王との祭政二元統治体制を取っていた。そのころの近畿地方のヤマト倭国連合(初期古墳の象徴される)の実像は見えないが、先進地域チクシ倭国と同様、中国王朝への朝貢冊封政策を取っていた(あるいは取ろうと模索していた)と思われる。魏と対立していた江南の呉あたりと通交を持っていた可能性がある(呉の史書は散逸していて残っていない)。それがやがて初期ヤマト王権へと発展していったと考えられる。魏の滅亡、晋の時代へ。

 4世紀。中国王朝の混乱の時代(東晋・五胡十六国時代)に突入し、以降、5世紀の宋の時代まで倭に関する記録が見えない(いわゆる「空白の4世紀」)。しかし中華王朝の正史は残っていないものの、いくつかの考古学的資料、金石文から倭人の姿をうかがい知ることができる。4世紀には倭人が朝鮮半島に進出し百済、新羅を押さえ。半島南部を勢力下に置いていたようだ。391年には百済の要請で半島に出兵した倭軍が鴨緑江河岸で高句麗の好太王(広開土王)を戦ったという記録が見える(好太王碑文)。このころの朝鮮半島では、高句麗と百済(ひゃくさい)が争い、新羅は高句麗に服属する後進地域であった。また後世12世紀にまとめられた朝鮮半島三国の史書「三国史記」によれば倭が新羅を下して属国にした、とか、百済が朝貢したとかの記述がある。日本側の史料である、7世紀終盤にまとめられた「日本書紀」には神功皇后の三韓征伐の伝承が記されている。しかしこれも年代の特定ができないのと、神功皇后の実在性、三韓征伐の史実性の検証もできていない。ともあれ、この世紀にこうした倭国の朝鮮半島への軍事的進出があったことはほぼ間違いないであろうが、そこには中国王朝の混乱に伴う周辺地域の混乱、特に、朝鮮半島における植民地(帯方郡、楽浪郡)の崩壊。高句麗、新羅、百済の朝鮮三国の成立。さらにはその三国の抗争を背景に倭国との同盟関係模索の動きがあり、そうした緊張関係が倭の半島への武力進出を促した。このような背景があったと考えられる。

 5世紀には混乱ののちに中国に不完全ながら統一王朝(晋、宋)が現れ、中国の史書に倭の名前が復活。「倭の五王」(3世紀のチクシ倭国の王ではなく、ヤマト倭国の王たちであろう)が朝鮮半島の支配権、権益確保をめぐり中国王朝(南朝宋)に朝貢し「安東将軍」等の軍号を要求。高句麗、新羅、百済とより高い権威の称号獲得を争ったことが記述されている(晋書、宋書)。3世紀の魏志倭人伝における倭国の姿と異なり、武力で列島制覇を進め、朝鮮半島へ軍事的な伸長をめざす、男王によるより武断的な倭国の姿が見てとれる。当時倭国は朝鮮半島南部の伽耶、任那地域に権益を有していた(支配的地位を有していた)とされる。しかし倭王たちは中国王朝から満足のいく朝鮮半島支配の権威を与えられず、この頃から徐々に中国王朝への朝貢冊封体制に懐疑的になっていた。やがて朝貢冊封体制から離脱し、自らを「治天下大王」と呼称するなど、のちの天皇制の萌芽となる動きが始まる。

