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17世紀のアンボイナ島(Wikipedia) |
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17世紀のアンボン砦(Wikipedia) |
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現在のアンボイナ島(Wikipedia) |
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モルッカ諸島全域図 中心にAmbon(アンボン)とBanda Islands(バンダ諸島)の地名が見える |
アンボイナ事件
1623年、香料の一大産地であったモルッカ諸島のアンボイナ島で起きた事件は身の毛もよだつ凄惨なものだった。イングランドの商館長と館員、日本人傭兵が、オランダ商館のオランダ人によって拷問の末に処刑された。その拷問は書くのも憚られるような執拗で残忍なもので、その模様が図入りで記録として残されている。この商館員達の無惨な死がイングランドに伝えられた時には、国王ジェームス1世をはじめ国民全体が大きなショックを受ける。それまで友好国だと思っていたオランダに対する強い憎悪と非難が沸き起こった。この事件は、イングランドが東インド諸島(現在のインドネシア)の香料スパイス交易のサークルから撤退を余儀なくされた事件として記憶され、以降アジア進出のターゲットがインド亜大陸に向かうこととなる一大転換点となる。オランダはその東インド交易の覇者になるが、これがイングランドとオランダの間で3次ににわたる戦争を引き起こすきっかけとなり、さらに両国のその後の海洋帝国の明暗を分けることになる。
事件が起きたアンボンは、「香料諸島」として知られるモルッカ諸島のアンボイナ島の中心都市。現在でも同地域の州都である。戦時中は日本の海軍も駐留していた。イエズス会のフランシスコ・ザビエルも布教に訪れたことがある。最初にやってきたヨーロッパ人はポルトガル人で、1513年に香料の原生林獲得を目指して入植、原住民を駆逐して砦を築いた。のちに1605年にはオランダ人ステファン・ファン・デア・ハーゲンが入り、ポルトガル人を追い出し、多くのポルトガルに協力した原住民を殺害して砦を構築。1610〜1619年までオランダ東インド会社の拠点とした。のちに拠点は1000キロ離れたバタビアへ移転するが、オランダがナツメグ、クローブなどの香料交易を独占した。やがてイングランドとオランダの本国では、英蘭両東インド会社での共同開発の合意がなされ、1615年にイングランドはアンボンの近郊カンベロに居住地を設置した。しばらくはオランダのアンボン砦の一角を占めるなど共存していたが、香料争奪戦の激化に伴って対立が始まるのは時間の問題だった。本国における上層部の合意が現地まで上命下達で直ちに浸透するような時代ではない。現地で一攫千金、蓄財を狙う冒険的商人の個人的な欲望、利害や野心で物事は動く時代である。まして本国と現地の間のコミュニケーションは、実際の人の移動による書簡、報告書によるしかなく、往復に何ヶ月、あるいは何年もかかった。アンボイナ事件はこうした背景のもとで起こった。
この事件は日本人傭兵がオランダ砦の邏卒に砦の詳細を質問したことに端を発すると言われている。この日本人はオランダの砦を攻撃しようと計画しているイングランドのスパイだということで拷問にかけられる。彼は「七蔵」といい、傭兵として砦を警備するのに必要な質問をしただけであったが、苛烈な拷問でオランダの筋書き通りの自白を強要される。すなわちイングランド人は砦を攻撃してオランダ人を殺害する計画を立てているというもの。その結果、オランダのアンボイナ総督ヘルマン・ファン・スプールトは、イギリス商館長ガブリエル・タワーソン初め10人のイングランド人、9人の日本人を捕えて激しい拷問を加えた挙句に処刑してしまう。これが「アンボイナの虐殺」:Amboyna Massacreである。