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2022年9月28日水曜日

江戸城再発見(2) 〜江戸城の遺構を愛でる 「城門」編〜

オフィスビル街との新旧コントラスト

全国の城巡りや城下町巡りは「時空トラベラー」の楽しみであり、格好のブログネタである。これまでもこのブログで、熊本城、福岡城、秋月城、臼杵城、杵築城、姫路城、龍野城、竹田城、高知城、高取城、大阪城、金沢城、松本城、佐倉城などを巡りその感動を著して来た。この所のコロナ禍騒ぎで旅行にも出れなくてフラストレーションが溜まり続けてきたわけだが、しかし待てよ。ふと考えると、地元の城を巡っていないことに気づいた。そう千代田のお城、江戸城である。いまは皇居となっていて、その周辺でサラリーマンとしてこの界隈を東奔西走していたし、余暇にはジョギングしたり、週末にはぶらり散歩したりしたのだが、「城巡り」という視点で探訪した記憶はない。そうだ!ちょっと江戸城探訪に行ってみよう!しかし、江戸城に関する解説や蘊蓄はすでに巷に溢れているわけだから、ここで改めて観光ガイド的な、あるいは歴史教科書的な能書きを繰り返すことはやめよう。と言いながら人が知らないうんちく話などまだないので、結局は人の解説の受け売りになってしまうのだが。


江戸城の遺構イントロダクション

現存する江戸城の遺構は、その構え、濠、石垣、城門、櫓くらいである。江戸城は天守閣が初期にはあったが、明暦の大火で焼失後は再建されなかった。したがって、現在は巨大な天守台が残るのみである。また本丸の表御殿、中御殿、大奥ともに残っていない。各地の城では、天守閣が残っているところもあり、城好きには格好の歴史遺産、観光資源となっているので残念でもある。また、再建天守閣や、また御殿が再建されたところもあるが、江戸城に関してはそのような動きはない。なにしろここは現在では「皇居」であり宮内庁の管理下に置かれた国有財産かつ「天皇の居城」なのである。これが史跡、観光施設として保存修景されている他の城と異なる。宮殿以外も御苑、外苑、公園、自然の森として手入れが行き届いており、しかも、首都である大都会東京の中心部に広大な敷地を有したまま過去の遺構が現在の皇居施設として維持されているところが素晴らしい。このような歴史的な遺構は希少である。ヨーロッパの首都に構えられている王宮は、バッキンガム宮殿のように大体が居館であり、建物や付属する人工的に設計施工された庭園が素晴らしいが、このような都心に広大な自然の森を包含する城は珍しい。

江戸城「惣構え」は、全国の大名を動員した「天下普請」により三代将軍家光の時代、寛永13年(1636年)に完成した。そのうち江戸城の中枢とも言うべき内郭は、本丸、二の丸、三の丸、北の丸、西の丸からなっており、なかでも将軍の政務を執り行う表御殿、居住する中御殿、大奥は本丸に集中、その周りを控屋敷や隠居所や親藩、譜代、御三卿などの重臣の屋敷が取り巻くという構造であった。一方、のちに御所・宮殿が造営される吹上・西の丸は、その敷地は遥かに本丸よりも広大であるが、武蔵野の面影を残す森林に覆われた丘陵で占められている。徳川時代の西の丸御殿は隠居所などに使われ、将軍家や幕府の中枢地区というわけではなかった。

1868年(明治元年)、江戸城は無血開城とともに新政府により接収され一時は「東京城」とされた。明治2年には、明治天皇が京から江戸に行幸(東京奠都)。居所(皇居)を江戸城に定めたことから、これを「皇城」と称した。しばらくは西の丸御殿を宮殿として使っていたが、火災で消失したため、明治21年に吹上御所と二の丸に明治宮殿を新たに造営して「宮城」とした。戦後の昭和23年には「皇居」と改称されて現在に至っている。このように皇居、すなわち御所、宮殿、宮中三殿は、吹上・西の丸に構えられた。なぜ江戸城の本丸をあえて皇居としなかったのだろう。一方で徳川政権の中枢であった本丸、二の丸、三の丸の御殿は破却されて庭園と広場になり、現在では皇居東御苑として市民に開放されている。また北の丸は常時開放された北の丸公園となっている。

