四天王寺 飛鳥時代574年に聖徳太子によりこの台地上に創建された |
四天王寺の北。上町筋の延長線上に難波宮/大阪城(石山本願寺跡)が見える いずれも台地の頂上部に建てられたことがわかる。 |
大阪城(石山本願寺跡) ここが上町台地の北端であった |
東方向、大和と河内を分ける二上山。 手前が河内(かつては湖/海だった)、山向こうが大和国(奈良盆地)。 |
西方向、大阪市街地を隔てて大阪湾、さらには明石海峡大橋、淡路島が遠く見える |
谷町筋の果てにはキタ、梅田のビル街が展望できる。 |
四天王寺西門前 仏教寺院に鳥居という神仏習合の原初の姿だ |
四天王寺境内 |
その四天王寺西門を出ると、大きな坂が急勾配で西へと下る。 ここが上町台地の頂上であることがわかる場所だ。 「大坂」という地名の由来の場所と言われている (天王寺区逢坂。四天王寺夕陽ヶ丘界隈) |
弥生時代後期〜古墳時代頃の大阪。 上町台地は海に突き出た半島(山塊と砂嘴で出来た)であった。 台地西側の現在の大阪市中心部はまだ海の中。東側の現在の河内平野は、淀川と大和川の流入による土砂によって海から切り離されて、河内湖に。後にはやがては土砂の堆積が進み干潟、平地へと変化してゆく。 |
江戸時代中期18世紀の大坂古地図 右側(東側)が上町台地部分(「御城」と「四天王寺」) 左側(西側)東横堀と西横堀に挟まれた船場。その西が西船場。さらに西が天保山。 大川の北は天満。南が長堀と道頓堀に挟まれた島之内 |
あべのハルカス。JR天王寺駅前、近鉄阿部野橋駅上という立地。横浜ランドマークタワーを抜いて日本一の高層ビルとなったことと、周辺に遮る建物もないため大阪の街が360度展望できることで、新しい大阪の観光スポットとして大人気だ。とうとうあの通天閣が足元に見える仕儀となった。大型施設、新し物好きの大阪人が喜びそうな建物だ。しかしその構造は高さ300mにするためにビルの屋上に展望用に鉄骨を三段組み上げ「屋上屋を重ねた」ような作りだ。実際エレベータを降り60階の展望フロアーに降り立つとなんかユラユラ揺れているような気もする。外から見るとまだ工事中のように見える。どこか風格と威厳を感じるビルに見えないのはそのせいか?
それはそれとして、私「時空トラベラー」にとっては、古代からの歴史の舞台「上町台地」全景を俯瞰できる場所が出来たということが画期的なのだ。今までは空から飛行機で見るしかなかったのだが、1500円(65歳以上はシニア割引で1000円!)払えば誰でも登って数々の歴史の現場を俯瞰できるようになった。もっとも、現在の上町台地は市街地の建物群に覆われてしまい、どこがそれなのか、にわかには判然としない状態になっている。しかし見る人が見ればいたるところに「台地」「半島」という地形とかつての海との高低差を、そしてそこで繰り広がられた人間のドラマの痕跡を確認することができる。茫漠たる市街地ビル群の風景の中にその地形的痕跡と歴史の証を見つける楽しみは何にも代えがたい。歴史は時々「マクロ的に俯瞰する」ことが大事だ。そうすることで一つの事象/事件が長い時間の中でどのような意味を持つのか見えてくることがある。また時代が異なっても共通の理(ことわり)が潜んでいることも理解する。ここ上町台地のように古代から歴史の舞台となった土地をこうして高いところから睥睨し俯瞰していると、時間を巻き戻しながら、脳内で眼前のビル群を引っ剥がして過去にタイムスリップする3D映像が妄想される。まるで時間の流れを俯瞰しているような感覚にとらわれるから不思議だ。
実際、揺れのない高速エレベータを降り展望フロアーに立って目に飛び込んでくる大阪の大パノラマは感動ものだ。周辺にこのビルに匹敵する高さの建造物がないのでぐるりと見える。上町台地だけでなく、東は二上山から生駒山。西は大阪湾から遠く明石海峡大橋、淡路島まで見える。南に目を転ずると、足元の阪堺電車の先に住吉大社、堺をへて、紀伊半島の山々が眼に飛び込んでくる。飛鳥時代574年に創建された四天王寺から、7世紀大化の改新後の孝徳天皇の難波宮、16世紀後半戦国時代の一向宗石山本願寺、そして太閤さんの大坂城。大坂の陣で徳川方、大坂方(真田信繁)共に砦を築いた茶臼山古墳も真下に見える。日本の歴史の表舞台に登場したゆかりの場所がここ上町台地に集中している。各時代の権力者は高台を好む。文化は高台に生まれる。
