ページビューの合計

2010年1月12日火曜日

大和五條 新町通りの時空散策

年明けの時空旅は、奈良県五條市。ここには「新町通り」という歴史街道が延々1キロ以上に渡って続いている。江戸時代の町並みを今に残していることで有名だ。初めて訪れた。伝統的建造物群保存地区にも指定されていないが、その町家の数と、紀州街道沿いの町並み景観の保存状況は,文字通り江戸時代にタイムスリップしたような体験をさせてくれる。大和、河内にはこうした町並みがあちこちに良く残っている。今井町、大宇陀松山、富田林、大和八木、郡山、高取など。

さて,五條へ行くには結構不便。今回は近鉄鶴橋駅から近鉄大阪線で大和高田まで行き、そこでJR和歌山線に乗り換える。一時間に一本の和歌山行き2両編成のワンマン電車(電化されてるが単線)は、左右に金剛山系と吉野の山並み、高野山を見ながら、吉野川(紀ノ川)沿いを瀑走する。揺れがすごいが景色が素晴らしい。車両は旧山手線、中央線各駅停車、大阪環状線で活躍した往年の名車達。第二の人生という訳だ。途中吉野口で近鉄南大阪線と、また橋本で南海高野線と接続している。奈良県は本当に「奥深い」県だと痛感。

さて、ここ五條は歴史上の大きな出来事に関わるヒストリアがあちこちにちりばめられていることに驚く。

まず、明治維新の魁、天誅組の乱の発祥の地である。桜井寺を本陣とし、幕府の五條代官所を襲撃して代官はじめ6名を殺害し、一時五條政府と称していた。これは孝明天皇大和行幸に先駆けて決起する尊王攘夷クーデター。結局京都での尊王攘夷派は破れ天皇行幸がなくなってしまい、はしご外された天誅組は転戦の後、幕府2万の兵に取り囲まれ抹殺される。しかし、これが明治維新に向けての尊王攘夷運動の先駆けとなったことは我々も歴史で習った。

次に、この歴史の町並み、新町通り。ここは関ヶ原後に大和二見城に入城した松倉重政によって建設された商業地区であった。多くの町家が立ち並び、殷賑を極めた。今井町や富田林のような寺院が中心となって集落が形成された寺内町ではなく、大宇陀、高取のような城下町として建設され,後に城が破却された後も街道沿いの商業地として発展した町である。新町通りの半ばくらいに西方寺という寺があり、その小さな広場に松倉豊後守重政の顕彰碑が地元の人々によって建立されている。

しかし、松倉重政?! どこかで聞いたような…..
もしかして、あのキリシタン弾圧、苛斂誅求で歴史に悪名轟く暴君の肥前島原藩主松倉重政? 島原の乱を引き起こす原因を作ったあの男? そうその通り。その男はここにいたんだ...

松倉重政はもともとは大和郡山の筒井順慶配下の武士。関ヶ原では東軍で参戦。家康にその武功を認められて、ここ大和五條1万余石を領地として拝領。その後、大坂夏の陣ではいち早く豊臣方の郡山城を攻めて活躍。今度は肥前島原4万3千石城主に出世。大出世ではないが戦国生き残りゲームの中くらいの勝ち組だろう。

島原では小藩の規模に似合わぬ壮麗な島原城を築き,今日までその町割りを残す立派な城下町を整備。そしてこの分不相応な町づくりの為に地元農民から徹底的に年貢を搾取したことで有名。その後、三代将軍家光のキリシタン禁教令、追放令が出るや、残虐な方法で領内のキリシタンを弾圧、処刑。さらには長崎奉行所にまで提案して長崎中のキリシタンを雲仙阿鼻叫喚地獄に集めてで殺戮した。彼の死の7年後には島原の乱が起きており、その原因を作った暴君とされている。彼は57歳で急死している。あまりの苛烈さに幕府の間者に暗殺されたとの噂さえある。

ありがちではあるが、跡を継いだその息子は凡庸で、いかにもどうしようもない2代目。しかし、領民に対する容赦ない税の取り立て、苛斂誅求さとキリシタン弾圧の苛烈さは父にも勝るとも劣らぬモノだった。結局、江戸幕府開闢以来、最大かつ最悪の反乱、島原の乱が起きる。全国から集められた幕府軍の原城攻略で乱は鎮圧したものの、その責めを問われて松倉家は断絶。武家としては後世に恥を残す斬首刑に処せられる。

ここ五條では名君としてその遺徳をしのぶ為に石碑が建てられている。大和二見城主であった期間はわずか8年しかなく、その間にこうした町割りを作ったのは功績であろうが、領民を搾取する間もなく、出世して肥前島原にご栄転になったのだから,五條の民には良い思い出しか残っていないのだろう。肥前島原の領民はその苛政に苦しんだというのに。

悪名高いキリシタン弾圧も最初のころはそれほどの厳しさはなかったようだが、いざ幕府から取り締まり強化の指示があると、「そこまでやれとは言ってないだろう」といわれるくらい、期待以上の弾圧で幕府に存在感をアピールする。要するこの松倉という人物、時の権力者に取り入って、おもねることで出世するタイプに見える。その為には下に無理難題を押し付けてはばからない。良く出来るが「上を見て,下を顧みない」現代の管理職の一類型みたいな人間だったのだろう。

もうひとつのヒストリア。ここには未完成の旧五新鉄道線のアーチ橋が残る。新町通りを横切る形で高架橋が吉野川に向って伸び、突然川岸で途切れている。奈良県五條市から和歌山県新宮市までの鉄道新線計画!! 明治期に構想され、戦前から建設が進められ,戦後に至って鉄道建設公団により工事が継続されたが、吉野川橋りょうの所で工事が中止されてしまう。

国鉄が、採算性とは無関係に次々と建設される新線の経営を押し付けられて,ついに破綻してしまったことは戦後の政治と官僚と経営が、バラバラにそれぞれの思惑で自己実現を果たそうとした公共事業、官業の無責任さの典型として語られる。その「産業遺産」がここに残っている。

しかし、このアーチ橋、アッピア街道を横切るローマの水道橋のようで美しいのが皮肉だ。新町通りの歴史的景観を破壊してないのが面白い。こうした「負の産業遺産」も時代とともに熟成し,発酵して古い酒と混じりあって独特の味わいを醸し出してゆく。歴史の積み重ねというものだろう。