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2025年5月17日土曜日

古書を巡る旅(64)The Kojiki or "Record of Ancient Matters":初の英訳「古事記」〜生成AIによるチェンバレンの評価は?〜





1906年の日本アジア協会紀要第10巻補遺の表紙

1906年リプリント書籍版の表紙

Basil Hall Chamberlain (1850~1935)

W.G.アストン注釈版「古事記」1982年ペーパーバック初版
(表紙デザインと中身は関係ありません!)


バジル・ホール・チェンバレン:Basil Hall Chamberlain(1850-1935)のThe Kojiki or "Record of Ancient Matters"は、世界で初めての「古事記」英訳として、1882年(明治15年)4月12日、5月10日、6月21日に日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)で講義:read、発表され、翌年に出版された。本書は1906年(明治39年)2月に、同協会の紀要の第十巻補遺に再掲され、同時に同協会から書籍として刊行されたものである。チェンバレンが海軍お雇い外国教師の時代の著作である。革装、マーブルボードの美しい装丁である。また日本アジア協会紀要のオリジナルの表紙(1906年版)が挿入されるなど、おそらく所有者がリバインディング、再製本を手がけたもののようだ。かなりの部分がアンカットのままで、読まれた形跡がない。愛蔵版あるいはオリジナルの保存版として所蔵されたのであろう。現在Tuttle社から出版されている1982年の英訳新版(ペーパーバック版)は、ウィリアム・アストン:William George Aston(1841-1911)の注釈、解説による、いわば「アストン注釈版」である。出版社巻頭言によれば、1923年の関東大震災の時に、1882年の原本と残部数の多くが消失したため、アストンがチェンバレンから譲り受けたとされる手持ち原稿を元に復元再販したとある。またオリジナルの「日本アジア協会版」は1919年と1920年に再版されているとあるが、しかし1906年版には言及されていない。存在が確認されていなかったのかもしれない。書誌学的には不明な点があるが、この1906年版が関東大震災以前の最も古い「日本アジア協会版」であるとすれば貴重な「生き残り」書籍である。ちなみにわずかに現存するオリジナルの1882年版コピーは東大図書館に収蔵されている。


チェンバレンの翻訳の特色

チェンバレンは、古事記を文学作品、あるいは神道の聖典としてではなく日本、日本文化の源流を知る上での「古代の出来事:Ancient Matters」の「記録:Record」、すなわち文献史料として取り上げた。したがってその翻訳にあたっては客観性と正確性を重視するよう心がけている。彼は本書の巻頭言で、この古事記英訳の目的と方法論を明確に述べている。これがチェンバレンのいわば「古事記」研究総論であると言って良い。その姿勢は文学者、言語学研究者というよりも、むしろ文献史学者的ですらある。したがって、物語や叙事詩のように読んでいて面白みがある訳ではない、ないしはあまりにも素朴な文体で表されているとして、後世の研究者,特に文学研究者から批判される所以である。先述のように、のちにウィリアム・アストン(「日本書紀」の翻訳がある)は、チェンバレン訳に、注釈、補筆、修正を加え、よりわかりやすい解釈を加えている。また20世紀のドナルド・キーンなどの新訳ではそうした物語としての魅力が表現されるようになる。しかしチェンバレン自身は、そもそも古事記の表現に、文学作品のような文体の美しさがない。したがって素朴な響きを感じるのは元々そうだからだと言っている。彼の翻訳にはさまざまな議論があるが、日本古代史の画期となる歴史書で神話の体系である「古事記」を英訳し西欧に伝えたことは、翻訳史上,学術的に画期的な成果であった。チェンバレンはまた、巻頭言でこの翻訳にあたって、その前提となる日本の古代思想や宗教、習俗、政治思想の起源、古伝説などについて解説している。インドアーリア語族のものとも異なり独自のものであること。中国文化と同一視しがちな西欧人向けに、日本古代文化は、中国から多くの思想、宗教、文化を入れているが、使われている文字(漢字)以外は、日本が受容し変容した独自の世界観が表現されていると評している。もっともそう説明しながらも、そこに表されている神話や世界観に、古代中国やギリシアなど西欧神話などとの共通性も指摘している(後述)。翻訳にあたっては、まず日本文化を深く理解するため古事記だけではなく、日本書紀、続日本紀等の史書や、そのほかの多くの古典にあたり、万葉集、古今和歌集、和名類聚抄など、48種の古書籍を参考にしている(巻頭言の最後に参照文献リストが掲載されている)。古事記注釈書である本居宣長の「古事記伝」をしばしば引用、言及している。またチェンバレンは本文中で、訳文に細かく注釈をつけて、登場する神々の名前、天皇の系譜と事績、日本古語の意味、そのように解釈した理由、その背景などを逐語的に解説している(したがって本文よりも注釈に多くの紙幅を費やしている)。また追補で本文中の和歌のローマ字表記、歴代天皇を紹介し、索引は46ページにわたるものである。これが人名辞書、地名辞書の役割を果たしてくれており、外国人が日本の古代文化、日本を学ぶ上で役に立つ、一種の注釈書,コンメンタールとなっている。こうした本書の構成を見ても、この翻訳作業が、極めて学術的、まさに書斎学派的な営みであったことがわかる。


