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2016年7月19日火曜日

静嘉堂文庫美術館探訪 〜東洋の至宝と英国調建築の調和〜

静嘉堂文庫
英国調の洋館に日本や東洋の貴重な古書籍が収められている


 人気のエリア東急二子玉川駅から、商店街を抜けて20分ほど歩いた閑静な住宅街に静嘉堂(せいかどう)文庫と付属の美術館がある。世田谷区岡本。この辺りは雑木林が未だあちこちに残っており、坂と水路が交錯する武蔵野の面影を色濃く残す街である。明治以降は政財界で活躍した人物の別邸が多くあったところだ。

 静嘉堂文庫も小高い丘陵の上にあり、鬱蒼とした緑の塊が遠くにいても目に入ってくる。入り口から続く上り坂をゆるゆると歩む。この道は木立に覆われ、今日のような梅雨の晴れ間の蒸し暑い日でも緑陰の涼しい風がそよいでいて気持ち良い。とやがて目の前に英国風の堂々たる近代建築が現れる。これが静嘉堂文庫だ。その左手には付属の美術館が。これらは岩崎彌太郎の長男で三菱財閥の二代目総帥岩崎弥之助(静嘉堂)の墓所のある敷地に建てられている。岩崎弥之助、小弥太親子が収集した古典籍、東洋美術品のコレクションが収蔵されている。


(以下、静嘉堂文庫美術館のHPから引用)

 父子二代によるコレクション

 静嘉堂は、岩﨑彌之助(1851~1908 彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(1879~1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財84点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を収蔵しています。静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の大雅、既酔編の「籩豆静嘉」(へんとうせいか)の句から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うとの意味です。

明治期の西欧文化偏重の世相の中で、軽視されがちであった東洋固有の文化財を愛惜し、その散亡を怖れた岩﨑彌之助により明治20年(1887)頃から本格的に収集が開始され、さらに小彌太によって拡充されました。彌之助の収集が絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣など広い分野にわたるのに対して、小彌太は、特に中国陶磁を系統的に集めている点が特色となっています。

 文庫創設から美術館開館まで

 図書を中心とする文庫は、彌之助の恩師であり、明治を代表する歴史学者、重野安繹(成齋 1827-1910)、次いで諸橋轍次(1883-1982)を文庫長に迎え、はじめは駿河台の岩崎家邸内、後に高輪邸(現在の開東閣)の別館に設けられ、継続して書籍の収集が行なわれました。
大正13年(1924)、小彌太は父の17回忌に当たり、J・コンドル設計の納骨堂の側に現在の文庫を建て図書を収蔵しました。そして、昭和15年(1940)、それらの貴重な図書を広く公開して研究者の利用に供し、わが国文化の向上に寄与するために、図書・建物・土地等の一切と基金とを寄付して財団法人静嘉堂を設立しました。
美術品は、昭和20年(1945)、小彌太逝去の後、その遺志によって、国宝・重要文化財を中心とする優品が孝子夫人から財団に寄贈され、昭和50年(1975)、孝子夫人の逝去に際し、同家に残されていた収蔵品の全てと鑑賞室等の施設が、岩﨑忠雄氏より寄贈されました。
1977年(昭和52年)より静嘉堂文庫展示館で美術品の一般公開を行ってきましたが、静嘉堂創設百周年に際して新館が建設され、1992年(平成4年)4月、静嘉堂文庫美術館が開館しました。世界に3点しか現存していない中国・南宋時代の国宝「曜変天目(稲葉天目)」をはじめとする所蔵品を、年間4~5回の展覧会でテーマ別に公開しています。(曜変天目は常設展示ではありません。展示期間については美術館までお問い合わせください)


 以前訪問した駒込の「東洋文庫」も岩崎家創設の私設図書館である。こちらは岩崎弥之助の弟で、三菱財閥三代目の総帥である岩崎久彌のコレクションである。なかでもモリソン書庫の圧倒的な古書空間が印象的だ。(東西文明の邂逅 〜知のラビリンス「東洋文庫」探訪〜


 上述のように静嘉堂文庫美術館には多くの国宝・重要文化財が収蔵されているが、なかでも有名なのは、中国南宋時代の「曜変天目茶碗」。現在、完全な形で残っているものは世界に三個しかない。しかもその全てが日本にあるという貴重な逸品だ。一つはここ静嘉堂文庫美術館のもの。もう一つは大阪の藤田美術館所蔵のもの。そしてもう一つは京都の大徳寺龍光院所蔵のものだ。なぜ窯元があった中国に一個も残っていないのか(破片は見つかっているが)謎である。静嘉堂文庫美術館所蔵の曜変天目は元は徳川家の所蔵で三代将軍家光が春日局に贈ったもの。その後春日局の子孫である淀藩稲葉家に伝わったため「稲葉天目」とも呼ばれている。不思議な魔力を秘めた椀だ。見ての通り一椀のなかに宇宙が見える。

