毎日見ているのに気がついていない。見慣れているがそれがなんだか考えてみたこともない。そんな日常的な景観が、実は歴史を背負った非日常空間であることに気づかないことはままあるものだ。我がサラリーマン人生でお世話になった馴染みの新橋/有楽町間の高架下やガード下もそういう日常に存在する異空間の一つだ。飲み屋や焼き鳥屋、鮨屋。昼食に立ち寄るラーメン屋やイタリアンもそこにあった。深夜に至る超過勤務など当たり前の時代、補食(補助食事券。もはや死語)の出前を頼む食堂もここに並んでいた。上を新幹線や東海道線、山手線、京浜東北線という首都圏の大動脈が走っていることはもちろん知っている。メシ食ってると頭の上をゴロゴロ電車が走る音が絶え間なく聞こえるのだから。都心の一等地だから、こんな狭くて薄暗い高架下に飲食店や、麻雀屋、新聞の配送所、いわくありげな事務所やハイヤープールがぎっしり詰まっていることも不思議ではない。近代的な日比谷のオフィス街を一歩離れて入るとそこに広がる異空間。延々と続く薄暗い通路。時空の隙間すら在りそうな佇まい。有楽町出口に近いところには「インターナショナルアーケード」なる一角があった。東京オリンピック(1964年の)をあてこんででできた外人観光客向けのお土産屋街だ。帝国ホテルがすぐそばにある好立地。デューティーフリーだ。昨今のインバウンド中国人観光客相手ではない。欧米人観光客相手だ。日本製の電化製品が人気だった時代には、240ボルトや120ボルト仕様のラジカセや、ビデオデッキ、アースのついた三又コンセント、変圧器が売られていた。海外赴任するときには立ち寄ったものだ。しかし海外に無縁の「一般人」は立ち入りが憚られるような雰囲気。とにかくいろんなものが雑多に共存している迷宮、いやダンジョンであった。東京や大阪のような大都会には必ずと言っていいほど見かける鉄道高架下商店街。そういえば神戸のモトコウ(元町高架下)もかなりの異空間だ。中古カメラハンティングに行ったこともあったっけ。
ふと過去への「時空トラベル」から目が覚めて我にかえると、現在の新橋有楽町高架下に佇んでいる自分がいる。そこは見知らぬ空間に変貌していた。妙に「ハイカラ」な空間。それにしても、ここはずいぶん立派で頑丈な構造物だ。しかも赤レンガ作りのアーチが連なるレトロな街区。これが我が国の鉄道遺産、産業近代化遺産に存在している空間であることに思いを巡らしてみたことはなかった。これは明治に造られた日本初の市街鉄道高架橋である。それが今でも使われ(隣に新幹線の高架橋が増設されたが)、日本の大動脈を支えている。そしてその高架下は、かつて我々、昭和なサラリーマンに安らぎの場を提供してくれた、そんな場所だった。日本では古いものは壊してすぐ新しいものに建て替えるのがフツウなのに。とりわけ東京は破壊と建設がエンドレスに続く街なのに。ここだけは時空を超えた世界が広がっている。かつては「新幹線ビル」とか、「ニューライン」とか、高架下の構造物になんかそれらしい名称があって吹き出した記憶があるが、昨今、再開発で命名した英語とも日本語ともつかないローマ字の商業施設名もやはり首を捻る。それに「URA」とか「OKU」とか「ROJI」とか...やや日陰者的な命名。これは都市の誇るべき歴史遺産なのだ。分かっているのか?そうしたレスペクトが感じられない。鉄道路線として100年以上使い続けている。SDGsだなんて改めて言わなくても、なんとエコなリユース都市、東京がここにあるのだぞ。あくまで例外的、稀少的にであるが。
ここで鉄道ウンチクを! 明治/大正にできた鉄道高架橋は以下の通りである。
1)新橋ー東京(明治42年〜大正3年)
2)お茶の水ー万世橋(明治41年〜明治45年)
3)万世橋ー東京(大正8年)
