ページビューの合計

2025年9月6日土曜日

古書を巡る旅(68) Jonathan Swift 『Gulliver's Travels』:ジョナサン・スイフト著『ガリバー旅行記』ラッカム挿画版


 子供の頃に読んだ、読み聞かされた「ガリバー旅行記」。子供向けの冒険小説、あるいは御伽話として定番である。この頃のイギリスにはデフォーの「ロビンソンクルーソー」(古書を巡る旅(61)2025年2月28日ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー」)もあり、こちらも冒険小説の双璧として子供達に人気がある。18世紀のイギリスに生まれたこの二つの冒険小説。そもそもどのような時代背景から生まれた小説なのかとふと思う。もちろん当時のイギリスの海外進出と未知の世界への関心、憧れがこのようなジャンルの小説を生み出したと言って良いのだろう。しかし、背景はそれだけではなさそうだ。特に「ガリバー旅行記」は、当時のイギリスの政治情勢や社会情勢を映し出す「政治風刺」物語としての性格が色濃く出ている。そこがデフォーの「ロビンソン・クルーソー」との大きな違いである。ロビンソン・クルーソーがプロテスタントの都市ブルジョワ、すなわち商工業者層出身の「近代的経済人」を象徴する主人公であった。デフォーは革命や政治闘争にかかわらず、生産活動や商業活動に精を出す中産階級に焦点を当てた。一方でこのガリバーは何を象徴しているのだろう。作者スイフト自身の代弁者に違いないのだが、彼の政治活動の体験をつうじて当時のイングランドとアイルランドの世相と政治情勢、そして政治を通じてみた人間批評の風刺:satire作品として書き下ろした。いやその筆致を見ると当時はかなりの過激な問題作であったに違いない。発表とともに爆発的に売れたが、後述のように出版にあたっては著者を匿名にし、内容の一部を改ざんしたりして出版には慎重を期している。ロビンソン・クルーソーも問題作であったが、ガリバーはさらに生々しい政治メッセージを込めた問題作であった。


ジョナサン・スイフト:Jonathan Swift(1667〜1745年)

スウィフトはデフォーと同時代の作家でアイルランド系イギリス人、父はイングランド出身でアイルランドへ移民した。ダブリン大学神学博士 トーリー党政治家、風刺作家、パンフレット作者。ダブリンの聖パトリック大聖堂のDeanであったことからDean Swiftとも呼ばれる。若い頃はイングランド政界での活躍を志した。父の紹介で政界の大物貴族の秘書になるが、途中で聖職者へ転向したり、また政界を目指したり、青春の彷徨をくりかえしていたようだ。流行りのロンドンのコーヒーハウスに出入りする野心家の若者であった。この頃ジョン・ゲイ、アレクサンダー・ポープとの友誼を得て文壇でも名を馳せるようになる。当時は政治が一種の知的なファッションとして扱われた時代でもあり、政談はトレンディーでであったのだろう、彼も服を着替えるようにホイッグからトーリーへ乗り換えた。しかしトーリー政権崩壊で政治的敗者となりアイルランドへ。のちにはロンドンのポープのところへ戻り、1720〜1726年に逐次「ガリバー旅行記」出版する。1744年ポープ死去、その翌年1745年スウィフト死去。スウィフトが7歳年上のデフォーと出会ったり、直接の影響を受けた記録はないが、1717年の「ロビンソン・クルーソー」の物語が「ガリバー」の物語の着想に影響を与えたことは間違い無いだろう。トーリーを支持したスイフトは政治的な敗者になったが、いわば政治文学作品で彼の批判精神を発揮し、政界の外から政治に影響を与えた。デフォーも実生活では事業の失敗の連続であったが、文学世界ではスイフトと並ぶこの時代のレジェンドになったことは奇遇だ。後世に名声と不朽の名作を残したこの二人は、時代が産んだイギリス文学界の寵児であった。


初版からの経緯

1720年、第一編、第二編が、1723年、第四編が、1724年、第三編が書かれた。1725年に完成したとされる。1726年ロンドンに赴き出版をベンジャミン・モットに依頼。しかし反ホイッグ風刺で、大衆の反感や当局からの告発されることを恐れ、モットは大幅な内容の改ざんを行った上で出版した。また著者名を隠して発売した。しかし発売とともに一週間で売り切れる勢いであった。こうして人気の物語となったがスイフト自身はこの改ざん内容に違和感を覚えていた。

1735年にアイルランドの出版事業者ジョージ・フォークナーにより、著者名を冠しオリジナルのままの再出版を行った。これが今日の完全なる「ガリバー旅行記」の初版とされる。

