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2019年6月23日日曜日

大伴旅人と菅原道真 〜二人の太宰府ヒーロー物語〜

 
 太宰府といえば、みやこで位人臣を究め、右大臣にまで昇進するも、ライバルの左大臣藤原時平の讒言で太宰府に流され、そこで非業の死を遂げた菅原道真が常に主人公であった。菅公を祀る太宰府天満宮は学問の神様として全国の受験生、学生に崇められ、九州有数の観光名所にもなっている。最近は外国人観光客も殺到していて国際的観光スポットにさえなっている。しかし太宰府は菅原道真だけではない。少なくとももう一人歴史に名を残す主人公がいる。令和の時代になって、にわかに脚光を浴びてきたのが大伴旅人だ。彼は太宰府の長官(太宰帥)として赴任し任期を全うしてみやこに栄転している。彼は太宰府時代、数多くの和歌を詠み、筑紫万葉歌壇を代表する歌人である。むしろ太宰帥としての事績より歌人としての事績が後世に伝えられている。これは太宰府時代の彼に関する文献資料は万葉集しか残っていないことによるのだろう。新元号「令和」が、前のブログで紹介したように万葉集の巻の五、太宰帥居館での大伴旅人主催の「梅花の宴」の序文から引用されていることから、太宰府政庁跡やその居館跡と伝承される坂本八幡宮が、いわば「令和」所縁の地として新たな観光スポットとなり観光客が押し寄せている。昔の坂本八幡宮の人気のない佇まいを知っている者にとっては、昨今の人気沸騰ぶりには戸惑うばかりだ。神主が常駐しない神社には太宰府天満宮から神官が派遣され、社殿には幔幕が貼られ、地元の町内会有志がテントを張って、御朱印やお守りの下付、さらには「令和」額縁持っての記念撮影まで、参拝者に奉仕している。拝殿には参拝客が列をなしてお参りしている。鳥居前には新たに駐車場まで設けられ、観光バスが出入りする... なんという変貌ぶりか。一方で万葉歌碑が俄然脚光を帯び始めている。これまであまり注目されてこなかったが、思った以上にあちこち素敵な歌碑が存在している。こうした万葉歌碑巡りもまた新たな太宰府巡りの楽しみだ。


 ところで簡単にこの二人の太宰府のヒーローのプロフィールを整理してみよう。ここからどのようなストーリが紡ぎ出されるかはまた別途のお楽しみということで。


大伴旅人 

1)太宰府での地位:大宰帥(最高位の長官)
このころの太宰帥は実際に太宰府へ赴任する地方長官であった。次官は権帥(ごんのそち)ないしは大弐(だいに)で、旅人の時の次官は太宰大弐紀男人である。ちなみに山上憶良は筑前国守であった。
2)中央政権での地位:720年征隼人持節大将軍として九州へ下向。724年正三位中納言。729年の「長屋王の変」で高位高官が次々に滅したため、大納言に昇進し730年帰任。
3)出自:大伴氏は飛鳥を拠点とする軍事豪族の系譜。
4)太宰府への赴任時期:728年60歳の時に太宰府赴任。730年までの二年間。
5)太宰府での居住地:政庁付近の帥居館(現坂本八幡宮、ないしは月山官衙跡と伝承されている)
6)太宰府での事績:万葉歌人として多くの和歌を詠んだ。山上憶良、沙弥満誓等の筑紫万葉歌壇の中心。太宰府赴任には妻大伴郎女を伴ったが在任中に妻を亡くし、これを悲しむ歌を多く残している。大伴家持の父である。家持も太宰府へ同行し、少年期を過ごしたという説もある。だとすると万葉集巻の五の「梅花の宴」に幼き家持も同席していた可能性がある。のちの万葉集後期の編纂に関わった大伴家持の歌心に太宰府での生活はどのような影響を与えたのだろう。こうした研究もまた興味深い。

