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2020年6月7日日曜日

旧尾崎士郎邸に紫陽花を愛でる 〜馬込文士村、ジャーマン通り散策〜



尾崎士郎旧邸
紫陽花が美しい季節になった


コロナ騒ぎでここのところ遠出を自粛している。緊急事態宣言は5月25日に解除されたが、東京都はまだじわじわと二桁の感染者が出続けているので、いつまた二次感染爆発が起きるか心配だ。まだまだ油断はできない。気分的にもまだ遠出を避けたい雰囲気である。

しかしZoom会議と「巣篭もり」ばかりしていると体が鈍るのと、気分的にも晴れない。早くカメラを担いで「山川を跋渉して寧所に暇あらず」と行きたいものだ。遠出がダメなら近場で、というわけで「三密」を避けてご近所散策を心がけている。季節は梅雨入り直前。今回は「人生劇場」の小説家、尾崎士郎の旧邸で咲き誇る紫陽花見物と洒落込んだ。この界隈は「馬込文士村」と言われた地域で、我がソーシャル・ディスタンスならぬウォーキング・ディスタンス内の散策テリトリーだ。しかし考えてみるとこれまで「時空トラベラー」ブログに取り上げたことはない。なぜか?あまりにも近すぎて「時空」を「旅行」している気がしないからか。しかし、こうして外出自粛という形で「巣篭もり」を強いられて、改めて普段の街を歩いてみると、身近なところにいろいろな発見があることに気づく。これが「巣篭もり」生活の成果かも。


1)馬込文士村
「馬込文士村」は大田区大森山王一帯で、戦前に多くの小説家や芸術家が住んだことからそう言われている。この辺りは東京の郊外で、特に関東大震災の後、都心から引っ越してきた人が多く住んだ地域であった。まず大正期に小林古径、川端龍子、伊藤深水などの画家が住み始め、その後広津和郎、川端康成、室生犀星、宇野千代、萩原朔太郎、三好達治、佐多稲子、村岡花子など多くの文士が棲み始めた。特に尾崎士郎は生涯において何度か馬込、山王あたりに暮らし、数多くの文士をこの地に誘い、ダンスや酒宴、麻雀など様々な会合を開いて一種のサロンを形成した。望翠楼がその社交の中心であった。その後八景園などの新しいホテルができ徐々に衰退していったそうで現在はその建物は取り壊されて跡地にマンションが立っている。かつての文士の邸宅跡はほとんどが痕跡もなくなっている。わずかに姿を止めるのはこの尾崎士郎邸と、日本画家の川端龍子の邸宅跡の龍子記念館、書家の熊谷恒子の邸宅跡の熊谷恒子記念館くらいである。その他はただ「かつて在りき」のプレートが示されているだけである。大森駅へ降る八景坂の側壁に「馬込文士村」のレリーフが掲げられている。これだけ著名な文士が数多く住んでいた割には、その「邸宅」がほとんど残っていないのは、駆け出し、文豪を問わず、彼らの収入がそれほど多くなく、生活にも苦労していたためだと考えられる。多くが家賃が安い借家だったらしい。あるいは原稿料は全て他のことに使われて、豪邸を構えるところに回らなかったのかもしれない。それもまた文士らしい「宵越しの金は持たない」人生なのかもしれない。