徳川家康が大坂の陣で、豊臣を滅ぼし、大坂城を落城せしめた後、豊臣秀吉の大坂城を徹底的に破却し、惣構ごと埋めてしまい、その上に新たな徳川大阪城を築いて、朝廷や上方、西国外様諸大名に睨みを効かせた。一方、明治の「王政復古」では無血開城された江戸城は本丸御殿などの幕府中枢に当たる建物群や大名屋敷を破却したものの、江戸城の内郭構造を生かした皇城、宮城作りを行った。すなわち「王政復古」の大号令を目に見える形で全国に知らしめるために京都から江戸へ行幸を行い、江戸を東京(すなわち東の京都)と改名し、江戸城を宮城とした。とりわけ最後まで新政府に抵抗した東国、東北諸藩に、江戸はこれからは天皇の都であることを可視化させる効果があった。一方でこの江戸の街と新たな宮城は、これまでの藤原京、平城京や平安京などの、中国王朝から取りれた「四神相応」や「天子南面」の方位思想にもとずいて造営された宮都、御所とは異なり、既存の、しかも武家の城郭を利用した新たな宮都であり御所である点が画期的である。


江戸城遺構探訪「城門」編

現在の皇居で江戸城の遺構を順次探訪してみることにしよう。と言っても先述のように、現在確認できる遺構は、内郭の構え、濠の他には、城門、石垣・土塁、そして櫓である。まずは城門の探訪から始めたい。

江戸城には内郭に14門、外郭に18門(一橋門、虎ノ門、日比谷門など)あった。そのうち内郭の馬場先門、和田倉門、竹橋門は地名のみで城門は現存しない。その内郭の城門のうち、今回は桜田門を起点に反時計回りに、皇居正門(二重橋)、坂下門、桔梗門、大手門、平川門、北詰橋門、乾門を訪ねた。これらの城門は基本的には、二門の枡形構造で、大阪城や名古屋城のような三門に囲まれた枡形とは異なる江戸城独特の形式である。

1)桜田門

寛永13年(1636年)の修築。三の丸への内桜田門(桔梗紋)に対して外桜田門とも呼ばれる。第一の門(高麗門)、第二の門(渡櫓門)の2つの門で構成される、いわゆる江戸見附様式の桝形となっている。現存する城門の中では一番規模が大きい。関東大震災からの復興で鉄鋼、土蔵作りに改修された。

なんといっても安政7年(1860年)3月3日の、水戸・薩摩浪士による大老井伊直弼襲撃事件「桜田門外の変」の現場としてもその名が記憶されている。彦根藩井伊家の江戸藩邸がこの桜田門の近くにあり、そこから登城する途中で襲撃された。現在は門前に警視庁があり、桜田門はその代名詞にもなっている。


土塁の桜田濠に威容を誇る桜田門

枡形構造になっている

高麗門

渡櫓門


皇居外苑側からの姿





桜田門の警視庁




2)皇居正門(二重橋)

皇居の正門。もとは西の丸大手門であったが、明治21年(1888年)宮殿造営に合わせ、皇居正門と定めた。もとは枡形門であったが高麗門が撤去され一門に改修された。皇居正門の石橋(眼鏡型)は、かつては木橋であったが、明治20年に石造アーチ橋にかけかえられた。この奥に鉄橋が架けられており。この二つを合わせて二重橋と呼ばれている。おそらく東京で人気の観光スポットの一つ。島倉千代子の「東京だよおっかさん」が懐かしい世代は、ここへ来ると思わず涙が出る。国賓や信任状奉呈の各国大使はここから宮殿に向かう。新年と天皇誕生日の一般参賀のときにはこの正門石橋を渡り、正門から宮殿に向かう。皇宮警察の警官が正門両側に立ち常時警備している。ちなみにバッキンガム宮殿のように衛兵の交替のような儀式があったら絶対に外人観光客に人気の観光アトラクションになると思うのだが。


