アメリカ大統領、セオドール(テッド)・ルーズベルトと言えば、我々日本人にとっては日露戦争の終結に向けて和平調停を行いポーツマス条約締結を仲介した馴染みの深い大統領だろう。その功績が認められ1906年にはアメリカ人で初めてノーベル平和賞を受賞した。アメリカの歴史に名を残す大統領の一人だとされている。現代のアメリカ大統領ドナルド・トランプの国際関係の歴史や経緯に関する見識も乏しい「和平調停」策と対比して大きな違いがあるように見える。トランプ氏にとって「戦争を終わらせる」ということは、アメリカが(あるいは自分が)経済的な利権(鉱物資源、不動産開発など)と名誉(ノーベル平和賞という)を獲得することであると考えている節がある。理想主義、人道主義をかなぐり捨ててこうした物欲、名誉欲で動く様はアメリカも落魄れたものだと考えがちだ。しかしそうだろうか。ルーズベルトとトランプの間にはそんなに大きな違いがあるのだろうか。実は、今回紹介する本書を読むと、今のアメリカの姿はこのテッド・ルーズベルトの時代とあまり変わっていないことがわかる。いやあの時代に戻りつつあると言った方が良いかもしれない。アメリカが「理想主義的な外交」に転じたのは、20世紀に二つの世界大戦に勝利して、さらに米ソ冷戦にも勝利して以降のことである。民族自決、自由主義経済、民主主義、法の支配という普遍的価値を広め守ることが国益にもかない、かつその自由と民主主義の守護者としての「理想主義外交」こそがアメリカのレーゾンデートルであり、パクスアメリカーナの源泉だと考えるようになった。しかしやがてそういう時代が終わりを迎える気配を見せると再びあの時代に戻ってゆくようだ。すなわち自国優先の「エゴイズム外交」の時代である。トランプの姿は100年前のルーズベルトのそれである。Make America Great Againであり、America Firstなのだ。そう言うとテッド・ルーズベルトを敬愛し、親近感を抱く大方の日本人、そしてアメリカ人は驚くかもしれないが、この日露戦争とその戦後処理の有り様に現代のアメリカを重ねて見るとさまざまのことが見えてくる。本書はそれを気づかせてくれた。
今回紹介する" Roosevelt and the Russo-Japanese War":『ルーズベルトと日露戦争』は、その日露戦争終結とその後のアメリカ大統領セオドール・ルーズベルトの対外政策、とりわけ日本、朝鮮、中国政策を分析評価した重要な書籍である。そして戦後処理とその後のアジア情勢、アメリカの立ち位置を示している。1925年の刊行なので第一次世界大戦は経ているが、世界恐慌、第二次世界大戦に入る以前のアメリカ外交政策に関する分析である事に注意する必要がある。いわゆる「ルーズベルト・ペーパー」や国務省の外交資料、議会図書館や数多くの研究者の論文などを網羅的に調査しまとめた大作だ。著者はTyler Dennett(1883-1949)という外交史家で国際関係論の研究者、ジョンズホプキンズ大学やプリンストン大学で教鞭をとった。日露戦争、東アジア政策に関する著作がある。本書は1925年の初版で、著者がジョンズホプキンズ大学から博士号を得た論文が元になっている。研究者らしい徹底して文献資料に基づいて評価分析を試みているので、ジャーナリスティックな「読み物」ではないが、正確で公平な検証姿勢には敬意を表したい。1934年には、著作『ジョン・ヘイ:詩から政治へ』でピューリッツアー伝記・自伝賞を取っている。
この著作のサマリー:日本はアメリカの同盟国であったのか?
