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2022年10月6日木曜日

「小江戸」佐原再訪 〜伊能忠敬の偉業を偲び美しい街並みに秋を堪能する〜



小野川沿いの家並み


久しぶりの下総国、佐原訪問である。かれこれ15年ぶりくらいだろうか。時が経つのが早いと感じる今日このごろだ。「時空トラベラー」も旅を急がねばならない。今回の佐原再訪で気がついたのは、先ず「佐原市」が無くなって「香取市」になっていること。そして、これまで見られた昭和の看板建築が改築されて、昔の町家建築に復元されたところが多いことである。町並みが整備されて一層美しくなった。オリジナルの古建築が、あの東日本大震災で大きな損傷を受けたという。しかし、多くの人々の努力でそれが復旧、修復されていた。まるで何事もなかったように綺麗な街並みが蘇った。この古建築、伝統の家並みを守る努力には頭が下がる。しかし、その間、先祖伝来の商売が続けられなくなり、廃業したり移転したのであろうか、修復後の建物には全く別の商売が入っているところが増えた。諸行無常を感じる。

 千葉県の佐原(現在は町村合併で「香取市」となった)は、1996年関東で最初の伝建地区(伝統的建造物群保存地区)指定された街だ。また伝建指定地区の周囲に県の歴史的景観保護条例で独自の景観保護地区を設けているため、一層落ち着いた佇まいを醸し出している。一帯の電柱の地下化も進み町並みはスッキリとしていて気持ち良い。また江戸近郊の北総四都市、成田、佐倉、銚子の歴史的景観とともに日本遺産にも選定されている。

佐原の歴史は古く、香取神宮の荘園の農村集落に始まり、やがて門前町として栄えたようだ。江戸時代に入ると、徳川家康が江戸の防衛と治水のために利根川の流路付替事業(利根川東遷)に着手した。このため、利根川は東北諸藩と江戸をつなぐ水運に利用され、佐原村は舟運による物資集散地となった。また周辺一帯は水田開発が進み、今に伝わる水郷地帯となっていった。このため佐原村は近隣からの米、穀物の集積地となり、これに合わせて酒、醤油の醸造も盛んになる。利根川の支流である小野川沿いや、香取街道沿いには問屋や蔵が建ち並び、着物や書籍、乾物、荒物、食料品などを扱う生活に密着した小売店も建ち並ぶ利根川随一の河港商業都市として繁栄する。その殷賑ぶりから江戸の繁栄が佐原に在リ、と「佐原本町江戸優り」と歌われた。このためか、現代の観光キャッチフレースは「小江戸」佐原。埼玉県の川越や栃木県の栃木も「小江戸」を標榜している。こうした古い町並みが残る地方の小都市を、関西では「小京都」といい、関東では「小江戸」というわけだ。佐原はその成り立ちから見ると栃木に似る。どちらも水運を利用した物流の中心地として繁栄した。河を挟んで蔵屋敷が立ち並ぶ景観も共通している。明治になり鉄道が佐原まで開通すると、かつてのような活気が失われることが懸念されたが、近郊からの物資が水運を利用して集積され、鉄道で東京へ出荷される街として繁栄が続いた。しかしやがて鉄道が延伸され、道路網が整備され、高速道路が通じると、次第に物流拠点としての機能は衰退していった。

