旧横浜正金銀行本店 「エースのドーム」 |
横浜の外国人居留地
山下居留地(関内居留地とも呼ぶ)は安政五カ国条約に基づく横浜開港に伴って設定された外国人向けの居留地である。開港場は東海道神奈川宿のはずれの寒村だった横浜村に築造され、その地名を関内という。関内は海と川・水路に囲まれた地区で、1871年(明治4年)に開港場に出入する橋のたもとに二つの関所が設けられたため、関所の内側=関内と呼ばれた。ただし山下外国人居留地=関内ではなく、山下居留地は関内の日本大通りの東側一帯で、西側は日本人居住地区である。日本人との雑居地はなかった。のちに、人口増に伴い山手外国人居留地を増設。山下地区は商社などのビジネス街。山手地区は主に住宅街となった(下記の地図参照)。外国人居留地廃止後も関東大震災で被害を受けるまでは、居留地の町並みが残っていたが、現在は往時を彷彿とさせる建物は殆ど残っていない。現在は商業地、ビジネス街となり、日本大通り、馬車道周辺は官庁街、銀行街となっている。
幕末の開港初期の頃は、外国人は居留地に住むことが義務付けられ、居留地以外への旅行も定められた範囲しか行動できなかった。行動制限が課せられていたわけだ。また、幕末に多発した攘夷派による外国人襲撃に備える意味もあった。生麦事件や、ヒュースケン殺害事件、東禅寺襲撃など、多くの外国人とのトラブルや殺傷事件があり、やがて列強諸国は居留民保護の名目で、居留地に自国軍の駐屯を認めるように幕府に迫った。山手地区には駐屯地や兵舎が設けられ(イギリス山、フランス山の兵站跡など)、港には軍艦が停泊するなど、上海を彷彿とさせるような光景が見られた。明治になってからはこうした攘夷事件は少なくなっていった。
居留地の住人は1870年(明治3年)の記録では942人。そのうちイギリス人が513人と一番多く、アメリカ人、ドイツ人と続く。なかでもイギリスの商社は既に中国やインドに進出していたジャーディン・マセソン商会、デント商会の二大商社が横浜にも進出し、大きな市場支配力を持っていた。この他にもイギリス系の商社が、外国商社総数256社のうち101社を占め、取り扱いシェアーは輸出で60%、輸入で75%であった。また香港上海銀行やオリエンタル銀行のようなメガバンクも進出してきた。一方で、居留地人口が増えるに連れ、こうした大商社、銀行や、公使館などの外交官以外にも、主に上海や海外植民地から渡ってきた日本で一攫千金を狙う商人や、サービス業が進出し、中には粗野な商売をする者もいたようだ。アーネスト・サトウの日記によると、オルコックと思しきイギリス人が「ここはヨーロッパの掃き溜めだ!」と叫んだとある。居留地という狭いコミュニティーにおいても、西欧人の間で格差や偏見があった様子が伺える。ちなみに山下居留地の一部は中国人華僑の居住地区となっていた。現在の中華街である。西欧人の通訳や商社員などとして横浜に来た清国人(広東省、福建省が中心)が定住し始めたのが始まり。やがては中国との航路が開設されると貿易商などとして横浜に進出してきた。日本における華僑の歴史は長く、江戸時代初期の長崎以来の伝統を有している。
居留地では借地権と建物所有権は認められたが土地所有権は認められていなかった。安政五カ国条約に基づき、居留地外国人には治外法権・領事裁判権があり、日本の司法権が及ばなかった(不平等条約として改正に努力することに)。行政権は日本にあったが、事実上課税無しなどその実効性が担保されていないのが実情であった。この状態は1899年(明治32年)の条約改正に伴う外国人居留地の廃止まで続いた。一方で明治も半ばになると、外国側から見るとこうした居留地の維持に費用がかかることもあり、外国人や外国商社から徐々に借地権の放棄や返還が始まり、事実上「外国人居留地」が解体され始めていった。長崎などは条約改正を待たずに事実上居留地制度が消滅していった。横浜でも居留地の日本側の行政権が復活した。
横浜外国人居留地略史
1858年(安政)安政五カ国条約締結 開港場(長崎、神戸、新潟、横浜、函館)、および開市場(東京、大阪)が指定され、そこに外国人居留地の設置が決まった。
1860年(万延元年)横浜山下外国人居留地設置
1867年(慶応3年) 人口増に伴い山手外国人居留地を増設