(1)「三国干渉」から日露戦争へ
ルーズベルトの外交政策は、ヨーロッパへの関与も重要だが、アジア太平洋方面でのアメリカの権益を拡大確保することがより重要であると言う考えが基礎にあったようだ。19世紀末から20世紀初頭のアメリカは、まだ二つの世界大戦も起きておらず冷戦もなく、ヨーロッパ覇権国の紛争への関与にも関心もなく、外交方針がまだアメリカ中心主義であった頃だ。帝国主義的な海外進出ではヨーロッパ諸国に対して出遅れていた。海外進出といえばまずアメリカ周辺、そしてアジアが念頭にあった。彼はアジア重視ではあったがその世界観は、アジア太平洋地域の出来事、とりわけ日本、朝鮮、中国の不安定な情勢はヨーロッパにおける覇権争いの反映であるとの認識に立つものである。すなわちイギリスとロシア、ドイツ、フランスの帝国主義的な覇権争いである。彼らはヨーロッパにおいて相互に手を結んだり、敵対したり、その争いが、朝鮮半島や満州に表出していると。そういった観点からヨーロッパ情勢にも注意を払っていた。特に日清戦争後の1895年の下関条約による遼東半島の日本への割譲に反対し清国に返還させた、いわゆるロシア、フランス、ドイツの「三国干渉」が象徴的である。その結果ロシアが、日本が返還した遼東半島、旅順(Port Arthur)を手中に収めるなど、日本側から見ると日本の勝利による「獲得領土」をロシアが横取りした「臥薪嘗胆」事件であるが、ヨーロッパ側から見るとイギリスと露仏協商それにドイツの中国権益に関する争いであった。ロシアと対抗するイギリスはこれに参加せず、また日本寄りだったアメリカも局外中立の立場をとった。その後イギリスは日本と1902年に日英同盟(Anglo-Japanses Allience)を締結し、ロシアとの対決姿勢を明確にした。しかしアメリカはまだ明確な立場表明をしなかった。この「三国干渉」とロシアの横取りが10年後には日露戦争につがなっていった。ルーズベルトのロシアの南下政策への懸念という東アジア情勢認識はここから始まっていた。
(2)ターゲットはアジア太平洋
ルーズベルトは、アジアにおけるアメリカの立ち位置をどのように考えていたのか?どのような戦略でアジアを見つめていたのか。イギリスがインドを植民地化し、中国でアヘン戦争(1842年)やアロー号事件(1855年)で、領土割譲や開港の強制、租借地権益を拡大していった、いわば帝国主義的、植民地主義政策とは異なり、後発のアメリカは、1854年のペリーの日本開国(開港)に先鞭を切ったように、むしろアジアにおける自由貿易を主張していた。しかし、アメリカはその後、内戦(南北戦争1861~1865年)で海外戦略から一時撤退せざるを得なくなり、せっかく日本開国の先鞭をつけ、安政五カ国条約をリードしたにもかかわらず、その後の日本の近代化革命(明治維新)と自由貿易体制への組み込みはイギリスが主導することになる。アメリカは内戦が収まると海外展開を再開する。この頃いわゆる国内の「西部開拓」が一段落し、大統領となった共和党のマッキンレーは海外進出を促進した。しかしアメリカの伝統的な反帝国主義に反するとして民主党などの抵抗に合う。それでも1898年の米西戦争に勝利し、スペインのキューバの主権放棄、プエルトリコ、フィリピン、グアムの割譲でカリブ海、太平洋地域で領土の拡大を果した。セオドール・ルーズベルトはこの時軍人として参戦し、のちにカーネル・ルーズベルトと呼ばれた。さらに1898年にはハワイ王国を併合した。
(3)朝鮮における権益
マッキンレーが暗殺され、1901年に副大統領であったルーズベルトが大統領になると、さらに東アジアへの進出を目指し、まず朝鮮半島や満州に着目した。しかし、その戦略は領土的な領有や植民地化ではなく、地元の事業への出資、資本参加の形での経済的利権獲得を目指した。この頃ロシアはヨーロッパ、アジア両方で南下政策を取り、領土拡大、不凍港獲得の野心を隠さず、アメリカにとって危険な敵対勢力であった。一方でイギリスのインド、中国における植民地主義的政策もアメリカにとっては受け入れられないものであった。そこで新興国の日本を(非キリスト教国であるにもかかわらずと注釈付きである)東アジア進出のパートナーとして選んだ。まずはルーズベルトは朝鮮半島における鉄道事業(京釜鉄道)への資本参加をめざしていた。しかし朝鮮半島情勢は懸念材料の一つであった。朝鮮国王の統治権威と権力が崩壊し、なお中国(清朝)への朝貢関係を続けるという朝鮮王国の不安定さには強い危機感を持っていた。特に清朝の弱体化の隙を狙ったロシアの朝鮮への領土的野心に警戒した。この懸念は朝鮮の隣国で開国まもない新興国日本こそ、より切実な危機感として共有していた。ここに日米両国の懸念と利害が一致した、こうした事態からアメリカもイギリスものちに日韓合邦、そして1910年の日本の韓国併合を容認した。ロシアの脅威は日本、アメリカ、イギリスの共通の課題であった。しかしルーズベルトにとっては結果的に朝鮮半島への進出はうまくゆかなかった。日本に独占される形となったからだ。