比較神話学の視点

古事記の英訳は、古事記が日本の神話体系、宗教的伝統のルーツとなっている点を紹介したことで、ヨーロッパでは比較神話学的な観点からも大きな反響を呼んだ。すなわちヨーロッパ人は東洋にもう一つの新たな神話の存在を知ることになったわけである。ただ、チェンバレンは古事記の神話体系は、日本独自に創造されたのものではなく、世界各地の神話に共通する要素が散りばめられており、例えば混沌/カオスから天地が生まれたする点、人間的な多くの神々の登場し、さまざまなストーリーが生まれるなど、例えばギリシア神話との共通点も多いと指摘。また古事記に描かれた神話と神代と区分なく人代の王権(天皇)の歴史(皇祖神の存在とその子孫による、万世一系の天皇系譜など)を語るストーリー展開も、これは何も日本だけが誇る独自の世界観ではないとしている。世俗の王の統治権威が、聖なる神に由来する天から与えられたものである。こうした説、理論は西欧(”devine right of Kings”)にも中国(天帝思想、易姓革命)にも認められるという。しかし、そのこの地の統治者(天皇)自体が天から降臨した神の子孫である、という「皇孫思想」は中国の「天帝思想」とは異なる。また西欧の「王権神授説」とも異なる。いずれも天帝、神から統治権威を与えられる地上の「王」は神の子孫ではなく人である。したがって、神の承認を得られなくなると王権交代が起きる。8世紀の創出された古事記の世界観は、当時の東アジア情勢を反映して中国の世界観(中華思想)に対抗する意図を持って創造された思想(小中華思想)である。これが現代の定説になっている。ただ、チェンバレンの分析、考察は戦後になって皇国史観への批判、古事記/日本書紀の批判的研究が解禁になってもたらされた研究成果の先駆けとなるものであったと言える。また古事記のストーリーが一貫せず矛盾に満ち満ちた筋立てであるのは、太平洋諸島、中国などの大陸諸国に伝承された神話の数々を8世紀の編纂当時に取り入れた結果であり、必ずしも日本独自の神話だけで統一性を確保できているわけではないとも分析している。たしかに各国に伝わる神話が世界的に類似したエピソードを共有していることや、それらが地域を超えて交流していたことは最新の神話学、民俗学的研究でも証明されてきている。この分析、考察も当時としては画期的であった。これまで西欧諸国においては、ギリシア神話やキリスト教創世神話、北欧神話中心の比較神話学であったが、これに新たな素材を発掘提供し、一石を投じた影響は大きい。また神道という日本古来の宗教的伝統の存在とそのルーツを西欧に紹介した意義も評価されるべきものだろう。これがきっかけとなって日本学:Japanologyが進化してゆく。後述のラフカディオ・ハーンも、このチェンバレン「古事記」と出会ったことが日本への憧憬を深め、日本行きのきっかけとなったと述懐している。


チェンバレンの日本観 ハーンとの比較

チェンバレンの日本観はよくラフカディオ・ハーンのそれと比較される。二人はともにジャパノロジストとしては著名であり、ともに親交があり、その記録として「往復書簡集」が残っている。しかし、日本への向き合い方には違いがあり、それが激しい論争にも発展する。ハーンがジャーナリスト、文学者の視点に立ち、人々との接点を重視するフィールドワークの民俗学的、実証主義的であったのに対し、チェンバレンは学者の視点、すなわち書籍、文献資料を通じた研究者の視点、研究アプローチ(いわゆる「書斎学派」)をとる。そこには西欧文明と対比する比較研究的(comparative study)な姿勢が根底にある。チェンバレンはマルチリンガルでコスモポリタンであるが、基本的にはアングロサクソンの視点に立脚し、ラテン言語圏の文学作品を評価の基点としている。まずギリシア哲学、キリスト教を底流とした西欧文明があり、これに対比される「異教徒の文明」という東洋観、日本観になっている。この頃の来日外国人の中にあった「文明開花とはキリスト教文明化することである」という暗黙理解が底流に潜んでいたが、チェンバレンもその一人であった。この点はハーンが、キリスト教世界観と西欧的価値観への懐疑に立脚して、むしろケルト的原点回帰、多民族主義的視点、心情で日本を理解していたのとは大きく異なる。ハーンは、日本の文明を観察、研究の客体ではなく、むしろ共感(Japan sympathy)の対象として捉えた。

