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2023年9月22日金曜日

古書を巡る旅(38)デヴィド・ヒューム「文学、道徳、政治論集」:Essays, Literary, Moral, and Political 〜スコットランド啓蒙主義とは?〜

Essays by Hume

David Hume (1711-1776)
Wikipediaより

デヴィッド・ヒューム:David Hume(1711-1776)は18世紀のスコットランド啓蒙主義を代表する思想家、道徳哲学者、歴史家である。1740年から1790年は「スコットランド啓蒙主義の時代」と言われ、ヒュームをはじめ、ハチソン、ファーガソン、スミスなどが活躍した時代である。しかし、彼の業績と名声はその時代にとどまらない。ヒュームは、ベーコン、ロックなどと並び称される経験主義、懐疑主義の哲学者であり、近代哲学に大きな影響を与えた。それにしても何故このようにスコットランドで啓蒙主義、思想が盛んになったのか。スコットランドから多くの哲学者や経済学者が出るようになった背景には何があるのだろう。

スコットランドは1605年のスコットランド王がイングランド王を兼ねてジェームス一世として即位して以降、イングランドとは共通の王を戴く国であった。さらに1707年にイングランド王国とスコットランド王国の統合法が成立して正式に連合王国になった。アイルランドがイングランドの植民地として悲惨な歴史をたどるのに比べると、イングランドに統合されたとはいえ、スコットランドは、独自の文化を維持し続ける王国であった。そもそも統合以前にはスコットランドとイングランドは、同じブリテン島で国境を接する国でありながら、文化的な交流が少なく、むしろお互いに悪感情を抱く間柄と言って良いくらいであった。スコットランドの知識層は、同じ島の南のイングランドよりは、海を隔てた大陸のフランスの文化に目が向いていたし、18世紀にはフランス啓蒙主義の影響を受け、ルソー、デュドロやヴォルテールなどの人的な交流も盛んであった。そもそも啓蒙思想は、17世紀後半のイングランドのフランシス・ベーコン、トーマス・ホッブスや、ジョン・ロックの経験論哲学、自由主義的な政治思想に始まり、これがフランスの政治思想、さらには社会思想、文芸に影響を与えたものなのだが、その啓蒙思想が、フランス経由でスコットランドの思想家、哲学者達に影響を与えたというのも皮肉なものだ。一方で、「経験主義の父」「自由主義の父」と言われるジョン・ロックの思想は、彼の訓導を受けた、道徳感覚論哲学の源流と言われるシャフツベリー伯爵(第3代、アンソニー・アシュトン・クーパー)を通じて、スコットランドのフランシス・ハチソン、デヴィド・ヒューム、アダム・スミスへと伝わったと言われ、アダム・スミスの「道徳感情論」に大きな影響を与えた。しかし、その肉付けにはフランス啓蒙主義者たちの影響力は無視し得ないほど大きかったようだ。この背景には、イングランドでは、国教会、ピューリタンなどの反カトリック・プロテスタント勢力が強かったことや、王党派に対し共和派や議会派が勢力を伸ばし、議会でもホイッグ党が勢力を持っていたのに対し、スコットランドでは、カトリックの他にフランス・スイスのプロテスタントであるカルヴァン派に源流を持つ長老派が主流(後に国教となる)で、世俗主義的な権威よりも、宗教的権威が重んじられ、王権を重視し、イングランドの名誉革命における反革命分子ジャコバイトが勢力を持っていた。政治的にも保守的なトーリー党が主流であったスコットランドは、フランスの絶対王政の影響がまだ色濃く残っていた。イングランドで始まった、ロックによる自由主義的な政治思想は、宗教的な権威、神の意思よりも人間の理性を重視する、そして人間の理性は生得的なものではなく、経験によって獲得されるものである、という経験論的な哲学が、反宗教権威、反絶対王政の機運高まるフランスの啓蒙思想家経由で、スコットランドに入ってきたというのも理解できる気がしないでもない。やがてフランスでは、啓蒙主義思想、経験主義は絶対王政打倒のフランス革命の思想的なバックボーンとなってゆく。

一方で、スコットランド啓蒙思想は、フランスとは異なり、学界、アカデミアがリードした。この中心になったのがスコットランドの伝統的な大学(Ancient Scotish Universities)である、エジンバラ、グラスゴー、アバディーン、セントアンドリュースであった。イングランドのオックスフォードやケンブリッジとは異なる歴史を有する大学である。このようにスコットランド啓蒙主義の主役は、フランシス・ハッチソン、アダム・ファーガソン、アダム・スミス、デュガルド・スチュワートなどエジンバラ大学、グラスゴー大学の哲学や倫理学を教えていた教授達であった。しかし、デーヴィッド・ヒュームは、後述のように一度も大学に教職を得たことがない学外者であったが、彼らに大きな影響を与えた。また、スコットランドの学者たちの関心は、フランスとは異なり、政治思想よりも、道徳哲学、経済学であった。すなわち、経済成長と資本主義、国際貿易と都市ブルジョワジーの問題が最大の関心事で、資本主義の貪欲性が、人間の共感力や道徳といった伝統的な美徳と相容れるのか、「個人の欲望」と「公共善」とはどのような関係を持つべきか、などという問いであった。まさに道徳哲学から経済学が生み出されてきた土壌であるともに、彼ら自身がこうした啓蒙主義思想の土壌を耕した。