この事件は生き延びて本国に帰還できた2名のイングランド商館員によって報告されたことで明るみになった。イングランドでは、上述のように激しい反オランダ感情が燃え上がった。当のオランダ本国でもこの残虐行為が問題になっていたが、これは現地の商館員と傭兵が行ったもので上層部は預かり知らぬものとして黙殺した。しかし、現場におけるこのような残虐行為はこの事件だけではなく、現地人に対しては頻繁に起きていた。またバンタムのイングランド商館は絶えずオランダ人の襲撃の恐怖に怯えていた。案の定、アンボイナ事件はのちにオランダのバタビア総督ピーテル・ヤンスゾーン・クーンの、個人的野心からくるイングランド排除の謀略であったことが明らかになっている。彼は現地人やイングランド人や日本人が殺されることに何の痛痒も感じない冷酷な男であった。日本人傭兵「七蔵」はその陰謀に利用されただけであった。もっともこの時代の「冒険商人」とはそのような殺し合いを生き延びたものたちのことであった。
日本人傭兵の存在
ところでこの事件では日本人の存在が重要な鍵となっている。日本人がなぜこの時代にこのようなところにいたのか?それには当時の日本の国内事情が大きく関わっている。1615年に「大坂の陣」が終わり、主家を失った西軍の大量の浪人が発生していた時期である。浪々の身となったサムライの一部は、海外に流転して新たな生きる道を模索した。戦国時代から商人やキリシタンだけでなく、奴隷狩りで売られた農民や、多くの「敗残兵」たるサムライが海を渡り、ルソン、アユタヤなどで日本人街を形成し、やがて山田長政のように現地で勢力を誇った人物も現れる。またジャンク船を仕立てて東インド海域で交易/海賊を行ったものも記録されている(例えばオランダのファン・ノールト艦隊の「世界一周紀行」にも記録されており、この時、日本のジャンク船からリーフデ号の日本到達の情報を得ている)。オランダ人やイングランド人にとっては、よく切れる刀を持ち鉄砲も扱える、屈強で従順に仕事をする日本人のサムライは格好の傭兵候補であった。また「流浪のサムライ」にとっては、このような海外の修羅場はやり場の無い不満の捌けどころで、サムライとしての実力を発揮する機会とも捉えていたことだろう。こうした浪人がポルトガル船、オランダ船で東南アジアに送られた。事件のあったアンボイナ島にもまとまった数の日本人がいて、砦の中には少なくとも30名の日本人傭兵がいたと記録に残っている。日本人傭兵はオランダ、イギリス双方で雇われており、戦いの時は日本人傭兵同士が戦った。彼らは主に西軍の残党であったと言われる。このアンボイナ事件の発端は、先述のようにオランダに捕えられた「七蔵」なる人物の自白がきっかけとなっている。彼の出自についての記録はないが、一説に平戸の出身であるとも。アジア各地に進出してきた「南蛮人」「紅毛人」にとって「流浪のサムライ」が商館の護衛、敵対勢力からの防衛、さらには攻撃に大きな役割を果たしていたことがこの事件からもわかる。この時代、我々の想像以上に日本人が海外に出ていたし、しかしその多くは日本側の記録には出てこない。
ちなみに、このアンボイナ事件が起きた1623年には、イングランドは日本の平戸商館を閉鎖して撤退している。これは東インド市場からの撤退と軌を一にするが、この事件とは直接の関係はない。平戸は平戸で大きな問題を抱えていた。それは商館の財政破綻だ。すなわち先行するポルトガルやオランダに大きく遅れをとり、売るものがなく商売にならなかった。本国や東インドの拠点バンタムから荷を積んだ船の来航する頻度が減り、やがてはバンタムから撤退する。仕入れがなくなり、商売が見込めなくなっていった。こうした事態を見て本国では東インド市場からの撤退に合わせ、平戸商館閉鎖を決断した。最後まで撤退に抵抗した平戸商館長リチャード・コックスもついに断念し、商館員全員が日本を後にした。日英関係構築の先駆者である三浦按針(ウィリアム・アダムス)も手がなくなっていた。一方のオランダも平戸商館の業績は思ったほどではなく、やはり本国では撤退の議論があった。