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2020年7月1日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか(第五弾)〜考古学はどのように語っているのか?〜

三輪山
この山麓に「おおやまと」という「クニ」が生まれた

2009年三輪山山麓で古代居館跡が発見された
纒向遺跡である

箸墓古墳
「おおやまと」の初代の王の墳墓だと考えられる
三輪山を背景に


これまでは中国の史書、そして日本の文献史料「古事記」と「日本書紀」を読み解き、文献史学的アプローチから「初期ヤマト王権」をプロファイリングしてきた。そして考古学的アプローチからその姿をあきらかにすることができないものかと考えていたところに、興味深い本を見つけた。坂靖氏による「ヤマト王権の古代学」(「おおやまと」の王から倭国の王へ」)2020年1月新泉社刊、だ。氏は奈良県立橿原考古学研究所で長く県内の発掘調査に携わってきた考古学研究者である


「俯瞰的」研究アプローチ

著者は橿原考古学研究所による大和盆地各地の長年の、かつ広範な考古学的発掘調査の成果をもとに、北部九州や近畿地方の発掘成果をも広く取り入れて、かつ中国の史書、日本書紀、古事記にも言及し「ヤマト王権」の出自、発展の過程を描いている。この多様なソースにアクセスしながら「俯瞰的」に見ると言う視座が重要だと思う。文献史学研究者はともすれば、自分の研究領域に関する資料にあまりにも固執して全体を見ない傾向に陥りがちであるように感じる。一方の、考古学研究者はさらにその傾向が強く、自分のテリトリーの地域や対象の成果物を中心に置き、そこから全体を判断しがちだ。こうしたアプローチの仕方、思考回路を断ち切って全体を「俯瞰」し、距離をとって客観視する。その中に専門領域の研究成果を位置付け、評価してみる。そう言う研究手法が大事だと思う。

本書は、奈良盆地という地理的範囲、考古学という研究領域を超えて「ヤマト王権」の実像に迫っている。結論から言うと、まずは邪馬台国は北部九州にあり、近畿に発生したヤマト王権とは別のものであるとする。この時代は日本列島にはいくつかの地方勢力が分立した状態であり、いまだ統一的な政治勢力や「王権」は存在しなかったと。その上で「ヤマト王権」の出自を奈良盆地の三輪山山麓の「おおやまと」地域の首長であるとしている。以前考察したような「チクシ勢力のヤマトへの移動」という仮説を支持してはいない。土着の勢力が発展したとしている。これまでも述べてきたように、邪馬台国北部九州説については異論はないので、その論考をここで改めて紹介しないが、著者も相変わらず邪馬台国近畿説が多数説であると注釈している。邪馬台国がヤマトにはなかったことをこれだけ考古学的にも証拠立てて説明し、その論旨は極めて明確であるにもかかわらず、いまだに近畿説が優勢であるといわざるを得ない事情が何かあるのだろうか。地元の(所属していた)橿原考古学研究所的立場が「近畿説を裏付けるための研究」なのではないか?つい余計な邪推をしてみたくなる。


邪馬台国時代(3世紀前半)のヤマトの姿

3世紀前半(弥生後期)に、中国王朝と通交(朝貢/冊封)をもった勢力は大和にはなかったとする。北部九州に多く出土する楽浪郡系の土器も大和盆地には検出されない。この頃奈良盆地には巨大な環濠集落遺跡、唐古・鍵遺跡が見つかっているが、弥生時代を代表する大きな集落であることは否定しないものの農耕生産の地域集落であり、「国」と呼べるような政治勢力ではない。また同時期に「おおやまと」地域に纏向をはじめとする大小いくつかの地域勢力としての「クニ」が認められるし、その首長である「オウ」の存在が認められる。その墳墓が大和古墳群の大型古墳であるとする。しかし、その遺構(纒向遺跡)の規模は(古墳は巨大であるが)、同時代(庄内式土器期)の北部九州チクシの奴国王都とされる須玖・岡本遺跡や比恵・那珂遺跡、伊都国王都と考えられる三雲南小路遺跡や井原遺跡、あるいは、河内の中田遺跡群や加美・久宝寺遺跡群などに比べても規模の小さいものである。また朝貢/冊封による統治権の認証の証拠たる「威信材」に至っては、北部九州にのみ検出されており、箸墓古墳や行燈山古墳、渋谷向谷古墳などの大型古墳が並ぶ「おおやまと」古墳群においても見つかっていない(宮内庁が陵墓指定している古墳の調査はできないが)。すなわち政治勢力としての「国」、その統治者である「王」の存在の証拠は大和盆地には見つかっていないことになる。むろん「邪馬台国女王卑弥呼」の存在を示す「しるし」も見つかっていない。

