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2025年8月23日土曜日

「藤田嗣治 絵画と写真」展を観に行った

    

 熟達の画家、時代の寵児であったFujitaも、写真に関しては一介のアマチュア写真家でしかなかった。彼は生涯で少なくとも9台のカメラ(大判カメラのほかライカとニコンユーザであった)を所有したようで、写真を始めた1913年以降、撮影歴は50年に及び、現在でも数千点の写真が確認されている。にもかかわらず彼の写真が一般に公開されたり、少なくとも作品として大衆の目に触れることはなかった。特に戦前にあってはFujitaの名が写真家として世間に記憶されることはなかった。しかし、戦後、木村伊兵衛は、Fujitaの撮影したリバーサルフィルムによるカラー写真の中に写真家も驚愕するような作品が数多く残されていることを発見した。作品に仕上げるポストプロダクションの技法は写真家のそれに及ばないものの、いわば撮って出しのその構図、特に色使いなど卓越した表現に溢れた作風を高く評価した。特に、当時はモノクロによる写真表現が主流であったところへカラーフィルムが登場し、写真家の多くがその濃淡のほかに色彩という要素をどう使いこなすか苦慮していた。そこに色使いの名人の「作品」登場である。衝撃であったようだ。木村伊兵衛はFujitaがカラーリバーサルフィルムでの撮影に不可欠な厳密な露出を最新の精密露出計を活用して実現していることを指摘している。特にモノクロ時代に写真家が頼りがちであった「カン」の不確かさを見せつけられたと言っている。その作品の一部が日本で「アサヒカメラ」などの写真誌に紹介され世の中に知られるようになった。

写真が発明された頃から画家が写真を絵画創作の補助的なツールとして使っていたことは知られているが、藤田のそれは単なる補助や画題収集としてだけではなく、画家としての眼差しで写真についても自己の芸術的表現手段として活用していた形跡がみられる。フランスで交流のあったウジューヌ・アジェ、アンドレ・ケルテス、マン・レイなどの写真家の作品に大きな影響を受けており、アンセル・アダムス、木村伊兵衛、土門拳など当代きっての写真家との交流もあった。こうした写真家達は彼に何をインスパイアーしたのであろうか? 絵画と写真。異なる表現手段であるようであるが、お互いに共鳴し合う何かがあったに違いない。天才が共有するインスピレーションと言っても良いのかもしれない。一方、彼の独特の風貌、スタイル(おかっぱ頭、丸メガネ、ちょび髭、ピアスなど)を自己表現に活用しアーティストとしての自己プロデュースを積極的に行なった。彼を被写体とした写真家が多くいたのも事実で、彼は当時のいわばファッションアイコンとしても名声を博した。Fujitaは写真の持つ威力を十分に理解、評価していた。そして旅に出るときはいつもカメラを手に世界中の人物や風景を撮った。今回の展示では彼が旅行中に撮影した写真から構図や人物表現を絵画作品に反映させた例を対比展示していてとても興味深い。このように彼は写真を身近な記録、取材手段として活用しただけでなく、重要な表現手段としていつもカメラを手に携えていた様子が窺える。彼が残した膨大な数の写真はなにをもの語るのか?その分析と評価、研究はまだ緒についたばかりだという。この企画展示が、新たなFujita像探訪のスタートになるのであろう。我々鑑賞者もその探訪に参加してみてはどうだろうか。まさに写真という視点で見つめ直す藤田嗣治の世界。久々にワクワクする企画展である。

「藤田嗣治 絵画と写真」展@東京ステーションギャラリーで開催中。8月31日まで。



ドラ・カルムス(マダム・ドラ)撮影の猫とFujita



アンセル・アダムスによる肖像写真が表紙を飾る「展示会ガイド」


丸の内南口と東京ステーションギャラリー入り口

丸の内口広場の「水盤」

子供が喜ぶ施設

多少は涼しさを演出できる

猛暑の丸の内口広場
照り返しが強くてフライパンの上にいるような暑さ!
「水盤」も「焼け石に水」か




(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4。展示室内は撮影禁止)

2025年8月15日金曜日

終戦から80年の夏 〜米国グルー駐日大使日記「日本滞在10年」:"Ten Years in Japan" を読みかえしてみた〜

 