チェンバレンは「日本事物誌:The Things Japan」の中でも、ヨーロッパ人の日本への理解の浅さと、西欧中心的な価値観に基づいた一方的観察、あるいはエキゾチシズムから来るロマン主義に警鐘を鳴らしている。しかし一方で、日本の文学についてこう述べている「日本文学は、その文学性において、英文学の詩歌と比べ劣るものである」「古典作品においても、想像的才能、思想、論理的な把握力、深さ、幅、多面性に欠けている」「総じて狭小で偉大ではない」と。たとえば「古事記」の世界観においても、ギリシア神話の神々は世界を見渡しているのに対し、古事記の神々は日本の支配者のルーツとその統治正当性しか語っていない。このチェンバレンの日本の文学への評価を、ハーンは西欧文明とは異なる日本独自の文明に根ざした文学の基層を理解しない言説であるとして異を唱えている。そしてその背景には、日本の文学作品はキリスト教世界観、思想に裏打ちされておらず、所詮は「異教徒」の文化の限界がそこにある、という理解があると批判している。また神話の共通性についても、ハーンはギリシア神話やキリスト教創世神話に基づく世界観を前提とした理解であり、それ以外の文明を十把一絡げにして論じていて、その多様性、独自性を見ていないと批判している。チェンバレンがヨーロッパ人読者に「無理解による誤解」や「ロマン」を戒めていることを考えると皮肉に見える。おそらくチェンバレンのこの視点と評論は、短期間に西欧文明を取り入れて消化したと称する明治期日本人の高揚感への皮肉と、一方でも選民意識の拠って立つ「皇国史観」への盲信に警鐘を鳴らし、西欧文明(キリスト教とギリシャ/ラテン文明の上に成り立つ)の範を示すべき西欧人としての反応、そして反論であったのかもしれない(アーネスト・サトウの日本観にも共通するものが散見される)。過去のブログ:古書を巡る旅(12)Things Japanese:「日本事物誌」チェンバレン


「古事記」に出てくる固有名詞の英訳例

先述の通り、チェンバレンは「古事記」を「the Record of Ancient Matters」と訳している。すなわち、これは物語や聖典ではなく、記録であると捉えた。したがって翻訳にあたっても、記録としての正確さの復元を目指し、意訳を避け直訳をもちいた。例をあげよう。

天照大御神:the Heaven-Shining-Great-August-Deity

伊邪那岐神:the Deity of the Male-Who-Invites

伊邪那美神:the Deity of Female-Who-Invites

大国主命:the Deity Master of the Great Land

高天原:the Plain of High-Heaven

葦原中国:the Land of the Middle of the Reed-Plains

根之堅洲国:Distant Land(本居宣長の解釈は翻訳不能としている)

「神」を「god/goddess」ではなく「deity」と訳している。これはキリスト教でいう、あるいは聖書に記された「god」とは異なる「神」であることを意味しているほか、「神性;divine nature of gods」を表す言葉として使われる。ギリシア神話のゼウス、アポロンなどの不死身の人格神に近いが、古事記の人格神には人と同じ寿命があるので同じではない。悩ましいところだ。記録としての古事記に用いられた変体漢文の文字を逐語的に英訳しているので、英語として理解しにくい訳であるが、むしろこれらの名前の由来を知っている日本人には「神性」を持った「人格神」の英語名として理解しやすいかもしれない。いわば意訳を極力廃し直訳を用いたので、逐語的な注釈が必要だった。地名についても同様で、「天空に広がる平原」「地上に広がる葦の平原」「木の根っこの国(地中の国)」と直訳しているので、聖書に出てくる神の存在と「天国:Heaven」と「地獄:Hell」の観念との関連が掴みにくいだろう。このように英語読者にとってはそれぞれの言葉が解説を必要とする上に、全体のストーリーとしては想像力を掻き立てる物語というよりは、客観的、具体的、硬い論文を読むようである。学術的史料解析に徹していて古代史や神話のロマンは感じにくい。チェンバレンの英訳「古事記」の再和訳が出ると面白いと思う。日本にはチェンバレン「古事記」の研究者も結構いるはずだが、むしろ上代日本語と英語の翻訳論的研究が主流なのだろうか。昨年話題となったアーサー・ウェイリーの英訳「源氏物語」再和訳と比べ、読者を掴みにくく出版事業としては売れないだろう。余計なことだが。ドナルド・キーンの現代的解釈で編纂された「日本文学史」で取り上げられている「古事記」解説が興味深い。