二重橋全景
鉄橋は石造アーチ橋の陰になっていて見えにくい。後ろは伏見櫓

皇居正門

両脇に皇宮警察官が常駐している

二の丸の高石垣に囲まれている

石造橋の奥に架かる鉄橋






3)坂下門

西の丸の坂下にあったので坂下御門と呼ばれていた。現在は宮殿と宮内庁へのアクセスに一番近い門でいわば通用門として使用されている。叙勲や文化勲章の親授式の時はここから入る。春秋の「乾通り通り抜け」の時の入り口でもある。文久2年(1862年)のいわゆる「坂下門外の変」の現場で、公武合体、和宮降嫁を勧めた老中安藤対馬守が水戸浪士に襲撃されて負傷したところ。



宮内庁の建物が見える
この左奥に宮殿がある

宮殿は門を入ると乾通り左手に




4)桔梗門

皇居外苑から三の丸につながる城門。外桜田門に対し、内桜田門とも呼ばれる。かつては大手門とともに、大名が三の丸、本丸に向かう登城口の一つであった。現在は皇宮警察への入り口となっており、また皇居一般参賀や御苑の管理、清掃奉仕の人たちの出入口としても使われている。



桔梗濠と蛤濠に架かる土橋で繋がっている

富士見櫓と桔梗門と巽櫓が並んで見えるビュースポット



5)大手門

江戸城の正門であった。すなわち将軍の本丸御殿への入り口であった。慶長12年(1607年)藤堂高虎によって完成した。元和6年(1620年)の江戸城修復に合わせて伊達政宗等により現在のような枡形門に作り直された。明暦3年(1657年)の明暦の大火で類焼したが、万治元年に再建された。その後も関東大震災を含む幾度かの地震で損傷を受け、昭和20年の東京大空襲で全焼してしまった。昭和40〜43年にかけて修復工事が進められ、現在のような枡形形式の大手門が復元された。参勤交代の大名はここから出入りした。警備はひときわ厳重で、この門の内側にも御殿までに何回かの検問があった。現在は大番所、百人番所の遺構が残る。大手門の警備は譜代10万石以上の大名家がつとめた。いまも枡形には鉄砲狭間が見える。現在は皇居東御苑への出入り口になっている。


桔梗濠側から見た大手門の全容

大手濠

高麗門からはいると枡形。第二の渡櫓門となる

堂々たる構えの渡櫓門

厳重に鉄板で覆われ、門衛の詰所も備わる

三の丸から本丸へのアプローチには番所が次々と

本丸「中之門」前の百人番所
江戸城最大の番所で、根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組が交代で警備に当たった



6)平川門

本丸の北側の城門。御三卿(清水、一橋、田安)の登城口であった。大奥の女中の通用門でもあった。また別名不浄門とも呼ばれる罪人や遺体を運び出すための出口が設けられていた。ここも門構えは枡形形式で、江戸時代そのままの状態で保存されている。平川橋も往時そのままで擬宝珠は慶長年間、寛永年間のもの。現在は皇居東御苑の出入口の一つである。






こちらも鉄板で厳重に覆われている

平川橋と平川濠
江戸時代のままの構造を今に残す

擬宝珠は慶長、寛永年間のもの


7)北詰橋門

本丸天守台背後に位置する。江戸時代には枡形形式であった。天守に近い重要な位置にあり警備が厳しい門であった。その構造は堅固な高石垣で、橋は濠からはるかに高い位置に設けられている。跳ね橋で通常は上げられていた。石垣は打ち込み積みと野面積み、算木積みの組み合わせで強固で美しい構造になっている。


乾通りからの展望


8)乾門

西の丸から北の丸へ続く門。黒漆の立派な城門である。明治になって建てられた京風の門。西の丸の裏(乾の方角)み位置する。「乾通り通り抜け」の出口になっている。

乾通り通り抜けの時




9)馬場先門と和田倉門

現在は門は無くなっており地名にその痕跡を残すのみである。

馬場先濠を望む
「馬場先門」の地名のみが残る

「和田倉門」
こちらも地名が残るのみ


今回は、半蔵門、田安門、清水門は回りきれなかった。また次回ということで。




次回は、江戸城遺構探訪「石垣・土塁」編をお送りする予定です。


(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4、Lieca SL2 + Vario Elmarit 24-90)