秋月は、今は福岡県朝倉市秋月になっているが、かつては朝倉地方一帯を治める城下町であった。地元の観光パンフレットにも「筑前の小京都 秋月」と記されている。しかし私はこの「小京都」という形容に出会うたびに違和感を感じる。地方に古い町並みが残っているとなんでも「小京都」という。島根県の津和野などもそうだ。「山陰の小京都 津和野」という具合だ。多分、ある時期の観光キャンペーンの時に誰かが言い出したキャッチフレーズなのであろう、歴史的には何の根拠もない形容だ。秋月は京都のコピーでもなければ、小さな京都でもない。れっきとした黒田家秋月藩5万石の城下町だ。「小京都」とか「なんとか銀座」とか、中央の成功モデルをそのまま地方に展開コピーするその手法と思考は、そもそも分国化されていた時代のそれぞれの国の「国府」であった町を形容するにふさわしく無いのは明白だと思う。秋月は、その美しい名前と、城下町としての景観、古処山と美しい田園風景、自然環境とがうまく調和した独特の魅力を持った町だ。
1)秋月氏の時代
秋月は、古くは箱崎八幡宮の荘園秋月荘であったが、鎌倉時代に入ると豪族秋月氏が山城を構えた。秋月氏は鎌倉時代以来の武家一族で、秋月の町の背後にそびえる古処山城を拠点に朝倉地方を支配していた。戦国乱世の世、秋月氏は豊後の大友氏の支配下にあったが、やがて大友氏に反旗を翻し、島津氏と組んで筑前、筑後、豊前11郡36万石の戦国大名に成長する。しかし、大友方の立花道雪や高橋紹運に阻まれてついに対外交易の拠点博多には進出できなかった。戦国時代の九州は豊後の大友氏。肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏の三つ巴の争いの渦中にあった。日向の支配権を巡って島津氏と大友氏が激突、耳川の戦いで大友氏が破れる。こうして島津氏は薩摩、大隅、日向三国の支配を確立。さらに九州全域の支配に向けて大きく前進する事となったが、その島津氏の北上を阻止したのは大友宗麟の救援要請を受け出陣した豊臣秀吉の軍師黒田官兵衛であった。黒田官兵衛は島津を南九州に追いやり、戦乱で荒廃した博多の町を復興した。こうして秀吉の九州平定は終わった。このとき島津側についていた秋月氏は豊臣軍に降伏する。やがて秀吉によって秋月氏は日向高鍋3万石に移封される。
ところで、戦国時代の九州における覇権争いの歴史は意外なほど後世に語られていない。これも司馬遼太郎史観のなせる技だろうか。司馬が取り上げたストーリーだけが日本の歴史であるかのように。どうしても近畿/中国/東海/信越/関東を中心とした天下統一物語りがメインになるのは仕方ないとしても、平家の財力の根拠地であった博多や九州の荘園領地の跡目争いと、源平合戦以降、鎌倉から派遣されて来た西遷ご家人達の末裔である西国武士団と地元の国人武士団の動きが、なぜ天下統一物語りのもう一本の伏線にならないのか。中国の覇者毛利氏の背後には、豊後の大友氏や、薩摩の島津氏、肥前の龍造寺氏といった有力大名がいて、天下の形勢に影響を与えていた。しかし大陸との交易上も重要な国であるはずの筑前は、太宰府以来の少弐氏や、肥前の龍造寺氏、さらには長門の大内氏、豊後の大友氏など、博多を巡る権益争いは熾烈であったが、一国を支配する大名はなかなか現れない。名島城に入城した小早川隆景が初めての筑前国主となるが、本格的な筑前一国統治は関ヶ原後、黒田氏の入国を待たねばならない。いずれも「天下人」となった豊臣秀吉や徳川家康の九州支配のプロセスの結果なのだ。やはり島津氏の薩摩や龍造寺氏の肥前(後には鍋島氏に引き継がれるが)、そして毛利氏の長州が「天下」に影響を及ぼすのは明治維新を待たねばならなかったようだ。
2)黒田氏の時代
