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2009年12月28日月曜日

大航海時代 東と西の遭遇 〜ウィリアム・アダムスの生きた時代〜

 久しぶりにSamurai William(Giles Milton)の和訳本「さむらいウィリアム−三浦按針の生きた時代ー築地誠子訳)を読んだが、原著が読みたくてAmazonで注文。届いた「Samurai William The Englishman who opened Japan」はなかなか素敵な装丁の本。挿画がいい。日本の南蛮屏風絵や多分イエズス会の伝道師か、オランダの商人が描いたと思われる日本の17世紀初頭の光景が新鮮だ。腹切りや、キリシタンの処刑の光景があるかと思えば、大阪夏の陣冬の陣の現場リポート風挿画、江戸城や壮大の江戸市中の光景。平戸の漁師の姿。家康の軍隊の装備など、描き方が泰西名画的で、日本ではないような感じだが、逆に当時の日本人が描いた南蛮屏風に登場するポルトガル人や、スペイン人がこれまた異様な風体に描かれているのと対比できて面白い。もちろんこうした出来事は史実としては知っているが、当時はるばるユーラシア大陸の西の端からやって来た西洋人の目で見た日本が可視化されていて、まさに時空トラベラーの視点が新鮮だ。冒険的商人、航海士らがロッテルダムの港を出て以来、様々な未知の土地で、海域で危険と遭遇しながらの航海。ようやく東の果てに見た伝説の国ジパングを「野蛮人の群れをかきわけて進んだ末に到達したもうひとつの文明国」とみている点にも興味がそそられる。当時の日本は戦国時代。おぞましい内戦が長く続く混乱の時勢であったにもかかわらず。

 当時の地図を見ると日本は不思議な形状の島として描かれている。彼らが頼りにした日本の地図はおそらくイエズス会の宣教師が持ち帰ったものを元に、オランダやベルギーあたりのメルカトール、オルテリウス、ヤンソン、ブラウ等の地図製作者(カートグラファー)が人の話を聞き、想像で描き足したものだろうといわれている。宣教師が入手した元の日本地図が何だったのかは謎だが、研究者によれば、さかのぼること奈良時代の僧、行基が作った行基図が元では?といわれている。8世紀から17世紀まで日本には正確な地図はなかったのあろうか? ともあれ、私がロンドンで買ったQuadのAsiaという地図(1600年出版ケルン)には日本がサモサ様な形で描かれている。良く見ると九州、四国、そしてミヤコのある近畿地方、すなわち瀬戸内海、大阪湾部分のみが描かれ、その他は適当に線を引いた、という感じの地図になっている。当時の西洋人が知りえた「日本」の範囲がわかって面白い。ちなみに、九州にはFacataという街が記されている。その後やはりロンドンで入手したヤン・ヤンソンのIapanの地図では、北海道を除く他の日本列島が描かれており、都市や国名がMiakko,とか、Tonssa, Bungo,などと記されている。都市や国以外では石見銀山の位置が記されており、世界史的にも重要なランドマークであったことを示している。朝鮮半島は島なのか半島なのかいまだ不明、と注記されている。

 East encouters West. 初めて日本に到達した西洋人は種子島に漂着したポルトガル人だといわれているが、その後ザビエル等のイエズス会宣教師が次々と来日する。そしてイギリスの航海士William Adamsがオランダ船Liefde号で豊後府内に漂着する(目的を持って日本に来たらしいが,到着の様子は漂着に近かった)。この頃のオランダはヨーロッパの強大な帝国スペインからの独立直後で、いよいよ海洋国家として世界に羽ばたいた時期。イギリス人もその冒険的なオランダ貿易船に乗船していた。Adamsの出身地ロンドン郊外のギリンガムには小さな石碑が建っている。日本では三浦按針として歴史に名を残し、三浦半島に領地を得て「サムライ」となったイギリス人時空トラベラーも母国イギリスではあまりたいした歴史的扱いを受けていないと見える。

 この当時の日本における、いわゆる西洋人の出入りを見ていると、16世紀後半から17世紀にかけてヨーロッパにおける、スペイン、ポルトガルといった大航海時代の先進国、カトリック国(日本人がいう南蛮人)と、オランダ、イギリスのような新興国、プロテスタント国(紅毛人)が大きな時代の流れの中で激しく世界市場の利権を争っていた時代が反映されていること分かる。何故、最初に種子島に漂着した西洋人がポルトガル人だったのか。 何故その後イエズス会宣教師が日本に来て、やがて禁教令で去らざるを得なくなり、代わって新興国のオランダが日本に進出して平戸、長崎出島にとどまることが出来たのか。何ゆえイギリスは平戸に商館を開いたのに、著者の表現を借りるならば、「まるで日本になぞにいたこともなかったかのように」いなくなったのか。

 そして240年後の19世紀に入り、鎖国日本の小さな窓、長崎から外界をのぞくと、いつのまにかAdamsが警戒し、徳川将軍が排除した旧教勢力は日本の周りからすっかり姿を消し、スペインはフィリピンに、ポルトガルはマカオにプレゼンスを確保するのみであった。もはや大航海時代を切り開いた覇者の姿はなくなっていた。代わって新興海洋帝国オランダが平戸に長崎に進出した。彼等はバタビアに東インド会社の拠点を置いてジャワ、モルッカ諸島(香料諸島)などの現在のインドネシアを植民地とした。オランダにやや遅れて日本進出を果たし、しかしオランダとの日本における覇権争いに負けて平戸を後にしたあのイギリスは、中東からインド、ビルマ、香港、さらにはオーストラリアを有する広大な世界帝国に発展していた。そして新世界からはイギリスからの独立を果たしたアメリカという新興国が太平洋に進出してくる。世界地図はすっかり塗り変わってしまっていた。

 日本はこうした世界の激動の中で240年国を閉ざし、曲がりなりにも平和を維持してきた。これはある意味世界史の不思議だ。 徳川政権の先見性なのか? あるいは歴史の偶然なのか? 伝説の国、黄金の島ジパングはあまりに遠すぎて忘れられたことも幸いしたのか? William Adamsは日本を世界に開いたはじめてのイギリス人と紹介されているが、同時にスペイン、ポルトガルの帝国主義的野望から日本を守り国を閉ざさせた(彼の意図ではなかったかもしれないが)イギリス人でもある。また皮肉にも彼の母国であるイギリスの日本での活動を支援しなかった人物でもある。平戸のイギリス商館が閉鎖され商館長コックス以下商館員が全員日本を去った後にロンドンへ帰還できたのはタダ一人の商館員だったといわれている。後にイギリス東インド会社が再び日本へ進出を企てた時に、彼は会社からの誘いを断り、その結果日本進出計画は破綻してしまった。結局、明治維新まで長崎に残った西洋人はオランダ人だけだったのだ。歴史に「たら」「れば」はないが、その時イギリスが再び日本に進出していたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。この意味においてもこのイギリス商館員はAdams同様、結果的に(勿論意図せず)日本をイギリスの世界帝国の野望から守ったのかもしれない。歴史の皮肉としか言いようがない。

Orteliusのアジア地図.真ん中上部のオタマジャクシのような列島が日本

アダムスのリーフデ号はロッテルダムを出港し、西周りで豊後府内(現在の大分市)に到着した。
というより「漂着」と言ってよい有様であった。


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