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2019年6月19日水曜日

梅雨の「松風庵」と福岡市美術館を訪問す 〜福博の数寄者文化探訪〜

松永耳庵の揮毫になる「松風庵」扁額


 博多は、古代から我が国の海外窓口、国際貿易港としての長い繁栄の歴史を有し、かつては神谷宗湛や島井宗室、大賀宗九のような全国に名を成し、太閤秀吉のパトロンになるような大物財界人が活躍した黄金の日々を誇った時代ははるか過去のものになってしまった。博多が今でも商人の町として賑い、福岡が人口増加中の元気な都市であったとしても、そうした商都としての輝きは、かつてとは比べるべくもなく、昔日の感ありだ。特に徳川家康になってからは博多は冷遇され、鎖国政策以降は海外の窓口は長崎に一本化され、博多の国際都市としての役割に幕を閉じることになった。博多を拠点に海外交易を取り仕切っていた豪商達は長崎に移っていった。あるいは黒田藩御用の商人、五ヶ浦廻船業の町、博多として歩み始めることになった。幕末明治以降は、福岡藩は倒幕維新の動きに乗り遅れ、他の西南雄藩の後塵を拝してしまう。明治新政府体制下、福岡・博多の九州における地位も低下してしまった。現在のようなにぎわいを取り戻すのは戦後になってからのことだ。

 富が集まるところには権力が擦り寄る(逆もまた真なり)。そして文化芸術が花開く。茶の湯などその代表格である。豪商達や大名達は、こぞってその富を茶の湯につぎ込む。茶室を作り、庭園を作庭し、唐物や高麗物の茶器を求め、やがては唐津や高取といった和物の作陶を支持しその所有するお宝で財力と権勢を誇示する。すなわち文化芸術のパトロンとなる、明治以降も財界人がこぞって茶の湯に傾倒し、茶会を催し、茶室を営み、多くの茶道具コレクションを所有する。こうしたいわば近代数寄者が多く活動したのは、やはり京都や大阪、そして江戸・東京である。しかし、今回福博の旅で発見したのは、こうした数寄者文化がここ福博にもどっこい生きているという点だ。こうした数寄者文化を支えたのは、さすがに中世から近世初頭の博多の豪商たちではなく、戦前にあっては、炭鉱主であり、地元出身の実業家であり、地元の商業資本家たちであった。例えるに、貝島家や伊藤伝右衛門など炭鉱王と言われた人々、電力王と称された松永安左エ門(耳庵)であり、地元の大実業家、渡辺与八郎であり、玉屋デパートの創業者田中丸善八たちである。

 今回は田中丸善八翁の旧邸「松風荘」を訪ね、合わせて翁の唐津焼・高取焼を中心とした和物茶器コレクションである田中丸コレクションを福岡市美術館に鑑賞した。こうして福博の数寄者文化の一端を垣間見る事ができ、故郷の新たな文化活動の一面を知ることとなる有意義な里帰りとなった。こうした文化遺産が破壊されたり、散逸する事なく地元に残って市民の目に触れ、また茶会を通じて文化に触れる機会を持てることは喜ばしいことだ。田中丸家の地元文化へのコミットメントと、福岡市の取り組みに敬意を評したい。

 平尾、高宮あたりは福岡の高級住宅街である。浄水通から山荘通り、高宮通りに囲まれた一角は福岡城の南にあたり、かつては武家屋敷が並んでいた。幕末の勤王歌人野村望東尼の晩年の庵「平尾山荘」もこの一角にある。明治以降は炭鉱王の邸宅や、地元財界人の邸宅が軒を連ねていた。福博の恩人、渡辺与八郎の邸宅もこの近辺で、公開はされていないが広大な屋敷と緑地が手付かずで保存されている。この閑静な邸宅街も、御多分に洩れず今やマンション街に変貌しつつあるが、それでも立派なお屋敷が立ち並ぶ別世界である。「松風庵」はその一角にある。先にも述べたとおり玉屋百貨店グループの創業者、田中丸善八翁の旧邸宅「松風荘」に残る茶室である。平尾地区にふさわしい広大な敷地を持つ邸宅跡であるが、現在では敷地の一部が売却され、残りが福岡市の管理の「松風園」として市民に開放されている。高低差のある佇まいは、東京で言えば芝白金台、京都で言えば吉田山山麓(東山南禅寺別荘群とは趣を異にするが)、といった風情で、もちろん東京や関西とは政財界の規模に違いがあるものの、九州財界の財力と数寄者ぶりを遺憾なく発揮している地域である。

 九州出身の財界の大物といえば壱岐出身の電力王、松永安左エ門がいる。彼は中央で電力事業再編で活躍し福岡には邸宅を構えなかったが、現在の九州電力の前身である東邦電力や、西鉄の前身の福博電気鉄道などを創設して地元の経済にも大きな足跡を残した財界人である。彼はまた晩年には茶の湯に傾倒し「耳庵」と号し、近代数寄者の巨塔の一人となった。「松風庵」の田中丸善八翁とも茶の湯で交流があった。この二人の「数寄者」の松永コレクション、田中丸コレクションがリニューアルオープンした福岡市美術館に収蔵、展示されている。なかなか見事なコレクションである。松永安左エ門(耳庵)は、益田鈍翁、畠山即翁、原三渓などと茶の湯の交流があった。以前訪問した芝白金の畠山記念館は畠山即翁の旧邸で、茶の湯関連コレクションで有名だが(2017年11月27日ブログ畠山記念館探訪 〜茶室という小宇宙〜 )、思わぬところでこの「松風庵」、福岡市美術館コレクションとつながりがあったのだ。松永コレクションは小田原にあった松永記念館が解散したため、そのコレクションが福岡市美術館に寄贈されたもの。また田中丸コレクションは九州国立博物館にも収蔵されている。