4)飯田橋ーお茶の水(明治37年)
ちなみに、東京ー上野(昭和4年)。お茶の水ー両国(昭和7年)となっている。
鉄道省用語では「東京市街高架線」と呼ばれているようだ。ほとんどが明治の時代にでき、完成が遅れた部分も建設計画が立案済みであったという。意外にも東京ー上野間が繋がったのが昭和に入ってから。これは驚きだ。これで現在の山手線の環状ループが完成したわけで、比較的「最近」の出来事なのだ。また帝都東京の鉄道網は、郊外から出来てゆき、都心部に乗り入れて東京中央停車場につながるのは、大正以降であることにも気付かされる。
今回は新橋ー有楽町間、お茶の水ー万世橋間の赤煉瓦アーチ鉄道高架橋の探訪と洒落込んだ。考えてみれば、これほど見事な赤煉瓦アーチの連続構造物が、東京という街の中心部の景観に独特のアクセントを与えているにもかかわらず、仔細に探訪して見たことはなかった。都心に残る明治の鉄道遺産は首都圏の鉄道幹線網を支えるインフラ構造物として今なお現役。その高架下は今風のショッピングアーケード街に変身。やや「時空の乱れ」が気になるが、構わず探検に出かけた!
1)新橋ー有楽町ー東京
当時の鉄道省的には「新永間市街線高架橋」(新銭座と永楽町の間)と呼称されているそうだ。明治6年に日本で初めての鉄道が横浜から旧新橋停車場まで開設されたが、その後、建設予定の東京中央停車場へ路線を延伸。このために建設された鉄筋/赤煉瓦アーチ橋である。橋梁工事に強いと定評の鹿島組が建設。浜松町ー新橋(明治42年)、新橋ー有楽町(明治43年)、有楽町ー東京(大正3年)の順で延伸され、東京中央停車場は、昭和4年に上野と繋がって東京駅となった。特に新橋から有楽町間の赤煉瓦の連続アーチ高架橋が見事。赤煉瓦の調達が品川煉瓦工場だけでは間に合わず、全国から掻き集めた話や、外堀の石垣を基礎石に転用したこと、地盤強化の杭打ちに大量の木材が必要であったことなど、様々な苦労話が伝わっている。
高架下にあった古めかしいアーケード街は、再開発されて、新橋側が「URACORI」、有楽町側が「HIBIYA OKUROJI」というテナント商業施設に改装された。銀座コリドー街の裏、日比谷の奥路地というわけだ。遠慮がちな(?)命名のセンスはともかく、かつてのダンジョン的/迷宮的なドキドキワクワク感はなくなり、なんか今風の小洒落たショッピングアーケード街になった。あの時の個性豊かなご町内の人たちはどこへいってしまったのか。時代の流れといえばそれまでだが... 我々、日比谷の住人であった昭和なオジサンにとっては、かえって戸惑いすら感じる異世界に変貌してしまった。
高架の後ろは汐留シオサイト 旧新橋停車場。汐留操車場跡地の再開発だ |
赤煉瓦アーチ橋 |
新橋よりの高架下 |
URACORI 裏コリドー街ということか |
なんと堂々たる構造物であることよ! 東京電力本店、旧NTT本社界隈 |
有楽町よりの高架下はHIBIYA OKUROJI すなわち日比谷奥路地 |
赤煉瓦アーチの下部に頑丈なコンクリート補強がなされている。 |
白っぽいところが新幹線高架下、左の赤煉瓦は在来線高架下 コントラストの妙 |
赤煉瓦高架下 新潟県のアンテナショップ |
新幹線高架下 天井が高い |
旧インターナショナルアーケード跡には「ラーメン横丁」いや「Ramen Avenue」 |
有楽町ガード下は健在! |
神社まであって? |
鉄橋部のガード下は無骨な鉄板で覆われている。 |
帝国ホテル界隈の連続アーチも見事だ! |
以下は鹿島建設HPから。東京市街高架線工事の様子の古写真を引用。
線路工事平面図 |
工事中の高架線 |
新橋から有楽町、東京方面 左手には外堀、右手には帝国ホテルが |