 6世紀には、倭国(ヤマト王権)は百済と再び同盟関係を結び、百済に伽耶四県を譲渡し、百済の要請に応じて朝鮮半島へ新羅討伐のため出兵しようとした。これを阻止しようとしたのが、新羅と結んでいた筑紫磐井君(チクシ王権)だ。これが日本書紀に言う527年の「筑紫国造磐井の反乱」の真相である。当時は半島への派兵にあたって徴兵され、兵站を担わされたのは主に筑紫の豪族、百姓(人民)であった。3世紀末の対高句麗戦の敗戦により多くの人民や豪族が殺され、捕虜となり抑留されたことだろう。これへの反発が極限に至っていた。ヤマト王権の支配下にあったとは言え、いまだに強大な勢力を誇った「邪馬台国連合の残存勢力」「チクシ王権の末裔」「チクシ大王磐井」は新羅と同盟し、筑紫、肥国、豊の国を巻き込んで、ヤマト王権と2年以上に渡って戦った。結果的には磐井は殺され、磐井の子クスコは糟屋屯倉をヤマト王権に差し出して降伏した。しかし、ヤマト王権の半島出兵計画はなんの成果も上げられず、後述のように半島における権益を失うに至る。朝鮮半島三国の争いが倭国の政治情勢にも大きな影響を与えていた。ちなみに538年の仏教伝来も七支刀も百済王子の来倭も、百済にとっては高句麗との戦いの後方支援を倭国に期待してのこと。倭人は朝鮮王朝、中国王朝にとって、「遠交近攻」のアライアンス、あるいはいわば「傭兵」として期待されていたようだ。その「蛮夷の民」を教化(文明化)する必要から仏教や儒教や数々の先進文化、技術を提供したというわけだ。その後554年には倭国に仏教経典を送った百済の聖王が新羅との戦いで戦死。562年には伽耶が新羅に滅ぼされ、倭国の半島における権益が大きく失われた。

 7世紀、660年、ついに同盟国百済が唐・新羅に滅ぼされた。百済滅亡に際し倭国は大量の百済遺臣、難民を受け入れ、さらに百済再興を目指して半島出兵を決意した。しかし、倭軍は663年の白村江の戦いで唐/新羅連合軍に大敗。半島出兵に駆り出された多くの地方豪族(おもに筑紫の阿曇比羅夫などの有力な豪族)が命を落とし、兵士として徴発された人民が殺され、あるいは俘虜となった。朝鮮半島における倭国の利権を放棄し、完全撤退せざるを得なくなった。さらには大唐帝国による「倭国侵攻」危機という「国難」に直面。緊急に百済遺臣など亡命百済人の力を借りて筑紫に水城を始め、大野城、基肄城などの防衛施設を構築、博多湾岸にあった那津官家を水城の内側の現在の太宰府に移したと言われている。さらに瀬戸内海沿岸に山城を築かせ防備を固めた。対馬、壱岐に防人を配置したのもこのころ。そして667年都を飛鳥から内陸の大津に移した。半島侵攻どころか自国の安全保障が危うい事態を迎えた。

 唐と新羅は百済を滅ぼした後、さらに高句麗を滅亡させる。しかし、その後に唐と新羅が朝鮮半島支配をめぐり戦争状態に。やがて新羅が半島から唐を排除し、676年には統一新羅を打ち立てる。こうした朝鮮半島情勢のめまぐるしい変化に応じて、唐と倭はかつての交戦状態から、同盟関係に転換していった。この時、唐は、郭務悰を使節として倭国に送り、47隻の軍船と2000の兵(倭人の捕虜とも言われる)とともに筑紫に来訪。新羅討伐のための倭国の出兵を強圧的に促した(古代の「黒船来航」)。近江朝(大友皇子)は多くの亡命百済人(反新羅勢力)を抱えていたこともあり、再び半島へ出兵を決意。しかしこれに抵抗する動きが672年の「壬申の乱」となったことは前出の通り(527年の「筑紫磐井の乱」も同様なヤマト王権による海外派兵への抵抗運動であった)。

 大海人皇子が決起から短期間に近江朝を打倒できた背景は二つあると言われている。一つは、東国豪族(尾張、伊勢が主勢力)は近江朝により半島出兵のために徴発されていたのだが、これを大海人皇子は反近江朝勢力として取り込んだ。前述のように対外出兵に消極的であった豪族の離反を促したことになる。二つ目は、西国の豪族の動きである。そもそも度重なる半島出兵に疲弊していた西国豪族は反近江朝勢力に容易に代わる下地があった。またチクシには唐の郭務相が連れ帰った2000の倭人捕虜がいて、大友皇子の近江朝はこれを半島侵攻兵力として期待していた。しかし、壬申の乱が起きると、大海人皇子撃退のために、東へ向かうよう命令を出したが、筑紫太宰の栗隈王はこれを拒否(大陸情勢の緊迫を理由に)。動かなかった。こうして大海人皇子は西国勢力の不動。東国勢力の取り込みを得て比較的短期間に大津京に攻め入ることができた。

