東京大手町の自衛隊大規模接種センター |
コロナワクチンの高齢者への接種が始まった。はじまるまでは混乱の極みであったが、ようやくぼちぼちと接種が進み始めた。ここへきて日本の接種の遅れが顕著となり、それを内外から批判されているからか、首相は7月末までに高齢者接種を完了させると言い出した... 遅きに失するとしか言いようがないが、そもそもワクチンは全て海外からの輸入頼みで、必要な数量の確保がまだできていない。自治体への配分もどういう基準でなされているのか、余る自治体があるかと思えば、全く焼け石に水程度しか入ってこない自治体もある。概して大都市への配分は微々たるもの。接種は市区町村に丸投げでその対応がまちまち。予約システムもにわか開発(業者丸投げ)で仕様もまちまち、医師看護師確保もまちまち。高齢者が予約すら取れずに右往左往する。接種が早々と終わったところがあるかと思えば(概して小さな町村)、なかなか進まないところ(概して大都市)も。ちまちま、まちまち...
それでも日本の接種率はまだ全国民の2%程度で、世界の中でも最下位レベル。アメリカはすでに41%、イギリスが39%になっており、1日の感染者数も激減しているしイギリスは死者数0となった。課題はさらに接種率を上げて国レベルの集団免疫をいかに早く獲得するかに移っている。すでにロックダウン解除が進み、経済活動が再開されている。そこで日本の政府は今度は接種率を上げるために、高齢者でなくとも接種を進めるとして、64歳以下を対象に、企業、職場や大学での接種を今月から始めると言い始めた。政治や役所の人のフリを見ないと動き出さない体質丸出しだが、それにしても口で言い出すのは勝手だが、やるのは現場の人間だということをわかっているのか。結局、実行は「現場力」頼みだ。しかしこうなると接種率という数字を上げるために、高齢者の接種は完了した(「完了」ではなく「終了」させる!?)として先を急ぐつもりなのかと勘ぐりたくなる。まだ接種できてない高齢者がいるのに切り捨てなのか?まさか弱者切り捨てて数字だけ上げるつもりではないだろうな。何と医療従事者ですらまだ接種が完了していない。依然として上の方は思考プロセスと判断基準の混乱が収まっていないようだ。本当にどうしてこんなに情けない国になってしまったのだろう。
なのにオリンピックだけは強行しようとしている。この背景にはIOCのゴリ押し(IOCのコーツ発言「緊急事態でもやる」)があるということもわかってきたが、それに抵抗できないホスト国政権トップの情けなさ、優柔不断。いや本音は「止めるとオレの政治生命がヤバイ」が原因であることもわかった。政府専門家分科会の尾身会長もついに、「こんなパンデミックでは普通はオリンピックなどやらない」と言い出した。医師もオリンピックへ協力は今の状況ではできない、と協力辞退を言い始めている。大会ボランティアもすでに2万人が辞退した。国民の間でも世論調査では80%以上が中止か延期。ネット上での開催反対署名も50万件を超えた。金と政治にまみれたオリンピック。国民の理解が得られないオリンピック。誰のための何のためのオリンピックなのか。仮に感染の問題が薄らいだとしても、とっくにオリンピックの開催意義を失われている。あと50日に迫っているのだが、すっかり色褪せて興醒めとなったオリンピックは果たしてどんな塩梅になるのか楽しみだ。じっくり観察させていただく。TOKYO2020は後世にどんなオリンピックとして記憶されるのだろう。少なくとも「人類がコロナに打ち勝った証」とか「こんな時だからこそ人類が分断を乗り越えて」とか評価されることにはならないだろう。
このコロナパンデミック騒動では「上は三流でも現場力はすごい!」を実感させられた。この言葉は日経ビジネスの5月25日のコラムに掲載された河合薫氏の表題をもじったものである。まさに、指摘の通りこれが日本の底力だ。一旦やると決まれば現場はどんどん動く。人は知恵を出す。きめ細かい配慮や、行き届いた心配り、「おもてなし」など本領発揮である。しかし、そこへ至るまでの上部の意思決定プロセスとコミットメントがグダグダであることが多い。これは政治の世界でも、官僚の世界でも、企業の世界でも言える。今回のパンデミックは大きな組織におけるリーダーの役割と責任と能力の問題を白日の元に晒した。現場や社会の実情を見もせずに、現場から遠く離れた会議室の机上で抽象的な現状分析をして、具体性のない判断をし、結果を直視しない。かといって大局的なビジョンもなく、突破力もないリーダーたち。そもそも大きなエスタブリッシュされた組織ほどその閉鎖組織独特の(外部からは窺い知れぬ)ロジックが優先されて、それに基づく人事でトップや幹部が決まり、その人物がそのロジックに基づき意思決定する。そういう仕組みが、いざというときには役に立たないということを見せつけられた。すなわち「頭の良い人たち」が集まって「頭の悪い結論に至る」である。いわゆる進学校から一流大学を出てとんとん拍子でエリート街道まっしぐら。もちろん人にもよるが、不測の事態に対応する能力や、何もないところで新しいゴールを設定して結果を出す能力は涵養されてこなかったのが日本の社会的エリートだ。結果に対する責任の負い方も知らない。失敗するリスクを避ける「大過なく任期を全うする」が金科玉条である。今回のケースは、現役時代の理不尽と無力感、隔靴掻痒を覚えた経験を思い出させる。エリートではないが、いくばくかの組織を率いる地位にいたこともある自分を顧みても、苦い出来事に「心当たり」がある。適切かつ合理的な意思決定ができなかったことに愕然とさせられたこともある。理にかなった結果がついてこないのだ。こうした失敗はたいていは現実に起きていること、起きるであろうことを正しく認識していなかったことに起因している。あるいは理解していても、判断する際のロジックが現場の実態とかけ離れていることが多かったように思う。結局「合理的な」判断と意思決定とは、現場の問題をストレートに解決するものでなくてはならない。当たり前のことのようであるが、それができていないのが現実である。トップやリーダは、その結果生じる組織内ロジック違反の理不尽さを受け入れる覚悟と度量が必要だ。あのときに投げかけられた「エライ人はいざというときには役に立たない」という言葉がいま、脳内をぐるぐると駆け回り、心中をかき乱す。自省しても時すでに遅しである。