2)旧尾崎士郎邸
この「文士村」形成に大きく貢献した尾崎士郎はこの山王の邸宅を終の栖とした。邸宅と敷地は現在は大田区が所有し、一部、玄関と書斎部分が復元され「旧尾崎士郎邸宅跡」として一般に公開されている。蔵書の多くは彼の生まれ故郷、愛知県の吉良町に寄贈されているようだが、復元された書斎にその一部が展示されている。さほど大きな敷地ではなく、建物も特筆するような古建築の面影はない。しかし、門を入った正面に紫陽花が咲き誇り、右手には藤棚が、また至る所につつじの生垣が施されていて落ち着いたなかにも明るい佇まいである。庭には、相撲好きであった尾崎が「てっぽう」の練習した大木がそびえている。文士で邸宅が残っているのはこの尾崎士郎邸だけである。尾崎邸の門を出てすぐ左に曲がると徳富蘇峰の邸宅跡、現在は「山王草堂」「蘇峰公園」(これも大田区の所有)があり、これも一般に公開されている。あたりは今でも閑静な住宅街で、少し前までは瀟洒な洋館や立派な和風建築のお屋敷が軒を並べていた。しかし、ご他聞にもれず、最近はこれら「建築遺産」ともいうべき建物が惜しげもなく次々と破壊され、跡地にはマンションや狭小住宅群が立ち並ぶという景観破壊と過密化が急速に進行中である。すっかり城南のお屋敷街の面影が薄れてしまった。

さはさりながら我が家のお気に入り散策コースである。蘇峰公園、尾崎士郎邸、ジャーマン通り、山王邸宅街といくつかポイントを巡ると5000歩ほどの歩数を稼げる。コースには高低差もあるので有酸素運動にもなる。緑と四季折々の花と文化の香りが楽しめるブラパチ散歩コースである。






藤棚

尾崎士郎旧邸
復元された玄関と書斎の一部
「人生劇場」碑
その奥には当時からある井戸が
尾崎士郎邸玄関から山王を望む
この先に徳富蘇峰の旧邸
「蘇峰公園」がある


応接間
JR大森駅に続く「八景坂」
馬込文士村」のレリーフがはめ込まれてる
大森山王のお屋敷
堂々たる洋風建築だ
壊さずに残して欲しい
両隣の邸宅は最近取り壊されてマンションになった
大森山王は坂の多い街
古い木造建築が残るが、ここでも次々と取り壊されていく

3)ジャーマン通り
この大森山王の真ん中を横切るように走る通りがジャーマン通りである。池上通りから環七通りへ斜めカットするように走っている。なぜ「ジャーマン通り」なのか。かつてここにドイツ人学校(Deutsche Schule Tokyo)があり、在日ドイツ人コミュニティーがあったことからこの名がついた。この学校の歴史は古く、明治に横浜で開校したが1925年東京に移り、戦前の1933年に大森山王に校舎が建てられた。その後、1991年にはドイツ人学校は横浜に移転したため、多くの家族が引っ越したようだ。今でも少しだがドイツ人家族が住んでいるし、ドイツ系プロテスタントのルーテル教会がジャーマン通りにあり、かつての「リトルドイツ」の痕跡を残している。大森山王の住宅地や「馬込文士村」のあった地域に近く、無電柱化され、空が広々とした通りには小洒落たパティシエやベーカリー、エスニックな料理を出す店なども在り、ちょっとした街歩きを楽しめる通りになっている。最近、こじんまりしているがおしゃれな古書店もオープンした。

以前、ボンのドイツテレコム(Deutsch Telekom)を訪問した時に、対応してくれた社員が流暢な日本語を話すのでわけを聞いたら、「私は子供の頃大森のジャーマン通りに住んでました」と懐かしそうに話してくれた。彼は「ピンポンダッシュって知ってますか?」と聞く。他人の家の玄関のインターホンをピンポ〜ンと押して、家人が出てくるまでに逃げる、といういたずらだ。学校の帰りに友達とよく遊んだ「ワタシは悪ガキでした」と笑っていた。こうした「ガイジン」のいたずらに近隣住人も悩まされたことだろう。しかし、これを教えてくれたのは日本人の悪ガキだったそうだ。時空を超えたドイツのボンに、ここ大森のジャーマン通りを故郷と懐かしみ、思いをはせている人がいることに心が熱くなったことを思い出す。彼は今頃どうしているのだろう。


ジャーマン通り
無電柱化し街並みがすっきりしている
欧州仕込みのパティシエやパン屋、小洒落たレストランが並ぶ


TOKYO 2020の旗が取り外されることなくはためいている


ルーテル教会


パン屋さん
金子屋敷

蘇峰公園