奈良盆地の三輪山の麓に広がる「おおやまと」地域に発生した地域勢力「クニ」が発展して国になり、その首長「オウ」が「王」になって勢力を拡大していくのだが、この時点(3世紀前半)では北部九州チクシ倭国に優越する「国」の存在はヤマトには認められない。しかし、この後その「クニ」が、3世紀後半〜4世紀には「国」となり、古墳時代を生み出し、5世紀の雄略大王(倭王武)の時代にはに列島各地に勢力を伸ばし朝鮮半島にも進出、6世紀継体大王の時代に、のちの飛鳥朝の天皇制という血縁による王統/皇統を形成していった。「ヤマト王権」の血縁系譜が始まったのは6世紀以降と言ってよい。著者は「ヤマト王権」の出自は奈良盆地の三輪山麓「おおやまと」であるとする。ではどのように「おおやまと」の地域首長「オウ」は政治的集団の「王」になっていったのか?


「オウ」と「王」は何が違うのか?

著者は、先に引用したように政治的権力を有する「王」と、その前段階の地域首長「オウ」、政治的まとまりである「国」と、その前段階の地域集団「クニ」とを区別して使っている。これは発展段階的な区分で使用しているのだろうと考えられる。しかし、「オウ」と「王」の違いは、その政治的な統治権威が誰に認証されているかの違いである。「オウ」は地域「クニ」の開発(農地の拡大、水路の確保)に実力を発揮し、地域「クニ」の民に押された「むらおさ」的な首長であるが、「王」はより上位の権威によってその「王」たる「国」の統治権威を与えられなくてはならない。その権威の象徴としての(上位権威から下賜された)印綬、鉄剣や玉や銅鏡といった威信材を保有している必要がある。こういう観点から北部九州チクシ王権の「王」たち(奴国王、伊都国王、邪馬台国女王)は、中国王朝の皇帝から統治権威を認証された(朝貢/冊封体制と言う形で)。その証左として印綬や銅鏡、鉄剣などを下賜され、それらが遺跡や墳墓からは検出されていることで彼らが「王」であったことが「証明」されている。

それに対しヤマト王権の「オウ」たちは、誰に(何によって)その統治権威を認証されて「王」になったのだろうか。少なくとも3世紀前半(弥生最晩期)、庄内式土器期、すなわち邪馬台国時代には、大和盆地からは、中国皇帝の威信材は全く出土していないことが明らかになっているわけであるから、この頃のヤマトの「オウ」たちは中国皇帝に朝貢/冊封して「王」となったわけではないということになる。するとだれがヤマトの「オウ」を「王」にしたのか?著者はこの点に関しては触れていない。考古学者としての推測を排した客観的、科学的姿勢なのでああろう。