80年目の終戦記念日 戦没者の御霊よ安らかなれ


8月15日「終戦の日」がやってきた。今年も猛暑の夏だ。今年は80年。節目の終戦記念日。心から先の大戦で亡くなった数多くの戦没者の御霊に哀悼を表したい。

今年の終戦記念日にはジョセフ・グルーの日記、「日本滞在10年」:Ten Years in Japan を読み返してみた。これは終戦の前年の1944年、すなわちまだ日本との戦争が継続していた中、ニューヨークとロンドンで出版されベストセラーになったものである。80回目の終戦記念日。そしてアメリカへの敬意が薄れゆくこの時代、そもそもなぜ80年前に日米開戦に至ったのか。今回は当時のアメリカ駐日大使ジェセフ・グルーの立場から振り返ってみたい。

ジョセフ・グルーは1931年の満州事変勃発の翌年にアメリカの駐日大使として東京に赴任。1941年の日米開戦とともに日本側の捕虜として東京で抑留され、翌年捕虜外交官交換でアメリカに帰国した。終戦交渉の時にはワシントンの国務次官として原爆投下などの無差別殺戮に反対し、ポツダム宣言の無条件降伏に対し天皇制を維持した民主国家としての日本の存続を主張したことで知られる。彼は反共主義者でありソ連の参戦を恐れた。戦後は日本占領政策に大きな影響を与えた人物である。吉田茂はグルーを日本の恩人として高く評価し称えている(吉田茂「回想録」)。グルーはアメリカには珍しいキャリアの外交官である。国際連盟大使、ポルトガル大使などを歴任後、知日派の大使として東京に赴任した。日本がまさに泥沼の日中戦争に突入し、国内では2.26事件などの軍国主義が徘徊。統帥権を盾に議会制民主主義が崩壊に瀕していた。日本は戦線を資源を求めて南方、太平洋に拡大し、日独伊三国同盟に走り、いよいよ英米との開戦必至という情勢であった。そうしたまさに日本の緊迫した実情を東京から発信し、日米開戦の回避に奔走した人物である。

彼の果たした役割、記述された日記の内容にはいろいろな評価がある。多くの分析評論、研究成果も発表されている。日記にはもちろん外交機密に属するテーマや、まだ交戦国である日本の関係者に迷惑がかからないような配慮がなされているが、生々しいやり取りや、緊迫感、新しい発見もある。しかし今回読み返してみて私が感じた一番のポイントは、逐一の出来事の歴史的意味はともかく、彼のような知日派で日本の政財界との太い人脈を有した人物、しかも徹底した非戦論者であった大使にも日米開戦を阻止できなかったということ。そしてグルーが対峙した日本側の政治指導者も決して日米開戦論者ではなく、(彼によれば)大方がそんな無謀な選択肢はないと考えていた。軍部の一部の跳ね返りの「過激派」を危惧して開戦に向かわないよう奔走した人々であったということ。東條を首相にしたのも陸軍内部を抑えられるのは彼しかいないと天皇側近の元老西園寺、城戸内大臣が考えたからだ。アメリカ側も国務省はじめルーズベルトもドイツとの戦争に加えて太平洋で先端を開く余裕はなかったし、日本が米国に対して宣戦布告することはないとみていた。そうして両国ともに開戦はありえない、あるいは開戦回避に向かっていたにもかかわらず、なぜ日米は戦争に踏み切ったのか。これは様々な歴史的検証がなされているが、いまだに明快な分析、説明を聞いたことがない。様々な要因が絡み戦争の総括と検証はまだ終わっていない。

このグルーの日記にもそれを検証し説明できる新事実を発見することはできないが、一つだけ言えることは、彼にとって天皇側近の元老を含めて日本側の開戦回避派の人物の影響力が思っていたほど大きくなかったことであろう。グルーは天皇はじめ日本の指導者層と緊密な関係を築き、非常に友好的な米国大使としての在任期間を過ごした。天皇が戦争に消極的であったことも考えると開戦の意思決定への流れはある意味で誤算だったかもしれない。グルーの付き合い範囲がそうした日本の指導者グループの非戦派、ないしは親英米派に限られていたのではないかということである。国際連盟から脱退したり、追い詰められてドイツとの同盟を選んだ指導層の動きにもやや鈍感だった。日中戦争を牽引した陸軍の参謀や、統帥権をふりかざす参謀本部のエリート軍人、革新官僚と呼ばれた軍国主義官僚とのパイプが細かった。あるいは過小評価していた。日米の圧倒的な国力差もあり、そのような開戦主導派は少数である(とグルーは自信を持っていた)にもかかわらず気がつくと真珠湾に突っ込んでいた、という感覚だろう。

