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2017年4月11日火曜日

桜咲く(2) 〜太宰府の桜〜


 太宰府を連想させる花といえば、なんといっても梅だろう。菅原道眞公ゆかりの梅。筑紫路に春一番を告げる天満宮の「飛梅」。菅公を慕ってみやこから飛んで来たという白梅だ。「東風吹かばにほいおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」だ。そして天満宮参道に並ぶ多くの茶屋や、天満宮裏手の梅園に昔からある文人墨客に人気の「お石茶屋」の「梅ヶ枝餅」。焼きたての餅をお茶とともに縁台で食す。もちろん梅の香を聴きながら... この昔ながらのイートインスタイルが太宰府天満宮参詣の風情を醸し出す。もっとも「お石茶屋」は伝説の美人お石さんのほうが人気だったそうだが。

 とにかく「梅」「梅」「梅」だ。たしかに天満宮境内やその梅園は梅の時期には多くの人出で賑わう。奈良時代から平安時代にかけて、万葉集や、古今和歌集などで歌われる花といえば「梅」であった。中国から伝わった梅とそれにまつわる詩歌、庭園建築、芸能、味覚。ここ「遠の朝廷」太宰府が梅に彩られる殷賑な西国の都であることはなにも不思議ではない。桜が日本人に愛でられるようになるのは後世のことだという。「花は桜木、人は武士」。特に武家全盛の時代に、桜花の潔い散り方が武士道精神を象徴しているとして愛でられるようになったという。

 太宰府散策に立ち返ろう。「梅」というレッテルがしっかり貼り付けられている太宰府ではあるが、意外にも太宰府は桜の名所でもある。福岡で桜の名所といえば、福岡城址、西公園、秋月城下町など、やはり武家文化にまつわる地域が有名だ。しかし、古代の「遠の朝廷」太宰府も桜が見事だ。特に都府楼跡(太宰府政庁跡)は礎石が並ぶ広大なスペースの周辺を桜並木が連なって、格好の花見の場所となっている。古代の遺跡と周囲を囲む山々。気持ちの良い空間だ。そのほかにも山肌を彩る山桜が、都府楼跡の背後にそびえる大野城(四王寺山)や里山を春めいた風景にしてくれている。四季折々に違った顔を持つ太宰府ではあるが、今回はいつもと少し異なる趣の「桜」太宰府を散策してみた。

 太宰府も、博多/福岡と共に、最近は訪日外国人、とりわけ中国、台湾、香港、韓国からの観光客がドッと押し寄せるようになった。太宰府観光といえば太宰府天満宮や九州国立博物館を訪れ、参道で梅が枝餅を食べ、お土産買って帰るパターン。ある統計によるとこのパターンの観光客の70%が中国語/韓国語圏からの観光客だそうだ。まあ、日本人観光客でも「太宰府に行ってきた」といえば天満宮で学業成就のお守りもらいに行ってきたことを言うほどだから、彼らにとって「安近短」海外ツアーの定番コースなのだろう。しかし、本当はそれではもったいない!実は、太宰府天満宮のあるところは旧太宰府都城の東北の郭外である。道真公の遺骸を埋葬した安楽寺天満宮を母体として天神信仰の聖地太宰府天満宮ができると、ここがその門前町として発展した。中世以降はは太宰府の中心はここに移り、現在も、西鉄太宰府駅を軸に太宰府市の中心になっている。しかし本来は太宰府といえば都府楼跡(太宰府政庁跡)を中心に朱雀大路を挟んで東西に広がる条坊制の都城をいう。また大野城と基肄城という防衛拠点を南北に配し、水城で周囲を防備したた要塞都市をいう。いまは鄙びた滅びの情景に満ち満ちた府庁/官衙、学業院や観世音寺/戒壇院を中心とした古代の都城跡こそ太宰府なのだ。太宰府天満宮からは西に離れているので、なかなか観光客はそこまで足を運ばない。西鉄の駅で言えば都府楼前か五条。最近は「まほろば号」というバスも運行されているが、歩いて回るのにちょうど良い歴史散策コースなのだが。ちょうど、平城京といえば平城宮趾が中心のはずだが、観光客は平城京の東の郭外にある東大寺や春日大社、興福寺に押しかける。広大な平城宮趾を見に西大寺まで電車に乗る人は少ない。ちなみに京都も、現在の京都御所は江戸時代に旧平安京の東に移動している。旧平安京の大極殿は、現在の二条城付近にあった。このように古代に建設された広大な条坊制の都城は、のちにその中心地が寂れると、どこも中心が東に移動している。これは単なる偶然なのだろうが、不思議な共通点と言える。

 この日も、桜が満開で華やぐ都府楼跡辺りは、家族連れの花見客以外は、観光客の姿はまばらであった。観世音寺も戒壇院も静謐の中にあった。静かで穏やかな里の風景である。ちょうど奈良公園ではなく、飛鳥の里のような情感溢れる佇まいである。それはそれで、この静けさをいつまでも守っていたい心情はありつつも、古代史「時空トラベラー」はもちろん天満宮だけでなく、必ずや都府楼跡や観世音寺を訪ねなければならない。中国や韓国の観光客もぜひ「東夷の倭国」が、かつて白村江の戦いに敗戦し、あなた方の遠い祖先の国、唐/新羅連合軍が列島に攻めてくるかもしれない、として構築したこの防衛都市を見に来て欲しい。その後、平和が訪れて中国王朝、朝鮮半島諸国との交易/文化交流の拠点として繁栄した「とおのみかど」を見に来て欲しい。日中韓の長い長い悠久の歴史を考える良い場所だと思うがどうだろうか。


参考:以前の大宰府に関するブログ

2010年2月19日のブログ:唐/新羅連合軍の侵攻に備える 〜大宰府大野城と水城構築〜

2014年8月6日のブログ:大宰府 〜遠の朝廷にはチャンスがいっぱい!〜

2015年5月1日のブログ:新緑の大宰府を歩く

2016年6月17日のブログ:梅雨の大宰府は紫陽花の里だった
都府楼跡(大宰府政庁跡)
背後は大野城(四王寺山)大宰府防衛のために築かれた山城で山中には長大な石垣が残っている。
白村江の戦いで敗れた倭国が唐/新羅連合軍の侵攻に備え構築した。






太宰府政庁正殿の礎石




大野城(四王寺山)

政庁正殿跡から南西を望む
山並みは背振山系



学業院跡の桜


里の桜
都府楼跡から観世音寺へ向かう道すがら



戒壇院山門

観世音寺講堂

観世音寺参道
南大門跡

観世音寺宝蔵
馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音
など巨大な観音像が安置されている


レンギョウ


講堂の「観世音寺」の扁額



宝篋印塔と石仏群

観世音寺五重の塔心礎
創建時から動いていないという

国宝観世音寺梵鐘
背景は宝蔵

鬱蒼たる観世音寺参道

観世音寺入り口

御笠川沿いの桜並木


御笠川



御笠川から宝満山を望む

五条あたりの道標



(撮影機材:SONYα7R II + FE24-240 Zoom)