1899年、アイルランドで問題になりそうだとして掲載されていなかったリンダリーノ(天空のラピュタの下にある都市、ダブリンがモデルと)のエピソードが追加された。本書はこれにアーサー・ラッカムの新たな彩色挿画を加えた1909年版である。豪華な装丁で、いわば愛蔵版と言って良いだろう( illustrated by Arthur Rackham published by J.M.Dent & Co. London, E.P.Dutton & Co. New York)。初版から170年、話題騒然、きな臭い政治風刺小説は、イギリスを代表する古典作品として、読書家の書庫を飾ることとなったわけだ。20世紀になってからは子供向けの冒険小説としてもてはやされ、そこでは主に小人国、巨人国の二編しか取り上げられないが、じつは後の二編がスイフトの風刺精神の真骨頂とも言える物語なのだ。スイフトは、まさかこの政治風刺小説が子供達に大人気の愛読書になるとは想像していなかったことだろう。


Johnathan Swift 1667~1745 (Wikipedia)






表紙





「ガリバー旅行記」その概要

第一編:リリパッド国(1699年5月4日〜1702年4月3日)

小人の国「リリパッド国」訪問記。隣のプレフスキュ国との戦争を描いた。これは100年戦争中のイングランドとフランスをモデルとしている。そもそも戦争の原因は、たまごの殻を大きい方から剥くか、小さい方から剥くか、という些細なことであった。カトリックとプロテスタント教義の争いに対するスイフト一流のカリカチュアライズである。ここでは人間世界を上から見下ろす俯瞰的な視点、知性的視点で語られている。

第二編:プロブディナグ国(1702年6月20日〜1706年6月3日)

巨人の王国「プロブディナグ国」訪問記。この国は戦争はしないが欲にまみれた世界である。小人となったガリバーが売り飛ばされ、女性の不道徳な欲望の対象として弄ばれる。彼の女性嫌いの表明でもある。国王に近代的な(火薬を使った)大量殺戮兵器を発明し戦争するイングランドの外交政策を説明をする。その中で実際のイングランドの内外諸政策批判を行った。国王はその話を聞いて人間の愚かさに気づく。ここでは人間世界を下から見上げるミクロ的視点。大きな生き物にいつ踏み潰され死んでしまうかわからないし、虫ケラのように弄ばれるちっぽけな人間の肉体の脆弱さを意識し、いわばマクロ的目線では見えないものを描いてみせた。

第三編:ラピュタ、バルニバービ、グラブダブドリップ、ラグナグ、日本(1706年8月5日1710年4月16日)

バルニバービ国の上空に磁力で浮遊する天空のラピュタ国は、住民の全員が科学者であるという。人々は現実離れしていて時々叩かれなければ我にかえらない。研究室では何の役に立つのかわからない研究が延々と行われている。下界のバルニバービは本来豊かな国だが、天空のラピュタの頭でっかちの人間に支配され搾取されるので荒廃している。当時のロンドンとアイルランドの関係を投影した物語。また学問のための学問に翻弄され現実的な世界をないがしろにする風潮への風刺である。学究生活と王立協会、科学における啓蒙主義、そしてニュートン科学への疑問が表明されている。

グラブダドリップ国では降霊術を操る魔法使いにより過去の歴史上の偉人たちと交流する。しかし、いずれの偉人も堕落した不快な連中だということを知る。

ラグナグ国には不老不死の人間がいると聞き希望を持って訪問するが、しかし実際には不死ではあるが不老ではないという悲惨な世界。死とは人間に与えられた最後の救済であると悟る(後述)。

日本は唯一実在する国として登場する。ラグナグの隣の島とされる。鎖国でキリスト教を取り締まる「踏み絵」が登場する。江戸の皇帝(将軍)はラグナグ国の親書を持ってきたガリバーを好意的に扱う。オランダ人だと偽り入国し、長崎からイギリスの向けて出国する。

第四編:フウイヌム国(171年9月7日〜1715年12月5日)

馬が支配する国。理性を持つ馬(フウイヌム)と理性を持たない野蛮な人間(ヤフー)の世界で、ヤフーは汚い家畜として飼われている。しかし フウイヌムは、理性的ではあるが自分の思い込みを絶対の価値と考える。それ以外の考えを受け入れない。しかも優生学的優越思想を持っていて、種の純潔を守るため結婚は恋愛によってはならないし、年寄りや働けないヤフーを殺処分する。のちにジョージ・オーウェルはこれを「全体主義的組織の最高段階」と呼んだ。

この国では戦争はないので戦争の原因がわからない国王にガリバーは、王の野心、領地や人民、資源への欲望、名誉欲。これが戦争の原因だと説く。そして政治家・官僚の腐敗。政治の失敗を覆い隠すために戦争を起こすのだと説明。馬の国王はやはり人間はヤフーだ!と侮蔑する。この馬の国王はスイフトの皮肉を代弁する役割を担わされている。

ガリバーはイギリスに帰国して妻との再会を喜ぶが、馬小屋の匂いに安らぎを覚え、自分がヤフーに戻らないか不安を覚えながら暮らすという結末。スイフトの人間への不信感の表明で締めくくられている。