しかしこの点は重要だ。すなわちヤマトの「オウ」は、自力で(いくつかの有力首長との同盟関係を得て)統治権威を周辺の勢力(と言ってもせいぜい最初は奈良盆地内)に認めさせていったのであろう。まずは大和盆地内、そして河内、摂津、和泉など畿内、さらにはその周辺に勢力を拡大してゆき、政治的な権威/権力を地方の首長たちに認めさせていった。しかしその場合、その権威/権力の源泉は、中国王朝からの冊封という外的権威でないとしたら、稲作の生産力や富の蓄積、鉄などの資源であったのか、それに伴う地域の祭祀を執り行う権威であったのか。そこを明らかにする必要がある。その統治権威のシンボルが3世紀後半に始まった大型古墳であったのだろう。こうした葬送儀礼にまつわる大型の建造物築造の背後にあるものはなんだったのか。考古学的な年代表現で言えば、庄内式土器期の次の時代の布留式土器期のこととなる。4世紀になると中国の文献史料に倭国との通交の記録が出てこないいわゆる「空白の4世紀」となる。これは中国王朝の混乱(五胡十六国)が主因であり中華世界の権威、朝貢/冊封体制が混乱したせいであろうが、一方で倭国側にも政治的な混乱があったことが考えられる。すなわち中国の朝貢/冊封体制下にあったチクシ倭国が(中国王朝の混乱で)衰退し、ヤマトが倭国の中心に成長した世紀であったと考えられる。このころのヤマトでは大型古墳が築造されるが、先述のように大陸との通交を示すような(あるいは威信材のような)副葬品は出ていない。おそらく中華王朝の権威とは独立した倭国支配の「統治権威」が生み出されていったのだろう。その後、5世紀の「倭の五王」が中国の南朝に朝鮮半島の軍事的支配権などを求めて朝貢しているが、必ずしも倭国内の統治権威の認証を求めたわけではない。その時の上表文で倭王武は父祖の時代から倭国内の勢力を討伐し(おそらくは同盟し)、平定していった様子を述べている。「そでい甲冑を貫き山川を跋渉し寧所にいとまあらず」である。すなわちチクシの倭王たちのように中国皇帝に倭国の統治権威認証を求めず、自力で支配権を広げていって「倭王」になったと言っている。やがてこの後は、徐々に中国皇帝に朝貢して冊封を求める統治権威認証の獲得をやめ、倭王自身が「統治権威」の源泉となり、地方の豪族や首長にその地域の統治を認める、倭王武(雄略大王)の「治天下大王」宣言と大王が官職を与える「官職制」を打ち立てていった様子が見て取れる(稲荷山古墳の鉄剣、江田船山古墳の鉄剣に刻まれた銘文)。6世紀の継体大王の時期になると、血統による王統の継承、世襲制という観念が取り入れられ(それまでは血統による世襲や、皇統などといった概念は存在していなかった)、その権威を証明するための皇祖神創設、祭祀、神話の体系化、へと進み、さらに7世紀末から8世初頭ににかけて中国風の律令国家建設へと進んでいったと考えられる。その反映が、すなわち正史である「日本書紀」や天皇の記である「古事記」であり、その記述に、そもそもヤマト王権と繋がりのない朝貢/冊封国家、チクシの邪馬台国や女王卑弥呼の記述を避けることにつながっていったと考える。


「おおやまと」の「オウ」はいかにして「ヤマト王権」になったのか?

著者は「ヤマト王権」は奈良盆地の三輪山の麓の「おおやまと」地域に発生して成長し、勢力を拡大していった王権であるという。しかし、3世紀のチクシ王権の時代から、次のヤマト王権への移行過程は依然として見えてこない。なぜ、そのような奈良盆地の片隅にいた「おおやまと」地域勢力「クニ」が倭国を支配する「国」に発展していったのか。「オウ」が「王」になり、さらに「大王」になっていったのか。歴史学では「空白の4世紀」と言われる部分だが、考古学的にもこの間の事情を物語る遺物は少ない。その中で、4世紀後半に百済王から倭王に贈られたと言う「七支刀」が数少ないヤマトに残された有力な遺物である。これは倭国(おそらく初期のヤマト王権)が朝鮮半島へ進出した証であると考えられている。と同時に、この頃はすでにヤマト王権がチクシ王権に変わって倭国の有力政権であると、朝鮮三国(とりわけ百済)に認識されていた証拠でもある。あるいは、東晋、百済、ヤマトという、それぞれの地域王権が連携し、分裂した東アジア情勢を同盟で乗り切ろうとした証とも言える。しかし、チクシ倭国の邪馬台国の女王壱与の晋への遣使から100年余りの時間経過の間に何が起きたのか。この頃のヤマトに大陸との交流を物語る決定的な考古学的な発見は多くはない。しかし、ヤマト王権が大陸との通交なしに発展したとも考えにくい。黒塚古墳などの初期古墳から見つかる三角縁神獣鏡などの中国の影響を受けた鏡の出土はそれが舶載鏡ではないとしても、その(コピー)製造(量産)をヤマトのどこかで行っていた可能性が強い。また「おおやまと」地域の大型古墳の築造に大陸の影響は全くなかったのであろうか?著者は「ヤマト王権」は邪馬台国の持つ中国正史に記述された外交関係とは別の大陸(中国だけでなく朝鮮半島諸国)との外交関係や交流を持っていただろうと言う。ただ、大陸から離れた奈良盆地に発生した土着の地域勢力が、いかにして勢力を伸ばし、列島全体をを支配下に置き、さらに朝鮮半島まで歩みを伸ばすことができたのか。「おおやまと」の勢力は大陸との交流をどのように行っていたのか。意外にもこうしたことが未解明である。すなわち4世紀に朝鮮半島の3国間の紛争に百済に誘われて出兵しているが(好太王碑文)、この頃の倭国の支配権を誰が握っていたのか?ヤマトとチクシの関係はどのようなものであったのか依然として謎である。「空白の4世紀」と言われる所以である。おそらくこの間に倭国全体の支配力に関して、チクシ王権からヤマト王権への実力の移行があったのであろう。チクシ王権は中国王朝の混乱により統治権威の輝きは失われていて、伸びてきたヤマト王権の「実力」の前に、徐々に衰退し、地方勢力(依然として大陸に近いと言う地の利を生かして優位性を保ってはいただろうが)になっていったのだろう。と同時にヤマト王権は、混乱の中国王朝に変わって朝鮮半島諸国(特に百済や伽耶)との通交関係(朝貢・冊封関係とは別の)を深めてゆき、そして列島内の勢力を拡大していったのだろう。すなわち中国王朝との「朝貢」「冊封」体制からの離脱が始まり、いわば「自力」統治権威認証と権力の集中が始まったと考える事ができるのではないか。


