Lady Murasaki The Tale of Genji |
Arthur Waley (1889-1966) |
今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の影響か、源氏物語がちょっとしたブームになっているようだ。テレビの歴史番組、旅番組や、ラジオの教養講座、SNS、ネット/リアル書店の古典、歴史コーナーには、源氏物語や紫式部、平安時代をテーマにしたものがずらりと並んでいる。歴史ドラマといえば、サムライ、武士が出てくる戦国時代、天下統一、幕末維新ものが多くて、平安貴族が主役の物語はあまり見かけない。なんとなく日本人の歴史観の基層に、武士=カッコ良い、英雄、忠義、高潔な精神。一方、公家=みやび、軟弱、有職故実、もののけに恐れ慄く、恋愛にうつつを抜かすという捉え方がされてきた。日本史を振り返ってみれば、12世紀の武士の台頭から19世紀の大政奉還、明治維新まで、700年以上にわたって日本では武家中心の時代が続いた。軍事部門のトップ、征夷大将軍が統治権力を持ち続けた、いわば軍事政権の時代であったといっても良い。明治維新以降も、王政復古で武家政権が崩壊し、幕藩体制、武士制度は廃止されたにもかかわらず、富国強兵、国民皆兵が叫ばれる中、今度は庶民にまで武士道精神を叩き込み、忠君愛国、お国のために死ぬことを教えてきた歴史がある。平安時代などの、ある意味戦乱のない平和な時代(汚れ仕事に携わらない支配階層だけなのだが)は国民を鼓舞する小説にも歴史物ドラマにもならない。そんな暗黙了知の中、源氏物語が注目を浴びることとなったのは偶然だろうか。大河ドラマも、戦国もの、幕末維新ものはネタ切れ感があるのか。司馬遼太郎史観にも飽きたのか。侵略戦争が常態化しつつある21世紀の世界へのアンチテーゼなのか。
紫式部「源氏物語」を今から100年前に英語に翻訳して世界に知らしめたイギリス人がいた。それは「The Tale of Genji Lady Murasaki」として発表され、1000年前(当時は900年前)の日本に登場した世界最古の女流作家による文学作品である。しかも現代にあっても長編小説として多くの人々から愛される物語、世界の奇跡などと評され世界中で重版、各国語の翻訳が出た。イギリスでは発表当時、シェークスピア、ジェーン・オースティンにも匹敵すると評された。時代はちょうど第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期である。
彼はアーサー・ウェイリー:Arthur Waley。東洋文学の研究者で翻訳家、詩人である。1889年、イギリス・ケント州タンブリッジウェルズの中流家庭に生まれた。成績優秀で名門ラグビー校、ケンブリッジ大学キングスカレッジへと進学し、ギリシア語、ラテン語など古典語を学んだ。しかし、視力低下に襲われ学業継続が困難になり1910年に中退。1913年に大英博物館の東洋部門の学芸員に採用された。彼の履歴書によると、語学はフランス語、イタリア語など主な欧州言語は流暢に喋ることができ、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、サンスクリット語を読むことができるとあった。たぐいまれな語学力があったことがわかる。大英博物館では東洋の美術や書籍、書画を担当したため、中国語、日本語、モンゴル語、アイヌ語を学ぶ必要があり独学で学び始めた。のちにロンドン大学東洋学院:The School of Oriental Studyでそれらを本格的に学んだ。また当時ロンドン留学中であった日本人の八木秀次(あの八木アンテナの創業者)にも日本語を学んだという。1929年には大英博物館を退職し、その後、第二次大戦中は英国情報部の日本語検閲担当として4年間勤務した。この間に源氏物語の英訳に取り組み出版している。しかし、彼の研究と作品成果は、大学や、研究機関に籍をおく研究者、翻訳家としてのそれではなく、むしろ自由人として東洋文学に魅了され研究、翻訳に取り組んだ結果と言える。ロンドンの文化人・芸術家のサロン、ブルームズベリーグループに属していたが、いわば孤高の人であった。
最初に源氏物語に出会ったのは、大英博物館で見た絵巻の一枚、光源氏の須磨の場面であったという。その絵と和歌に魅了されて源氏物語を日本から取り寄せて読み始めた。そして読むだけではなくその翻訳を試みた。日本の古典語は語彙も少なく、文法も簡単なので数ヶ月もあれば読めるようになると豪語している。とはいえ辞書もなく、参考文献もない翻訳作業は孤独な仕事で、その完成は至難の業であったろうことは想像に難くない。そのハードワークを励ましてくれたのは夢に出てくる紫式部:Lady Murasakiであったと回想している。「あなたが翻訳を諦めたら、私の物語を世界に紹介する人がいなくなってしまう」と訴えられたと。1925年から1巻ずつ「桐壺」から順次翻訳を開始し、毎年1巻ずつ出版した。出版はロンドンの著名な出版人ジョージ・アレン&アンウィン:George Allen & Unwinである。