特に家光の鎖国政策で、オランダが平戸商館を破却して、長崎出島に押し込められることになった時には、本国は撤退を決断した。しかし商館長フランソワ・カロンの抵抗で留まることになり、結果的に240年後の開国まで、唯一のヨーロッパ世界の対日窓口として残ることになった。オランダ商館は、独占的に日本との交易ができたが、一方で商館長の江戸参府、「オランダ風説書」などの商売とは無関係な幕府への情報提供の義務も負っていた。初期の頃のビジネスは主にオランダの東インド交易の後方支援であったと言われている。先述のように、奴隷、日本人傭兵(敗残浪人)の植民地獲得戦争の最前線への供給はオランダにとって有益であった。オランダが「儲からない」平戸/長崎の商館を維持した背景にはこのような事情もあった。東南アジア交易圏における日本人の存在についてはさらなる研究が必要だ。
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ファン・ノールト艦隊がボルネオ沖で遭遇した日本のジャンク船 (イザーク・コメリン「オランダ東インド会社史」1644年より) |
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ファン・ノールトが出会った日本人サムライ(傭兵と思われる) (イザーク・コメリン「オランダ東インド会社史」1644年より) |
「東インド会社」というビジネスモデル
オランダとイングランドは、ともにプロテスタント国で、カトリック国のスペイン/フランスに対抗する点で利害が一致する同盟国同士であった。オランダは長くスペインの植民地であったが独立したのは1579年。それまでもアムステルダム、ロッテルダムやアントワープ(現在のベルギー)などの海洋交易都市を抱えていたし、スペインの海外進出に伴われて活躍するオランダ人商人も多かった。一方のイングランドがスペイン無敵艦隊を撃退したのが1588年。島国であるイングランドはスペインの海洋覇権を脱して活発に海に出るようになる。ウィリアム・アダムスがオランダのマフー艦隊の航海士として乗組、日本に到達した例でも分かる通り、イングランド人とオランダ人はともに協働して、スペイン、ポルトガルの後を追うように海外に出ていった。やがて国家として組織的に海外進出を行うために特許会社(国営企業ではなく独占権を与えられた私企業)を創設するようになる。その一つがアジア方面の事業を独占的に扱う「東インド会社」である。エリザベス1世は1600年にイングランド東インド会社を創設し、これに倣って1602年にオランダでも東インド会社が設立される。東インド会社は、世界初のジョイントストックカンパニー(株式会社)であった。海外進出当初の事業形態は、船主の出身地域やスポンサーごとにバラバラに船団を組み、一回の航海ごとに資金を集め、帰ってくると出資金を返還し利益を分配して解散する方式であった。しかし、アダムスのマフー艦隊の例のように、事業として悲惨な結果に終わることが多く、航海によって当たり外れが大きいまるでギャンブルのような事業であった。こうした問題を解決するために、オランダは資本を温存し航海ごとのリスクを分散させるために共同出資方式の連合東インド会社( 都市、地域をまとめた全国ベースの)を設立する。出資金も会社が解散しない限り返還しないので安定的に資本金を保有することができる。これが成功モデルとなり、大規模な船団で継続的な航海ができるようになった。一方のイングランドは、こうした経営改革が進まず、資金不足で規模の拡大ができず、遠洋航海に耐える大型船の建造も進まず、海外拠点の確保もうまくゆかず、なかなか収益を上げることができずに苦戦した。アンボイナ事件はこうした時期にイングランドのオランダに対する劣勢の象徴のような出来事として起きた。こうしたイングランドの劣勢を救ったのは、清教徒革命で王権を倒したオリヴァー・クロムウェルであった。彼がイングランド共和国護国卿になると、オランダ他外国船を海上輸送ルートから排除するための航海条例(1651年)を定めイングランドの航海権益を守るとともに、1656年には東インド会社の再建(株主総会制導入と株主へは配当のみで資本は返還しない)と船団の強化を支援。オランダとの競争力を高めていった。