(4)満州における権益
朝鮮問題に加えて、満州におけるアメリカ資本の権益拡大がより大きな戦略的課題であった。ルーズベルトはこうしたアメリカの東アジア戦略の一環として日露戦争の動向を注視し、その停戦を好機と考え、講和調停に乗り出した。この戦争で国力をほぼ使い果たした日本は、ロシアに勝利したものの国家存亡の瀬戸際にあったため、停戦と戦後処理をアメリカの和平仲介に期待した。ルーズベルトのアジア戦略を横目で見ながら、アメリカを日本側に引き寄せる工作を行なったのは金子堅太郎である。金子は同じハーバード大学ロースクール同窓生の縁を活用しルーズベルトへの接近工作を行なった。日本側の対露戦略、停戦後の満州戦略を説明し、日本への協力を交渉した。合わせて新渡戸稲造の著作『Bushido』を贈り感動させたり、柔術指南の先生を紹介したり、文化面でもルーズベルトを日本ファンにした。昨今流行りの「個人的信頼関係」というやつである。こうした外交交渉も功を奏し、ルーズベルトは親日的で、対ロシア、対イギリスという観点からも日本に肩入れしていた。しかし日露戦争の推移を見守る中で、やがては日本のアジアにおける軍事的、経済的な伸長がアメリカの権益に影響を与えるのではないかという危機感を持つに至る。特にアメリカがようやく手に入れたハワイやフィリピンに日本が食指を伸ばすのではないか。また中国大陸においても日本がアメリカの利益を損なう恐れがあるのではと危惧し始めた。これは日露戦争における日本側の勝利という「思いがけない」結果に対して、列強諸国が一様に抱いた驚愕反応の一つであった。対露戦略で共闘する目的で日英同盟を結んだイギリスでさえこのような危惧を持つ論調が生まれた。いわゆるドイツ皇帝ウィルヘルム2世の「黄禍論」に象徴される反応である。ルーズベルトも講和会議でロシア側にも配慮した和平案を提示し、日本側を一方的な戦勝国としない策を講じた。日本に賠償金を放棄させたことも、この資金で日本が軍事力を強化することを阻止する意図があった。
(5)満鉄共同経営計画とその破綻
一方でルーズベルトは日本がロシアから獲得した南満州鉄道には強い関心を示した。満州におけるアメリカ進出の橋頭堡とするとともに、アメリカ西海岸からの日本経由の太平洋航路に、旅順で南満州鉄道を接続させ、さらにロシア国内のシベリア鉄道を経由した米亜欧ルートの確立を企図した。1905年のポーツマス講和条約締結と共に、ルーズベルトは友人の鉄道事業家、エドワード・ヘンリー・ハリマンを特使として日本に送り、首相桂太郎と交渉させて、南満州鉄道の資本の半分をアメリカに譲渡する約束を取り付けた。日露戦争の戦費を賄う戦時国債の引き受けなど、アメリカが日本に大きな支援を行ったことの見返りディールである。しかしこの話は、講和条約交渉から帰国した小村寿太郎外相が「条約内容に反する」との猛烈な反対したことで議論になる(ちなみに本書の著者は「これは根拠のない反論だ」としている)。また日本の民衆の講和条件に対する不満(賠償金がとれない)が爆発した「日比谷焼き討ち事件」などの暴動で日本国内の世情が騒然とし、東京に交渉で来ていたハリマン一行も危うく暴動に巻き込まれる事態にまで発展した。桂太郎もこんな情勢の中でアメリカに鉄道利権の半分を譲るなどとは言えなかったであろう。結局ハリマンとの約定は反故にされた。こうして(ルーズベルトが和平を仲介したにもかかわらず)アメリカ資本が満州から排除され、日本とのパートナシップによる進出計画は破れてしまう。ルーズベルトの思惑が外れた形だ。ここからアメリカの日本に対する不信感や危機感が増幅され、のちの日米開戦の伏線となったと考えられている。テッド・ルーズベルトの従弟フランクリン・ルーズベルト大統領の時代へと繋がってゆく。本書は将来の「日米開戦」の可能性を予見してはいないが、アメリカの対日外交戦略はこののちも「ペリー来航」以来の伝統的日米友好関係を旗印にしていたものの、日本がいつまでもアメリカにとって友好国であり続けるのかという懸念が沸き起こり始めた様子が描かれている。
歴史は繰り返す:「エゴイズム外交」の時代は何をもたらすのか?
