ページビューの合計

2017年5月30日火曜日

「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト


 江戸時代、長崎出島のオランダ商館に滞在した「出島の三学者」と言われたのが、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトだ。ケンペルは江戸時代元禄年間、第5代将軍綱吉の時代、ツュンベルクは第10代将軍家治、側用人田沼意次の時代、シーボルトは第11代将軍家斉時代(在位50年という長期政権)とそれぞれ滞在している。ケンペルからツュンベリーは85年、ツュンベリーからシーボルトは48年という時間の隔たりがある。。

 三人の共通点は、医者であり植物学者であり、博物学者であるという学者繋がり。オランダ商館に医者が必要であったことは理解できるが、植物学者が派遣されてきたことには事情がある。もちろん薬草として有用な植物の研究、植物薬品学が医学と切っても切れない学問領域であったことがあるのだが、世界中から珍しい植物を集めるplant hunterが活躍する時代に入っていたという背景もある。貴族や富豪の間で、世界中の珍品植物を集めるコレクターがいた。そうした需要、パトロンがあって、「未開の地」で出かける植物学者への期待も高かった。オランダ東インド会社付きの医者というポジションへの応募も多かったのだろうと推察される。

 もう一つの共通点は三人ともオランダ人ではないという点だ。ケンペルはドイツ人、ツュンベリーはスウェーデン人、シーボルトはドイツ人である。したがってオランダ語はネイティヴではなく、オランダ東インド会社就職に際して事前語学研修してから長崎にやってきた。むしろ長崎の和蘭陀通詞のほうがオランダ語が綺麗で訛りがなかったらしい。通詞に最初は彼らがオランダ人では無いのでは?と怪しんだが、オランダの山岳地方の方言だと言って押し通したらしい。干拓地ばかりで山などないのに、オランダ本国を知らない日本人は、それ以上詮索しなかった。このようにヨーロッパは国を越えて人が自由に往来していた。特に世界に進出していた海洋帝国オランダにとって、海外要員確保は大事な課題だっただろう。その一方で世界に出て行こうとする野心を持った人間にとってオランダは魅力的だっただろう。国策総合貿易商社の先駆けである、オランダ東インド会社は人気の就職先だったに違いない。ちなみに1600年、オランダ船リーフデ号で豊後に漂着して、その後家康の顧問になった「青い目のサムライ」三浦按針(William Adams)もオランダ人ではなくイギリス人だった。

 三人の中では、シーボルトがあまりにも歴史上有名で、日本に与えた影響の大きさとともに、当時のヨーロッパ、アメリカに日本学を広めた功績についても様々な研究や著作、小説やドラマで紹介されている。したがってここでは、屋上屋を重ねるような説明を控えておこう。

 しかしケンペルや、ましてツュンベリーについてはあまり知られていないので少々紹介しておきたい。

 ケンペルはヨーロッパにおける日本学のいわば開祖と言って良いだろう。彼の残した「廻国奇談」「日本誌」は、江戸時代の爛熟期である元禄時代、第5代将軍綱吉のころの日本を俯瞰、分析した貴重な資料だ。日本でも江戸期より彼の残した著作の研究は進められているが、「知る人ぞ知る」で、シーボルトほどの知名度はないかもしれない。その「日本誌」(The History of Japan) は彼の生前には出版されるに至らず、死後、その原稿を入手した英国王室付き医官サー・ハンス・スローンによって英語版、仏語版、蘭語版が出版された。その原本は現在大英博物館に収蔵されている。またドイツ語版がドームにより出版(Geschichte und Bescreibung von Japan)された。このうちフランス語版がのちにディドロの百科全書に全面引用されるなど、その後の日本研究の「定本」となり、やがて19世紀のジャポニズムにつながってゆく。ケンペルの133年後に長崎に赴任したシーボルトや、163年後に来航したペリー提督も、この「日本誌」を事前に研究しており、彼らの歴史上に残した功績にも大きな影響を与えている。

 ケンペルはこの中で、将軍綱吉時代の対外政策(すなわちのちに「鎖国」と称される政策)について、肯定的に評価している。この記述が1801年に江戸の蘭学者志筑忠雄に紹介された。志筑は、この政策を「鎖国」という言葉を使って表現し、それが後に一般的に使われるようになったと言われている。ケンペル自身は「鎖国」という言葉を使っていないし、幕府も自らの政策を「鎖国」と称したことは一度もないのだが、この言葉が一人歩きしてしまったというわけだ。

 ケンペルは出島滞在中、商館長の江戸参府に2回同行して長崎から江戸まで旅をしている。この時の記録を邦訳したのが「江戸参府旅行日記」だ。将軍綱吉の前で「オランダ踊り」をやらされている様が挿画として紹介されている。

