福岡市立城南中学校HPより 1961年(昭和36年)開校時の写真 油山まで何にもないところにポツンと立っていたんだ。 |
初代校長 大部勝利先生 |
開校した時の大部先生(前列真ん中)と恩師集合写真 1年生担任:田嶋敏子先生(前から二列目右から二人目) 2年生担任:伊藤一雄先生(前列右から3人目) 3年生担任:高城保先生(最後列右端) 岩渕先生、吉安余羽根先生、中村先生、村田先生、用田先生、西田先生、教頭先生..... 懐かしい先生方 |
順番が変更になったようだ。 |
英知を養い、勤勉に学び、勤勉に働く、そして礼節を持って人に接する。この「英知、勤勉、礼節」は私が在学した中学校の校長先生がその開学の精神を表す校訓として掲げた言葉である。今も学校の正面玄関に掲げられている。そしてスローガンが「若人我ら今日に完全燃焼す」
私が通った中学校は1961年(昭和36年)に開校した。戦後べビーブーマー世代は50年代半ばに入ると一斉に就学時期に至り、60年代には児童数、生徒数が爆発的に増え、既設の小学校も中学校も定員オーバーで受け入れられず、新設校ラッシュとなった。そんな時代に福岡市立城南中学校は産声を上げた。急遽田んぼを埋め立てた敷地に、木造モルタル塗の校舎を二棟建て、取り急ぎ開校したような学校であった(開校時の写真)。校庭は赤土剥き出しで風が吹くと砂埃、雨が降るとぬかるみ。講堂も体育館もなく、1クラス50人の1学年10クラス、3学年1500人をとりあえず収容する教室だけは用意できた。小学校もそうだった。何もかもがとりあえずで始まり、小学校時代は教室も間に合わず、プレハブ校舎で2部授業という時期もあった。朝礼は校庭で行われた。夏は炎天下の校庭で倒れるものが続出したものだ。入学式、卒業式は教室の窓を取り外して校内放送を使って廊下でやった。ともすれば生徒の受け入れ体制を整え、ハコモノを作ることを優先し中身は後回しというのが、団塊世代の小中学校の実態であった。
そんな時にこの新設校の初代校長として赴任してきたのが大部勝利(おおぶかつとし)先生(上記写真)であった。恰幅がよく、口髭を生やした威風堂々とたる人物であったが、その目は優しく慈愛に満ちていた。「我が校は生徒増に伴いとりあえず作った学校じゃない。ちゃんと建学の理念と教育の方針持って子供達を受け入れ、未来に向けて生徒一人一人を育てる学校なのだ。そういう気概を持って校長になったのだ」と。その表明が玄関に掲げられた校訓「英知、勤勉、礼節」であった。当時公立小中学校でこうした教育理念を明確に掲げる学校は少なかった。特に新設校では皆無と言って良い。校長先生は、校長室にふんぞりかえっているのではなく、毎朝、登校時間には校門に立ち生徒を「おはよう」の挨拶で迎え、朝礼では元気にラジオ体操して、大きな声で生徒に向かって話し、校内では生徒一人一人に話しかけ、放課後も生徒たちと部活に参加し、父兄会では車座ミーティングをする。熱血校長であった。私も入学したての頃、廊下で大部先生と出会った時に「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。覚えておきなさい」と大きな手で頭を撫ぜてもらったのを覚えている。浅学非才な私がその意味を知ったのはずっと後のことだった。先生方も熱意に溢れた方が多かった。卒業時の担任の高城保先生は、特に印象深い先生であった。小柄だが精悍な風貌で、是々非々を通す厳しい先生であった。授業中ふざけていて怒られた。たまにはビンタも飛んだ(今じゃ暴力教師と糾弾されるが)。しかし、その心は常に人の迷惑になることをするな。人に迎合するな。自分から逃げるな、であった。御宅にお邪魔したこともあった。高校受験の時、試験会場まで来てくれて、黙って目を見開いて頷いていた姿が目に焼き付いている。特に卒業式の日、先生はクラスの教え子全員を教室に集めてこう言った。