1872年(明治4年) 新橋、横浜間鉄道開通 事実上、横浜山下居留地と東京築地居留地を結ぶものであった
1877年(明治9年) 日本の行政権確立(長崎など維持費高騰のため居留地返還の動き)
1899年(明治32年)条約改正に伴い外国人居留地を正式に廃止
1923年(大正12年)関東大震災で多くの被害を受けるまでは居留地の町並みが存続
今回の「山下外国人居留地探訪」では、残念ながらかつての外国人居留地を彷彿とさせる建物や建造物には出会わなかった。いくつかの当時の洋館の遺構や商館跡、標識が残されているが、いずれも往時の姿を残すものはない。やはり居留地廃止から120年が経ち、しかも関東大震災による壊滅的被害により、建物は崩壊しかつての居留地の町並み景観は消滅してしまった。現在眼にする横浜を代表する建物は、震災以降、昭和初期の港町横浜の繁栄を偲ぶものばかりである。いわば念願の「一等国」になり海外進出著しい日本の表玄関のシンボルである。特にキングの塔(神奈川県庁)、クイーンの塔(横浜税関)、ジャックの塔(横浜開港記念館)の愛称で呼ばれる塔屋を有する近代建築が、旧山下居留地地区の歴史的なランドマークになっているが、「居留地」時代の遺産ではない。これらはまだ周辺に高い建物がなかった昭和初期の時代に、横浜港に入港する船の目印になっていて「横浜三塔」としてつとに著名である。最近はこれに馬車道の旧横浜正金銀行本店(神奈川県立博物館)の「エースのドーム」を加えて「横浜四塔」と呼ばれることもあるらしい。この他に、旧英国総領事館(横浜開港資料館)、ホテル・ニューグランド、氷川丸を巡った。いずれにせよジャックの塔とエースのドーム以外は昭和初期の建築・建造物だ。かつて訪れた上海には、現在でも欧米や日本の共同租界、上海バンド(外灘)の時代を色濃く残す街区、町並みが残っており、それが上海の歴史地区・観光名所になっているが、ここ横浜では見られない。もちろん香港のような(99年の借地権による)植民地の旧宗主国の文化的景観もない。エキゾチックな観光資源に乏しいとすれば残念なことかもしれないが、これは日本にとって幸運なことであった。今の横浜には観光キャンペーンで喧伝するほどの幕末・明治の異国情緒豊かな町並みは無いのだが、それは上海や香港の状況を「他山の石」とした天保老人、幕末の志士、明治人が頑張ったおかげなのである。その思いに至ったのも今回の探訪の成果だろう。
「明治は遠くなりにけり」
今回は第一回として「山下外国人居留地」を探訪した。次回は「山手外国人居留地」を紹介する予定である。
「横浜外国人居留地研究会」より引用 |
1)旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立博物館)
重要文化財
愛称:「エースのドーム」
完成:1904年(明治37年)
建築様式:古典主義様式 日本銀行と同じで堅牢な要塞のような造り。
設計:大蔵省建築部 妻木頼黄(赤レンガ倉庫の設計も)
戦後の東京銀行横浜支店を経て、1967年(昭和42年)神奈川県立博物館に
「象の鼻」の突堤と大桟橋 |
「象の鼻」突堤の内側 |
臨港線跡はプロムナードデッキに |
現在の大桟橋 |
象の鼻パークからキング、クイーンを展望 |
正面玄関 |
正面玄関のコリント式列柱 |
本館側面入り口 |
本館裏面 |
日本初の水道蛇口 |
薩英戦争のイギリス側戦没者銘板 |
日米和親条約締結の地 「たまくすの木」 |
8)氷川丸
重要文化財、近代化産業遺産、
完成:1930年(昭和5年)横浜船渠(現三菱重工)で竣工
1930年 北米シアトル航路に就航(戦前だけで75航海、船客のべ1万人)
1941年 戦時中は病院船
1945年 戦後の復員船として 南方から2万人。戦後の引揚船として 満州、フィリピンから8000人(博多〜葫蘆島)(名古屋〜マニラ)
1951年 シアトル航路復帰。フルブライト留学生2500人(1953年から7年間)
1960年(昭和35年)引退(太平洋航路254航海、船客25000人)
1961年 山下公園に係留
山下公園 関東大震災の瓦礫で埋め立てて造成されたという この下に「山下外国人居留地」の残骸が埋まっている... |
現在の海岸通り |
居留地時代の海岸通り (Wikipediaより引用) |