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| 「Yone Noguchi, 野口米次郎 日本人」と自筆で書かれている(Wikipedia) |
なぜラフカディオ・ハーンは日本語が十分にわからなかったにもかかわらず日本人の心情や日本文化の基層を理解し、後世に残る名作「怪談:Kwaidan」「神国:Japan An Interpritation」などの作品を生み出すことができたのか。そして欧米で大きな反響を起こし、今なお読書人の愛読の書となっているのか。これは私の中では一つの謎であった。文学作品というものは普通は言語で理解し構想し、言語で表現され、言語で読まれるるものであるはずである。しかし、彼は日本語の古い伝承物語を読むことも、土地の古老の語りを聞き取ることもできなかった。にもかかわらず日本人以上に日本人の心を理解し、それを英語で表現した。そしてそれが人間の普遍的な感性として世界中で受容された。なぜ?どうやって?
それゆえに、ハーンはほんとうに日本を正しく理解し、正しく伝えているのか?という懐疑と批判があったことも事実である。アメリカで出版されたハーンの伝記の中で辛辣なハーン批判が展開されたことがきっかけであった。これを受けて新聞紙上の書評で批判されることもあった。すなわち、彼の日本文化論は完璧なものではない、したがって小説や文学作品としても不完全であるというもの。
これに対し、ハーンの日本文化理解の正しさとその深い洞察力と感受性を、日本の立場から反論したのが野口米次郎(Yone Noguchi)である。欧米におけるハーンへのこのような評価や懐疑に関する論争に、野口は、しばしばアメリカやイギリスの文学界、言論界の友人から、日本におけるハーンの評価について意見を求められてきた。彼自身、若き日に渡米しアメリカやイギリスにも長く生活し、世界をめぐった日本を代表する国際人であり文化人であった。Yone Noguchiとしてその作品が日米欧のみならず世界において高い評価を受けているバイリンガルな詩人、文芸評論家である。その彼のハーン評は欧米の文芸人士にとって興味深いものであったろう。この求めに喜んで応えたのが本書、『Lafcadio Hearn in Japan』である。1910年にロンドンと横浜で刊行された本書は、ハーンに敬意を表し、家紋入りの日本伝統の和綴本となっている。
野口は、その序文のなかで、ハーンが日本語を十分に理解しておらず、書くこともしゃべることも十分でなかったとの批判があるが、彼の日本語文献の解読は、多くのアカデミックな日本人アシスタントのサポートにより正確であり、その真意や繊細な情緒も正しく理解されていること。そして夫人の小泉セツの日本の民話や怪談の口頭伝承や文献収集などのサポートが、ハーンの言語を超えたインスピレーションにとって極めて肝要であったとして、このような批判に反論している。またハーンには小説家や詩人としての想像力が欠如している、との批判に対しても、彼のイマジネーションとそこから紡ぎ出されるロマンの世界が、我々日本人が忘れていたものを思い出させてくれた。まるで魔法のような想像力によってである。そしてハーンのロマンは新たな日本の伝説となり、やがては遺産となるだろう。このように反論している。
ハーンが言語としての日本語を習得していなかったことが、日本文化の理解になんら支障をもたらすものではなく、むしろ、それゆえによりハーンの普遍的な人間への共通理解、共感が、日本人の基層に横たわる霊的な感性や心情と共鳴し合い、より深化された理解を得ることができた。すなわち、心から心へと言語を介さずにストレートに伝わったに違いないと。言語化できるものには限りがある。それを超えた理解をするためにはむしろ言語が妨げになることすらあると断じている。少なくともハーンの場合はそうであった。セツ夫人がハーンに語り聞かせた英語/日本語混じりの怪談や民話のなかに、日本人の心情や、日本文化の基層にある自然崇拝、祖霊崇拝の宗教観が漂っており、ハーンはそれを音感として受け止め、その真髄をうまく心で掬い出したと解説している。まさに文学の持つ芸術性の一端をハーンは垣間見させてくれた、と野口は感じたに違いない。
野口は本書の中で、第1章「A Japanese Appreciation of Lafcadio Hear:ラフカディオ・ハーンその日本における評価」と、第2章「A Japanese Defense of Lafcadio Hearn:ラフカディオ・ハーン日本からの弁護」でハーンについての批判に応えている。この2章は元々こうした論争に対して一石を投ずるためにNew York Sun, JapanTimes, Atlantic Monthlyに投稿した評論であった。これに本書では、こうした野口の評価を裏付ける論拠として、ハーンに関するエピソードを新たな章として加えた。
第1章では、野口はハーンを日本文学における現代(1910年当時)の上田秋成であると評している。ちょうど上田秋成が「雨月物語」の作者として後世の曲亭馬琴などの職業作家に大きな影響を与え、日本の文学史にその名を刻んでいるように、ハーンは「耳なし芳一」の作者として長く後世に記憶され、日本の文学界に影響を与え続けるだろうと書いている。
また第2章では、アメリカで出版されたハーンの伝記がハーンの姿を正しく伝えていないと批判している。そもそも野口は「伝記」というものには明と暗があり、とくにその暗部として、伝記作家の悪趣味が、読者に本人への共感をしばしば妨げることがあるとして、不快感を示している。ハーンの友人であったとする、かのジョージ・グールド:Dr, George M. Gouldが刊行したハーンの伝記、Concerning Lafcadio Hearnを取り上げ、個人の手紙を無断で公開するような暴露趣味は筆者の意図するハーンの評価を貶めるものとはならず、筆者 自身の評価を貶めるものであると痛烈に批判している。
