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2017年4月5日水曜日

桜はまだだ...春爛漫の大和路を歩く(3)〜長谷寺、室生寺、大神神社 編〜

 奈良市内を離れ、三輪山の麓から初瀬街道にそって長谷寺、室生寺へと歩を進める。ヤマト王権の発祥の地である三輪山山麓。奈良市内からは「山辺の道」が南に伸び、道に沿って大型古墳が並ぶ、いわゆる大ヤマト古墳群である。最近、纒向の地に東西軸で構築された3世紀のものと考えられる宮殿/神殿跡が発見された。これぞ邪馬台国女王卑弥呼の居館であると騒がれたが、まだ明確な証拠となる遺物は見つかっていない。むしろ初期ヤマト王権の拠点遺跡であろう。その三輪山から東に谷あいを進むと、初瀬街道、伊勢詣での伊勢街道へと続く。ここには観音様で有名な長谷寺、そして女人高野室生寺がある。山と谷に囲まれた隠国(こもりく)の初瀬だ。


(1)長谷寺

 真言宗豊山派の総本山。もとは天武天皇の病気平癒を願い、686年に初瀬山に開いた精舎(現在も本長谷寺として残されている)である。727年には聖武天皇の勅願により十一面観音菩薩を祀った。やがて西国三十三所観音霊場の根本道場となった。平安時代には長谷の観音様詣でがみやこ人の間で人気があり、初瀬街道や伊勢街道が参詣客で賑わった。いまでも初瀬街道沿いには宿屋や茶店、土産物屋が軒を連ねている。なかでも出雲人形という土人形が名物であった。京都の伏見人形とともに参詣の土産として売られていた。残念ながら現在では伝統を継ぐ職人もなく、唯一残っていた出雲人形の店も看板はあるが玄関は固く閉ざされている。代わって最近の土産物は、草餅。そして三輪そうめん。我らも、にゅうめんを食して初瀬もうでを締めくくった。

 長谷寺は「花のみ寺」と呼ばれ、四季折々の花に彩られる美しい寺だ。とくに春の桜、五月の牡丹、秋の紅葉は有名。その他にも四季折々に花が咲き乱れ、いつ訪れても目を楽しませてくれる美しい寺だ。桜は今回残念ながらまだ咲いていなかったが、梅やサンシュユ、花桃、雪柳が早春の名残に咲き誇っていた。全山満開の桜の季節になると、初瀬川対岸の愛宕神社境内から眺める桜花に埋もれる長谷寺の全景が素晴らしいのだが。今回は境内は季節の端境期で訪れる人も少なく静かな佇まいである。それはそれでまた良し。

 ちょうどご本尊の十一面観音菩薩のご開帳の時期にあたった。普段は入れない内陣に入れてもらい、御像の足元に触れさせていただくことができた。身の丈が三丈三尺(約10メートル)で、近江高島の楠の霊木を彫り上げた観音様。右手に錫杖を持ち、大磐石という大きな平らな石の上に立つ独特のお姿を足元から見上げる。はるか頭上に慈愛に満ちて微笑む観世音菩薩との結縁を結ぶことができた。私のような現実的で理屈優先な人間がなぜか心洗われ世俗の憂いや煩悩から解き放たれた心持になった。


参考:

2012年4月18日のブログ:初瀬のお山は花盛り〜長谷寺の桜〜
2015年12月18日のブログ:初冬の大和古寺巡礼(1)長谷寺〜冬紅葉を巡る旅〜


名残の梅が本堂舞台を彩る

与喜天満宮から初瀬街道を望む


西国三十三ヶ所巡りのお遍路さん




参道の梅

登廊

桃とサンシュユ

桃が盛りだ

さんしゅゆ

お遍路さんご一行さま
舞台

内陣から舞台を望む


善男善女の参拝が続く

桜が咲き始めた

サンシュユの大木がみごと!