参考: 生成AIはチェンバレンの英訳をどのように評価するか?

今回初めてGoogle GeminiとChatGPTを使ってみた。結果は双方ともよくまとまっていて、ほぼ同じコメントである。が、いずれも可もなく不可もない回答。質問が一般的なのでこうなるのだろう。もう少しキーワードを挙げれば詳細かつより多くの回答が得られるのだろう。更問いでアストンを入れてみた結果が二番目。ネット上で出回っている多くの評論、紹介を総合的にまとめるとこうなる、という例みたいなもので、驚き、感動はない。優等生的な回答だが、試験の論文:thesisとしては「可」がいいとこか。

質問「バジル・ホール・チェンバレンの「古事記」英訳の評価と意義について」

以下原文のまま引用。

 Google Gemini:

1)バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850–1935)による**『古事記』の英訳**(1882年刊行)は、近代初期に日本の古典文学を英語圏に本格的に紹介した、非常に重要な業績です。その評価と意義について整理します。


評価

  • 先駆的翻訳

    • チェンバレンの『古事記』英訳(The Kojiki: Records of Ancient Matters)は、欧米で初めて古事記を体系的に紹介したもので、翻訳史上きわめて画期的でした。

    • 彼の翻訳は、日本語原文への忠実さを重視しつつも、英語話者が理解しやすい形でまとめられています。当時の水準としては非常に学術的かつ高品質なものでした。

  • 学術的正確さ

    • チェンバレンは原文の微細なニュアンスや神話体系をできるだけ丁寧に説明しようと努めました。脚注や補足解説も豊富で、単なる翻訳にとどまらず、日本神話の背景知識までカバーしています。

  • 限界も指摘される

    • ただし、当時の日本学(Japanology)の限界もあり、誤訳や文化的誤解が一部存在するのも事実です。

    • さらに、彼は古事記を**「文学作品」というより「資料集」**として扱う傾向があり、物語性を重視した現代的な翻訳とはやや異なります。


意義

  • 西洋への日本神話紹介

    • 西洋社会にとって、日本の神話世界はきわめて未知の領域でした。チェンバレンの翻訳を通じて、欧米の学者や知識層は初めて、日本の神話・古代史に本格的に触れることができました。

    • これは、日本文化への関心(特に明治期以降の「ジャポニスム」現象)をさらに後押ししました。

  • 比較神話学への貢献

    • 同時代のヨーロッパでは、比較神話学(インド=ヨーロッパ神話などの研究)が盛んでした。チェンバレンの翻訳は、日本神話を比較神話学の枠組みで分析するための重要な素材となりました。

  • 日本学の発展への基礎

    • チェンバレンは日本文化・言語の研究者としても知られ、彼の業績は後の日本学(特に神道・古代文学分野)の発展に大きな影響を与えました。


まとめ

チェンバレンの『古事記』英訳は、
▶ 「日本古典の国際的紹介の礎
▶ 「比較神話学・文化研究の素材提供
▶ 「近代日本学の出発点のひとつ
と位置づけられます。学術的な限界を抱えつつも、その意義は今日でも非常に高く評価されています。


2)チェンバレンの古事記英訳の評価とアストンの役割

バジル・ホール・チェンバレンによる『古事記』の英訳は、日本最古の文献の一つである『古事記』を西洋の学術界に初めて本格的に紹介したという点で、非常に重要な貢献を果たしました。彼の翻訳は、1882年にアジア協会の紀要の補遺として出版され、その後書籍としても刊行されました。