現在見る商家の家並みの歴史は比較的新しく、江戸時代後期に物流拠点、商業街として繁栄した頃のものであるという。したがって商家、蔵、屋敷などの建物は天保年間から明治、大正、昭和初期のものが多い。建物の種類も各時代を反映して出桁造の蔵屋敷から町家建築、明治以降の洋館まで多様である。主に小野川に沿って歴史的な建築が並んでいるが、忠敬橋周辺、香取街道には商家の他、醸造の蔵元がある。大抵の大きな商家は蔵を伴い、川越や栃木のような「蔵の街」の景観がここでも見られる。まさに時空を超えた町並みが美しく保存修景されていることに改めて感動する。しかし、佐原の最大の特色は、他の伝建地区地域と異なり、いまでも人が住んでいて、昔からの家業を続けているところが多いということ。「生きている伝建地区」と言われる所以だ。これはすごいことだ。地域コミュニティーの生活を支える地元商業地区としての祖業が持続可能な街なのである。コンビニやファミレスが見当たらないのは、景観保護の観点からだけではなさそうだ。しかし、最近はご多分に漏れず、空き家となる町家が増え、それを活用した古民家カフェやショップ、レストランに変わるところが増え始めている。先述のように、東日本大震災による廃業や移転も影響しているようだ。


1)小野川沿いお散歩写真集

なんといっても利根川の支流である小野川に沿って古い商家、屋敷、町家が、そして所々に洋館が並んでいるこの景観が心に残る。他の街、例えば武州川越、下野栃木、伊豆松崎、近江五個荘、伊勢関宿、伊予内子町、八女福島などと相通じる佇まいを持つが、川と蔵屋敷という組み合わせは栃木の町並みを思い起こさせる。電柱の地下化や看板の撤去も完成し、ますますハンサムな町並みになった。



電柱電線の地中化でスッキリした町並みになった

船荷積み下ろし用の石段(だし)


町家建築のあいだに洋館風建物

木の下旅館

街灯の飾りは佐原の大祭の山車

川畔にはユーモラスなオーナメントも






小野川沿いの酔芙蓉


川端柳にも風情がある


樋橋たもとの洋館

樋橋(別名ジャージャー橋)
元は水路橋であったそうで、その名残を楽しむための仕掛け

30分ごとに水が流れる

樋橋と伊能忠敬旧邸

観光案内施設としてリノベされた町家

廃業した町家はフレンチレストランに

こちらは宿泊施設に

千葉商船ビル
新しいビルだが、どこかレトロな洋館風で街の雰囲気を壊していないい
ちょっとしたランドマーク

NTTの鉄塔もいまや昭和レトロな点景か?

観光船もゆったり





成田線の小野川鉄橋

佐原駅



駅前には立派な銅像が



2)町家の写真集

① 三菱館(旧川崎銀行佐原支店):1914年(大正3年)県有形文化財

レトロ建築・町並み保存運動のキッカケとなった建物。いまは町並み案内の施設に




三菱館、中村屋乾物店の並び


② 中村屋乾物店:1892年(明治25年)県有形文化財

黒漆喰、出桁造りの土蔵造りという重厚な建物。今も先祖伝来の乾物類ご商売継続中。


土蔵の扉に扱い商品が記載されている



③ 正文堂書店:1880年(明治13年)県有形文化財

黒漆喰の重厚な土蔵造り、昇り龍・下り龍の木彫看板が特色。東日本大震災で被害を受け、再建された。今は祖業の本屋は廃業。和菓子屋が入っている。

東日本大震災で大きな損傷を受けたが修復(香取市HPより)
いまは書店ではなく和菓子屋になっている


④ 福新呉服店:1895年(明治28年)県有形文化財

こちらも震災で被害を受けたそうだが、見事に復元された。


こちらも震災から復旧した(香取市HPより)


⑤ 小堀屋本店(蕎麦):1900年(明治33年)県有形文化財

震災では屋根瓦に大きな損傷を受けたそうだが見事に復旧。現在も家業の蕎麦屋を続けている。こういう店を応援したくなる。


現在も家業を守っている(香取市HPより)


⑥ 旧油惣(あぶそう)商店(酒、奈良漬け、米、油)1900年(明治33年)袖蔵は1798年(寛政10年)で佐原最古 県有形文化財

綺麗にリノベーションされているが、現在なにに使われているのかは不明だ。


(香取市HPより)