関ヶ原の戦いの後に、東軍勝利に功績のあった黒田長政は52万石の大大名となり、筑前に入国した。長政(孝高すなわち官兵衛すなわち如水の長男)はまず小早川隆景が築いた名島城に入城。手狭であったことからすぐに福崎に新たな居城を築き、一族の出身地である備前福岡の名を取って福岡城とした。このとき長政は叔父の黒田直之を筑前のもう一つの重要な拠点である秋月に配した。直之は孝高と並ぶ敬虔なクリスチャンであり、教会を建て、宣教師を集め、秋月は信者2000人を数える九州の布教拠点となった。しかし直之は秋月に遷りわずか10年で世を去った。
その後、長政は死に臨んで、3男の長興に秋月藩5万石を分知するように遺言する。長男で二代福岡藩主忠之は、遺言通り長興を秋月5万石の藩主とした。これが黒田秋月藩の始まりだ。その後,福岡本藩藩主忠之による、秋月藩の「家臣化」、すなわち大名として認めずとする措置や、幕府の一国一城令で,黒田筑前領内のの東蓮寺藩などの支藩が廃止されたりしたが、秋月藩は幕府から大名としての朱印状を貰い、藩主は甲斐守の官位を朝廷から授けられた。こうして秋月黒田家は江戸出府が認められる大名として明治維新まで存続する。
秋月藩は初代の長興(ながおき)や中興の祖と言われる8代長舒(ながのぶ)など、領民に慕われる名君を生んでいる。もともと秋月藩領内には豊かな田園地帯も殷賑な商業地もなく、藩はのっけから財政難に見舞われていた。長興はそれでも狭い山間部の新田開発を取り組み、山林事業を起こし、領民の年貢を低く抑え、まさに治山治水、質素倹約、質実剛健を旨とした藩政に取り組んだ。島原の乱では、財政が苦しい小藩ながらも藩主家臣一丸となって乱鎮圧に当たり、武功を上げた。またその恩賞を公平に分け、以来、藩主としての長興のリーダーシップ、君主としての名声を確立したと言われている。
一方、この時期、福岡本藩の藩主をついだ長男忠之は、その不行跡や暴君ぶりが、遂には御家騒動に発展する事態を招いた。孝高以来の忠臣栗山大膳は、幾度も君主に諫言したが取り入れられず、ついに窮余の一策として幕府に「我が君主に謀反の疑念有り」と訴え出る。いわゆる「黒田騒動」である。幕府は結局、筑前一国を一旦黒田家から召し上げ、ついで再度黒田家に知行するという苦肉の策で事態を乗り切る。栗山大膳は奥州盛岡藩お預けとなり、そこで生涯を閉じる。栗山大膳は盛岡藩では罪人として扱われるのではなく、忠義の人として厚く遇されたという。こういう事もあって、人はよく忠之と長興を比較する。長政は長男忠之ではなく、有能で人望も厚い3男長興に福岡本藩を継がせたかったのだ、と言われている。
秋月藩中興の祖と言われる8代藩主長舒は、米沢藩上杉鷹山の甥に当たる。この偉大なる叔父を尊敬し、その志を藩政に生かし領民に善政を施した。学問を重視し、7代藩主長堅の時に創設された藩校稽古館に福岡本藩から亀井南冥などの高名な学者を招聘し、その弟子、林古処を訓導として多くの弟子を育てた。やがて稽古館は、文人墨客の集まるいわば「秋月文化サロン」の中心となり、米沢の興譲館に勝るとも劣らない繁栄を謳歌する。
秋月藩は福岡本藩同様、幕府から長崎勤番を仰せ付けられており、長舒の時代には長崎の警備の任に当たった。小藩としては厳しい役務であったことであろう。しかし、したたかに長崎で多くの西欧文化を吸収し、秋月に医学や土木技術を導入した。現在野鳥川に架かる眼鏡橋は、長崎から石橋の建築技法を取り入れ築造したのもである。野鳥川が氾濫するたびに橋が流されて困っていた領民の悲願達成で大いに感謝されたと言う。
ちなみに長舒は日向高鍋藩の秋月種実の次男であった。秋月家と言えば、あの戦国武将にして秋月朝倉の領主であった秋月氏の子孫である。秀吉の九州平定で降伏し、祖先伝来の地秋月から遠く日向高鍋3万石に改易された無念の歴史を持つ家である。時代をへてその子孫が、養子とはいえ秋月黒田家8代藩主として父祖の地のに返り咲いた訳だから感慨無量であった事だろう。
3)秋月の乱
