ページビューの合計

2020年3月3日火曜日

SNSは自由と民主主義を損なっているのか? 〜コロナウィルスパニックに思う〜

ミケランジェロ「最後の審判」の一場面
地獄へ引きずりこまれる人間の姿が描かれている


昨今の一連の新型コロナウィルス感染関連のドタバタを見ているといろいろ考えさせられる。情報源としてのFacebookやTwitterなどのSNSの功罪についてだ。マスクが店頭からなくなったのはともかく、トイレットペーパーがなくなる。米や食料品がなくなる。熱いお湯を飲めばウィルスが死ぬ。電車内で咳するヤツをめぐって喧嘩になる、テロリストがウィルス流した、中華料理食うと感染する、アメリカではアジア系が暴行されたetc.  ネット上でのフェイクニュースや根拠のないデマが流布して人々が右往左往する様を見ていると、SNSの影響力をまざまざと見せつけられる思いがする。そもそもコロナウィルスの感染力についてもまちまちの情報が流れている。意図的にデマを流すケースもあるが、意図せず、悪意もなく、根拠が薄弱な「うわさ」をリツイートしたり、怪しげな「ニュース」をシェアーするだけで、フェイクがリアルらしく見えてしまうことがある。また一件のショッキングな出来事があちこちで起きている普遍的な事件であるかの如く誇張して不安を煽るケースも出てくる。事情通ぶったり、知ったかぶりの「自己顕示欲」ツイートや投稿も横行し始める。日頃の鬱憤をここぞとばかりネット上にぶちまけるパラノイア的投稿も多いようだ。これらが連鎖し拡散することで世の中を動かしてしまうという恐ろしさ。

ネット上では、国のトップや行政の怠慢や無策に対する批判、専門家と称される人々同士の見解の対立とそれへの不信感、生活者の意識とのギャップから、多くの憤りが表明される。それが罵声に近い怒りのコメントとなってネット上を駆け巡る。批判は極めて正常な行動だし、批判精神は絶対に失ってはならない。それが許される社会こそ自由で民主的な社会である。しかし、本当は「批判」の根底にある「憤り」と「怒り」は違うはずだ。「憤り」はうちに秘めたる理性的なエネルギーになり、問題解決に向けた知恵を生み出す力になることがあるが、「怒り」は感情的な言葉にして表に出した途端に理性的な思考や議論を破壊してしまうことがある。声の大きいもの勝ち、怒鳴ったほうが勝ち、というやつだ。怒りに任せて人をバッシングしたりしたり、罵詈雑言を書き込んで溜飲んを下げたり、声を荒らげて非難したりしても何の解決にもならない。かえって生半可な、根拠の薄い「ニュース」や、噂話に過ぎない事柄が「怒り」を増幅させ、それを拡散させたりすることで更なる「怒り」と「不信」の連鎖を引き起こす。これが「流言飛語」、「誹謗中傷」となり、人々を「疑心暗鬼」に陥れる。健全な批判精神と、建設的な問題解決を却って妨げがちである。

SNSは声高に「怒り」をぶちまけるツールとしてではなく、「憤り」を創造的な問題解決力に変えるのに役立っているのだろうか? 誰でもいつでも自分の意見や主張を表現できる手段を手にしたことは「自由」と「民主主義」に役立つはずであった。一方向のマスメディアに対する双方向メディア、ユーザージェネレイテッドコンテンツは、情報発信の民主化、表現手段の自由化を革命的に進めたと言われている。しかし人はそれによって本当に自由を手に入れたのだろうか。昨今の騒ぎを見ていると懐疑的になってしまう。プライバシー問題も新たな課題として出てきているし。だからSNSは使わない、という人もいる。それはそれで見識のように見えるが、その本人が使うか否かにかかわらず、上記のような事象は社会現象として起こるし、それが正しいか否かに関わらず社会を変えてしまう時代になってしまった。我関せずでは済まなくなっている。

一方で、そうした新しいメディアは権力の側にある者も使うことができる事を忘れてはならない。独裁的な権力構造の国において情報統制と市民監視の道具に使っていることも忘れてはならない。コロナウィルス感染の発生源になっている国のネット上での指導部批判の封じ込め、批判者の追跡/取締りなどの統制/監視を見れば分かるだろう。民主主義と自由の盟主を自認する国の最高権力者が個人のSNSでフェイクニュースを連発して国の尊厳を傷つけ、世界を不安定化することもできるのだ。またネットでのカオスが生じて不安と混乱が起きることは権力者にとっては思う壺となることすらある。権力者の「公定」見解だけが、あたかも正しい見解であり、真実を語っているかのように振る舞う。既存のマスメディアが十分に機能せず、きちんとした情報が不足し、先行きが見通せないでパニックになっている状況では、SNSは「流言飛語」「誹謗中傷」「疑心暗鬼」を撒き散らすだけの道具に成り下がってしまう可能性がある。そうしたときに現れる「信頼できる」情報の危険性にも気づく必要がある。SNS上でいろいろ批判しながらも、結局はお上の「政治的判断」に基づく指図には横並びで従う性質を持つ国民性にも警戒すべきだろう。自己責任という考え方のない社会においては、誰かの(お上の)責任にしておくほうが楽だし、「この非常時に自分勝手な非国民め!」というあの時代の亡霊に取り憑かれるのは嫌なのだ。「愚かな民草」になってはならないのだが。

最近人気のドイツの気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは「SNSは自由と民主主義を損なう」と警鐘を鳴らしている。一見自由に見えて、その「自由」が利用されて不自由になっていないかと問う。カントが言うように人間の「意思」の調整の最適化を可能ならしめるのが「自由」である。しかしSNS上では人間の「自由な意思」は「最適化」されているのだろうか。SNSの世界には民主主義にとって重要な「Rule of Law:法の支配」がないという。共有できるルールと道徳と正義が支配していないとそれは無法地帯になる。そして自由も民主主義も脅かす存在になってしまう。これはあながち誇張された警鐘ではないように感じる。道徳と正義の欠如した「自由放任:レッセフェール」による市場経済活動が富の偏在と格差の拡大をもたらし、資本主義を行き詰まらせているように、道徳と正義の欠如した「自由」は、「不自由」を引き起こして民主主義を危機的な状況に落としめてしまう恐れがある。さらにそこには人々が共有できる「法の支配」もないというわけである。ここでもアダム・スミスの「道徳感情論」の人間への「共感」と「社会的存在である人間」という理解が思い起こされなくてはならない。人と共感する、人のために事を為そうとする性質を持った「社会的」「道徳的な」人間、という理解だ。そういう人間が主体となったものがアダム・スミスが「国富論」で論じる「資本主義」であり、また「自由主義」「民主主義」であったはずなのだ。そうした倫理観に基づく「法の支配」、それがなければ、道具に過ぎないSNSも革新的なデジタル技術も、使い手によって有用な道具のはずが邪悪な道具にもなる。あるいは「自由」を金に変える有能な事業家や経営者達に利用されるだけになってしまうだろう。資本主義が曲がり角に来ているように、自由も民主主義も曲がり角に立たされているのかもしれない。SNS上で発生したトイレットペーパー騒ぎが、思わぬ哲学論争に発展してしまったが、これも人間の道徳と倫理観、他人への共感の欠除から発生していることに気づけば、あながち論理の飛躍とも言えまい。。