そもそも啓蒙思想とは、Enlightment(英語) Lumieres(仏語)、すなわち「ひかり照らす」という言葉を語源とする思想で、中世的な神学の世界ではなく、人間の理性による思考の普遍性を主張し、超自然的な偏見を取り払うというものである。暗黒の中世に光を照らす、というわけだ。中世キリスト教世界からギリシア、ローマの古典に還るルネッサンスのムーブメントから引き継がれ、自然科学、科学革命、近代哲学と連動する思想である。経験論的な認識論、政治思想、社会思想、道徳哲学、経済学、文芸活動を含む幅広い思想である。

ヒュームははエジンバラ大学に12歳で入学、そして2年で退学。大学で学ぶことはなにもないと感じたからだという。フランスにわたり、「人間感性論」A Treaties of Human Nature(1739−40年)を著す。これが彼の最初の著作であり、今なお啓蒙思想における重要な著作であり不朽の名著である。しかし、ロンドンで出版された当時、この論考集は学界では無視され、無神論、懐疑主義的だとして排斥すらされた。そのため、ヒュームはエジンバラ大学、グラスゴー大学の教職に応募するも、ことごとく拒絶された。後に、この「人間感性論」を再編集した、新たな論考を加えた、一連の「文学、道徳、政治学論集」Essays, Litarery, Moral, Political(1741〜1758年)を出し、ようやく認められて、本も売れはじめた。それでも大学における教職を得ることはできず、1752年になってようやくエジンバラ法曹協会図書館長の職を得る。このときの膨大な読書を元に、「イングランド史」全6巻という大著を著し、歴史家としても高い評価を得るようになる。その後は度々フランスに渡り、ジャン・ジャック・ルソーなどフランスの啓蒙思想家たちと盛んに交流した。後に決別するが、ルソーをスコットランドに招聘している。またアダム・スミスの良き理解者でもあった。しかし、スコットランドで最も優れた哲学者が大学の哲学教授になることは終生なかった。これこそ大学アカデミズムにとって皮肉の最たるものだろう。

ヒュームの学問体系は、人間学:The Science of Manであり、人間の本性:Human Natureの探求に関するものであった。宗教や神に代わる真理の根源を人間自身に見出す。その方法論として、ベーコン、ロック、ニュートンの伝統的な経験と観察:Experience and Observationによる探求、帰納法という 科学的方法論を重視した。ニュートンの革新的な自然哲学:Natural Philosophyに影響を受け、その思想と方法論を駆使して遅れていた道徳哲学:Moral Philosophyを進化させた。その第一の書が「人間本性論」であり、その後に続く様々なエッセイ集、文学論集、道徳論集、政治論集により論考を進化させていったである。まさに経験論者であり哲学者であるヒュームは、他のスコットランドの啓蒙思想家の中でも抜きん出た存在であった。アダム・スミスの良き理解者で親友であり、彼の重要著作である「道徳感情論」や「国富論」に大きな影響を与えたことが知られている。また後年のジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルなどに大きな影響を与えた。ヒュームの影響を受けた歴史上の人物は数知れず、エマニュエル・カントもその一人である。彼はスコットランド啓蒙主義の時代を代表するというだけでなく、その時代と国を超えて、世界に大きな思想的影響を与えたスコットランド人である。

手元にある本書は「文学、道徳、政治論集」3巻:Essays, Literay, Moral, Political(1741−1758)の、19世紀になってからの復刻版である。原本は「人間本性論」:A Treaties of Human Nature(1739-1742)であり、そこから後に再編纂された彼の経験論、科学的方法論、道徳哲学に基づく様々なテーマについてまとめた論考集を忠実に復刻したものである。ロンドンのWard, Lock, and Tylerによる刊行であるが、出版年の記述がない。ただ、この出版社は1865年〜1873年にロンドンで出版事業をしていた事がわかっているので、この間の出版と考えられる。19世紀の書籍に特徴的な、ハーフ・カーフ、マーブル・ボード、ファイブ・レイズド装丁の美しい本である。本書はCiNiiによると日本では、東北大学、東京大学、横浜国立大学、岐阜大学、神戸大学、九州大学の附属図書館が所蔵している。