国宝「曜変天目茶碗」
静嘉堂文庫美術館のHPより引用

 この洋館はジョサイア・コンドルの弟子である桜井小太郎の設計。1924年(大正13年)に竣工。スクラッチタイル、鉄筋コンクリート造りの英国風の建物だ。英国の田舎を散策すると、よくこのようなマナーハウスやコテッジに出会うことがある。そうした雰囲気がこの武蔵野の林によく似合う。明治期のセレブには英国風の建物を好む傾向があったようだ。駒場の旧前田侯爵邸もそうだ。駒込の旧古河邸も。今回は撮影できなかったが、岩崎弥太郎の墓所はジョサイア・コンドルの設計だ。コンドルは岩崎家の洋風建物を多く手がけている。岩崎家高輪邸(現在三菱開東閣)、岩崎家茅町本邸(現在旧岩崎邸庭園)、岩崎家深川邸(現在清澄庭園。建物は現存せず。)などがそうである。また三菱一号館もそうだ。こうした洋館が日本や東洋の文化財を収集、保存する器として建設されたことに時代を感じる。明治以降の日本における西洋文明と東洋文明の調和を象徴するものだろう。

 中国/日本の古籍や東洋美術の海外流出を憂え保存しようという動きは、明治初期の西欧文化優先の風潮への反省から起こったものだ。岩崎家は代々こうした文化財の収集と保存、海外流出を食い止める活動を進めてきた。確かに大英博物館やメトロポリタン美術館、ボストン美術館を訪れるたびにそこに収蔵されている日本の古典や美術品の山を目の当たりにして、なぜこのようなところにこれほどの逸品が集まっているのか不思議、かつ、日本にないことを残念に思っていた。こうした古美術品や文化財級の逸品は、えてしてその時代に富を蓄積した国に集まるものだ。19世紀のこの時代は欧米列強諸国というわけだ。すなわちそれらの国の支配層、貴族や富裕層の財力で集められたものだ。残念ながら近代化を進めるに必死であった当時の日本では、一時期日本や東洋の古い文化を「遅れた文化」と捉え、こうした日本や東洋に固有の文化財を「文化財」と認識しない風潮があった。廃仏毀釈の嵐が貴重な仏像や寺院を破壊してしまった。さらに、版籍奉還、藩主の身分の剥奪により封建領主としての生活基盤を失った大名、そしてその大名に金を貸していた富裕大商家は債権の焦付きで倒産する。藩主や上級武士や富豪が生活のために大量に放出したお宝は、安値で西欧の富裕層の手に渡った。かつて江戸文化のパトロンであった家系は没落していった。一方で、なんとか日本にこうした文化的な遺産を残そうという動きが出てきた。岩崎家のような明治維新以降の新興財閥がこうした運動の中心になった。時代はめぐるわけだ。

 しかし一旦海外に流出したお宝は、日本が経済大国になっても、なかなか戻ってこない。その価値が認識されず、海外の博物館の収蔵庫の奥深くや個人の屋敷の片隅に今も眠り続ける文化財も数多あることだろう。バブル時代の日本の成金たちは、金になりそうなゴッホの絵やヨーロッパの城などを投機の対象として買って喜んでいたが、江戸末期から明治期に流出した貴重な文化財の買い戻しには金を使わなかった。もちろん、その価値に早くから気付いていた欧米のコレクターたちがそうやすやすとは手放さなかったし。文化の破壊や無関心は取り返しのつかない結果を将来に残すことを痛切に感じる。そしてもはや日本では、岩崎家のような芸術や文化のパトロンになる事業家は数少なくなってしまったようだ。










文庫正面




 静嘉堂文庫のある地域は現在、岡本静嘉堂緑地として整備され、岡本民家園が隣接する。江戸時代の豪農の屋敷で、よく保存されており市民に公開されている。静嘉堂文庫の英国調建物とはある意味対照的な純日本風の茅葺の建物だが、不思議なコラボレーションを感じる。この辺りは明治時代には東京市の郊外で、武蔵野の丘陵や林が残る田園地帯だった。このころから政財界の大物がこの豊かな田園地帯という環境を求めて別邸を建て始めた。現在その建物はほとんど残っていないが、今この辺りは東京の閑静な住宅街として人気のエリアになっている。