この頃の交易は、イングランドやオランダが商船で自国産の毛織物などの交易品を持ってアジアに売りに行き、圧倒的に豊かなアジアの富、すなわち香料や、絹、貴重な皮革や、陶磁器や刀剣など高価な工芸品を手に入れる、というものであった。しかし、熱帯や温暖なアジアで毛織物は売れなかった。一方、先行するスペインやポルトガルは、本国の商品を持ち込むのではなく、南米のポトシや日本の石見の銀を手に入れて現地で買い付け、現地で売る、という中国、日本、琉球、東南アジアとの三角貿易で成功していた。このスペインやポルトガルの商圏に割って入る事ができなかった後発のイングランド、オランダは、結局はその「お宝を満載した」商船を襲って財物を強奪する、すなわち「海賊モデル」で利益を得ることになる。このため、商船といえども船団を組み大砲や鉄砲で武装し、また戦闘員も乗船するなど臨戦体制で出航していった。またエリザベス女王から私掠船:Privatiers(要するに海賊行為)許可を得て、いわば「王室公認の武装海賊」として海外に出かけた。東インド会社設立前ではあるが、ドレイクやホーキンス、ローリーが活躍した時代である。同じくキャベンディッシュ艦隊の世界就航で、アカプルコからルソンに向かうスペイン船を襲撃して莫大な財宝を奪い、ロンドンに凱旋して女王に献上した事例や、日本に到達したアダムスの乗船したオランダ船リーフデ号に武器弾薬が満載されていたのもそういった船団の実態を示すものである。日本でキリスト教の布教活動をしていたイエズス会宣教師が、イングランド人やオランダ人は海賊である、アダムスを処刑すべきである、と家康に訴えたのも、単なる反プロテスタント・プロパガンダというだけではなかった。実際そうした事実があったからだ。
しかしこうした「海賊モデル」「私掠船モデル」はいつまでも続くはずもなく、結局はオランダもイングランドも、王権主導の交易独占という重商主義貿易政策を維持しつつ自由主義貿易政策へと移行してゆく。といっても、トランプが保護関税を武器にして壊そうとしている今の自由貿易ではない。東インド(現在のインドネシア)、インド、西インド(現在のカリブ海諸国)北米大陸、の植民地化による資源と市場の収奪を旨とする、いわば「帝国主義的自由貿易」である。東インド会社は、そうした「植民地収奪モデル」の受け皿となっていった。まさにアンボイナ事件は、そうした東インド会社の現地出先である商館(砦)同志の、現地そっちのけの植民地争奪戦であった。そういう意味においては日本の長崎「出島」のオランダ東インド会社「日本支社長崎出島支店」は、日本側の統制下に置かれるという稀有な形の商館であった。またイングランドの東インド会社は、18世紀にはインドの綿布で大儲けするという、いわゆる「キャラコバブル」を経験する。この時の東インド会社総督が、重商主義経済学者としても知られるジョサイア・チャイルドである。自身もインサイダー取引で莫大な蓄財をしている。南海泡沫事件のようなバブル崩壊を経て、独占緩和による自由主義貿易政策へ転換してゆく。一方で18世紀末から19世紀に入ると、東インド会社の役割、機能が大きく変質し、国家に代わって立法権、徴税権、裁判権、軍事力を持って植民地経営を請け負う、いわば「インド統治アウトソーシング会社」化していった。これが1858年まで続いた。東インド会社の歴史的役割についての考察は、また別の機会に譲ろう。
「ナツメグからビッグ・アップル」へ イングランドとオランダの歴史の分かれ道
話を「アンボイナ島」に戻そう。そもそもヨーロッパにおける大航海時代の始まりのきっかけの一つが、この貴重なモルッカ諸島にしか自生しない香料を手に入れることであった。ナツメグやクローブなど貴重な香料を巡るポルトガル、オランダ、イギリスの争奪戦である。これらの香料は、ヨーロッパでは単なるスパイスではなく疫病の治療に有効と信じられていた。他にも肉の保存剤や、解毒薬として重用され、大量の金と交換され莫大な利益を上げることができた。この「スパイス戦争」が展開されたアンボイナ島、バンダ諸島の小さなルン島(上記地図参照、といっても地図にも記述されないほどの小島)は、全島がナツメグの自生地で、争奪戦の主要ターゲットであった。
