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2013年3月18日月曜日

東海道の宿場町、伊勢の関宿




関宿は、江戸時代の東海道五十三次の宿場町で、品川宿から数えて四十七番目となる。東海道の宿場町は今では東海道メガロポリスの都市化の波に埋もれ、その当時の面影を残している所は極めて少なくなってしまった。例えば、私の住む東京の「名誉ある」東海道一番宿の品川宿などその典型だ。通りは北品川商店街などとして残っているが、かつて殷賑を極めた品川宿の面影を求めるのは難しくなってしまっている。しかし,ここ伊勢鈴鹿の関宿は信じられないほどの規模で昔の宿場町並が残っている。

関宿は,江戸時代には東海道の中でも重要な宿場町で、伊勢別街道、大和街道へと分岐する交通の要衝にあり、参勤交代や伊勢参りの旅人で賑わった。本陣、脇本陣ともに2カ所ずつあり,宿役人が大名行列を出迎えたり見送ったりする「御馳走場」も4カ所あった。また、玉屋、鶴屋,会津屋などの代表的な大旅籠も旅人には知られていたようで、どれも現存する。中でも玉屋は正面に千鳥破風を有した格式高い旅籠。また玉屋はも正面に美しいレリーフを有す貴重な旅籠建築だ。

古代には越前の「愛発(あらち)の関」、美濃の「不破(ふわ)の関」と並ぶ三関の一つ、伊勢の「鈴鹿の関」あったことから「関」の名がついたという。672年の壬申の乱の時には大海人皇子が鈴鹿の関、不破の関を固めて、大和に進撃したとされている。こうして、古代より、東国から畿内に至る幹線街道の要所としての重要性が認められてきたのではあるが、しかし、今は東京,大阪を結ぶ東海道線も、東海道新幹線,東名/名神高速道路もみな鈴鹿山脈の北を迂回、関ヶ原から米原を通るルートに変更されてしまい、関宿はひっそりと寂しい山間の忘れられた町になってしまった。

こうした古い町並が残っている地域によくある事ではあるが、ここ関宿もまた、皮肉にも現代的な発展から取り残される事によってタイムカプセルのように過去の町並みや景観、佇まいが保存される事となった。それにしてもここの宿場町としての保存度には驚かされる。この旧宿場町は、東西1.8キロ、面積25ヘクタールに、江戸時代から明治にかけての建物が400軒ほど残り、うち200軒が保存指定されるという。そのスケール感、濃密度に圧倒される。江戸時代の東海道宿場町がまるで、凍結保存されたかのような状態で現代に命をつないでいる。

さらに驚く事に、ここにある一軒一軒はそれぞれ今でも人々の生活の場としてとして生き続けているということ。決して観光化されたテーマパークとして保存されているのではなく、地域の拠点集落として、米屋、八百屋、自転車屋、電器屋などの生活必需品を扱う店がずらりと並ぶ。あるいは宿場町の伝統を色濃く残す家業(家内工業的な)を連綿として引き継ぐ町として今に生きる続けている。本陣、脇本陣、旅籠、遊郭(さすがに現在は廃業しているが)、鍛冶屋、桶屋、火縄屋、皇室献上和菓子屋等々。もちろんいくつかの歴史的な建物は資料館や休憩所として整備活用されているし、空家となった家もあるが、それも上手に再利用されている。ようは歴史の町が現代の町として生きている。江戸時代とちがうのは狭い街道筋を自動車やロードバイクがやたらに走り回っている事くらいだ。

東の追分では、伊勢別街道へ分岐する。ここには大きな鳥居がある。伊勢神宮を遥拝する鳥居だそうだ。今年の式年遷宮では建替えられるという。伊勢街道方角を向くと、ちょうど鳥居の真上に太陽が輝いていた。まさに太陽神アマテラスをここで拝むことが出来た。

一方の西の追分では、大和街道へ分岐する。ここには「南無妙法蓮華経、ひだりハいかやまとみち(左は伊賀、大和道)」と記された元禄年間に建てられたという道路標識がある。その先にかつての鈴鹿の関跡の一部が発掘されている。加太(かぶと)越えで大和街道、坂下宿から鈴鹿峠越えで東海道と進み、いよいよ奈良、京へと向う。

町は西から新所、北裏、中町、木崎の四つに分かれ、それぞれに特色ある町並みを形成している。建物は平入の商家が多いが、中には妻入りの建物もあり、様式も多様で見て回って飽きない。虫籠窓、漆喰彫刻、駒留め(馬をつなぐ)、出格子、幕板(庇の下に取り付けられた風雨避け)、庵看板(瓦屋根のついた看板。京側が漢字、江戸側がひらがなになっている)など、バラエティーに富んだの昔ながらの造作もよく残っている。