しめくくり

筆者は最後にこう述べて締めくくっている。「ヤマト王権の時代とは何かと問われたとき、「おおやまと」の王として出発したヤマト王権の王が、倭国の王としての国家体制や秩序を徐々に形成し、6世紀にそれを完成させた時代であると結論づけることができよう。」(引用)。著者の論考は、私の持論を考古学的な観点から実証し、いくつかの点を支持するものであるので大いに読んでいて納得であった。しかし、結局はなぜ、どのように「おおやまと」の地域首長「オウ」が「王」となり、さらに「大王」として他の有力首長(豪族/氏族)を抑え(同盟し)倭國を支配下におき、朝鮮半島に進出しうる(支配したとは考えないが)統治権威と権力を得ていったのか。その力の源泉は何だったのか。著者が指摘するような生産力の拡大と強さだけでそうなったのか。それに加える力の源泉が何かあったのか(外部からのインパクトなど)。一方で、多くの考古学的な証拠が見つかっていないものの大陸との通交なしには考えられないとも指摘している。「おおやまと」土着の首長「オウ」が倭国の「大王」になってゆくその過程で、なにか大きなパラダイム変換(外来勢力のヤマト侵入など)はなかったのだろうか?土着の勢力がリニアに列島内に勢力を伸ばしていったとすることには少し無理があるように思う。例えば3世紀に始まる古墳時代に、何か大きな大陸との革命的な人的通交があったのではないか。巨大古墳を築造する技術はヤマト盆地に自生したものなのか?大陸の周辺部に位置する列島国家という地政学的な立ち位置から、倭国/日本は常に大陸との関係性の中で生きてきた。東アジアの政治的、文化的影響を免れることなく生成され発展してきた。「おおやまと」の「オウ」「王」も例外ではないであろう。大陸との通交による対外的要因でなく6世紀までに列島内に勢力を伸ばしていったのだとすれば、それは何なのだったのか?あるいは大陸と通交していたとすればどことであったのか(三国志の時代の呉か?五胡十六国時代の朝鮮半島の役割はいかなるものであったのか)。大陸に近いチクシ勢力との関係は全くなかったのか。その答えに肉薄できなかったのが残念というほかない。もっともこれは考古学的アプローチだけでは解明できないだろう。文献史学、歴史学領域研究との協業が不可欠である。


唐古・鍵遺跡
弥生後期の環濠集落跡
箸墓古墳遠景

箸墓古墳
黒塚古墳頂上部からの展望




纏向居館跡発掘現場
2009年
現在は埋め戻されて史跡公園になているようだ

龍王山山頂から展望する「おおやまと」地域
左に大和三山と箸墓古墳、中央部に行燈山古墳、右に渋谷向山古墳
纒向遺跡はほぼ中央部に

(参考書籍)
ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ-坂-靖