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2022年3月8日火曜日

古書を巡る旅(21)Paradise Lost: ジョン・ミルトン「失楽園」 〜禁断の果実を食べた人間はどのように賢くなったのか?〜

 








今回の古書は、ジョン.ミルトン:John Miltonの「失楽園」:"Lost Paradise" Newton版1749年初版を取り上げる。比較的平易な文体で記述されているとされるが、古英語での表現は決して平易でわかりやすいとは言えない。まして彼独特の詩表現の文体である。かと言って日本語訳(岩波文庫ほか)から入ると、その訳者の理解に左右されるし、原作者の息遣いが感じられないので、まずは原書から入ろうと無謀にも考えた。やはり無謀であった。結局は日本語訳との対比で読み進めることとなった。しかし古書の良いところは、少なくとも、ページを開いた時に部屋中に充満するその時代の空気を感じることである。「時空の旅行者」にとってはそれを感じる旅もまたよし、だ。

ジョン・ミルトン:John Milton (1608~1674)

あらためて言うまでもなくイギリスの文学の巨匠として名を上げられる人物の一人でシェークスピア、サミュエル・ジョンソンなどと並ぶ時代の画期をなす詩人である。1608年ロンドン生まれ。裕福なプロテスタントの家に生まれ、ケンブリッジ・クライストカレッジ出身。卒業後はヨーロッパ各国を遍歴し宗教改革者カルバンのジュネーヴも訪ねている。1642年のピューリタン革命ではクロムウェルの共和派を支持。また英国国教会を押し付ける国王に反対し、ピューリタンとしての信念を貫いた。国王チャールズ一世の処刑を支持し、革命後は共和制の護民卿クロムウェルのラテン語秘書官となった。17世紀中葉のイギリスは王政打倒、共和政、そして王政復古。さらにはカトリックと英国国教会の相剋、それに反発するピューリタンと、政治上も、宗教上も激動且つ混迷の時代であった(後世イギリス革命の時代と呼ばれた)。しかしミルトンは一貫して共和派、ピューリタンの立場を貫き、多くの詩や散文など著作を発表。イギリスの文学史上に一つの画期をなした。しかし、クロムウェルの死と、チャールズ二世の即位による王政復古とともに反王党派として投獄され苦難の時期を歩む。処刑は免れたが心身を健全を損なう日々のなか失明。そんな中、1665年から創作に取り組んだ長編叙事詩「Paradise Lost:失楽園」を1667年に完成させた。口述筆記での著作である。ダンテの「神曲」とともにキリスト教文学の最高峰と言われる。ちなみに日本では江戸時代初期で三代将軍家光治世。島原の乱、バテレン/ポルトガル人の追放、オランダ東インド会社の長崎出島移転などの「鎖国政策」総仕上げの時期である。徐々に世の中が安定し始めて庶民の文化を中心とした江戸文化が広まりつつある時期である。歌舞伎が庶民の間で人気となり、荒事の市川團十郎の江戸歌舞伎、和事の坂田藤十郎の上方歌舞伎が盛んになった時代でもあった。

我が手元にある本書は18世紀半ば、1749年初版となるトーマス・ニュートン:Thomas Newton(1764~1782)編纂の、いわゆる「ニュートン版」の第9版(1790年)である。ミルトンの初版1667年から123年後に出版された。ニュートンは聖公会のの聖職者で、ブリストル聖堂の大司教:Bishop of Bristol (1761~1782) 、ロンドンのセントポール大聖堂の主教長:Dean of St.Paul's(1768~1782)であった人物。2巻からなる本書には、12章(Twelve Books)の詩編が収められ、ニュートンによる献辞、巻頭言のほか、多くの批評家によるミルトンの評伝や、この叙事詩への批評、注記が寄せられていている。この出版の時代背景としては、啓蒙主義の時代であり、やがてイギリスは1770年頃から勃興した産業革命、アメリカ独立宣言(1776)、フランス革命による王政の終焉(1789)があった。すなわち「共和制」誕生という、絶対王政やキリスト教の権威の見直しが始まった時代であったと言える。