チェンバレンの古事記英訳の評価

  • 先駆性: チェンバレンの翻訳以前にも、『古事記』の一部の英訳は存在しましたが、彼のものは全訳であり、詳細な注釈と解説が付いていたため、学術的な価値が非常に高いものでした。これにより、西洋の研究者が日本の古代神話、歴史、文化に触れるための基礎が築かれました。
  • 学術的厳密性: チェンバレンは、当時の日本の国学者たちの研究成果を踏まえ、原文に忠実であろうと努めました。彼の注釈は、神話の解釈、固有名詞の読み方、歴史的背景など多岐にわたり、読者の理解を深める上で重要な役割を果たしました。
  • 文体: チェンバレンの英文は、当時の学術的な文体に特徴的な、やや硬質なものでした。しかし、その一方で、物語の持つ詩的な要素や劇的な展開を伝えようとする意図も見て取れます。
  • 限界: 後の研究者からは、チェンバレンの翻訳にはいくつかの限界も指摘されています。例えば、神話の解釈において、当時の西洋的な視点や進化論的な考え方が影響を与えている可能性や、一部の性的な描写をラテン語で記述している点などが挙げられます。また、日本語のニュアンスを完全に伝えきれていない部分もあります。

アストンの役割

バジル・ホール・チェンバレンの『古事記』英訳において、**ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston)は直接的な翻訳作業には関わっていません。アストンは、日本古代史や神話の研究において、チェンバレンと並ぶ重要な学者であり、『日本書紀』の英訳(1896年)**を完成させたことで知られています。

しかし、チェンバレンの『古事記』英訳が出版された後、アストンは自身の研究に基づいて、チェンバレンの翻訳に対して注釈や修正を加えています。チェンバレンの翻訳本の余白には、アストンによる手書きの注釈が残されており、これは後の版を編纂する際に参考にされました。

したがって、アストンの役割は、『古事記』の英訳そのものを行ったわけではありませんが、チェンバレンの翻訳をより正確で理解しやすいものにするための重要な貢献者であったと言えます。彼の批判的視点と深い知識は、初期の『古事記』研究の発展に寄与しました。

まとめると、チェンバレンの英訳は『古事記』の海外紹介におけるパイオニアであり、学術的な基礎を築きました。アストンは、直接翻訳には関わっていませんが、その後の研究を通じてチェンバレンの翻訳を補完し、より深い理解へと導く役割を果たしたと言えるでしょう。


ChatGPT:

バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850–1935)は、明治期日本に滞在し、日本研究に大きな貢献をしたイギリス人学者です。彼の『古事記』英訳(1882年刊行)は、最初期にして最も影響力のある英訳のひとつとされています。その評価と意義について、主な点をまとめます。


評価

  1. 画期的な初訳

    • チェンバレンによる『古事記』英訳(The Kojiki: Records of Ancient Matters)は、西洋世界にとって『古事記』を知る初めての本格的な機会を提供しました。

    • 当時、まだ近代的な日本学(Japanology)は発展途上であり、彼の翻訳は日本神話・古代史を英語圏に紹介する重要な役割を果たしました。

  2. 正確性と注釈の丁寧さ

    • チェンバレンは、ただ訳すだけでなく、数多くの注釈を付し、日本語原文の難解な表現や神話的背景、文化的文脈を解説しました。

    • そのため、単なる翻訳にとどまらず、学術的なリファレンスとしても高い評価を受けています。

  3. 限界も指摘される

    • 当時の言語学的・神話学的知識の限界から、現代の日本古典学や比較神話学の観点から見ると、訳語や解釈にやや時代的な偏りや誤読もあります。

    • 特に、神々の名前や儀礼の描写において、現在では異なる解釈が主流になっている箇所もあります。


意義

  1. 日本文化・宗教への関心を喚起

    • チェンバレンの訳によって、西洋の学者や読者たちは、日本独自の神話体系や**宗教的伝統(神道)**に初めて体系的に触れることができました。

    • 特に「天地開闢(てんちかいびゃく)」や「イザナギ・イザナミの国生み神話」などは、以後の日本イメージ形成に大きな影響を与えました。

  2. 比較神話学・東洋学への影響

    • 世界神話研究の中に日本神話を位置づけるための基礎資料として、チェンバレン訳は大いに役立ちました。

    • たとえば、北欧神話やギリシア神話と比較して、日本の神話の特色(生成過程、性別観、自然観)を論じるための材料となりました。

  3. 後続の翻訳・研究への橋渡し

    • チェンバレン訳を踏まえ、後の研究者たち(例:ドナルド・キーン、ウィリアム・アストンなど)が、さらに緻密で洗練された日本古典の紹介を進めました。

    • チェンバレン自身が『日本事物誌』(Things Japanese)や『日本語文典』(A Handbook of Colloquial Japanese)なども執筆しており、彼の『古事記』翻訳はその広範な日本研究活動の一部と位置づけられます。