グルーの情勢分析が甘かったといえばそれまでだが、プロの外交官ですらこのようなことが起きる。いや、優れた外交も狂信の前には無力だ。共有すべき事実を認識することを拒絶する人々には通じない。これは今のSNSの世界で自分と同じ世界観、価値観の人物をインフルエンサーとし、「いいね」ボタンとフォローとシェアー拡散しているようなものだ。同じ価値観と目線の人物とばかり付き合い、フォローし共感しあっていると、それが主流の世相だと思ってしまうのにどこか似ている。自分が身を置いているコミュニティー(それは権力の中枢であると思っている)では戦争はあり得ない。しかし実際には共感できない狂信的なコミュニティーから戦争が始まる。日露戦争でおぼえた「一撃講和」がアメリカ、イギリスとの戦争でも有効だ、と根拠なく信じる楽観主義者たちである。資源を求めての南部仏印進出が、アメリカの対日禁油措置を招き、それが世論の反米感情の悪化を招いた。日本の指導部の中では、圧倒的な日米の国力差は理解していたが、この機に短期決戦「一撃」を与えて「講和」に持ち込む。これで勝てる、という流れが一気に主流となっていった。グルーは日本の非開戦派を信じてはいたが、一方でワシントンの、日本は日中戦争の泥沼化で疲弊していて、アメリカとの戦争など非現実的だとの観測に対して、日本は西欧諸国とは異なる思考様式を持つ国である。自国の名誉のためには決死の戦争をも辞さない国であるとして警鐘を鳴らし、開戦の可能性を否定していない。一方でハル国務長官の対日強行路線に対するグルーの和平策、開戦回避策、具体的には近衛/ルーズベルト会談の工作は、欧州におけるチェンバレンの対独融和策のように捉えられ不本意ながら実現しなかった。アメリカも揺れ動いていた。日米の狭間でのグルーの葛藤を感じ取ることができる。戦後の極東裁判ではグルーは開戦阻止派の指導者を不起訴で救おうとしたが、従容として死刑執行に臨んだ広田弘毅や自死した近衛文麿などの友を失う。外交官グルーの悲劇、そして日本の親英米派、非戦派の悲劇はそこにありそうだ。

戦争なんて、熟考と練りに練った戦略の末実行されるものではない。一部の声の大きな人間(ときにはエスタブリッシュメントから失笑を買うような人物)の勢いやプロパガンダ、フェイクニュース。そしてそれを煽るマスコミとそれに煽られる大衆世論によって始まる。熱狂し、気がつくと「大変なこと」になってしまい収拾がつかなくなり、なにがなんでも強硬に戦争を継続する。そこに組織のメンツや独自の論理が加わる。止め時のシナリオのない戦争は滅びるまでやる。「一億玉砕」。「わかっちゃいるけどやめられない」。事実、天皇の6月の「終戦の聖断」から、8月15日のポツダム宣言受諾、無条件降伏まで、50日以上かかっている。その間に本土都市への無差別爆撃、広島、長崎への原爆投下、ソ連の参戦があり、この戦争で亡くなった民間人の実に50%はこの間になくなっている。後から振り返るととても理性的、あるいは合理的な意思決定とは言えない。しかしその時は気が付かない。それでも「本土決戦」を叫ぶ一部の軍人。これが狂信である。これは現代の戦争を見ていても同じだ。簡単に始めるが簡単には終わらない。

そして今のアメリカにあの時のグルーのような知日派の人物の姿が見えないことにも愕然とする。グルーとて聖人君子ではないし、あとから日本贔屓の偉人に仕立てるつもりもない。当然ながらアメリカの外交官、利益代表として辣腕を振る舞ったのだが、そこには相手国へのレスペクトと、自国に意見する見識と胆力、世界を歴史を俯瞰することのできる知性があった。そのような人物は今のアメリカにいるのだろうか?いやいるはずだがなりをひそめているのだろう。少なくとも今の政権中枢にポジションを得ているようには思えない。久しぶりに取り出してみたグルー日記「Ten Years in Japan」が、戦争は思いがけず起きることを思い出させてくれた。そして、開戦前夜の日本で起きたリベラル勢力とそれに反発する極右勢力の対立構造が、現代のアメリカで起きていること。そしてその波は再び日本にも。戦後80年。「アメリカの時代」の終わりを予感させられる日々である。そんな今年の終戦記念日。



グルーの肖像と表紙

政界、軍部、財界と多様な人脈を形成していたグルー

秩父宮、広田弘毅、重光葵、樺山伯爵、近衛文麿などの高官との写真
全員が親英米派高官

麻布善福寺のアメリカ公使館跡にタウンゼント・ハリス記念碑を建立
若き日にアメリカ公使館に勤務していた益田鈍翁も


2025年8月10日日曜日

古書を巡る旅(67)Wlliam G. Aston " NIHONGI":アストン英訳「日本書紀」

 