1933年に第6巻を翻訳し終えて完結した。その間に清少納言の枕草子の抄訳:The Pillow-Book of Sei-Shonagonにも取り組み完成させた。1935年には6巻合冊版が出版された。本書がそれである。翻訳にあたっては、江戸時代1673年(延宝元年)に著された源氏物語の注釈書「湖月抄」(北村季吟)を参照した。今でも源氏物語を読み進めるときに重用される注釈書である。これを読み解くことも大きなハードルであったはずであるが、驚異的な語学脳で「湖月抄」の注釈を読みながら、8年かけて源氏物語完訳を果たした。彼の翻訳は語学的にも正確であるが、説明的ではなく、文学的にも洗練された魅力あるものである。英文学作品としても批評家や読者から高い評価を得られている。元々英語の読者を相手に書かれたので、イギリスやアメリカで多くの愛読者を得て居ることは不思議ではないが、フランス語、ドイツ語などに重訳され読者が広まっていったほか、後述のように日本でもその英訳本に魅了される人々が現れる。
ウェイリーは、このように源氏物語や枕草子、また能や謡曲の英訳に取り組み、世界に日本の古典文学作品の魅力を広めたことで、日本人は彼を、日本びいきの日本研究者、ジャパノロジストと捉えがちである。しかし彼の仕事は日本の古典作品に限らず、論語、詩經、西遊記、陶淵明、李白、白楽天など中国古典にも及び、むしろ日本古典の翻訳は彼の全仕事の5分の1程度であった。東洋の文学に興味を持ったのも中国の詩に触れたことであったと言っている。中国から入り、その延長で日本を研究することになる。イギリスでありがちなパターンだ。
また彼は現代日本語はほぼ喋れなかったし、生涯一度も日本や中国を訪れたことはなかった。戦後、1959年に勲三等瑞宝章の叙勲があった時にも来日しなかった。これは、彼が日本の古典文学を通じて抱いている世界と現実の日本の姿の差異に幻滅したくなかったからだ、と説明する評論家もいるが、一方で、単に長い旅が嫌いだっただけだという人もいる。またイギリスでもナイトの称号、勲章を受けたが、ほとんど前向きな反応を示さなかったと言われ、そのような栄誉に関心がなかったようだ。こうしたマルチリンガルな言語脳を持った天才的な人物が、西欧には時々現れる。全く未知の言語の解読に魅入られ、それを母国語である英語で魅力的に表現する。いや彼自身が入念に選んだ言葉と研ぎ澄まされた感性で表現する。彼が日本や中国の古典に取り組んだのは、そうした言語へのパッションからであった。
それでも日本では、彼をジャパノロジストの一人とみなしているが、もしそうだとしても明治の御雇外国人教師、バジル・ホール・チェンバレンの書斎学派的なジャパノロジスト(「古事記」の翻訳、「日本事物誌」などの著作がある)、日本に永住したラフカディオ・ハーンのようなジャパノロジスト(「怪談」などの民話の英訳を多く出した)と比較すると、どちらの類型にも当てはまらない。チェンバレンが「神の愛と赦し」を得たキリスト教徒の目で、異教徒の国、日本を研究の客体として捉えたのに対し、ハーンは、むしろキリスト教に違和感を抱き日本人の基層に存する精霊信仰に共感し、ケルト精神と自己同体化したのとも異なる。そもそも日本に来たことがないウェイリーは、キリスト教徒vs異教徒という視点とも無縁であったし、まして日本精神と自己同体化することもなく、純粋に難解な言語解読とその体験から生まれる詩の世界を再創造することに大いなる魅力を感じ没頭した詩人であった。
彼の翻訳の考え方には独特のものがあったと言われる。すなわち、翻訳とは、単に他言語で書かれた文章をその通りに移し替えて訳するのではなく、一旦、その文章表現を解体:dismantleした上で、再構築:re-creationすることであると言っている。例えば、源氏物語に通底する「もののあはれ」というモチーフ。すなわち「あはれ」という言葉が幾度も出てくるが、ウェイリーは、これを「心が動かされる様子」と捉え、感動したり、悲しんだり、呆れたり、嬉しかったり、その場面場面に応じた異なる言葉に置き換えている。このようにウェイリー版を見てゆくと、次のような特色を持っている。第一は、今述べたように、「言葉の置き換え」である。帝:Epmperor, 光源氏:Shining Prince,更衣:Gentle Women of Wardlobe, 女御:Lady of Bedchanberなど西洋人にもわかりやすい言葉に置き換えている。しかし、これが現代日本人にも理解しやすいという効果を生み出している。第二は、敬語の省略。日本の古典文学における敬語の用法は複雑で、これがストーリーを読みづらくしている理由の一つである。第三に主語を明確にしたことである。そもそも日本語の文章は主語を書かないことが多いので、これも文脈の理解を難しくしている。英語国民にとっては主語/述語の文章構造は基本であり、主語が誰なのかを明確にすることは必須であったろう。したがって、彼の英訳は現代人にとって(日本人にとっても)源氏物語をより読みやすく親しみやすくしている。翻訳では「原作の思想は生き残るが言語は残らない」。解体されたオリジナル言語を、再構築された翻訳の中に読み取る作業を翻訳者と読者はしなくてはならない。それが彼の考える翻訳である。