まとめ

バジル・ホール・チェンバレンの『古事記』英訳は、「学術的先駆性」と「日本文化の国際的紹介」という二重の意義を持っています。完全な訳とは言えない部分もあるものの、その影響力と歴史的重要性は今なお大きいものがあります。

2025年5月3日土曜日

今日は「憲法記念日」〜「天気晴朗なれど波高し」〜

 

仏塔と梵字と鳥居
日本は海外からの文化を受容し日本的に変容させ習合してきた国だ
これまでもこれからも


今日は憲法記念日だ。大型連休後半でお天気も良いので行楽日和だ。なぜ今日が休日なのかは誰も気にしないが連休なのでどこかへ行きたいとソワソワしている人が多い。かといって円安、インフレ、賃金安なので海外旅行での出国は少なく、観光客と言えばインバウンドばかり。日本人は近場でという過ごし方が多いようだ。今年の憲法記念日は、皮肉にも戦後日本に「民主的憲法」を教えたアメリカの民主主義が激震の真只中という、まさに記念すべき日になった。連休ボケ、平和ボケの頭を引っ叩いて、民主主義の将来と日本の将来を考えてみたい。

今のアメリカを見ていると、基本的人権尊重、三権分立、法の支配、民主主義政治、思想信条の自由、言論の自由、学問の自由、平和と平等主義。そして多国間主義、自由貿易体制という人類が長い戦いの歴史の中で勝ち取ってきた理念や価値観がどれも危機に瀕している状況だ。まるで17〜18世紀の絶対専制君主の時代に戻ろうとするが如き「歴史的反動」の嵐が吹き荒んでいる。「ホワイトハウス宮殿」の「アメリカ帝国皇帝陛下」は議会も司法も無視して支離滅裂な命令を出し続けている。こういう「反動」的動きは思った以上に一気に来るものだと改めて知らされる気がする。築き上げるのは長い年月がかかるが壊れるのは早い。そして意外にも抵抗勢力が沈黙している。議会にも司法にもエドワード・コークは現れない。おそらくこれは今の大統領が替われば元に戻るなどと言う単純なことではなさそうだ。恐ろしいことだ。

17世紀イングランドで、主席裁判官であったエドワード・コークはコモンローの優位、法の支配、司法の優位、議会の優位を説いて王権神授説を唱える絶対君主ジェームス1世と対立し、弾圧にもめげず闘った。13世紀の「マグナカルタ(大憲章)」に始まる議会と専制的な王権の戦いは、コークの「権利の請願」、清教徒革命での国王処刑、クロムウェルの共和政、そして王政復古。そして名誉革命で「権利章典」へと発展し、18世紀には議会と議院責任内閣による「君臨すれども統治せず」の立憲君主制が確立した。またジョン・ロックは「市民政府論」で、国民主権と国民の抵抗権を説いた。これはフランスのルソーの人民主権と革命権やモンテスキューの三権分立論に影響を与え、やがてはフランス革命による絶対王権打倒、共和政に繋がり、アメリカ植民地ではイギリスからの独立戦争、ジェファーソンやフランクリンの独立宣言の思想的バックボーンとなった。こうした流れがが現代の民主主義、自由主義、法の支配を標榜する憲法の歴史の基底をなしている。

一方で、18世紀のアダム・スミスの自由主義経済(「神の見えざる手」)、資本主義経済、自由貿易が、それまでの国王が一方的に定める関税で保護された重商主義的貿易体制を壊し、都市資本家の経済活動の活性化で海外進出を果たしヨーロッパの経済発展を進めた。さらにニュートンによる科学技術発展は、科学万能、合理主義の時代を到来させ、産業革命の原動力となった。こうして都市のジェントリー、ブルジョワジーによる産業資本、自由貿易の仕組みと植民地主義が組み合わさって帝国主義的世界競争の時代に向かい、覇権国とそのほかの未開発国(旧文明国)と言う格差が生まれた。