 倭国はこれを機に、朝鮮半島における権益を放棄せざるを得なくなり、海外派兵をやめ、国の近代化、国家統治体制の強化、内政強化に向かってゆくことになる。その時に範としたのは、大唐帝国の文化/政治制度/技術であった。この間も遣唐使が派遣され、唐の先進文化、制度の吸収に努めた。ちなみに新羅もやがては唐に朝貢し「君臣関係」を結ぶ。こうして大唐帝国全盛時代を迎え、東アジア情勢が落ち着きを取りもどす時代となっていった。

 そして「倭国」から「日本(ひのもと)」へ。
 
 「壬申の乱」に勝利した大海人皇子が即位し天武帝となると、一連の朝鮮半島における権益をめぐる対外戦争の歴史に終止符を打ち、都を大津から再び飛鳥(飛鳥浄御原宮)に戻した。以降、天武帝/持統帝により、倭は国号を変え「日本(ひのもと)」を名乗り、全盛期を迎えた唐帝国を範に、律令制(飛鳥浄御原令、大宝律令)整備、仏教による鎮護国家思想の導入、天皇制宣言、その支配の正当性を明らかにするため天照大御神を頂点とした皇祖神体系の再定義と整備、「公地公民の制」(豪族の私地私民の廃止)、国の正史(日本書紀)編纂など、すなわち天皇を中心とした中央集権的国家体制(一君万民)整備を行ってゆく。また、内外にその「近代化」を可視化させる新都造営(新益京:藤原京)を行った。すなわち「日本」建国、「天皇制」確立と言ういわば「大宝維新」を果たした。新生「日本」の「近代化」「文明開化」である。以降、時代を下った16世紀後半の1592年(文禄の役)、1597年(慶長の役)の豊臣秀吉による2度の朝鮮出兵まで、900年余り日本は対外的な戦争、海外派兵を行わない時代を築く。

 対外戦争をやめ、近代的国家の基礎を作り、内政強化に集中するという国の方向転換を果たし、(中華世界とは異なる)もう一つの天帝(天皇)を戴く日本の建国という「大宝維新」「文明開化」をスタートさせた。これが「壬申の乱」の歴史的な意義である。そして、外敵の侵略を受けにくい島国という地政学的立ち位置を生かし、かつ自らは対外戦争を仕掛けないという外交戦略を持った国の形が生まれたわけだ。そしてこれが「王権」を脅かす外国勢力や異民族との戦いの歴史を持たず、中華王朝のような「易姓革命」による王朝交代、王権の簒奪闘争に巻き込まれない、世俗権力から超越的な「権威」を保ち続ける「天皇」という世界にも稀な君主制度を生み出すことになった。これをして「万世一系」(その実態にはなお疑問がありつつも)と称することとなる、「明治維新」の時の「王政復古」の大号令はまさに、この「大宝維新」で成立した「天皇制国家」「一君万民」のレジームの「復活」を謳ったものだった。しかし、皮肉なことに明治以降の日本は、徳川武家政権の鎖国路線という内向きの政策から開国、対外戦争路線へ大きく転換し、西欧列強に負けない国権の帝国主義的拡張に邁進する。「大宝維新」が対外戦争路線を放棄したのとは対照的な道を歩むことになった。大宝と明治ではことなる時代背景(大唐帝国による「パクス唐」の時代、と西欧列強の帝国主義的侵略による清帝国の瓦解)があったとはいえ、その結果としての我が国歴史始まって以来の大敗北。国土が外国軍隊に占領され独立を失った。こうして初めて「天皇制」が危機に直面することになった。そして戦後の「国民主権」「民主主義」という民権中心の国家体制のパラダイム転換の中でも、「天皇制」は我が国特有の統治の「精神的シンボル」、すなわち「象徴天皇」として生き残ることになった。1300年ほど前の「壬申の乱」、天武/持統体制の出現がその基(もとい)であったことを思い起こす。