表紙

伊奘冉、伊弉諾二神像として掲載されている


William George Aston (1841~1911) Wikipedia




本書は、1896年にロンドンの日本協会雑誌付録第一「日本記」全2巻、Transactions and Proceedings of The Japan Society, London Supplement I,  NIHONGI, Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D.697としてロンドンで刊行された。出版社はKegan Paul, Trrench, Truebner & Co Ltd. である。著者のウィリアム・G・アストン(William George Aston:1841-1911)は、アイルランド生まれでダブリンのクイーンズカレッジ卒業後、英国外務省の日本語研修生としてアーネスト・サトウとともに採用され、1864年に江戸の英国公使館に通訳生として赴任する。公務に従事する傍ら、日本語研究に取り組み、退官帰国後には、数多くの日本に関する研究書を発表した。その中には「日本神道論」「日本文学史」「日本古代史」があり、なかでも西欧の日本研究者に大きな影響を与え、研究の進歩に貢献したのがこの「日本紀」である。本書はその貴重な英訳初版本である。

このアストンの「日本記」は、8世紀に編纂された日本初の国家としての正史「日本書紀」の初めての英訳であり日本の古代史研究資料としても貴重な書籍である。しかしなぜかアストン没後は再版、改訂されることはなく、日本においてもその存在を知る人も少なかった。不思議なことである。戦後の1956年になってようやくロンドンで再版された。出版社はGeorge Allen & Unwinである。初版の2巻本が1巻にまとめられたが内容は全く同じである。これ以前にはチェンバレンによる「古事記」の英訳がある(以前のブログ参照 2025年5月17日古書を巡る旅(64)チェンバレン英訳「古事記」)。アストンはチェンバレンの古事記を読んでおり、彼の原稿を所有していたため関東大震災で失われた原本を復刻することができた。この復刻版ではアストンが新たに注釈をつけ、これが現代の英訳古事記の底本になっている。そういう意味においてアストンの古代日本語の流麗で正確な翻訳、注釈には定評があり、この評価はあたかもチェンバレン版「古事記」のアストン訳注で発揮されたもののように受け止められがちである。しかし、これに先立つアストン版「日本紀」にこそ、その翻訳の力量が遺憾なく発揮されている。

本書は、全2巻で、第1巻は神話と神武天皇から武烈天皇まで。第二巻は継体天皇から持統天皇まで。神話部分と神武天皇から持統天皇までのクロニクルな年代記として訳出されている。日本書紀は元々漢文で記述されており、その文体、用語法の違いから、執筆者には渡来人(ネイティヴの漢人)と倭人(外国語としての漢文を学んだ)の2種類が存在していることが最近の研究で明らかになっている。アストンもその内容と文体が中国からやってきた人物(渡来人)の影響を受け、そうした文化的な背景を受容して記述されていることを指摘している。この古代日本を知る上で、それに影響を与えた中国語(漢字)、思想、政治制度、文化についての理解と注釈なしで、歴史書として日本紀を解読することは困難であると考えた。そもそも日本書紀の編纂の背景には、古代東アジア世界の超大国である中国(唐王朝)を意識して、新興国家「日本」(かつて倭国と呼ばれた)の独立と、神代から続く天皇の支配の正当性を対外的に宣言することがあり、その表明の書としての正史編纂であった。アストンはそうした国家アイデンティティー表明の中にもその内容に多くの中国王朝からの影響が見て取れると指摘している。本居宣長が古事記を「やまとごころ」の書としたのに対し、日本書紀を「からごころ」の書とした所以である。 

アストンは日本紀の解説書として、18世紀末の江戸時代寛政年間に出版された「書紀集解」(国学者河村秀根)を用いている。それ以外にも釈日本紀などの歴史書や、フローレンツのドイツ語訳を参照し、チェンバレンや、サトウの著作を参考に彼の幅広い日本語能力、古代史知識、中国文化の知識をフルに活用した翻訳となっている。しかし、「書紀集解」を典拠とする点で日本書紀研究の現代的視点から見ると、いまや過去のものとみなされる解釈も多いのは致し方ない。特に古事記と日本書紀の成立経緯や成立意図を現代の研究者ほど明確に意識しないまま比較している面がある。また日本紀の原本として「帝紀」「旧辞」をあげており、蘇我宗家の滅亡とともにこれらの原本が失われたことは指摘してたうえで、「旧辞」を「旧辞記」しているのは何かの混同だろうか。しかし、当時の(いまから130年前の英国人研究者による日本古代史史料の解読、研究姿勢とその成果には舌を巻くほかない。特に史実と伝承、神話を明確に区別して考察する姿勢は、現代の「記紀」史料研究では既定のものであるが、この当時においては注目される。しかし、6世紀以降の天皇の事績に関する記述が多くの点で史実であるとみなした点は、現代ではその多くが潤色されたものであるとの見解で一致していることから見ると資料の批判的解読に限界があると言える。それにしても、そんな研究深化の過程での誤りを現代の視点で批判することにどれほどの意味があるのか。こうした先人の業績の積み重ねあればこその日本書紀解釈であり、古代史研究である。アストンの当時としては最も正確な翻訳、これを世界に紹介した功績は偉大である。