「失楽園」は、旧約聖書創世記第三章で語られる神とサタンの戦いの物語を題材とした長編叙事詩である。前半は天上界の神と、地獄へと追放された堕天使(サタン)の戦いが描かれている。後半にはあのアダムとイヴの話が出てくる。神と対立した堕天使ルシファー(サタン)に唆されて「禁断の知恵の実」を食べた最初の人間イヴと、イヴに勧められてやはり禁断の実を口にしてしまったアダムが神により楽園を追放される。それを受け入れて楽園を出てゆくアダムとイヴ。人間はこうして知恵を得たが故の苦難の道を歩むことになる。やがては神の恩寵により救済される。人間の原罪と神の恩寵というキリスト教の原点の物語である。聖書ではここから天地創造と神の律法の物語が始まる。ミルトンはこの聖書の創世記をそのままコピーして取り上げているのではなく、聖書の他の物語も巧みに取り入れながら彼なりの物語としてややパロディ風に脚色している。それは詩集というよりは、一つの戯曲のように感じる。その最初の「失楽園」の物語には、ミルトンが描いた人間の苦悩の始まりと強さ逞しさとともに、人間社会への幻滅、悲観、軽蔑、そして警告が込められている。またミルトンはダンテの「神曲」の描き方に強い敬意を持ちながら、彼のカトリック的な世界観には厳しく批判を下している。偉大なる詩人は偉大なる先達を尊敬しつつ、それを批判的に乗り越えようとするものである。


ミルトンが影響を与えた人物

同時代のジョン・ドライデン:John Dryden(1631~1700)もミルトンを敬愛した詩人の一人である。ケンブリッジの23年後輩で、王室桂冠詩人として活躍し、「ドライデンの時代」と言われる画期をなした大御所である。彼はミルトンと同じピューリタンに改宗し、またクロムウェルの共和派であった、クロムウェルの葬儀にはミルトンとともに参列し、彼を顕彰する詩を送っている。しかし彼は、王政復古とともに王党派に転向し、またプロテスタントからカトリックに改宗するなど、その時代の主流に靡くという「日和見的」傾向にあった。やがて名誉革命などの政治的激変に伴い、桂冠詩人としての地位を追われ、失意の人となるが、晩年にはミルトンの「失楽園」の戯曲化に取り組むなど、ミルトンへの尊敬と敬愛を示した作品を生み出した。2021年11月17日「古書をめぐる旅」(17)ジョン・ドライデン「聖ザビエル伝」

もう一人は以前に紹介したイギリス・ロマン派の詩人ウィリアム・ブレイク:William Blake(1757~1827)である。彼もミルトンに大きな影響を受けた詩人である。彼の予言の書、詩集「ミルトン」では、偉大なるミルトンの姿を自身に投影し、壮大な物語を紡ぎ出すという、彼独特の詩表現を披露している。この詩集の序章で掲げられている予言の書「エルサレム」は、現在でもイギリスの愛国歌として人々に慕われていることは、以前のブログでも紹介した通りである。ただ彼自身の解釈では、ミルトンもシェークスピアもギリシアやローマ/ラテンの古典に毒されていると批判的に捉えている。こうした古典文学は聖書を誤って引用したものが始まりで、そうした古典に影響されたシェークスピアもミルトンも彼にとっては批判の対象であり、あるいは古典を重視する学界や文学界をも厳しく批判されるべしとする。そして聖書に描かれる聖なる都「エルサレム」はこのイングランドの地にこそ打ち立てられるべきと歌ったのがあの「エルサレム」である。ダンテを超えようとしたミルトンと同様、ミルトンをを超えようとしたのもブレイクであった。2021年9月8日「古書をめぐる旅」(14)「ウィリアム・ブレイク詩集