(2)室生寺

 室生寺のあるここ室生の地は、太古の室生火山群が形成する深山幽谷の地、神々の坐す聖地として仏教伝来以前から仰がれていた。近くには龍神信仰の聖地龍穴神社がある。奈良時代の後期に勅命により創建されたのが室生寺。山林修行の道場にして法相/真言/天台各宗兼学の寺であった。女人禁制の高野山に対し、女性の参詣を許す真言道場であり「女人高野」と称された。大和路の寺のなかでも谷を越え山に分け入る地にある静かな聖地である。

 ここはシャクナゲで有名な寺で、金堂にいたる鎧坂の両側はその季節になると見事であるが、もちろんまだその季節ではない。里ではそろそろ蕾をつける頃だが、深山幽谷の室生寺ではまだまだだ。そしてやはり桜はまだであった。しかし、なんという静けさ。こんな春の陽光の中、鎧坂、金堂、五重塔、奥の院へ続く道、ほとんど独り占めできる嬉しさ。今回は奥の院までは行かなかったが、これから新緑の季節を迎えると、向かいの室生山の山肌が若葉で美しく輝く。いつ訪れても心洗われる聖なる場所だ。

 室生寺は大和路散策のなかでも人気の寺で、近鉄室生口大野駅から日に数本しかバス便が無いにもかかわらず、平日でも結構な数の参詣者がいる。しかし、この日はさすがにバスの客も少なくゆったりと20分のバス旅を楽しむことができた。駅近くの大野寺の枝垂れ桜が有名で、シーズンには大勢の花見客が押しかけるが、この比較的早咲きの桜さえ今年はまだ蕾であった。河岸の磨崖仏もこの日は寂しそうだ。

 こちらも、この時期、金堂の内陣が特別公開であった。普段は外の回廊から拝観するしかない。ところがちょうど諸仏のご尊顔あたりにハリが横たわっていて腰を低くして尊像を拝せざるを得ないのだが、この時は内陣ですぐ目の前に並ぶご本尊、薬師如来、土門拳の写真でも有名な十一面観音などの諸仏を拝観することができた。建物自体も平安期創建時の建物が貴重なことに残っていいて、時空を超えた曼荼羅世界に浸ることができた。


参考:

2016年1月21日のブログ:女人高野室生寺に雪が降った〜土門拳の世界に迫る?〜

鎧坂


鎧坂からみる金堂
平安時代初期(国宝)

今回は内陣の公開があったので
ご尊顔をゆっくり拝見できた

寺を守る神社
神仏習合のあらわれ

国宝五重塔
平安時代初期(国宝)
平成10年の台風で大きな損傷を被ったが平成12年に修復された。


同じく、横位置にして広がりを表現してみた


ここにも名残梅



(3)大神神社

 最後に、三輪山を御神体とする大神神社へ。神奈備型の美しく神聖な三輪山は大和の風景のシンボルであり、ヤマト王権発祥の地にふさわしい聖山である。そもそも大神神社の御祭神は大物主神。出雲の杵築大社(出雲大社)の御祭神、大国主命の別神とされており、「国譲り神話」という、ヤマトと出雲のつながりを暗示する記紀神話ストーリーの舞台である。また蛇が神の化身と言われ、大杉のウロに住み着いているという。参拝者は卵を御供物として献納する。記紀神話ではヤマトトトヒモモソヒメとの婚姻譚、其の死後に築造されたという箸墓古墳についての伝承が伝えられている。これが中国の史書、魏志倭人伝にいう邪馬台国女王卑弥呼であり、したがって箸墓古墳が卑弥呼の墓であると結びつける説がある。これを邪馬台国近畿説の「根拠」にしている学者もいる。もとより神話と考古学と中国の文献とを結ぶ証拠はもちろんない。日本側の公式な史書である記紀には邪馬台国や卑弥呼に関する記述、言及が一切ないのである。

 しかし、三輪山が、太陽神という自然神崇拝、やがては一族の祖霊神崇拝を旨とする、列島の原始宗教形態のシンボルになっていったことは間違いない。このような神奈備型の山を天上界の神が降臨する聖山として崇め、その麓で祭祀を執り行う形態は、列島の各地にあった。のちに(6世紀の仏教伝来以降、その外来の壮麗な宗教施設である寺院建築物に影響されて)拝殿、社を設け「神社」とするようになる。やがて列島内の首長・豪族といった勢力が緩やかな統合に向かい、大和三輪山の麓(やまと)に打ち立てられた「ヤマト王権」が列島を取りまとめる中心となってゆく(その遺構が纒向遺跡であり箸墓古墳である)。そして三輪山が、いわば「聖山の中の聖山」として王権のシンボル的なステータスになってゆく。そのなかで、やがて祖霊信仰が加わってくると、三輪山に一族の祖霊神を投影するようになる。それが大物主命であり、出雲大国主命の別神であると伝承され、出雲と大和の結びつきの記憶を想起させることとなる。