「君たち絶対死ぬなよ。絶対生きろよ!」これが先生の贈る言葉であった。みんな泣いた。先生が若い頃に満州で多くの仲間を失い自らも死線を超えてきたことを知っていたから。岩渕鉄男先生は化学の先生であった。私が修猷館在学中に病気休学し大学受験を一年待ったが、運悪くその年は大学紛争の影響で東京の志望校が入試中止となった。がっくりした。この時、岩渕先生はわざわざ我が家まで訪ねてくださり「余計なことかもしれんが、君は病気で休学してるんだから、こんなご時世に無理して東京に行かん方がいい。地元の大学じゃなぜダメなんだ」と、がっかりするなと言いに来てくださったのだ。卒業生のことをいつまでも気にかけてくださったあの時の先生のお地蔵さんのような風貌を今思い出しても涙が出る。他にも印象深い先生方が多かった。人望のある校長先生と志の高い先生方が一丸となって新設校の船出に尽力される様を生徒も見聞きし感じ取ることができたは幸せであった。日教組からは城南中学は目をつけられていたようだが、多くの教員、生徒、父兄からこの学校方針は支持されていた。そんな気骨ある先生があの頃はいた。今や創立63周年の伝統校となったこの母校のHPを見ると、あの木造校舎は建て替えられて立派な鉄筋校舎に変わっているが、この校訓が今でも誇らしく掲げられている。その伝統が今も脈々と受け継がれていることに胸が熱くなる。そして城南中学校は、全校生徒1000人の福岡市内でも屈指の規模の人気校だそうだ。発展する福岡市の市立中学校として輝き続けているのは卒業生として誇らしい。人気の小中学校の校区には人が集まり教育に熱心な地域コミュニティーが生まれる。今やお隣には県立城南高校、市立城南小学校が並んでいて、別に小中高一貫校「城南学園」じゃあないけれど一大教育センターとなっている。少子高齢化で都会でも学校が次々と廃校になる姿を、あの頃の我々は想像すらできなかった。しかし、そんな時代に開学の精神を掲げて今もなお発展する我が母校を誇らしく思う。そして大部勝利先生を想う。高城保先生を想う。岩渕鉄男先生を想う。感謝、感謝、感謝。「仰げば尊し我が師の恩」である。
「英知、勤勉、礼節」。この校訓の意味を良く理解せず、おバカな中学生であった我々はふざけて「ウンチ、検便、排泄」などと囃し立てて先生に叱られたものだが、今になってこの言葉を噛み締めてみる。思えば世の中いつの間にか、真面目に勉強し、真面目に働く人を揶揄したり、英知を軽んじてバカさ加減を売りにしたり、人に対する思いやり、共感、相手へのレスペクトを忘れ、自分さえ良ければ良いなどという人間ばかりになってしまったようだ。礼節なぞ言葉自体が死語になっている。日本人はどうなってしまったのだ。日本人は勤勉で良く働くし、良く勉強するので頭が良い。日本人は利己的でなく、他人への思いやりがある。仲間を大事にして全員で力を発揮できる。公徳心が高い。高度経済成長期にロンドンやニューヨークなど海外生活が長かった私にとって、そんな日本、日本人のイメージが刷り込まれていた。多分に海外の仲間からの評価により形成された、いわば外部の目の受け売りだし、日本への世辞も多分にあっただろう。それに気持ち良くなってしまっていた自分もある。しかし、確かに、かつてそんなこと言われた時代もあった。今はそんなふうに日本人を形容する友人も少なくなった。特に1990年以降生まれの海外の若者にとって日本のイメージはマンガやアニメのようなサブカルチャーを通じて形成されたもので、日本が経済大国で科学技術の進んだ国だとは思っていない。日本人を勤勉で頭が良いというイメージも持っていない。ましてアメリカが吹聴した「働きすぎ」「不公正貿易国」「エコノミック・アニマル」というプロパガンダは過去のものになっている。そんな前世紀のイメージから未だに抜け出せていないのはトランプと、新しい時代に乗り遅れた勉強不足の年寄りくらいのものだ。