最後に彼を助けたポルトガル人船長ペドロ・デ・メンデスは最も高潔な人物として描かれている。ロビンソン・クルーソーに出てくるポルトガル人船長も同様に誠実で友情に厚い人物として描かれているのは偶然なのだろうか。

先述のごとく、「ガリバー旅行記」は最初の二編、すなわち「小人の国」と「巨人の国」の物語が最も有名で、子供向けの本はここで完結している。ここまではスイフトがまだ政治に知性や良識を信じて希望を捨てていなかった時代に書かれたものだろう。しかし、スウィフトの政治への倦怠感と批判と風刺は後の二編に行くに従って磨きがかかり、舌鋒鋭くなってゆくのがよくわかる。いやむしろ毒舌と中傷と言って良いような過激な攻撃になってゆく。彼の実生活のなかで政治に希望を見出せなくなった時期に書かれたのであろう。知性的、俯瞰的視点から、木を見て森を見ずといった視点の対比も十分比喩的ではあるが、科学万能、知性主義、合理主義への批判あるいは嫌悪感。そして誰もが信じて疑わない歴史的偉人についても皮肉混じりに懐疑的評価を示すなど、常識を疑ってみる批判精神の極致が見えてくる。馬の主人と家畜人ヤフーの逆さまな世界は、まさにスイフトの人間への懐疑心をカリカチュライズした物語に見える。そして不老不死への疑心。ここに至っては人生の現実を受け入れ解脱の境地に至ったようにすら見える。仏教徒ではないので「解脱」という言葉が当てはまらないのかもしれないが我々にはそのように映る。唯一実在する国として「日本」が登場するが、スイフトにとっては鎖国していてオランダからしか情報が入らない地の果ての神秘の島国は、他の架空の国に等しかったのかもしれない。ガリバーはウィリアム・アダムス(三浦按針)がモデルではないか、という人もいるが、そう結び付けたがるのは日本人だけだろう。スイフトは100年前の母国の実在の冒険者を知っていたかもしれないが、彼の物語にモデルや英雄を必要とはしていない。


不老不死の国「ラグナグ国」について

日本の東にある島がラグナグ

不老不死の国の実態は...


「大きな島国であるラグナグ王国に着いたガリヴァーは、不死の人間ストラルドブラグの噂を聞かされた。自分がストラルドブラグであったならいかに輝かしい人生を送れるであろうかと夢想する。しかし、ストラルドブラグは不死ではあるが不老ではない。老衰から逃れることはできず、いずれ体も目も耳も衰え集中力も記憶力もなくなり、日々の不自由に愚痴を延々こぼし、歳を取った結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗極まりない人間になっていく。ラグナグ国では80歳で法的に死者とされてしまい、以後どこまでも老いさらばえたまま、世間から厄介者扱いされ、人間に対する尊敬の念も持たないまま生き続ける。そんな悲惨な境涯を知らされて、むしろ死とは人間に与えられた救済なのだと考えるようになる。」

不老でない不死。老いさらばえて「その結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗な人間」。「人を人として尊敬しない人間」。こんな人間で満ち溢れ、彼らにコントロールされる世界。このカリカチュアライズされた世界こそディストピアだ。18世紀の作家、ジョナサン・スイフトの強烈な皮肉を、21世紀の超高齢社会に生きる我々はどう受け止めるのか。心に刺さる一文を引用してみた。



参考:日本語訳「ガリバー旅行記」

森田草平 広島図書銀の鈴文庫1948年
中野好夫 新潮文庫1951年
原民喜 講談社文芸文庫1995年 青空文庫(著作権切れを掲載)
松岡正剛の「千夜千冊」のスイフトについてのコメントが興味深い



アーサー・ラッカム:Arthur Rackham (1867~1939)

20世紀初頭のイギリスで活躍した挿画作家。典型的な中流家庭の出身で、保険会社に勤めながらイラストや挿画を描いた。代表的な作品に「不思議の国のアリス」「グリム兄弟」「真夏の夜の夢」「ニーベルングの指環」などがあり、この「ガリバー旅行記」もその一つである。彼の作品は多くの賞を獲得している。イギリスでは書籍における挿画作家の位置付けは重要で、ウィリアム・ブレイク、ウィリアム・ホガースなど著名な画家が活躍し、19世紀後半から20世紀前半は「挿画黄金時代:Books Beautiful」と呼ばれ、ラッカムの他にもオーブリー・ビアズリーやウォルター・パジェット(「ロビンソン・クルーソー」の挿画家)などが登場した。古書ファンにとっても書籍に芸術的な価値を付加するこれらの挿画は楽しみの一つである。


Arthur Rackham 1867~1939

リリパッドで

敵の艦隊を捕獲

どこか「鳥獣戯画」の趣が
ジャポニズムの影響か

巨人国で女どもの慰み者になる

ラピュタの住人

馬の国王に拝謁

馬の国
なぜかこのイラストはラッカムのものではない。