 一方の、ツュンベリーは、むしろ日本学や、日欧交流の歴史的な観点からの評価よりも、植物学者としての名声が先立っている。来日前、母国スウェーデンのウプサラ大学で世界的な植物学者リンネに学んだ。そのようなリンネの弟子で、当時のヨーロッパにおける植物学の気鋭の学者が鎖国下の日本、長崎まで赴任してきたところに興味を惹かれる。植物学者にとってそれほど日本は行ってみたい魅力的な国であったのだろうか。出島滞在中、梅毒の特効薬を用いて日本人患者の治療に劇的な効果を上げて、畏敬の念を持たれている。のちのシーボルトもそうであったように、蘭学、とりわけ蘭方医学の日本に与えた影響は計り知れないものがある。

 彼も出島滞在中一度商館長に同行して「江戸参府」している。第10代将軍家治治世、田沼意次が幕府内で権勢を振るっていた時代である。田沼は重農主義から重商主義へと政策転換を図ることに力を注ぎ、蘭学も奨励した。オランダ商館一行の将軍謁見も盛大に行われた。その時の記録である「江戸参府随行記」で、彼の記述はあまり私見や偏見を含まず、科学者らしい客観性を持って日本を観察した様子が見て取れる。ただ、江戸参府の機会以外は、出島から出ることが禁じられていたため、日本国における植物採集、植物学研究という観点からは、これ以上はあまり成果が期待できないと考え、一年で帰国を願い出ている。

 帰国後、彼はウプサラ大学教授にもどり、「1770〜79年にわたる欧州、アフリカ、アジア旅行記」(スウェーデン語版1788〜1779年)を出版。このうちの3巻4巻に記された日本の部分が、邦訳された「江戸参府随行記」である。
そしてウプサラ大学学長に就任するなどアカデミアとしての生涯を全うした。


 以下、三人の肖像と略歴を掲載する。


ケンペル肖像
実は確かなものは残っていない。
これは後世想像で描かれたという
英語版Wikipediaより



ケンペル:Engelbert Kämpfer (1651-1716)

ドイツ人の医師、植物学者、博物学者
レムゴー出身
1690年オランダ東インド会社医師として長崎に
この間2度江戸参府
1692年バタヴィア経由で帰国
ライデン大学より医学博士
1712年、「廻国奇談」出版
1727年、彼の死後ハンス/スローンにより「日本誌」英語、仏語、蘭語出版
大英博物館に収蔵









ツュンベリー肖像
長崎歴史博物館蔵


ツュンベリー:Carl Peter Thunberg (1743~1823)

スウェーデン人の医者、植物学者
ウプサラ大学で植物学者の泰斗リンネに師事
1775年、オランダ東インド会社医師として長崎に
1776年、江戸参府
同年、バタヴィアへ帰参
1779年、帰国、ウプサラ大学教授
1781年、ウプサラ大学学長就任

なお、日本語では彼のスウェーデン名Thunbergを「ツンベリー」「ツュンベリー」「テュンベルク」「ツンベルク」などと表記することがある。







シーボルト肖像
川原慶賀筆





シーボルト:Phillipp Franz von Siebold (1796-1866)

ドイツ人の医師、博物学者、植物学者
貴族/医者の家系に生まれる
1823年、オランダ東インド会社の医師として長崎来訪。
来日後間もなく滝と結婚、イネをもうける
1824年、鳴滝塾創設
1828年、帰国に際し難破。その際に禁制の日本地図を持っていたことが発覚(シーボルト事件)
1830年、国外追放
1859年、開国後、オランダ貿易会社の顧問として再来日(息子アレキサンダーと共に)
幕府顧問に
1862年、帰国







 東洋文庫の「江戸参府」三部作。

 シーボルト著、斉藤信訳「江戸参府紀行」
 ケンペル著、斉藤信訳「江戸参府旅行日記」
 ツュンベリー著。高橋文訳「江戸参府随行記」

 古書店めぐりでついに三部揃い踏みでゲットすることができた。どれも、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトの世界周航旅行記や日本旅行記として後世、ヨーロッパ各国で出版されたものの中から、日本人研究者により江戸参府部分を抜き出して日本語訳したものである。シーボルト版はドイツ語版の翻訳で1967年斉藤信氏により初版が、ケンペル版はドイツ語版のいわゆるドーム本からの翻訳で1977年同じく斉藤信氏により初版が刊行された。さらにツュンベリー版についてはスウェーデン語ということもあり、1994年に、スウェーデン語に通じ、しかも薬史学の専門家である高橋文氏を得ることにより初版が刊行された。こちろん三人三様の日本に関する観察、分析、関心事、批判があるが、同じ長崎から江戸までの旅行記という横軸に、140年ほどの時間の経過を縦軸にとって比較しながら読むと面白い。

 ところでケンペルの「日本誌」の日本語訳は今井正編訳『日本誌 日本の歴史と紀行』(上下2巻)が1973年に霞ケ関出版より刊行され、その後、1989年に改訂増補版(上下2巻)、2001年に新版(7分冊)が刊行されている。ドイツ語のいわゆるドーム版を翻訳したものである。