あまり観光化されていないのがよい。春めいてきた日曜日だと言うのに観光客の姿は少なく、この日も建築系の学生らしい一行が数人でで建物の検分しながらスケッチしたりして歩いていたが,それ以外はチラホラ団塊世代の夫婦が。倉敷や祇園、飛騨高山、馬籠宿、妻籠宿、のような観光地として整備された感はない。しかし、伝統的建造物群保存地区に指定されており、古い建物はよく修復整備されたものが多い。電柱も完全に地下化されており、通りの景観がすっきりしている。地場の百五銀行の関支店が町家建築で平成9年に新築されており、「もどき」とはいえなかなか良い。

町の丁度中心に寺院がある。関の地蔵院である。行基の開基による由緒ある古刹であるが、周りに塀が無く開放的な境内で、辺りが一種門前町の様相を呈している。そもそもこの地区は地蔵院の門前町として発展してきたらしく、後の宿場町としての発展につながっている。ちなみに、この寺以外の10寺院や関神社は街道の北側の一歩奥まったところに静かに並んでいる。これがまた宿場町の雰囲気を保つ効果を醸し出している。意図的な都市計画なのだろうか。


(追記)

今回は天王寺からJR大和路快速で加茂まで行き、そこで関西本線の亀山行きの各駅停車に乗り換え、亀山の一つ手前の関まで一時間、というのどかなローカル線の旅であった。関西本線は小学校2年生(?)の時に、東京から奈良の祖父母の家まで行く時に乗った記憶がある。当時は東京から関西本線経由の直通列車があったのだろうか。長い長い旅路であった。「急行なにわ」とか『急行関西」とかいった、そのまんまの名称の列車だったように記憶する。車内は混んでいて四人向かい合わせの座席にぎっしり大人が座っていて通路には人が立っていた。子供の私は確か母の膝に座らせられていたような気がする。暑いし、揺れるし、窓からは蒸気機関車の吐き出す煤煙が遠慮なく入ってくるし、カーブやトンネルの多い路線だった。東海道線の優等列車、特急「つばめ」や「はと」の颯爽としたイメージからは遥かにかけ離れた「快適さ」であった。エエしのボンボンだった私(?!)にとっては、ただ疲れた、という思い出しか無い。

ウン十年ぶりの関西本線は、天王寺から加茂までは電化されており直通の大和路快速が一時間に四本走っていて快適だ。しかし天王寺からの名古屋やそれ以遠の直行の優等列車はもはや存在しない。加茂から先はいまだに単線無電化路線。亀山までは一時間に1本のディーゼル二両編成のワンマンカー運転。「ICOCAは使えません」と何度もアナウンスしている。しかし、車窓からの風景は、青い空、迫り来る山肌、谷を渡る鉄橋、短いトンネルの連続...と、古典的な鉄道旅風景を楽しむことが出来る。途中、月ヶ瀬梅園を通るので、この時期は少々花見の乗客が多い。伊賀上野を通る。沿線随一の大きな町だ。柘植は草津線乗換駅。なんと草津線は電化区間で、関西本線のディーゼルカーより立派な電車が走っているじゃないか。

やっと関に着いた。ICOCAで乗った私は,運転手から下車証明をもらう。運転手が証明書に手書きで記入し「これを天王寺の駅に戻ったらICOCAと一緒に窓口に示して下さい」。「帰りは関で切符買って乗って下さい」と丁寧な説明。その間、ディーゼルエンジンのアイドリング音を響かしたまま,列車の乗客は私が降りるのをジッと待っている。私以外降りる人はほとんど居ない。「お手数かけてスミマセン」と言うと、運転手は「こちらこそICOCAが使えなくてスミマセン」と。ノスタルジック関西本線。ウン十年前とあんまり変わってない気がする。ここでは時間はユックリとしか進まない。それが心の安らぎになっている今の自分がいる。あの頃の自分もいる。いいじゃないか。新幹線で突っ走るよりもローカル線でゆっくり行こう!




(関宿伝統的建造物群保存地域全体図:亀山市HPから引用。以下の各図も同様)




(新所地区古図)




(中町地区古図)




(木崎地区古図)




(中町の「眺関亭」からの西方向の眺め。地蔵院の甍と,はるかに鈴鹿の山々が展望出来る。関宿の町並みを代表するショットの一つだ。)


(スライドショーはこちらから。枚数がたくさんありますが、素敵な町並みをご堪能下さい)







































































































(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm, AF Nikkor 80-400mm)




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