明治期に日本が欧米列強に対し、国家的表象としての古代史、国の正史(あるいは国家創世神話)を求めていた時期にこのアストンの英訳「日本書紀」が大きな役割を果たしたと言われる。「記紀」の復活。皇国史観の確立に向けた時代であった。そもそも「日本書紀」の編纂目的が8世紀に倭国から日本(ひのもと)と名乗って、中華帝国(唐)、東アジアに国家デビューを果すための漢文による正史編纂事業であったことを考えると、1100年後の19世紀の明治維新という新たな近代国家デビューの時期に再び「日本書紀」「古事記」の存在が脚光を浴び、それがイギリス人研究者によって英訳復活したことには歴史のシンクロニシティーを感じざるを得ない。無論アストンはそのような明治国家の意図を汲んで英訳を試みたわけではないが、そのような要請に合致することとなった。

このようなアストンの注釈豊富な翻訳姿勢は、のちのドナルド・キーンの英訳のような読んで面白い文学的な訳文ではなく、逐語訳で正確性を期したもの、比較歴史学、神話学研究的な姿勢によるである。その意味においてはチェンバレン版古事記が、文学作品的な味わいがないと評されるのとと共通している。元々「文学作品」として取り扱っていないのである。歴史的史料、ないしは比較言語学、比較神話学の文献資料として扱っている。そもそもアストンもチェンバレンもこうした日本古代史料の現代英訳を日本人の読者を意識して出したわけではない。アストンは巻頭言で明確に「ヨーロッパの研究者向けに翻訳を試みた」と書いている。当たり前だというかもしれないが、これらの英訳本が日本人に評判が良いことを思い出して欲しい。つい我々は、日本人ですら解読が難しい古代史料を英訳したことに感動する。そして日本を美しくユニークな国、人、文化として評価してくれていると思い嬉しがる。明治期以降の日本人が大好きな「外国人が見た日本」!、現代的にはCool Japan!現象だ。親日家、だとかジャパノロジストだとか言ってもてはやす。もちろん彼らは日本に興味を抱き、深く愛したが、しかし研究対象として日本を客観的、批判的に分析する視点を忘れてはいない。チェンバレンに「その観察は日本にシンパシーを持ち過ぎている」と批判されたラフカディオ・ハーン(古書をめぐる旅(66)ラフカディオ・ハーン「神国」)ですら、イギリスやアメリカ、欧米諸国の読者向けに彼らが東洋で見つけた新たな事実、物語を紹介しようとしたものだ。「西洋文化に対する東洋文化」という比較文化論的な視点での研究書あるいは論評書なのだ。決して日本贔屓したり、日本人を持ち上げようとする媚びへつらいの意図はない。われわれ日本人がこれらの研究書、作品集に接するときにその著者の意思を尊重して接しなくてはならない。

それにしてもこのような日本の古典研究が、明治期にこうした英国の外交官、御雇外国人によってなされたことに注目したい。そこには当時の大英帝国の国家としての情報収集能力、異文化研究能力、人材育成能力の卓越したパワーを感じざるを得ない。オルコックもパークスも、館員に、1日の半分を日本研究のために費やすよう命じた。大英帝国の余裕のなせるわざではあるが、その余裕は単に国家の経済的な優位性、軍事的な優位性によるものだけではなく、同時に「インテリジェンス」重視の知性の優位性によるものであった。現代においてジャパノロジストを見なされる日本研究者、オリファント、サトウ、アストン、ミットフォードもみな若き駐日英国公使館員であった。チェンバレンは、公使館員ではなくお雇い教師であったが、なんと帝大の「国文学」講座の初代教授であった。ジャパノロジストはこうして生まれた。「英国諜報部員」の実相は007のようなアクションスターだけでなく知的研究者であった。

そうした大英帝国時代以来の外国研究の伝統は、ロンドン大学 東洋・アフリカ研究学院(The University of London, The School of Oriental and African Studies)にそのレガシーと最新研究が引き継がれている。