 三輪山の麓からヤマト世界を展望できる場所がある。ここからはとりわけ夕日に彩られる風景が美しい。大和三山、葛城・金剛山、そして二上山が見渡せる。日の出る山、三輪山、日の没する山、二上山。太陽信仰を基本とする東西軸の宇宙観を持った倭国ヤマト世界をここに立つと体感できる。南北軸の宮殿配置、都城配置は(藤原京・藤原宮、平城京・平城宮以降の)は後に中国から伝わった思想に基づくものである。さらに6世紀になると仏教が伝わり、西方浄土という考え方が徐々に人々に受け入れられる。やがて夕日の沈む彼方の極楽浄土を憧れるようになり、二上山が聖山として崇められるようになる。

 聖山三輪山の麓が3世紀ヤマト王権発祥の地である。しかし、そのこととここが邪馬台国の所在地であったか、ということは別問題である。同じく3世紀の倭国の姿として記述される魏志倭人伝世界の邪馬台国はやはり北部九州チクシ倭国連合の中心国であったという考えに変わりはない。3世紀当時の列島各地には、大小の違い、結びつきの強弱の違いはあれ、いくつかの地域連合があったであろう。筑紫、出雲、吉備、但馬、越、尾張などの地名がそれを表している。なかでもチクシ倭国連合はその、地政学的立ち位置、奴国、伊都国時代からの大陸との交流の歴史から、中国王朝(特に漢帝国)との結びつきが強く、列島内において文化的、経済的、政治的に優位なポジションにいたことは間違いない。しかし、大陸の漢王朝が衰退し、分裂して三国時代になると、チクシ王権の盟主である邪馬台国(卑弥呼)は朝鮮半島を通じて魏朝に朝貢するが、一方で、魏と対抗する呉(現在の上海付近)王朝と通交した列島内倭国の地域王権があったかもしれない。中国においても呉や蜀の史書は失われており、残念ながらこれらの通交を記録する文献資料は見当たらないが、当時の東アジア情勢は中華王朝、朝鮮半島、倭国を巻き込んで合従連衡の中にあったと考えるべきだろう。そうしたなかで魏志倭人伝には出てこない倭国内の(列島内の)有力な倭人勢力が幾つかあったとしても不思議ではない。その一つがヤマト倭国連合であった。この初期ヤマト王権の出自についても謎が多いが、先ほどの出雲勢力との関係や、その背後にある筑紫勢力(倭国争乱で邪馬台国に敗れて東遷したチクシ勢力と考える)と無縁ではないだろう。大和盆地に自生した土着勢力とは考えにくい。

この辺りの話はし出すとキリがないのでこのあたりにしよう。さらに興味のある方は、下記のブログをご一読あれ。

 ふと我にかえり目をあげると、眼下に広がるヤマト世界を夕日が茜色に染め上げている。


参考:

2016年1月17日のブログ:なぜ大和三輪山には出雲の神が鎮座しているのか?
2016年10月18日のブログ:「初期ヤマト王権」とはなにか


大神神社拝殿
御神体はこの後ろの三輪山

夕日に映える表参道

大和の夕景
まもなく二上山に夕日が落ちる

真西に夕日が沈みゆく
東の三輪山、西の二上山という
東西軸の宇宙観をここに立つと体験できる

大鳥居と耳成山
背景に葛城山、金剛山
ヤマト世界の夕景だ。
(撮影機材:SONYαR II + EF24-240Zoom. 長谷寺金堂と大神神社拝殿はLeicaM10 + Tri-Elmar 16-18-21/4 ASPH)

アクセス:

長谷寺:近鉄大阪線長谷寺駅下車。徒歩20分
室生寺:近鉄大阪線室生口大野駅下車。バス20分。
大神神社:JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅下車。徒歩15分。