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2016年10月2日日曜日

「洋梨のタルト」はお好き? 〜本当は怖いスイーツのお話〜

洋梨のタルト


芙蓉




 私の好きなスイーツは「洋梨のタルト」。なめらかな食感の洋梨とクリスプなクラスターをつなぐカスタードクリームの絶妙なコラボレーション。近所の小洒落たカフェのオーナー/パティシエはフランスで修行した。ここのタルトは逸品だ。そのお気に入りのカフェにウォーキングの後に立ち寄り、一杯のコーヒーとともに注文する。これが週末の幸せルーチンなのだ。家内はモンブランが好き。ウエイターがモンブランと洋梨のタルトを運んでくる。「洋梨のタルトはどちらで?」と、家内が「あっ、洋梨はこちら」と私の方を指す。「洋梨はこちら」「ようなしはこちら」「用無しはこちら」... と私の頭の中で家内の声がコダマする。

 「洋梨のタルト」「ようなしのタルト」「用無しのタルト」... 口に出してみると、なんと嫌味な食べ物ではないか!とある時から気づき始めた。私の情けない心情にチクリと突き刺さる言葉の棘。なんでこんなものが好きになってしまったのか。いやいや、今までは全く気にもならず、反応もしなかったのに... 時計が65年と1秒を指した途端に「洋梨」が「用無し」と聞こえるようになった。

 定年を迎えてから少し被害妄想気味になっている。今まで好きだった食べ物までも私をバカにしている。注文するたびにいちいち気になる。そう家内に打ち明けたら、「それは考えすぎでしょ。それならあなたの好きな花、芙蓉だってそうよ」「ふよう」「不要:Fuyou!」と屈託無く笑う。「やっぱりそうか。被害者意識が異常に現れているんだ」と、つられて自分も笑ってしまった。まだまだいけるのに世の中の雇用システムは何の感傷もためらいも無くリタイアーを宣告する。どんなに会社に貢献した人間であろうと、優秀であろうと、エリートであろうと、役立たずであろうと。指示待ち族であろうと、5時から男であろうと、一律に「用無し」「不要」となる。Younashi, Fuyouとは自分に向けられた言葉だと意識し始める。こうなると完全に被害妄想だ。

 最近「終わった人」という小説が大ヒットしている。内館牧子が書いた定年を迎えた男の建前と本音を「赤裸々」に描いた「問題作」。「俺がモデルじゃないのか?」という読者の反応が殺到しているそうだ。それだけみんな同じ状況に身につまされているわけだ。団塊世代の、笑ってしまうが笑えない。悲しいが笑うしかない。決してありえないロマンじゃ無くて「ごく普通」の世界が描かれているからこそだ。

 読書人の雑誌「本」2016年10月号より:内館牧子:定年後のエリートの悲哀を描いた「終わった人」が大ヒットした理由

 社会に役立ちたい。リタイアーするには気力も体力も知力もまだ有り余っている。それに仕事を通じた人脈も経験も人一倍だ。まだまだ行ける。九度山に流された真田昌幸状態なのだ。それが60代なのだ。なのにこのパワーをこれからどこで使えというのだ。かつてのアメリカ人の仲間たちは、リタイアーするとさっさとニューヨークの自宅やコンドミニアムを売り払って田舎に引っ込んでしまう。60を待たず、早ければ早いほど人生の勝ち組なのだ。そう、Happy Retirement!は誰もが夢見るゴールなのだ。そしてその有り余るパワーはこの時のために涵養してきたものなのだ。その後の第二の人生の設計図というものが既に描かれている。しかし、日本人はどうしてこうリタイアメントに抵抗感を抱くのだろう。経済的な問題だけではないようだ。働き蜂だからでもない。アメリカ人のように、働くということは自分の時間を金で売ること、という労働契約的な理解は薄い。よい学校を出て、よい会社に勤める。できれば東京の本社で出世する。そして東京23区に家を持つ。これがまるで人生の目的の全てであるかのように考えさせられてきたのが我々の世代だ。従ってそれが終わるということは人生が終わるということと同義なのだ。それはある意味、成長過程にあった後発資本主義国に特有のことだったのかもしれない。歴史的に俯瞰すれば、我々が生きた高度経済成長時代とかバブル期というのはその資本主義経済の発展段階における後発性の現れの時代だったのだ。今の中国を見るまでもない。成熟した社会においては安定成長しかない。個人は右肩上がりの経済成長、すなわち生活水準の向上を期待することはできない。そうなるとむしろ成長ではなく充実を求める。金ではなく心のゆとりだ。都会の生活よりも田舎の生活だ。しかしそういう時代に高度経済成長期を生きた我々はなかなか適合できないのだ。価値観を変換できないし、今更人生設計を変更もできない。

 家族や周りの人々は言う。「だから言っただろう、打ち込める趣味を持っておけと。地域の活動にもっと参加しろと...」しかし、社会に役立ちたいということは、そば打ちしたり、ゴルフ三昧したり、地域の老人クラブでゲートボールしたりすることじゃない。趣味は本業が忙しいから息抜きの趣味になるのだ。今まで行きもしなかった図書館で1日過ごすなんてまっぴらだ。健康のためにと称して平日からジムに通うシニア世代と一緒にして欲しくない。そもそも健康維持はそれそのもが目的ではないはずだ。猛烈に働き、出世し、家族を食わせるためにやるものだ。仕事もなくただ元気でいるなんて考えられない、くらいに考えていた。有り余る時間をもっと何か社会にとって「有益なこと」に役立てたい。だがその「有益なこととは何か?」実はあまり具体的なイメージがない。また「自分の時間」と言われた途端に戸惑う。振り返ってみるとこれまでは、常に誰かが私の時間を占有し、私の時間を決めてきた。エラクなってからはますますだ。スケジュールは秘書が管理している。組織が私のやるべきことを決める。自分で自分の時間など決めることもできなかったのだから。