アメリカはそうした絶対君主制、植民地主義に抵抗して建国した国家であった。信教の自由を求めてピルグリムファーザーズがメイフラワー号で移民した新天地であった。そのはずだった。しかし建国250年を迎える今、アメリカはそんな初志を忘れてしまったようだ。信教の自由、思想信条、言論の自由、学問の自由を高らかに宣言し実践したのではなかったか。大量の移民を受け入れ、労働力の確保と生産性向上、多様で自由闊達な議論による知恵の創出と、フロンティアスピリットで国を発展させたのではなかったのか。奴隷制を廃止し公民権法を制定し自由と平等の国を目指したのではないのか。アメリカはそうした人類の自由と民主主義の専制主義への戦いの歴史のながで生まれた自由の申し子であるはずだ。イギリスの植民地を基盤とした帝国主義的な貿易体制を批判し自由主義的な経済システム、金融システムを主導したのは新興国アメリカであった。そのアメリカが、アジアでは植民地支配競争に血道をあげるヨーロッパ列強に先駆けて、鎖国日本を開国し、近代化を助け、日本の世界に引っ張り出した。そして帝国主義、ファシズムに走った軍国日本を徹底的に壊滅させ、戦後の経済復興と民主化を助け、アジアにおける自由主義陣営の主要な同盟国にした。冷戦下ではそうした自由主義的価値観、民主主義を守る戦いの先頭に立って、共産主義や全体主義と戦い勝利したのではなかったか。そうしたアメリカを取り巻く自由主義同盟国アライアンスができた。にもかかわらず今、ロシアや中国、北朝鮮の専制主義、全体主義陣営に、そのアメリカさえもが参加しようとしている。あの尊敬し憧れるアメリカはどうなってしまったのか。悲しい。あれは我々の祖先、祖父母がやったことで我々ではないと。まるで別人のような顔をして17〜18世紀の専制君主主義、保護主義の時代に、そして20世紀の全体主義時代に戻ろうとしている。なあんだ、アメリカ人は結局、旧世界の「王様」に憧れていたのか!ファシズムの独裁者を熱望しているのか!そんな人物を選挙で選ぶ国になってしまったのか。自由と民主主義を守る同盟国を裏切り、全体主義・専制主義国を利する国になろうとしている。しかもその「王様」の言動は朝令暮改、支離滅裂だ。もう正義の味方、良い子でいることに疲れたのか?大国の責任を果たさぬまま自宅に引き篭もろうと言うことか。それが引き起こす混乱はとてつもなく大きい。

さて、そんな今年の「憲法記念日」だ。歴史教師はこう言うだろう。「マッカーサー君、日本国憲法を起草したのは君だろう!日本人が書けない理想的な自由・民主・平和憲法。アメリカは最後までその責任を果たせよ。」日本では戦後ずっと今の憲法はアメリカから押し付けられた憲法だ。だから「自主憲法」を制定しなければならない。そう言ってきた。もっともこれは戦後保守政治勢力の共通スローガンであった。いっぽうで、民主的な憲法を自分で起案できない保守政治がそれを言う資格はない、というのが革新勢力の共通理解であった。「保守勢力は改憲」「革新勢力が護憲」という奇妙な対立関係が戦後長く続いてきた。憲法改正論議は今も続いていつ終わるともしれないし、そもそも何を改正するのか論点すら見えない。改憲することに意義があるという訳か。そんなことで時間ばかりが経過するうちに「押し付けた」アメリカはいまやリベラルで民主的な価値観から遠ざかり、その主導者、守護者の立場から降りようとしている。そして自由主義陣営の正義を守る「世界の警察」の役割も返上しようとしている。憲法九条も非核三原則もアメリカの安全保障の下での話であって、「お前らに搾取されてきた」などと同盟国に捨て台詞はきながら店仕舞いし、自宅に引き篭もろうとしているアメリカの後ろ姿を目の前にすると、これが現実的なものなのか心許ない。今こそ真剣に自国の民主主義と安全保障を考えなくてはならない。憲法改正で問題が解決するのか。戦争も放棄したかもしれないが、強かな外交もインテリジェンスも培われてこなかった。戦後冷戦構造の時代は終わり、アメリカ一極の時代も終わり、専制主義的国家を牽制するパワーバランスが壊れるG-0の時代を迎えている。世界は危険な状態に入った。