時代は下り、明治になっても秋月は歴史の表舞台から退場していない。明治新政府の廃藩置県、廃刀令、俸禄廃止が強行される。すなわち武士が士族としての身分は残すものの、サムライとしてのアイデンティティー、生活存立基盤を失うことになるのだ。新政府内の征韓論の路線対立もあって、下野した薩摩の西郷や肥前の江藤、長州の前原らの参議有力者を中心に西南諸藩の士族の間にしだいに新政府への反感が募り、不平士族の反乱に発展して行くことになる。江藤新平らの佐賀の乱を皮切りに、ここ秋月でも、熊本の神風連の乱に呼応して宮崎車之助等が蜂起する。秋月の乱である。豊前豊津の同志が決起に呼応するはずであったが裏切りに会い、新政府の小倉鎮台軍に制圧され失敗する。ちなみにこのときの鎮台司令官は若き日の乃木希典。その後、前原一誠の萩の乱などの不平士族の反乱が遼遠の火のごとく広がってゆくが、その最大にして最後の乱が西南戦争である事はいうまでもないであろう。秋月には決起士族が結集した田中神社がある。しかし、今はそんな血気にはやった人々がいた事が信じられない穏やかさだ。
4)エピローグ、そしてプロローグ
廃藩置県、秋月の乱でラストサムライ達が去った秋月は、静かな田園集落へと変貌してゆく。そして、歴史の表舞台から静かにフェードアウトして行く。今ここ秋月の地に立つと、往時の黒田家居館跡や稽古館跡、杉ノ馬場(いまは桜の名所となって桜馬場と呼ばれている)、眼鏡橋やわずかに残された武家屋敷に往時の面影を見ることが出来る。しかし驚く事に、今も残る城下町としての縄張りは初代藩主黒田長興が行った縄張り以来ほとんど変わっていない。士族が城下を去ったため、武家屋敷の多くが田畠になったが、今日まで大きな災害もなく、都市化の波にも洗われず、昔の城下町の構造をそのまま残している。奇跡のようだ。かつては文化の中心として古処山麓に栄えた秋月文化サロンも、今は自然との調和が美しい静かな田園集落となっている。秋月城趾に位置する秋月中学の生徒達の元気な「こんにちわ」の挨拶が心地よい。秋月人の礼節とその矜持と心は時代が変わっても残っているのを感じる。さてこれからの秋月はどんな歴史を歩むのだろう。
秋月への行き方:
福岡から車なら高速で甘木インター経由であっという間に到着出来る。しかし、秋月を訪ねるなら,もう少し「遥けき所へ来たもんだ」感を味わうべきだろう。やはり「ローカル線と路線バスの旅」が一番だ。
西鉄福岡天神駅からは天神大牟田線急行で小郡下車(約25分)。レイルバス甘木鉄道(旧国鉄甘木線。通称あまてつ)乗り換えで甘木駅下車(約20分)。ないしは天神大牟田線宮の陣乗り換えで西鉄甘木線経由甘木というルートもある。甘鉄駅前のバス停から甘木観光バス(路線バス)で野鳥、だんごあんへ(約25分)。
JR博多駅からなら、鹿児島本線快速で基山下車(30分)。ここが甘木鉄道の始発駅。甘木までは25分。あまてつは一時間に2本、バスは一時間に1本しかないので、乗り換え時間がた〜ぷりある。ゆったり、のんびり、せかせかせず、辺りの田園風景を眺めながら旅すべし。ちなみに甘木/朝倉地方は邪馬台国九州説の比定地である(甘木駅前に卑弥呼の碑、日本発祥の地の石碑有り)。また、バーナード・リーチ絶賛の小石原焼の窯元も近くだ。
(左が黒田家の居館、秋月城。壕を隔てて右は杉ノ馬場、今は桜が植えられて桜の馬場と呼ばれている。春は九州でも有数の桜の名所となる)
(黒門。元は秋月城の大手門であったが、後に初代藩主長興を祀る垂裕神社への門となっている。秋の紅葉が美しい)
(古処山の麓に広がる田園風景。コスモスが秋の訪れを告げる)
(実りの秋。桜の馬場沿いの田圃に彼岸花が咲く)
(眼鏡橋。野鳥川に架かる石橋)
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(撮影機材:Leica M Type 240+Summilux 50mm f.1.4, Elmarit 28mm f.2.8 歴史ブラパチ散歩に最適のセット)
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