しかし歴史は時に国家を皮肉な方向へと導くことがある。アンボイナ事件を契機に香料をめぐる東インド市場(現在のインドネシア)から撤退したイングランドは、インドまで後退することを余儀なくされたが、そこで思わぬチャンスを掴む。扱い商品が香料から綿へと変異してゆく過程で、綿の戦略的価値に気づく。以降、イングランドはインドの綿糸/綿布、北米の綿花栽培とアフリカの奴隷貿易を主軸とするようになる。これが、やがてアメリカ植民地での綿花栽培をアフリカからの奴隷労働で賄い、イングランドで加工して綿製品にし、インドという一大消費地に売る、という「グローバル加工貿易モデル」を打ち立てて成功する。このサイクルが製糸、綿織物工業、エネルギー、動力、輸送に必要な技術革新を促し、「産業革命」をリードする世界の工場の地位を確立してゆく。すなわち大英帝国への道を歩み始める。「ナツメグから綿へ」「災い転じて福となす」「転んでもただで起きない」である。
一方のオランダは東インドの香料貿易の覇権を確立したことで、これまた思わぬ運命を辿ることになる。アンボイナ事件をきっかけとするイングランドとの3度にわたる戦争が起き、最初はオランダ優位に進んだが、フランスの介入など度重なる対外戦争でオランダ本国の凋落が始まる。それに伴い東インドなど海外植民地を一時的にイングランドなどに奪われることになるが、やがてそれを取り返す。その象徴とも言える「取り替えっこ」ディールがあった。第二次英蘭戦争終結の1667年ブレダ条約で、先述のバンダ諸島のルン島(ナツメグの一大産地)がイングランドからオランダに返還され、代わりに北米大陸のマンハッタン島(ニューアムステルダム砦)がイングランドに割譲される。この時点では、オランダは念願の香料産地を取り戻すことができ、イングランドはナツメグの産地を放棄して、寒冷で不毛の島、マンハッタン島を手に入れるという残念な取引:Dealであった。英蘭戦争は必ずしもイングランド優位の戦いではなかったことがわかる。しかし、周知の如くこの不毛のニューアムステルダム砦は将来のニューヨークとなる。そして先述のような綿花生産、貿易での北米植民地の発展という大化けにつながることになる。この取引:Dealを、イギリスのノンフィクション作家のジャイルズ・ミルトンは、彼のベストセラー小説「スパイス戦争」Natherniel's Nutmegの中で、「ナツメグからビッグ・アップルへ」と表現している。さらに香料は、イングランド人がその種子をモルッカ諸島から持ち出してシンガポール、セイロン島など他の交易に適した場所のプランテーションでの栽培を可能にした。モルッカ諸島領有の戦略的重要性が失われ、香料そのものの希少性も薄れて市場価値が急落することになる。「スパイス戦争」の時代が終わりを迎えようとしていた。
16世紀末から17世紀初めには手を携えてスペイン、ポルトガルに立ち向かって海外に進出したイングランドとオランダ。イングランドがこの後大英帝国への道を歩むことになるのとは対照的に、オランダ海洋帝国の覇権は衰えを見せ始める。17世紀の3度の英蘭戦争と、18世紀のアメリカ独立を支援するオランダとの第4次英蘭戦争。さらにフランス革命後はフランス共和国の支配を受け、バタビア共和国に。やがてフランス第3帝政のルイ・ナポレオン時代にはフランスの衛星国オランダ王国に。そして1810年にフランス直轄領ネーデルランドとなる。ちなみに、19世紀の長崎オランダ商館は、正式にはフランス領・ネーデルランドの出先であった。日本人がどの程度までそうしたオランダの実情を認識していたかは不明であるが。オランダはその後再び独立を獲得し、第二次大戦までオランダ領東インドとして植民地支配をし続けた。そして第二次世界大戦では(あのオランダ人に嵌められて虐殺された日本人傭兵「七蔵」の故国)日本に占領される。日本の敗戦で植民地を回復したものの、この日本のオランダ駆逐がきっかけとなって、インドネシアの独立運動でオランダの300年余にわたる苛烈な植民地支配は終わりを迎える。ちなみにこの独立闘争に日本人現地残留兵が参加している。