⑦ 中村屋商店(荒物、雑貨、畳):1855年(安政2年)県有形文化財

忠敬橋のたもと、小野川と香取街道の四つ辻に立つ老舗。





⑧ 正上(醤油、佃煮):1832年(天保3年)土蔵は明治初期 県有形文化財

佐原の川辺りを代表する建物の一つ。現在もこの左手の店舗で佐原名物のハマグリ・アサリの佃煮やすずめ焼きなどの名産品を商っている老舗。観光客にも人気。


船荷の積み下ろし用の石段「だし」



醤油醸造元であった名残



⑨ 植田屋荒物店:築年不明 創業260年 1759年(宝暦9年)

平屋の商家建築の代表的な例。後ろに蔵屋敷を備えるので間口の割には奥行きがある。現在も伝来の荒物業を継続、盛業中。ネットでも商品検索できるところが伝統と革新のハイブリッド


創業260年、現在も伝来の家業を継続中

店舗後ろに蔵が建つ



⑩ 看板建築:

先述のように、多くの看板建築や現代風に改装された建物が改修され、伝統的な町家建築が復元されたことは嬉しい。しかし、このようなこだわりの看板建築はむしろ、建築史の証人として残しておくほうが良い気がする


ここまで凝っていると壊すのはもったいない
これはもう立派な建築遺産だ!

正面から見ると、とても平入りの町家には見えない



3)佐原が生んだ偉人、伊能忠敬

佐原は、日本で初めての「実測日本地図」を完成させた伊能忠敬縁の地としても知られている。九十九里の出身で養子として佐原の豪商の家に入った。伊能家は醸造業や、米販売、舟運、金融業を家業としており、名字帯刀を許された豪商であった。また当時の佐原は幕府の天領であったが武士はおらず、地元の商家の旦那衆による自治が行われていた、伊能家はその名主であった。忠敬は50歳で家業を息子に譲り隠居した後、江戸に出て幕府天文方の高橋至保の弟子として、天文学や、地理学、測量技術を学んだ。それだけでも大した意欲だと思うが、それにとどまらない。その後、幕府の御用で全国を徒歩で測量して回り、前述の日本地図を完成させるという歴史に名を残す偉業をなした。「伊能図」は現在の地図と比較しても、ほとんど変わりのない正確な地図であり、シーボルトが持ち出そうとして捕まり、国外退去を命じられた(シーボルト事件)あの因縁の地図である。忠敬の歩数実測、方位確定による地図制作の技術の高さを示すものである。彼にとって、隠居したら「晴耕雨読」「趣味悠々」などという人生は無関係であったようだ。佐原という街は当時、江戸との通交の拠点であったことから、江戸の文化や学問、とりわけ蘭学についても接する機会が多かったのだろう。こうした環境が、彼に隠居後にさらなる勉学の意欲を沸き起こさせ、ついには後世に残る実績につながっていったことを考えると、我が身を顧みてその不甲斐なさに反省しきりである。若き日には家業の隆盛と名主としての責務に粉骨砕身努力し、なお学問への精進を怠らず。引退後は年齢を超えた意欲、体力、知力の卓越さを発揮する活躍を続ける。当時としては長寿の73歳で亡くなった。精神一到何事か成らざらんである。

旧伊能忠敬邸の築年代は、書院が1793年(寛政5年)、土蔵が1821年(文政4年)、店・門は時期不明となっている。当時に比べて敷地は縮小されているそうだが、店舗、正門、書院、炊事場、土蔵がほぼ当時のまま修復保存されている。書院は忠敬自身が設計したと伝わる。邸内には農業用水路が流れ、名主であった伊能家の盛んであった様子がわかる。小野川の対岸に「伊能忠敬記念館」があるが、当日は残念ながら休館日であった。


旧伊能家の門と店舗

樋(とう)橋、別名ジャージャー橋と伊能邸


炊事場

全国を巡った測量器具



土蔵

忠敬自ら設計したという書院

農業水路が邸内を流れる

奥行きのある敷地
これでも往時よりは縮小された

伊能邸の小野川の対岸には「伊能忠敬記念館」がある

(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)