(参考)2019年4月13日の万葉集と大伴旅人、「令和」由来に関するブログ


菅原道真

1)太宰府での地位:大宰権帥(次官)実際には「大宰員外帥」
このころの太宰帥(長官)は皇族の王が受任する地位であり、みやこにいて太宰府へ赴任しない遙任ポジションであった。道真公は太宰員外帥、すなわち出仕も報酬もない左遷ポジションとしての権官であった。
2)中央政権での地位:宇多天皇、醍醐天皇の寵臣にして右大臣。左大臣藤原時平の讒言により太宰府へ左遷。
3)出自:奈良菅原の里を故郷とする学者家系 文章博士。母方は伴氏で大伴旅人や家持と血族関係にある。
4)太宰府への赴任時期:901年太宰府へ。903年太宰府で逝去(享年59歳)
5)太宰府での居住地:朱雀大路南の府の南館(現在の榎社)
6)太宰府での事績:太宰府下向時に歌った「東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」が有名。府庁へは出仕せず自宅に蟄居して「不出門」など漢詩を詠んだ。天拝山での無実の訴え登山が伝承されている。太宰府下向時に二人の幼い子供を伴った。隈麿と紅姫であるが、隈麿は翌年急逝。紅姫は道真公逝去ののち、道真公の長男を頼り土佐へ去ったとも、非業の死を遂げたとも伝わるが不明。榎社に紅姫供養塔がある。隈麿の墓と伝えられる石碑が榎社の南東の住宅街の中にある。菅原道真の遺骸を牛車で運ぶ途中、牛が立ち往生して動かなくなったところを埋葬地とし、そこが安楽寺となった。その後安楽寺天満宮が創建され、それが現在の太宰府天満宮となった。したがって天満宮本殿地下に道真公が今も埋葬されている。また現在の宮司西高辻家は道真公の末裔である。みやこに天変地異が起こり菅原道真の祟りであると恐れられて、北野天満宮が祟り封じに創建された。

(参考)2014年8月6日の菅原道真公と太宰府についてのブログ

 
 「二人の太宰府ヒーロー物語」はもう少しデータ集めをして構想するにしても、太宰府というステージで二人が過ごしたそれぞれの人生の時間差に注目してみたい。その差は170年。奈良時代初期から平安時代初期の間となる。現在に時間軸に置きなおしてみると、170年前は幕末、ペリー来航前夜頃となる。現代ほどではないにしても歴史の記録が失われてしまうほどの時間経過ではないので、大伴旅人の太宰帥としての、また歌人としての存在は菅原道真にも伝承されていて記憶されていただろう。ただし、万葉仮名による和歌集である「万葉集」は大伴家持が編纂を受け持つ奈良時代末には宮廷歌人による和歌集としての位置付けは失われ、むしろ宮廷内では漢詩が復活していった。平安時代になり、ひらがな、カタカナが生み出され905年(928年という説も)に古今和歌集が編纂されるころには。もはや万葉仮名の解読は不能にさえなっていたという。菅原道真は文章博士の家系に生まれ漢詩の名手であったが、漢字を和音に当てた万葉仮名はうまく読めたのであろうか。大伴旅人の歴史上の記憶はともかく、菅原道真が亡くなった903年時点では古今和歌集も撰録されておらず、まして万葉仮名で書かれた万葉集の解読が困難になっていたという事態を考えると、「筑紫万葉歌壇」の歌心が、道真はじめ平安時代の大宰府官人にどの程度伝わっていたかは心もとない。そんなことを考えながら170年のギャップを埋める太宰府の「時空旅」を楽しむのも悪くないかもしれない。

「令和時代」の坂本八幡宮
「令和」以前の坂本八幡宮(2016年の写真)
参拝に訪れる観光客はほとんどいなかった

参拝客と御朱印をもらう人急増!
坂本町内会の有志が活躍
祭礼の時の幔幕を張り、神主さんも太宰府天満宮から出張!
参拝者の行列は初めて見た!

季節は紫陽花








 大宰府政庁(都府楼跡)、観世音寺、戒壇院、学業院、坂本八幡宮周辺には数多くの万葉歌碑がある。やはり大伴旅人、山上憶良の歌碑が多く、大弐紀卿男人、沙弥満誓、小野老の歌碑も見える。

大伴旅人(坂本神社境内)
山上憶良(坂本集落)
大弐紀卿男人(坂本神社)
山上憶良(学業院跡)


大伴旅人(太宰府政庁)



 大伴旅人の居館跡については実は諸説ある。今回話題の坂本八幡宮が最有力だが、政庁東の月山官衙跡や、政庁北の大裏地区、さらには榎社(菅原道真蟄居の場)近くという説もあり確定でしていない。こうした候補地区の旧小字石碑が建てられているが、「遠の朝廷(とうのみかど)」の高位高官の居住地らしい典雅な名前が今に伝わる。「月山」は太宰府政庁東の「月山官衙跡」、「大裏(だいり)」は太宰府政庁正殿の真北、「花屋敷」は太宰府政庁北西の坂本八幡宮と坂本集落辺り。