今の「王様」がいなくなってもアメリカの凋落は避けられないだろう。パクスアメリカーナは終わりを迎える。日本はこれからどうする。アメリカベッタリはもはやありえぬ。かといって背後には中国やロシアという(民主主義など意に介しない)専制国家が控えている。『前門の虎,後門の狼」だ。気が付けば少子高齢化が急速に進み人口減少、経済規模が縮小し、かつての世界第2位の経済大国もGDPで中国、ドイツに抜かれて第4位に。やがてインドやイギリスやインドネシアに抜かれて7位に転落しそうな勢いだ。軍事大国ではないし、もはや経済大国でもなくなりつつある日本。国家としての国際的な発言力、影響力の低下も避けられない。歴史を振り返れば、日本はどこともベッタリせず独自の道を歩んできた。「中国ベッタリ」(朝貢冊封体制)からは8世紀には脱した。「アメリカベッタリ」は20世紀後半のことだ。これも(否応無しに)脱する時期が来た。国家レベルの外交関係とは別に民間レベルでの近所付き合いはこれからますます重要になる。これからはアジアの国々やヨーロッパ、アフリカの国々、中南米の国々ともうまくやって行けるだろう。「アメリカか中国か」という二択の罠に陥らないよう第三、第四の選択肢を用意しておくことだ。民主主義、法の支配、自由貿易という普遍的価値観を共有する仲間作りを主導するのは日本の役割だ。だからといって中国やアメリカと仲違いするというわけはない。多くの友人や仲間、家族がいる国だ。大国の狭間で生きる国の運命だが、別に鎖国する必要はないが、大国のせめぎあいから距離を置く。争いに関わらない。どっちつかずでぬらぬらする。それは勇ましいことでもカッコイイことでもないだろうが、したたかにその狭間で生きてゆくのだ。

2025年5月1日木曜日

五島美術館探訪 〜崖の上の邸宅、庭園、茶室〜

 

古老門


五島美術館は、東急電鉄、東急グループの創設者、五島慶太翁(1882−1959)が建てた上野毛の邸宅跡を活かした美術館である。翁が戦前から戦後にかけて収集した日本と東洋の古美術をもとに構成されており、収蔵品総数は国宝5点、重要文化財50点を含む約5000点にのぼると言う。また敷地内には大東急記念文庫もある。この上野毛一帯は広大な敷地を有する豪邸が多く、この美術館もその一角をなす。敷地は6000坪である。美術館の建物は吉田五十八の設計で、寝殿作りの要素を現代建築に取り入れたもの。常設展はなく、すべてが企画展だそうだ。当日は「春の優品展」THE BESTと銘打って五島翁の銘品コレクションを一堂に展示した豪華な展示であった。中でも国宝「源氏物語絵巻」同じく国宝「紫式部日記絵巻」の写本は圧巻である。飛び石連休期間の谷間の平日であったが、お天気も良く行楽日和の一日。多くの鑑賞者で賑わっていた。やはり中高年が多かったが。

ここは多摩川が武蔵野台地を侵食してできた断崖の上に位置する。この武蔵野の面影が残る自然環境をそのまま生かし、そこに邸宅、庭園が築かれている。庭園には「古経楼」「富士見亭」の二つの茶室がある。回遊式の庭には、二つの池、大日如来など石仏、石塔、石灯籠や門が配されている。ただこれを見て回るのは結構体力を要す。断崖の庭園というだけあって高低差が35mというちょっとした低山ハイキングばりの健脚コースだ。散策は高齢者が多いことにも配慮して、階段には手すりが設けられ、遊歩道に敷石を引き詰めれれている。また本館のある台地上まで戻らなくても、一番下まで降りると、そのまま二子玉川駅へ抜けれる出口が設けられている。五島慶太翁はここで足腰を鍛えていたのであろうか。桜の古木が有名だそうだが、その季節は過ぎ、ツツジも終わりでショウブの季節の始まりである。新緑が眩い庭園をゆっくりと散策する。見晴台からは富士山も展望できるという。この日は見えなかった。都会にいてちょっとしてトレッキング気分である。

自然の武蔵野崖線と武蔵野の雑木林をそのまま生かした庭園は、まさに18世紀イングランドの美学者ウィリアム・ギルピン、ユヴデール・プライスの風景論、庭園論に現れる「崇高」と「美」、そして「ピクチャレスク」の世界である。人工物である茶室や石塔なども、経年変化による自然との融合が具合よく進み、良い佇まいである。時間の経過による自然と人工の曖昧さ。詫び、寂び、美しい古び。それが人口稠密で極度に近代合理主義的、資本主義的論理で再開発されたメトロポリス、東京に古い日本の痕跡のように残されている。こうした日本庭園の美的感覚はプライス、ギルピンにとって共感するものが大いにあるだろうが、この21世紀の東京の景観をどのように評するのか、その評価を聞いてみたいものだ。果たして「ピクチャレスク!」と叫ぶだろうか。




美術館玄関

吉田五十八設計の本館



この界隈には広大な敷地を有する邸宅が


天佑庵門

茶室「古経楼」

茶室「富士見亭」



藤の季節は終わっている


赤門










(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4 展示室内は撮影禁止)