新橋駅 外堀の土手に沿って有楽町、東京方面へ線路を伸ばしたことがよくわかる 64年のオリンピックの時に、この堀を埋め立てて新幹線と高速道路が建設された |
開業した有楽町駅 東京中央停車場ができるまでの仮終点駅であった |
2)お茶の水ー万世橋 「お茶の水/万世橋間高架橋」
民営会社であった甲武鉄道が、立川から新宿、さらにお茶の水から万世橋まで路線を延伸した。この時に建設されたのがこの高架橋。その名も「お茶の水/万世橋高架橋」、そのまんまである。ここも鉄筋/赤煉瓦の鉄道アーチ橋が見事だ。途中、昌平橋仮駅開業(明治41年)を経て、明治45年万世橋駅開業。のちに国有化により鉄道省中央本線の終着駅、ターミナル駅となった。万世橋駅舎は辰野金吾設計の東京駅赤煉瓦駅舎スタイルの立派なものであった。日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像が駅前広場のシンボルだった。大正8年には東京駅まで延伸され通過駅に。周辺の神田や秋葉原に駅が開業し、万世橋の利便性が縮小していった。大正13年の関東大震災で駅舎が破壊され小規模な駅舎が再建された。昭和11年には交通博物館が駅に隣接して開業。しかし駅自体の営業取り扱いは昭和18年に停止となった。戦後は交通博物館が駅舎跡にあったが、これも2007年に埼玉県の大宮鉄道博物館へ移転。
再開発後はMAACH Ecute神田万世橋というテナント商業施設になった。民営化されたJR東日本の新規事業というわけだ。命名にその「こころ」が見えないが、それはともかく新橋/有楽町高架橋下に比べると距離も短くて手狭な感じだ。私にとって日常的な馴染みの街ではないので、どうしても「通りがかりの人」的視点になってしまう。ノスタルジアよりもモノ珍しさが先に立つ。しかしここも、新橋/有楽町と同様、堂々たる赤煉瓦高架橋が存在感を放っている。リノベーションされた高架下の商業施設はどうか。ショップ、レストランというよりギャラリー的な佇まいだ。店内を通行人が通り抜けてゆくのはどうだろう?商売になっているのか気になる。ただし、旧万世橋駅プラットホーム跡を展望室とカフェレストランにしたのはユニーク。窓のすぐ外を中央特快や信濃路/甲斐路特急が疾走する光景は、鉄ちゃんでなくてもなかなかの見ものだ。気になるのは、あの「杉野は何処?」の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像はどうなった?戦後に撤去されたのは聞いているが。しかし、連続アーチの高架線がスパッと終わって「行き止まり」になっている姿のまま歴史遺産になっているところは涙を誘う。その横を神田、東京に向かって新設された高架橋上を何食わぬ顔で中央特快が走り抜けてゆく。総武線の各停はお茶の水から鉄橋渡って秋葉原へ。万世橋など目もくれずに。「君は終わったんだよ」と言わんばかりに。
神田川沿いの堂々たる連続アーチ橋 |
旧昌平橋駅跡(神田川サイド) 高架の鉄橋は総武線 奥には地下鉄丸の内線、聖橋が見える |
旧昌平橋駅跡(反対側) |
万世橋駅ジオラマ 見ての通りの終着駅だ |
戦前の絵葉書 |
旧万世橋駅前広場。旧駅舎跡、交通博物館跡 |
現在は中央線の高架となっている 後方には「肉の万世」ビル |
旧万世橋駅のプラットフォームへの階段は昔のまま残されている |
旧万世橋駅プラットフォーム跡 改装されてカフェレストランと展望室になっている すぐ横を中央線が走る |
赤煉瓦高架下 リニューアルされてショップやカフェになっている |
店内が通路になっている |
MAACH Ecute入口と万世橋 向こうは秋葉原 |
(撮影機材:Leica SL2 + SIGMA24-70/2.8 DG DN, Lumix20-60/3.5-5.6)