それもそのはずである。ここは弥生後期から古墳時代は海に突き出した半島(山塊と砂嘴で出来た)であった。現在の大阪のキタ/ミナミをつなぐ繁華街はまだ海の中。半島の西側の海岸べりに古代難波の津があった。また東側の現在の東大阪あたりの河内平野は、縄文時代には瀬戸内海とつながった海であった。それが弥生時代後期頃から淀川や大和川から流入する土砂が堆積しで海から遮断され、汽水湖(河内湖)になった。記紀にも神武天皇の東征軍は瀬戸内海から河内の海へ奥深く入り、生駒山麓の草香江の津から上陸して大和に攻め込もうとしたとある。河内は海/湖だったのだ。16世紀末、太閤さんが上町台地の北端に(もと一向宗の石山本願寺があった場所に)大坂城を築いた。やがて上町台地西側に船場、島之内、西船場という掘割に囲まれた東西南北の町割(太閤割)を開いた。こうして巨大な商業都市が生まれ、人/物/金が集まる難波/大阪は「天下の台所」として、さらには明治以降は「日本一の経済都市大大阪」として繁栄することになる。しかし、それは16世紀以降というのちの時代の話。それまではこの台地の上に全ての歴史の現場が集中していた。
上町台地は西側の勾配が急である。四天王寺から難波宮、大坂城に続く上町筋が馬の背であるとすると、谷町筋から西は急速に勾配が落ち、松屋町筋へと下る。四天王寺西門から、今宮戎方面に向かう大通りは下り坂になっている。ここは「大坂」の地名の由来となった場所だと言われている。現在の町名も「逢坂」である。四天王寺創建当時は、この西門は西方浄土信仰の聖地であり、ここから西海に沈む夕日を拝むことができたという。さらに平野町/夕陽ヶ丘の寺町地区へ行くとかなりの崖になっているのがわかる。この辺りは太閤さんが街造りをするときに、摂津平野郷から多くの住人を遷して住まわせ、寺社を集めた。今でも崖の上と下に連綿と寺町街が形成されている。ここらには「天王寺七坂」がある。夕日が綺麗ななにわの名所として江戸時代から人気の場所であった。地名の「夕陽ヶ丘」も、ありがちな昭和的なネーミングトレンドから後世につけられた地名ではなく、古来より西方浄土に向かう夕陽を拝む土地という意味で、夕陽が美しく拝める崖っぷちであることから名付けられていたもの。この辺りの坂はどの坂も急勾配で、立ち並ぶ寺院の合間を下って行くと上町台地が海面に対して大きな高低差を持っていたことがわかる。実際大坂城あたりで標高は36メートルほど、天王寺あたりで16メートルほどだそうだ。
上町台地が高台であるということを語るエピソードにはこういうのもある。父の世代の人の話を聞くと、昭和20年の大空襲で大阪の街が焼け野原になった時、上本町から大阪湾が見渡せたそうだ。坂の上から見渡す大阪の市街地は焼けて無くなってしまい遮るものもなかったというのだ。今では台地の断崖に位置する「天王寺七坂」に立っても、高層ビルが林立していて、大阪湾はもとより市街地の眺望も利かず、ここが高台であることを感じさせない。この空襲では、大阪城周辺の砲兵工廠などは徹底的に破壊された(その跡地がOBPオフィス街や大阪城ホールになっている)。惜しいことに四天王寺も金堂や五重塔など多くの堂宇が空襲で焼けてしまった(現在の建物は戦後鉄筋コンクリートで再建されたもの)が、上町台地は空襲を免れた地域が多かった。天王寺真法院町や北山町、上本町、高津、清水谷、真田山あたりは今でもお屋敷街の佇まいが残っている。谷崎潤一郎の「細雪」の船場の御寮人さん、いとはんの世界だ。船場の資産家のお屋敷はこの辺りであった。そうしたことから緑地が少ないといわれる大阪の街の中でも、このあたりは緑濃い山手の雰囲気を今も残している。勿論、多くの寺院が軒を連ねる地区も貴重な緑地帯と成っている。こうしてあべのハルカスの展望台から俯瞰するとき、そうした緑のあるスポットを探して行くと、上町台地という地形の記憶と、1400年の歴史の痕跡を見つけ出すことができるだろう。