野口はまた新たな章を付け加え、小泉セツ夫人による「夫ハーン」、そして子供たちの「父ハーン」の思い出、ハーンが夏に子供を連れて海水浴によく訪れた焼津の漁師、音吉の思い出、ハーンの松江時代の教え子で帝国大学英文科在学中の助手、のちに著名な英文学者、俳人として活躍する大谷繞石(ぎょうせき:正信1875〜1933)との交友エピソードを紹介している。さらに帝大研究室でのハーン、そして帝大最後のあの感動的な最終講義について紹介する中で、ハーンの文学、芸術の背景にあるいわば人的ネットワークのユニークさ、アカデミックコミュニティーの堅実さ、そしてハーンがいかに日本の庶民や若者に感動を与えたかを紹介している。セツ夫人の回想録の最後に述べられている言葉が象徴的である。「ハーンの未完の物語は彼が亡くなった後もまだまだ彼の書斎の机の引き出しに暖められている。少なくとも彼の心の中にはまだまだ多くの物語が未完のまま仕舞われているはずだ」。ハーンの物語は生前の既出の原稿や書簡にとどまらないのである。
野口は、先述の通りアメリカで盛んに試みられていたハーンの書簡集や伝記を出版することに懐疑的であった。これにはハーンの生涯の友人であったエリザベス・ビスランド:Elizabeth Bislandによる、現代でも定番とされるハーン書簡集や伝記:The Life and Letters of Lafcadio Hearnについても同様であった。ハーンの書簡を掲載してプライバシーを侵害したり、それによって誤ったイメージを定着させることを懸念している(注釈:ビスランドは出版後に日本のハーンの家族を訪ね、以後交流を続け、その伝記の印税収入を家族に送っている)。上述のグールドの暴露本的な伝記出版については、ハーンとその家族の日本での支援者であるマクドナルド(アメリカの退役軍人で横浜グランドホテルの創業者)も同様に不快感を示しており、ハーンに関する手紙や原稿を返還するよう交渉を行なったと言われている。ハーンとグールドは最初は友好的な関係で書簡の交換を行なっていたが、徐々に考え方の違いが明らかになり、最後は没交渉となった。野口は、本書を刊行するにあたって、その序文で「わたしは伝記を書くつもりはない」と断っており、「ハーンの様々な人的交流のエピソードを紹介する中から彼の「人となり」や文学/芸術的な感性の背景にあるものを描くことが目的である」としている。本書が「ラフカディオ・ハーン伝」と位置付けられることを嫌った。
ラフカディオ・ハーン:小泉八雲は、国や文化や人種、民族を超えてその人々の心の底流に潜む神、精霊、あるいは妖精や迷信の存在を思いださせた。彼はカトリックでもプロテスタントでもなく、キリスト教以前から欧米文化の深層にある霊的なもの、自然崇拝の心を思い出させ、それを霊的な経験として異文化の人々とも共有することがでることに気づかせた。そのハーンの原体験は幼少期のケルトであり、またニューオーリンズで体験したクレオールでありブードゥーであり、その旅の終着点で出会った日本の民間信仰、習合した神や仏であった。それは言語化された知識として「理解するもの」ではなく、「感じるもの」であった。しかし、ハーンが偉大であるのは、その「感じるもの」をさらに言語化して人々に伝えたことである。彼はケルトの語り部でもなければ、ブードゥーの司祭でもない。そして神道の巫女でもない。しかし彼らの口頭伝承や民間の伝承から得られたストーリーや「感じたもの」すなわち「感性」を言語化して「知性」として定式化した。しかしそれは民俗学や宗教学の論文としてではなく、文学作品としてであった。そうすることで国境を超えた人々に繰り返し読み継がれることができるようにした。そこが比較言語学者でキリスト教徒として日本を見つめたバジルホール・チェンバレンの日本理解と異なる点であろう。ハーンは単なる日本贔屓のジャパノロジストではない。「私は東洋的なのではなくケルト的なのだ。教会より森に霊性を感じる」。著作『神国』でハーンはそう述べている。そういう意味で野口米次郎も同様の感性を共有できたのだろう。ゆえにハーン共感した。ゆえにハーン批判に反論した。この著作を通してそれを強く感じた。
2025年7月5日 古書を巡る旅(66)「神国:Japan An Attempt of Interpretation」
野口米次郎:Yone Noguchi (1875〜1947)
明治、大正、昭和初期に活躍した英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の日本への紹介、海外への日本文化の紹介に貢献し大きな足跡を残した。
英語での作品、著作を数多く発表して、岡倉天心、新渡戸稲造、内村鑑三と並び、欧米諸国において日本の知性を代表する人物の一人として知られている。
1893年、慶應義塾を中退して18歳で渡米 サンフランシスコ、パロアルト、シカゴ、ニューヨークで多くの文人に教えを受け、その交流の中で多くの詩や評論などの文芸作品を発表し、才能を開花させて行った。さらには1902年にはロンドンへ。イエイツやロゼッティ、バーナード・ショーなどと交流。1905年帰国後には慶應義塾の英文科教授 1913年に再渡英、1914年オックスフォード講師 1919年アメリカ全土で講演旅行 1935年頃からアジア研究に傾斜、インドに滞在 各地でタゴール、ガンジーなどの多彩な人物と出会い、交流を深めてきた。
野口米次郎自身は生前のラフカディオ・ハーン:小泉八雲とは直接の交流はなかったようだが、八雲没後の小泉家とは交流があり,第3章「Mrs. Hearn's Reminiscences:小泉セツ夫人の回顧」にその様子が描かれている。野口のアメリカ人のパートナー、レオニー・ギルモアは、一時期ハーンの長男の英語の家庭教師を務めていたことがあるようだ。ちなみにアメリカの著名な建築家、彫刻家であるイサム・ノグチ(1904~1988)は野口米次郎とレオニーの子供である。
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| ケース(左)付き日本伝統の和綴本 小泉八雲家家紋「下げ羽の鶴」 |