 このように倭国(日本)は歴史上対外戦争を多くは経験していない国であった。朝鮮半島への出兵/戦闘が三回(4世紀末の対高句麗戦、7世紀の白村江の戦い、16世紀の秀吉の朝鮮出兵)のみである。また6世紀には外交戦略に失敗し任那三県を百済に譲り渡すし、新羅征討計画も挫折した(筑紫磐井の乱の背景になった事件)。このうち前の二回は百済に誘われての軍事介入(半島における鉄資源確保という外交戦略に結びつくのだが)であるが、結果としては破綻している。その後、元寇(モンゴル、高麗)や刀伊(女真族)の入寇など、列島に攻め込んできた外国勢力との水際撃退戦は別にして、異民族との国家存亡をかけた戦争や王権簒奪、海外領土支配、外交交渉などの経験値が積み上がっていない国として存続してきた。あるいは数少ない経験である元寇における「神風」などの戦略戦術と無縁の僥倖による勝利があったがゆえに、ますます神頼みの精神論が幅を利かせ、合理的な戦争論や外交戦略などが議論され経験値、歴史として蓄積される機会がなかった。古代中国の孫子の兵法以来、新たな兵法論や戦略論は日本には発達しなかった。これは世界史的にみれば稀有なことで、ある意味幸せなことであったと言わざるを得ないが、逆に不幸な歴史を歩むこととなる。すなわち「戦争が下手」「外交が下手」という伝統を紡ぎ出すこととなった。そこから生み出される偏った世界観(中華帝国という東アジア的宇宙観に対する「小宇宙日本」)が形成されることとなる。秀吉の国内「天下統一」内乱の延長上の朝鮮出兵を引き合いに出すまでもなく、合理的な戦略(日本人の好きな「戦いの大義」)も終戦後の展望もビジョンもそこには見出せないまま戦争に突入してゆく。長い平和な鎖国時代から突然目覚め、明治以降の富国強兵、アジア諸国への軍事的な進出にも、欧米列強の脅威、なかんずくロシアの直接的な国防ラインへの侵入の危機感はあったが、軍事的、外交的な用意周到さや、客観的な情勢分析による判断、したたかな戦略があったようには見えない。日清・日露の勝ち戦がさらに悪く働いた。両戦争の終戦に向けての外交努力、講和交渉は、その後の太平洋戦争の終戦/停戦戦略に比べるとまだうまくいったが、であるがゆえにがその「うまくいった」認識が悲劇を生む下地になった。
勝ち戦に乗じて次々に戦線を拡大してゆく。精神論に加えて、国力の弱小性、軍事的な劣勢を認識しつつも「一撃講和」という日清・日露戦の勝ちパターンが軍事大国/経済大国(アメリカのような)との戦争に通用する(はずだ)という甘い認識による危険な戦争ゲームに国運を懸けた。外交による停戦や終戦の引き際を客観的に展望しない戦争、すなわち終戦シナリオのない戦争に突き進んだ結果が「無条件降伏」という未曾有の敗戦となった。これは我が国の史上稀に見る貴重な歴史的経験である。二度と経験してはならない歴史である。しかし歴史は繰り返す。人は歴史に学ばない。そんな恐れを抱かせる昨今の情勢である。


筑紫太宰府と大野城
緊張する半島情勢の最前線であった

上空から見た太宰府と大野城
左が大野城、太宰府政庁跡の右側に条坊制の太宰府の街が広がっていた

都府楼跡
桜の季節


大野城の石垣
都市機能ごと移転して籠城することを想定した構造になっていた

大野城の正門太宰府門跡

大野城から展望した水城跡
右方向が博多湾方面
左が太宰府都城域

新益京(藤原京)跡
背景は耳成山
コスモスの季節

藤原京跡

藤原京大極殿跡
今は田園地帯に

藤原京の本薬師寺跡
天武/持統帝の夢のあと
ホテイアオイの季節