 先にも触れたように、「松風庵」は田中丸善八翁の邸宅「松風荘」に設けられた現存するオリジナルの茶室である。その四畳枡床の建物とその庭園は、京都の数寄家師、笛吹(うすい)嘉一郎の手になるものである。彼は嵐山の大河内山荘も手がけている。茶室に掛かる扁額「松風庵」は松永安左エ門の筆になるものだ。福岡市が管理する「松風園」には現在は茶室として公開されている部屋は3つ、「松風庵」以外は戦後に増築ないしは新築されたものだが、待合と卍型の四阿が配され、見事なイロハモミジを中心とした庭園も野点ができるようにデザインされている。富士山に見立てた庭石や灯篭にもそれぞれに由緒があり福博財界人の数寄者ぶりも半端でない。博多の豪商神屋宗湛、島井宗室の時代から秀吉、利休による茶の湯文化を極めた土地柄である。もっとも武野紹鴎以来、堺の千利休好みの「侘び茶」から、その後の古田織部、さらに小堀遠州等の影響を受けた「大名茶」、そして利休の孫である宗旦によって復活した「侘び茶」系譜につながる佇まいだと言われる。この日も雨にも関わらず茶会が催されていて、美しく和装で着飾ったご婦人方がお点前を楽しんでいた。また「松風庵」には韓国から来たという若い女性二人が静かに正座してその空間と時間に浸り四畳の小宇宙を味わっている。やがて一服の茶を楽しんでその場を辞した。以前訪ねた芝白金の畠山美術館の茶室における茶会を彷彿とさせる「時空」である。茶道は日本文化の華だ。しかし、茶を飲む、茶でもてなすという「行為」が「道」として極められる世界。不思議な世界だ。日本人はどのようにこうした感性を磨き、それを継承してきたのだろう。

 ここを訪ねた日は折からの低気圧で雨。ちなみに東京はすでに梅雨入りしているが、福岡はなぜかまだ梅雨入り前とのこと。しかし気象庁の「梅雨」の定義はともかくもその思いがけないしっとりとした雨の庭園の新緑に、イロハモミジの青葉、そして紫陽花が美しく色を添えていた。雨の茶室と庭園の佇まいに心洗われた1日であった。


「松風園庭園」

富士山に見立てた庭石


躑躅は盛りを過ぎていた

黒壁の広間(10畳)




雨が強く降り始めた




イロハモミジを中心に配した野点庭園

雨のイロハモミジに縁取られる茶室
「松風庵へ続く小径」
「松風庵」全景
切支丹を思わせる不思議な模様の刻まれた灯篭


「松風庵」内部
四畳枡床の小宇宙

待合

待合の格子窓から紫陽花が





雨に紫陽花...





ここからはリニューアルオープンした福岡市美術館の「田中丸コレクション」、「松永コレクション」からほんの一部をご紹介。

リニューアルオープンした福岡市美術館
これまでは不思議なことに大濠公園に隣接していながら公園側からのアクセスがわかりにくかったが、今回の改修で大濠公園との一体性ができた。これは美術館が位置する舞鶴公園(福岡城址)は福岡市、大濠公園は福岡県、とそれぞれ管理する自治体が異なるという、まことにお役所仕事のなせる技であった。

美術館から大濠公園へのアプローチができた

常設展示「田中丸コレクション」「松永コレクション」

重要文化財 唐津焼 絵唐津菖蒲文茶碗(田中丸コレクション)

高取焼 藁灰釉緑釉流四方耳付水差「若葉雨」(田中丸コレクション)

黒楽茶碗「小太郎ヶ淵」(松永コレクション)


 「松風庵」から足を伸ばすと、幕末勤王の歌人、野村望東尼の晩年の山荘「平尾山荘」跡がある。山荘の隣にはその功績を顕彰する記念公園も整備されている。幕末の福岡藩は勤王の志篤い志士たちが多く集まり、長州藩とともに勤王倒幕雄藩の双璧と言われてきた。しかし、佐幕か倒幕か、最後まで態度を決めかねていた藩主は、藩内の佐幕派に押し切られて加藤司書はじめとする筑前勤王党を根こそぎ弾圧、処刑してしまう。野村望東尼も勤王の志士をかくまったことで姫島に流刑となった。勤王党のリーダーで家老であった加藤司書の邸宅跡もこの近くにある。茶の湯文化とはまた異なる歴史の街並みである。



























復元された「平尾山荘」
この小さな庵に多くの勤王の志士たちが匿われた
(撮影機材:Leica Q2, Leica CL+Apo Vario Elmar T 55-135 ASPH)