 
 太宰府政庁から背後の大野城(四王寺山)に向かう途中に坂本八幡宮、坂本集落がある。ここは大宰府政庁と大野城をつなぐ重要な地域であった。白村江の戦いに敗れた倭国は、唐/新羅の列島侵攻を想定し、有事に備え、太宰府に外敵が侵入した時には、ここから背後の山城「大野城」に退避して籠城する手はずになっていた。山麓、山頂には朝鮮式山城の石垣に囲まれた城址があり、太宰府門、百間石垣、湧水池、倉庫群、焼米が原という食糧倉庫跡などがある。坂本集落は現在ではのどかな田園集落で、この時期は梅雨時の田植えの済んだ棚田が広がっている。なら飛鳥の稲淵の棚田を思い出させる風景だ。









田の神様






背景は宝満山
山岳信仰の山



 観世音寺戒壇院。奈良時代に鑑真和上の指導のもと東大寺、下野薬師寺と観世音寺に授戒を行うことのできる戒壇を設けた。三戒壇と言われる。観世音寺戒壇院は、現在は観世音寺を離れ博多の臨済宗聖福寺の末寺になっている。紫陽花の美しい季節の戒壇院界隈散策もまた楽しい。







戒壇院も今は臨済宗系の禅寺になっている










観世音寺参道から見た戒壇院
戒壇院本堂

梅雨時、田植えの準備が整った戒壇院の田んぼ


 観世音寺。百済救援のために筑紫に出陣し、筑紫朝倉宮で崩御した斉明天皇追善のために、その子の天智天皇が創建した。7世紀末に造営開始され80年かけて聖武天皇の746年に完工した。本尊は聖観音。造観世音寺司の玄昉の墓がある。宝蔵には馬頭観音など九州の雄渾な諸仏が収蔵されている。梵鐘が日本最古のもので国宝。京都妙心寺の梵鐘と同時期に筑紫の糟屋で鋳造された兄弟鐘。


観世音寺金堂
観世音寺参道
有名な観世音寺の鐘(国宝)
菅原道真は、配所でただ観世音寺の鐘の音を聴いている、という自分の思いを込めた漢詩を詠んでいる。

創建当時は壮麗な七堂伽藍を有する大寺院であった。
現在の金堂は江戸時代の再建になるもの。

観世音寺宝蔵
十一面観音や馬頭観音などの雄渾な九州の諸仏が収蔵されている


 太宰府政庁跡。都府楼跡。いつ頃設置されたのか、実はあまりはっきりしていない。推古天皇の時期に「筑紫太宰」という言葉が出てくるが、この地であったのか定かでない。大化の改新の後「蘇我むさし」が太宰帥として記録に出てくるが、これが現在地であったのかも定かでない。一番はっきりしているのは白村江の戦いののち、本土防衛のために博多湾近くにあった那の津屯倉をこの地に移し、大野城と水城を築いた記録が日本書紀にあり、この時期に初期太宰府政庁が設置されたようだ。菅原道真没後に起こった藤原純友の乱などで焼失したが、以前にも増して壮麗な建物群が再建され、その礎石が現在見える政庁遺跡となっている。少なくとも3回は建てられたらしいことが遺跡発掘で分かっている。また、いつ廃絶されたかも記録にない。律令制が破綻した11世紀初頭には官庁としての太宰府は消滅していたとの見方もある。重要かつ有名な地方最大の官庁史跡である割には謎が多い。



太宰府政庁正殿礎石
背後が大野城







 太宰府朱雀大路南の府南館跡。大宰権帥 菅原道眞公配流の地である。現在その跡は榎社となっている。大宰府政庁の真南に位置しているが、道真公はここから役所に出仕することはなく「配所の月」を眺めて蟄居していたという。御神幸祭の時には太宰府天満宮からの神輿は必ずここを訪ねる。最近、このさらに南の旧西鉄操車場跡からは、海外からの賓客を接遇した賓館跡が発掘されている。高価な海外「ブランド品」が多数出土して話題になった。博多湾の鴻臚館に並ぶ施設だと言われている。これからの調査が待たれる。


榎社


西鉄天神大牟田線が参道を突っ切る

訪れる人もなく静かな境内だ

太宰府はどこもクスの大木が見事
榎社境内にある道真公を世話した浄妙尼を祀る社
落魄の道真公の世話をし、餅を作って差し上げたという。
これが太宰府名物「梅ヶ枝餅」の由来だと伝承されている
同じく境内にある道真公の娘「紅姫供養塔」
道真公亡き後の紅姫のその後には様々な伝承がある。
しかし、供養塔が残っていることから、悲劇的な末路であったのであろう。
隈麿の墓は榎社の南東の民家の中にある
「鶴の墓」と伝承される石塔
榎社鳥居付近の路傍に立つ
それにしても由来を説明する表示も何もない

太宰府「客館」発掘現場
旧西鉄二日市車両基地内で発見された。