このようにテッド・ルーズベルトの日露和平仲介は、戦争を終わらせたと言う点ではノーベル平和賞に値する業績であろうが、自国のアジア利権拡大の目論見につながっていることも明らかである。権謀術数渦巻く外交交渉で、「善意の人」が現れて世界を平和に導いてくれるなどと脳天気な物語を信じるほどおめでたくはないつもりだが、アメリカ憲政史上でも評価の高いとされるテッド・ルーズベルトでさえ「理想主義」による外交を主導したわけではない。また単純に日本贔屓であったわけでもない。国益を優先に考えた冷徹な計算の人であった。むしろ自国への利益誘導型の「エゴイズム外交」であったというべきであろう。当時はそれが別段異様なことでもなかった。帝国主義の時代であった。アメリカが「理想主義外交」に舵を切るのは、冒頭に述べたように二つの世界大戦をアメリカの介入で勝利し、さらに戦後の冷戦に勝利した後のことである。そして自国優先の「エゴイズム外交」が、成功はしなかったことは、このポーツマス講和条約後の日本との関係の破綻への道を見てもわかるだろう。この講和会議の35年後には真珠湾攻撃が起きている。日露戦争後に世界大戦が二つも立て続けに起きているのだ。トランプは前代未聞の不可解な大統領なのではなく時間を巻き戻してあの「エゴイズム外交」の時代に戻ろうというだけなのだ。しかしそれが何を意味しているか、その後の歴史を繰り返さないよう学ぶ事が肝心であろう。ルーズベルトの外交政策から学ぶべきはそこだろう。少なくともノーベル平和賞ではない。
トランプに国家のリーダーとして国際関係の歴史的経緯やそれがもたらした後の世界の絵姿に想いを馳せるだけの歴史認識や未来への洞察力があるのかどうかは定かではない。ルーズベルトがアメリカ大統領としての一つのリーダーシップモデルを打ち立てた歴史に残る人物とみなされていることを、現職大統領としてどのように評価しているのか。これも不明である。しかし、日露戦争の和平交渉でノーベル平和賞を受賞した点だけははっきりと記憶に刻まれているようだ。ことあるごとに紛争解決、戦争終結で「ノーベル平和賞が欲しい!」とあからさまに要求する。その根拠、先例がここにある。「歴史に学ぶ」と言うことはそういうことではないだろう。ウクライナ、パレスチナ、そしてこれから起こるかもしれない台湾。どこも平和と安定の道筋は全く見えていないどころか、ますます混迷を極めている。自国優先の「エゴイズム外交」の復活は、紛争や戦争を終結させるどころか、拡大させる危険性があることは歴史は教えているのではないか。将来に禍根を残さない「和平交渉」であって欲しい。奇しくもその和平交渉を任されている大統領特使は、政治家や外交官ではなくトランプの不動産業界での友人ウィトコフである。鉄道業界のハリマンと同様、戦争の惨禍や市民の悲惨な苦しみには関心のない経済的利権を優先する特使である。和平後のリゾート開発、資源権益確保、半導体技術確保。そんな事が目的でトランプは望むようなノーベル平和賞がもらえるのだろうか。ルーズベルトはアメリカの国益拡大を企図したが、自己の利益と名誉欲のために和平交渉をリードしたのではない。少なくとも彼はノーベル平和賞を欲しいなどとは言わなかった。それは要求するものではなく、結果に対して与えられるものだということを知っていた。
日本は、まだ弱い立場であった「三国干渉」の時代を「臥薪嘗胆」乗り越えて、英米の後押しを得て、軍事力だけでなく外交力でもロシアに辛くも勝利した。失った遼東半島を実力行使で取り戻し、日本海、対馬海峡、津軽海峡の制海権をこれも実力で奪い、南満州鉄道を獲得しアメリカの経営参加を排除して独占する。これが満州経営への一歩となった。日清戦争で獲得した台湾に加えて朝鮮を併合する。満州、朝鮮における日本の権益独占に対する欧米列強の非難に対して「門戸開放」「機会均等」をうたいながら、ある意味では米英露の自国優先「エゴイズム外交」を排除して、日本の自国優先「エゴイズム外交」を守り通したと言えるだろう。これをもって欧米列強からの「アジアの解放」を謳い、のちには「大東亜共栄圏」などと言う勇ましいスローガンと共にアジア太平洋に戦禍を広げる。まさしく「アジアの解放」と言いながら欧米列強と並んで帝国主義的植民地獲得競争に日本も参戦し、一歩を築いたた瞬間であった。その結末がどうなったかはここで言う必要もないだろう。いずれの国においても自国優先「エゴイズム外交」の行き着くところは戦争なのだ。
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| 日英同盟をカリカチュアライズした記事 |
ポーツマス講和会議の後のルーズベルトを囲む日露全権代表の記念写真 |



