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2010年7月31日土曜日

新益京(あらましのみやこ)藤原宮趾

 新益京といってもピントこないが、藤原京と言えば教科書で習っただろう。しかし日本書紀には「藤原京」という名前は出てこない。飛鳥浄御原宮から遷都した新たな都は「新益京」(あらましのみやこ)と記されている。藤原の名はその宮殿をさすとされる。女帝持統天皇は日本で初めての本格的な都城、藤原京(新益京)を造営、694年に遷都した。

 持統天皇の夫であった天武天皇は、壬申の乱の後、天皇親政を敷き、皇祖神天照大神を伊勢神宮に祭り、「公地公民制」を定め、割拠する豪族の上に立ち、King of Kings, Lord of lordsとして天皇を中心とした国家体制を構築。遣唐使を中止し、仏法と律令制に基づく「近代的な」大国「日本」を築くことに力を注いだ。「倭」から「日本」への大きな転換である。

 この時代は、その1200年後の日本の歴史のもう一つの転換点、明治維新の時代に似ている。国際情勢の緊迫、大国や列強の外圧への恐怖。内乱。天皇中心とした統一国家体制への変換。新たな国家を律する法体系の整備、首都移転。「富国強兵」「殖産興業」という「近代化」を計った点でも共通する。いや、明治維新時の尊王攘夷思想は、この時代の宮廷「革命」に範を求めたものかもしれない。事実その後の歴史の中で天皇は政治権力の表舞台から徐々にフェードアウトしてゆき、再びその表舞台に踊り出すこととなったのは明治維新の時である。それ故の「王政復古」であった。

 話は戻り、持統天皇はその夫の意思を継ぎ、新生日本を象徴する首都の造営に力を注いだ。それまでは狭い飛鳥の地であらたな天皇が即位するたびに点々と宮殿を移していたのを、いわばpermanent residentを設け、宮殿を中心に唐に習った壮大な都を形成することとした。これより平城京へ遷都する710年まで文武天皇、元明天皇の三代に渡り都を営む。ここに外国風の飛鳥文化とは異なり、日本としてのアイデンティティーを主張する白鳳文化が花開いたわけだ。後に菅原道真が説いた「和魂漢才」の原点がここにある。

 藤原京は、畝傍、耳成。香具山の大和三山を包摂する東西南北条坊制に則った広大な都城であった。大極殿、朝堂院などの宮殿は平城京とは異なり、都城の中央に配置されている。都には薬師寺(平城京に移転する前の)、大官大寺が建立された。都城を囲む城壁や堀はなかったようだが、南には朱雀門趾が発掘されている。270pxfujiwarakyo2

 諸外国からの使節はこの都の壮麗さに目を見張ったことであろう。しかし、先に述べたように、都はわずか16年で、奈良盆地の北、平城山の平城京へと再び遷都される。その理由は謎に包まれた部分が多いが、一説にはその地形の水はけの悪さがあげられている。宮殿の位置する地点は盆地の中央で、南西に比較的小高い山を抱える地形から、宮殿地域は常に水が流れ込む場所に位置する。当然汚水の滞留が起こり、疫病発生の原因となっていたと言われる。

 そんなお粗末な... ということは、そもそも都市計画が初手からずさんだった,という事なんだろうか。大国としての体裁を整えることを急ぎすぎたのか?ともあれ現在、大極殿あとの基壇が残されており、そこに立ち周囲をぐるりと見渡すと、ここは奈良盆地の中央。北に耳成山、東に香具山、西に畝傍山が展望出来る。大和国中ど真ん中で、都のロケーションとしては理想的なのだが、いかんせん水はけまでは考えなかったのか。

 今は、国指定の史跡となっており、発掘が続いている。広大な原っぱになっており、野球少年達が真っ黒になって元気にグラウンドよろしく走り回っている。その空き地の一部に地元の人々が、蓮田を設けて、いつも夏のこの季節は珍しい蓮の花の競演を楽しむことが出来る。また、黄色コスモスの群生もあり、古代を忍びつつ花々を楽しむ絶好の場所となっている。

 しかし、このクソ暑い猛暑のただ中、日差しを遮る場所もない野っパラで蓮にカメラ向けてる酔狂なヤツは我一人。車でやって来て「ここやここや」といって降りて、「あっついなあ」と汗ふきながらそそくさと蓮見てまた車に戻る人以外、訪れる人もない。蓮もコスモスも盛大に私一人の為に咲き誇ってくれている。「夏草や強者どもが夢のあと」だ。おおっと、カメラが熱くなってる。