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2014年2月21日金曜日

「筑紫の日向(ひむか)」は何処? 〜天孫降臨の地を探す〜

 記紀神話によれば、アマテラスの誕生の地、その孫のニニギ天孫降臨の地は、「筑紫の日向(ひむか)」であると記されている。すなわち律令時代の日向国、現在の宮崎県高千穂地方である、というのが定説になっている。しかし、以前「アマテラスは宮崎出身?福岡でなくて?」で考察したように、アマテラスと天孫族が穀霊神に繋がる稲作農耕神である事を考えると、弥生時代の最初期の稲作農耕遺跡(板付遺跡、菜畑遺跡など)や、その農耕集落の発展形たる、倭国連合のクニグニ/都邑の遺跡(須玖岡本遺跡、比恵遺跡、三雲南小路遺跡、吉野ケ里遺跡等等)などの考古学的な物証が集中している北部九州こそ我が国の稲作農耕文化の発祥の地であり、葦原中津国であったのではないかと思わざるを得ない。

 そう思っていたら、歴史学者のなかにも「筑紫の日向(ひむか)」は北部九州であろう、という説を唱えておられる方々がいる。なかでも上田正昭先生は、著書「私の日本古代史(上)」のなかで、やはり「韓国に向い...朝日の直射す...」は朝鮮半島が望める地域、すなわち奴国や伊都国の辺りの北部九州だろうと。また、田村圓澄先生も、著書「筑紫の古代史」のなかで、穀霊神や天孫降臨神話は朝鮮半島の新羅、伽耶辺りの王権神授説を指し示す神話と共通する点が多いとする。北部九州にそうした伝承が(稲作農耕文化伝来に伴って)引き継がれて来たのであろうか。

 水稲農耕文化である弥生文化が朝鮮半島を通じて大陸から伝わった北部九州の筑紫は、まさに倭国黎明期における経済/文化の最先進地域であったことは間違いない。ここから、縄文的な社会を形成していた日本列島を東へと、徐々に弥生文化は伝搬していった。であれば、7世紀後半8世紀初頭に編纂された記紀(八百万の神々の上位に立つ皇祖神の創出、各地豪族の神々の体系化、天皇支配のレジティマシーの可視化)で創出された天孫降臨神話(「日向神話」)は、「弥生水稲農耕神であるアマテラス(天つ神)の孫ニニギノミコトが、筑紫(北部九州)に降臨した(渡来した)物語である」と理解されてもおかしくないであろう。むしろ縄文世界を色濃く残す熊襲、隼人の地である南九州、しかも記紀編纂時点でもヤマト王権に服従しなかった地を、皇祖神誕生の地、天孫降臨の地、ヤマト王権のルーツとする方が不自然であろう。

 また「国譲り神話」の舞台である出雲は、背後に筑紫勢力の存在があり、筑紫の水稲農耕文化伝播の痕跡が至る所に見いだされる地域である。出雲在地の粟、稗畑作農耕神(縄文世界)の「国つ神」大国主一族が、筑紫に天下ってきた(渡来した)「天つ神」、水稲農耕神(弥生世界)たるアマテラス一族に「国を譲った」(縄文世界から弥生世界へ転換した)、とする形で語られた方が筋が通っているように思う。

 また、上田先生は、記紀が編纂された7世紀後半から8世紀初期は、まだ律令制下の日向国は成立していない時期であること、記紀の国生み神話にも筑紫国、豊国、肥国、熊曾国は出てくるが、日向国の存在は語られていないことから、「筑紫の日向(ひむか)」が現在の宮崎県・鹿児島県であるとは言い切れないとしている。ニニギノミコトが降臨した地は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」で、「此地は韓国に向ヒ、笠沙の御岬にまき通りて、朝日の直射す国、夕日の日照る国なり。故、此地はいと吉き地」だと語られていることから、韓国(からくに)に向かう地は北部九州だろうとする。アマテラス、ツクヨミ、スサノオ三貴子がイザナギの禊で生まれたとする「筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あはぎはら)」も北部九州のどこかである可能性があることになる。ちなみに福岡市には日向(ひなた)峠や小戸(おど)海岸(小戸神社がある)、糸島市にはクジフル山の地名がある。

 記紀に、「筑紫神話」が無い、筑紫が国の発祥の地、ヤマト王権、皇統のルーツであるとする認識が無いことを,以前から不思議に感じていたが、天孫降臨神話すなわち「日向神話」と言われる神話そのものが「筑紫神話」なのであるとしたら、その疑問は解消されることになるのだがどうであろう。邪馬台国が3世紀時点で九州にあったのか、近畿にあったのかはともかく、それ以前から弥生稲作農耕国家(クニ、都邑)は北部九州に多く発生していた。特に魏志倭人伝に記述があるように、2〜3世紀には北部九州(玄界灘沿岸から有明海沿岸まで)に倭国連合の主要なクニグニがあった。さらに紀元1世紀には奴国王のように後漢に倭国の王として柵封されていた(後漢皇帝の金印を受けていた)クニがあった。それがある時点で文化/経済/政治の中心が北部九州から近畿奈良盆地へと遷っていった。それが何時で、なぜ、どのように、という点は依然、謎に包まれているのだが。天孫族の子孫とされる神武天皇が筑紫を出て、新天地大和へ東征したエピソードも、こうした弥生文化の東遷を後世に物語化したものかもしれない。

 奈良盆地に広がる豊葦原瑞穂の国の原風景が、筑紫平野のそれとオーバーラップするのは、かつてそうした遷移があった事の暗示なのだろうか。デジャヴである。




(古代奴国、現在の福岡市上空。右手が博多湾、下に那の津大橋が見える。古代筑紫の面影は、今や150万都市の街中に囲い込まれてしまった緑の荒津山(西公園)くらいだ。遠景は古代伊都国のあった糸島半島である。)




(志賀島。漢倭奴国王の金印が発見された島。また海人族である安曇一族の発祥の地。一族の氏神、志賀海神社はこの集落の中にある。博多湾を取り囲む砂州で本土と繋がる陸繋島だ)




(「韓国に向い....朝日の直刺す国、夕日の火照る国なり」。ニニギノミコトが天上界から降り立った時に見た地上界の光景は、まさにこれだったのかもしれない)




(福岡市シーサイド百道から、夕日に映える糸島半島のランドマーク加也山(かやさん)を望む。古代伊都国の残像、その名は、朝鮮半島の伽耶(かや)は加羅(から)から来ていると言われる。故郷を懐かしんで命名したのであろうか)