付記:イングランドの17世紀
17世紀のイングランドは、チューダー朝最後のエリザベス1世、スチュアート朝ジェームス1世、チャールズ1世、清教徒革命でクロムウェル護国卿、王政復古でチャールズ2世、ジェームス2世、名誉革命によるウィリアム3世/メアリー2世と100年間に目まぐるしく君主/元首が変わった。カトリック、国教会、非国教会プロテスタント(ピューリタン、プレスビテリアン)という宗教対立。イングランド、スコットランド、アイルランドの「三王国戦争」という激動の時代であった。一方、上述のように、対外的にはスペイン、フランスというカトリックの大国の脅威のもと、プロテスタント国で同盟国であったはずのオランダと、やがて海外進出をめぐって激しい覇権争いを展開し、3度にわたって戦争した時代であった。しかし、第3次英蘭戦争終決の手打ちの証として、1677年に政略結婚したオランダのウィレム3世とイングランドのメアリー2世が、1688年にはイングランドの共同統治者としてロンドンに凱旋する(いわゆる「名誉革命」)。なんとも皮肉というか理解に苦しむ英蘭関係だ。こうしたイングランドを取り巻く複雑に絡み合った国内外のカオスが大英帝国萌芽の時代を形作っていたのであった。我々日本人は古事記の創世神話になぞらえて、「天沼矛(あめのぬほこ)」でこのカオスをかき混ぜると、その矛先から滴り落ちた雫の中から、近代国民国家、民主主義、自由貿易体制、そして帝国主義が生まれたのだと理解することにしよう。
参考(1)英蘭戦争とは
イングランドとオランダの海洋覇権をめぐる争いで、基本は艦隊同士の海戦であって陸上戦はなかった。また18世紀になってアメリカ独立戦争をめぐるオランダとの戦争が起こるが、これを第四次英蘭戦争とみる歴史家と、これは別の出来事と見る歴史家に分かれる。
第一次英蘭戦争(1652〜1654)
クロムウェルの航海条例によるオランダ船の輸送ルート排除とこれに抵抗するオランダとの戦い ジェームス1世時代のアンボイナ事件の補償を求める ウェストミンスター条約で停戦
第二次英蘭戦争(1665〜1667)
王政復古後のチャールズ2世の時代 国王の弟ヨーク公(のちのジェームス2世)参戦 フランスがオランダと同盟 しかしペスト、ロンドン大火で厭戦 ブレダ和約で終戦 イングランドはバンダ諸島放棄、代わりに北米ニューアムステルダム割譲(「ナツメグからビッグ・アップルへ」)
第三次英蘭戦争(1672〜1674)
フランスのオランダ侵攻 チャールズ2世はフランスに加担して参戦 国民の戦争反対、議会の親仏路線への抵抗 ウェストミンスター条約でオランダと和睦 その証として1677年にオランダ・ウィレム3世にヨーク公(のちのジェームス2世)娘メアリー(のちのメアリー2世)政略結婚 皮肉にもこれが「名誉革命」の布石となった
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第一次英蘭戦争 |
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第二次英蘭戦争 |
参考(2)ジョン・ドライデンの詩劇「アンボイナ」。
事件から50年後の1673年、チャールズ2世がフランスのオランダ介入を助けるために参戦した第三次英蘭戦争の只中、反オランダ機運を盛り上げる「アンボイナ事件」を題材にした悲劇をドライデンが発表し話題になった。古書を巡る旅(60)ドライデン劇詩集。しかし、議会は国民の不満を背景にこの戦争に反対し、1674年にウェストミンスタ条約で停戦した。その和睦の証がウィレム3世とメアリー2世の結婚であった。
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