彼の英訳『源氏物語』を読んだ正宗白鳥が、原文の源氏物語はぬらぬらした退屈な文章の羅列だが、彼の翻訳を読んで、ようやくその面白さがわかった。まるで朧月夜から太陽の下に引き出されたようであると評している。これは上述のようなウェーリーの翻訳方針の効果なのであろう。これに対して、ウェイリー英訳と同じ年の1933年に、初めての現代語訳『源氏物語』を刊行した与謝野晶子は、彼の英訳は英語作品としては評価するが、紫式部の言語の美を理解しない賞賛は意味がないと批判している。与謝野晶子は日本人として初めて源氏物語を現代日本語で甦らせたという自負もあったに違いない。と同時にウェイリーのThe Tale of Genjiはもはや彼自身の英文学作品なのだと認めた。
また、彼は東洋の古典を何でも翻訳するのではなく、独自の選定基準があったようだ。それは「翻訳に値する質を持っているか」ということもあるが、むしろ英語にしやすい作品を選んだ。曖昧な表現や、英語で解釈できない表現、理解困難な例えなどは避けた。枕草子翻訳が4分の1の抄訳である理由もそうした取捨選択の結果であったという。源氏物語も「鈴虫の帖」を省略している。その理由は述べていないが、こうした選定基準に合致しなかったのだろう。しかし、彼の英訳版源氏物語は、彼自身が持つ詩人の才能と感性に基づいた翻訳で、「千年前の日本の古典もまるで昨日書かれた英文学作品のようだ」と文芸書評に書かれている。この批評は的を得ているだろう。また20世紀イギリスを代表する女流作家でブルームズベリーグループのメンバーであったヴァージニア・ウルフも紫式部の「源氏物語」を驚きを持って絶賛し、ウェイリーの英訳を賛美している。彼の翻訳は詩的で華麗である。英文学作品として読んでも魅力的である。紫式部が和歌の名手で、物語の練った表現に多くの和歌を用い、直接的な描写を避けて華麗で幽けき表現にしているところに共鳴できたからかもしれない。一方の清少納言の作品は、「ためず」に思いついたままを書き綴った随筆である点が彼には魅力が薄かったのかもしれない。
晩年のウェイリーは東洋の古典研究から離れ、西欧の古典に回帰しようとした気配がある。1948年、ケンブリッジに留学してきたアメリカの新進気鋭の日本文学研究者、ドナルド・キーン:Donald Keeneによれば、まずケンブリッジで憧れのウェイリーに教えを乞うために手紙を書いたが返事がなかった。この頃のウェイリーは東洋研究者とみなされることにうんざりしていたのかもしれない。しかし、ある日突然、ケンブリッジのキーンの学寮をウェイリーが訪ねて来た。キーンは部屋でワグナーの「ニーベルンゲンの指輪」を聞いていたという。ウェイリーはのちに知人に「キーンという男は日本の古典を勉強したいと言っているくせにワグナーに魅了される変人だ」と評していたという。やがて30歳の年齢差と距離感が縮まって二人は友人となり、キーンの生涯に大きな影響を与えた。そもそもキーンが日本文学研究を志すきっかけとなったのは、学生時代、1940年にニューヨーク・タイムススクエアーの古本屋で手に入れたウェイリー訳の源氏物語のぞっき本(ジャンクボックスに放り込まれていた)であったという。厚いのに安かったからお得だと思って買ったと言っている。しかし、そこに描かれている物語の世界は、戦争や暴力ではなく、愛が中心であると。ちょうど第二次世界大戦が始まった年である。キーンは、富国強兵の成れの果てに世界を相手に戦争を起こした日本にも、こんな愛の世界が存在するということを確かに読み取った。ウェイリーはまたエドワード・サイデンステッカーにも影響を与え、1976年にはウェイリーに続く第二の源氏物語英訳を出した。ウェイリーは生涯一度も日本に来たことはなかったが、サイデンステッカーとキーンは、二人とも日本に永住あるいは帰化し、日本の土になった。
なお、ウェイリーの再訳版として、佐復秀樹訳(2008−2009年)、毬矢まりえ/森山恵訳(2017−2019年)がある。また、NHKラジオ「日曜カルチャー」で連続放送中の「源氏物語 英訳本を再和訳してわかったこと」で毬矢まりえ氏がこのウェイリー版について解説しており、非常に参考になる。先述の英訳に際しての、言葉の言い換え、敬語の省略、主語の明確化が、さらに日本語に再訳すると、難解な古文の物語を一層分かりやすくしてくれるし、新たな解釈がそこに現出している。これを訳者はこの古代日本語→現代英語→現代日本語という訳を「らせん訳」と呼称している。そこから新たな世界が見えてくる。これはまさにヘーゲル弁証法の「止揚」:Aufhebenではないか!
アーサー・ウェイリーとドナルド・キーン ケンブリッジ・キングスカレッジで |
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表紙 |
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1925年の第1巻から1935年の合冊本までクロノロジー |