「惟神の道」から眺める「失楽園」の景色

しかし、「失楽園」と聞いて、あの不倫小説を思い出す俗世の煩悩にまみれる現代の日本人にとって、このミルトンの長編叙事詩「失楽園」の深淵はなかなか難解である。最近流行りのアニメ作品のゲーム風に活劇ストーリーを追うだけなら面白い読み物なのだが。そもそも神とサタン(と言っても元は神の使いであった天使)の戦いのなかで、人間がサタンに利用され争いに巻き込まれて神に反逆するが、やがて神によって許される。誘惑と裏切りという人間世界における生々しい争いを神の世界に投影した話が聖なる書の冒頭を飾っているわけだ。ミルトンの「失楽園」は必ずしも聖書のコピーではなく彼一流の脚色がある。例えば彼は天上界の神に戦いを挑む地獄のサタン、ルシファーを一種の英雄として描いている。サタンの誘惑に負けた人間の弱さも裏を返せば強かさの表れであるとも描いている。それでもその基底には当時のキリスト教における宇宙観がある。すなわち唯一の天地創造主と、迷える愚かな人間、原罪を背負った人間、預言者の出現と神の愛による救済という信仰の姿である。そうした創造主である神と非創造物である人間という関係性の受容が前提となっている。この天地創造の序章としての物語は、一見、我が国における古事記の「神代」最初の物語を想起させる。イザナギ/イザナミという男女二神の「国産み」神話である。原初の神が人間臭いところは共通するところはあるが、しかし、この二神の行いがのちの人間の業や煩悩の初源という捉え方はない。人間が原罪を背負って生きるよう運命付けられたというストーリーはない。また八百万の神々のルーツと神の系譜の体系化は出てくるが人間のルーツは語られてはいない。人間で出てくるのは「神代」につながる「人代」の天皇家やそれに連なる氏族であり、その祖霊神とその末裔としての記述である。そこには創造主と非創造物という対比構造は見られない。そこに語られているのは、神のように生きる人間、「惟神(かんながら)の道」、すなわち天皇。要するに「天皇は神の子孫である」という権威の正当性伝承である。日本の神話、神道には生きている人間への教えや教訓めいたエピソードがない。人間が背負う「原罪」という観念はもちろんない。のちに伝わった外来の儒教や仏教によって、人間の備えるべき仁義忠孝などの道徳感、あの世とこの世の観念や死生観、この世の煩悩や解脱の観念がもたらされ、後世になって神道にもその影響が現れるが、聖書や仏典やコーランのような教義を説く書はもともとない。あるのは太陽や水、山や岩、一木一草にに宿る自然神であり、一族の祖霊神などの「八百万の神々」の世界であって、そこには「教え」といったものは語られていない。したがって神道には神学論争や、教義に違いによる争いがないと言われている。神道の世界は、キリスト教のような一神教の教義や聖書の解釈の違いによる争い、また元は同祖であったはずのユダヤ教やイスラム教などの一神教の異教徒との争いがその後の歴史の重要な部分を占める世界とも異なる。別に日本の宗教が平和で争いがなかったとは言わないが、原始宗教である多神教と、教えを説く預言者が現れたのちの一神教の違いを感じる。寛容と許しと和。これらはどの宗教においても共通する価値観であると思うのだが。「ウクライナを勝たせる神」と「ロシアを勝たせる神」が、同じ唯一神であることは、多神教世界に生きる我々の理解を超える。

ミルトンの「失楽園」が物語るようにキリスト教的な理解では、何も知らず平和に楽園で生きていた人間はこの時に、サタンの唆しで知恵を身につけ、そこからさまざまな欲望や自己主張を知り、争いを始めたという。人間が背負う原罪と神の恩寵と救済。この本を読み始めたまさにその時、21世紀になっても独善的な理由から他国を侵略し戦争を始める人間の存在を見ていると、その愚かさの始まりはアダムとイヴが「禁断の知恵の実」を食べたことであったことを思い出した。その人間の業の深さが今日まで続いている。果たして神の恩寵はあったのか。救済はあったのか。神の愛は隣人愛を生み出したのか。人間は長い間に身につけた知恵により、より賢くなったのだろうか。


表紙


楽園で自然のままに暮らしていた人間

堕天使ルシファーに唆されて「禁断の知恵の実」を食べたイヴ。
そしてそれをイヴに勧められ戸惑うアダム


知恵をつけてしまった人間が神に糾弾される場面

ついに楽園を追放される