ニューヨークのタイムススクエアーに立ってみるが良い。つい20年ほど前は、怪しげなオニイさんが近づいてきて、「日本人デスカ?」「コンニチワ」「シャチョー」「トモダチ」「ホンダ、ソニー、ナイコン、」とまとわりついて来たものだ。今しつこく近づいてくるオニイさんは「ニーハオ」「シェーシェー」「ポンユー」「TikTok」と声かけてくる。客引きは金の匂いに敏感だ。今やアジア系といえば中国人。経済大国の金持ち日本人というイメージは消え失せた。人口が減少し、経済も縮小し。科学技術は停頓し。留学生も激減。あっという間に世界から忘れられた国になってしまいつつある日本。まるで13世紀のマルコ・ポーロの「黄金の国ジパング」は幻影であることがわかり、16世紀大航海時代になってからはマゼランも、ドレイクもキャベンディッシュも世界就航の途中寄って見ようともしなかった。ポルトガル船が種子島に漂着して「ここがあのジパングなのか!」と「発見」されるまでその存在すら忘れられていた。このスルー感、デジャヴだ。
昭和の人間はつい愚痴っぽくなる。学生の頃は「坂の上の雲」を見つめてひたすら坂を駆け上っていった明治人の心を思い胸を熱くしたものだ。戦後の昭和人もそんな坂の上の雲を目指してがむしゃらに坂を駆け上った。我々は明治の偉人が昭和戦後のロールモデルであった時代に育った。司馬遼太郎が人気作家であった。そんな面影を背負った明治老人が昭和の子供の頃にはまだいた。土佐のいごっそうで大大阪道修町で事業を起こし、西宮夙川に邸宅を構えた祖父母もそうであった。戦争に負けても、日露戦争以前の明治人の気迫が残っていた。明治生まれは頑固で時代遅れだなどと言われながらもオーラがあった。後世の人々は、昭和老人にそんなレスペクトの感情を抱くだろうか。気迫を感じるだろうか。あの戦後復興、高度経済成長、ジャパンアズナンバーワン、グローバル化の先頭を切って世界に雄飛したのだが、そのあとバブル崩壊後30年も思考停止したのちに坂の上から転がり落ちていった。その戦後昭和がいつまでも明治維新の英傑に憧れているうちに、21世紀、世界は不確実な時代に突入していった。先行モデルがない、英雄がいない時代になった。司馬遼太郎が言うように「まことに小さな国が黎明期を迎えていた」「もし坂の上に一朶の雲があるとすれば、それを目掛けて皆駆け上がって行くだろう」と。はつらつとした時代の空気を感動的に描いた。胸が震えた。しかし今はそんな時代ではない。「一等国への道」という達成すべき目標が明確で、そして欧米先進国というロールモデルがはっきりしていた「文明開花、殖産興業、富国強兵」ナラティブはもはや通じない。坂の上に明確な「雲:ゴール」は無い。その坂の上の「雲:クラウド」は自分で中身を創造しなければならない。「正解が必ずある問題を解ける優等生」では太刀打ちできない。しかし、その明治人の英知と、勤勉さと礼節は忘れられるべきではない。その資質と精神はどんなハードルを超える時にも必要である。それが忘れ去られた時に日本人は長い下り坂から這い上がることはできないであろう。昭和人にはそれがなかった、平成、令和は停頓の時代であった、などと後世に批評されることになるだろう。「英知、勤勉、礼節」。「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」。いつの間にか忘れてしまった初心。日暮れて道遠し。悔悟の念にとらわれる今日この頃だ。もはや次世代人に託すしかない。若き城南中学の在校生、卒業生諸君、先人の教えが生きるこの伝統校に学んだ幸運とチャンスを人生に活かして欲しい。開学の祖が遺した校訓を今一度読み直してみてほしい。昭和老人の悔悟で終わってほしくない。
追記:今年の10月からのNHK朝ドラ「おむすび」のヒロイン橋本環奈の出身校は城南中学だそうだ。