 一方これも先輩たちがよく言うアドバイス。「いっそ新しい恋でもしたら。元気がでるぞ」と。小説の中でも、なんと女房や娘まで言いだす始末。絶対アリ得ナイと思うからの発言だ。確かに地位もなく金もなく、時間だけがたっぷりあるリタイアー男を好きになる酔狂な女が世の中に一体いるとでもいうのか?金をいっぱい持ってるジジイにすり寄る女はいるが、別にジジイに惚れてるわけでは無い。大好きなのは金だ。「金の切れ目は縁の切れ目」。会社でも恋愛でも共通する大人の社会の鉄則を忘れてはいけない。妄想を抱いてはいけない。

 この時期に突然多くなる同窓会やOB会。行ってみると様々な60代男女の本音と建前が交錯する。まずは「名刺交換」。現役時代には当たり前の社会儀礼が、リタイアー族には別の意味を持つようになる。これが今自分が置かれているステイタスを表明する瞬間となる。「顧問」とか「社外取締役」とか「コンサルタント」とか、関連団体役員とかいう肩書きの名刺を出せる人はまだ社会に求められている証拠ということになる。そうでなければ「とうとう毎日が日曜日だよ」とか「ようやく悠々自適の日々がやってきました」とか、「晴耕雨読の毎日(耕す畑も読む本も無いにもかかわらず)」とか言って暇人人生を自虐的、ないしは孤高の姿勢で形容する。しかし、内館牧子氏も言うように、ここで感じるのは、終わってしまった人は、実は皆横一線で着地するということだ。エリートでもイケメンでも美人でも。そう一律に「用無し」となる。俺は役員までやったんだぞ。おれは定年延長で会社から頼まれて顧問をやってるんだぞ。おれは外部から頼まれて社外取締役やってるんだぞ。それがなんだというんだ。自分が社会にまだまだ求められる人間なんだということをエンドースするための肩書きを並べてみたいというだけ。実際にはさしたる役目も無く、「名誉職」などと言われて組織にしがみついている諦めの悪い自分が居るだけだ。終わってみれば、そんなことは世の中にとって、いや人生にとって誤差範囲内の出来事にすぎないことに気づく。あなたが居なくても会社は回っている。あなたが辞めても世の中は何の変化も起きない。そうでなくても結局は人生は帳尻が合うようにできている。おれはエリートだ、私は美人よ、という人ほど、その着地の衝撃が大きい。ソフトランディングできずに煩悩世界を彷徨う。

 「終わった人」は、いつまでも「終わった前世」にしがみつくのではなく、ましてサラリーマン人生の延長では無く、この機会を全く新しい人生の始まりにしたほうがいい。短い人生で自分が経験して来なかった別の世界、見過ごしたり捨ててきた価値を改めて拾い集めて再評価し、追いかけてみるのはどうだ。これまでの人生は紆余曲折を経ながらも道の真ん中をひたすら前だけ見ながら歩いてきたのだろう。路傍に佇む野の花の美しさに気づくこともなく。道のはるか向こうに聳える甘南備山の気高さに気づくこともなく。世間の評判を気にして本当はやりたくてやっているわけでもない出世競争など忘れて、俗世の垢にまみれる前の純粋な若者の時代に憧れた世界を、やりたくてもやれなかった生き方をいまから追いかけてみたらどうだろう。だいたい会社人生を過ごしてきたサラリーマンは、これまで資本主義的合理性と、所属組織独特の(世間には通用しない)ロジックという非合理性の狭間で人生を過ごしてきた。その世界から離れてみるとそうしたロジックとは無縁の世界に憧れている自分を発見する。だが、うんざりしてたくせに終わってみると美しい時代であったという幻想にとらわれて「思い出にしがみつく」。こうしてせっかくの新しい未来を掴み損ねる。これからの未来はこれまでのようにそう長くはないのだから尚更だ。定年後やりたいことがわからないというサラリーマン諸君。これまでの経験だとかノウハウだとか人脈だとか、思い切って棚卸しして、新たなスタートを切ってはどうだ! ふと目線を上げて世の中を俯瞰してみると、残念ながらどうせ大したことやってこなかったのだから... 所詮お釈迦様の手の平で暴れていた孫悟空なのだから。だからいつまでも現世でうろうろして成仏できない亡者になるのではなく、さっさと成仏して極楽往生いたしましょう。これからは自分の時間は自分で決める。でないと第二の人生も人に決められた人生になってしまう。


 そうだ私も定年小説を書こう。タイトルはもちろん「洋梨のタルト」で決まり。「終わった人」が大好物「洋梨のタルト」を愛でながら「思い出にしがみつく」。まるでバーナード・ショーの皮肉のようじゃないか。それだけで小説のモチーフになる。成熟した大人にはsense of humorの味付けが必要だ。まさにTell your story!だ!

 しかし、まてよ。やっぱり書けない。モデルはこの私なのだ。赤裸々な本音を書くのは勇気がいる。まだ現世のしがらみから脱却できず百八つの煩悩に苛まれるている凡人には結構高いハードルだぞ。まだ成仏できてい無い。そういえば「洋梨」「用無し」も単なるオヤジギャグじゃないか。なにがsense of humorだ。そもそもまだ修行が足らんということだ。出直し出直し!