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2022年1月22日土曜日

古書を巡る旅(19)「Verbeck of Japan:フルベッキ伝」W.グリフィス著 〜『フルベッキ』とはオレのことかとVerbeck云い〜


「Verbeck of Japan」1900年New York
William E.Griffis


フルベッキ肖像

表紙

フルベッキ夫妻

幕府の長崎英語伝習所「済美館」門弟との集合写真


大学南校(帝国大学の前身)学生の集合写真


「ギョエテとはオレのことかとGoethe:ゲーテ云い」。戦前の旧制高等学校の学生が西欧人の名前の表記を皮肉った川柳。そのまま今日取り上げるフルベッキにも使える。「フルベッキとはオレのことかとVerbeck:フェルベック云い」。外国人の名前の日本語での読み、発音はなかなか難しい。特に幕末から明治の頃の日本人にとっては聞きなれない名前に大いに戸惑ったことだろう。その時代の人が耳で聞いた「音」なのか、文字を自分流に読んだ結果なのか、思えば奇妙な表記である。本人も「それってオレのこと?」と、びっくりしていることだろう。他にもコンドル先生はConder:コンダー、モース先生はMorse:モールス(モールス信号と同じ)、ヘボン先生はHepburn:ヘップバーン。ともあれ、ここでは歴史教科書で呼び習わしている「フルベッキ」で統一しておこう。

さて、いつものようにインスタ「映える写真」をチラチラと眺めていたら、お馴染みの神田神保町の北澤書店のサイトに、この「Verbeck in Japan」の書影が掲載されているのを見つけた。先述のようにVerbeckといっても誰のことかわからないが、フルベッキといえば幕末明治に活躍したお雇い外国人だと聞いたことくらいはある人も多いだろう。フルベッキ関連の書籍は貴重本だ。あまりネット検索してもお目にかかることはない。後述のように、フルベッキ自身は自叙伝を書いていないし、彼の評伝もその存在があまり知られていない。旧約聖書の和訳という大きな業績はあるが、彼自身については日本語版は研究者向けの専門書が刊行されているだけである。先日紹介した英国公使ハリー・パークス:Harry Parkesの評伝と同様、自分自身の記録を残していない明治の外国人は思ったより多い。早速、書店に出掛けてみた。若店主に「古書店がインスタ使うなんてなかなか撒き餌が上手いなあ。すぐに獲物が食らいついてきたね」と冷やかすと、「一発狙いで見事に釣れました!」と一言。まんまと術中にハマったのだが、釣られる獲物が喜ぶ撒き餌というわけだ。今回、ウィリアム・グリフィスの著作が3冊入ったとのことで、その一冊が「フルベッキ伝」であった。さすが面白い本を見つけてくるものだ。本書は1900年ニューヨークで刊行された初版本である。表紙にはフルベッキが明治天皇から叙勲を受けた旭日章が配されている。


(1)フルベッキの略歴

で、フルベッキとは一体何者? 聞いたことはあるが、実はどのような人物か知らないという人が大方ではないだろうか。まずは略歴を紹介。

 Guido Herman Fridolin Verbeck (Verbeek)(1830〜1898年)

名前の表記は、オランダ式にはフェルベックまたはフェアビーク、英語式にはヴァーベックであるが、日本では「フルベッキ」と表記されている。オランダ人でアメリカに移住。そこで神学教育を受け、宣教師として幕末に来日。そして日本で波乱の生涯を終えた。彼は日本滞在が長く、オランダ、アメリカともに国籍を失い、無国籍となる。この本のタイトルも「Verbeck of Japan A Citizen of No Country:国籍を持たない市民 フルベッキ」となっている。

1830年オランダユトレヒト生まれ。プロテスタント・モラビア派教会で洗礼

1852年 親戚を頼って渡米。ニューヨークへ

1855年 ニューヨークの長老派オーバン神学校入学

1859年 卒業とともにオランダ改革派教会宣教師に叙任され、同年結婚とともに日本へ

1859年(安政6年)11月上海経由で長崎に

日本は五カ国との通商条約は締結されてはいたものの、いまだキリシタン禁教が解かれておらず布教はできなかったため、長崎にて私塾を開きで英語を教えた。この時に大隈重信、副島種臣が教えを受けた。

1864年(元治元年)幕府の長崎英語伝習所(のちに済美館)が開設。その英語教師に就任。済美舘では何礼之、大山巌などが学んだ。何礼之は私塾を開きフルベッキの指導を仰ぎながら多くの人材育成に努めた。この頃、勝海舟、小松帯刀、西郷隆盛、桂小五郎、横井小楠などとも長崎で出会っている。

1867年(慶応3年)佐賀藩主鍋島直正が、長崎に藩校「蕃学稽古所」「致遠館」)を設立。そこへ招聘されて英語、政治、経済について講義。大隈重信、副島種臣も受講する。佐賀藩の江藤新平、大木喬任、さらには伊藤博文、大久保利通、加藤弘之なども学んだ。1868年には岩倉具視の子、具定、具経が門弟となる。この藩校の集合写真が、後述の「フルベッキ群像写真」(上野彦馬撮影)として話題になる。

1869年(明治2年)明治政府より招聘されて大学設立に参加。開成所の教頭、大学南校の教頭を務めた。1872年にグリフィスを福井から呼び寄せて化学の講義をさせた。

1871年の岩倉欧米使節団派遣を建議、支援。同年明治天皇より学術への功績に対し勅語を賜る

1873年(明治6年) 政府左院翻訳委員、さらに1878年には元老院に

1874年(明治7年)米国ラトガース大学より神学博士号授与。

1877年(明治8年)叙勲 勲三等旭日章

1878年(明治11年)アメリカへ一時帰国

1879年(明治13年)再来日。官職を退き、宣教師としての活動に専念。

1886年(明治19年)明治学院開学。理事、神学部教授に。

1888年 明治学院理事長就任

1898年(明治31年)東京赤坂の自宅で死去(享年68歳) 青山墓地に埋葬


(2)幕末/明治初期の教育、人材育成に貢献

略歴に述べたように、フルベッキは宣教師として1859年(安政6年)に来日した。開国後の安政五カ国条約が締結された後ではあったが、いまだキリスト教禁教令が解かれておらず、布教活動ができなかった。よって長崎では私塾を開設して英語を教えた。江戸時代を通じて西洋の外国語といえばオランダ語であったが、幕末の世界情勢は、もはやオランダ語が通用する時代ではなかった。幕府にとっては英語の習得が喫緊の課題であった。こうした情勢下ではフルベッキのようなオランダ語と英語の双方を解する外国人は貴重であったことだろう。このように幕末の長崎で、済美館、致遠館で英語や政治、経済、理学などを教え、その教え子が、のちに維新や新政府で活躍する。維新後は、明治新政府の要請で東京へ移り、開成所/大学南校の教師、教頭として教鞭をとった。のちに新政府が海外から雇い入れたいわゆる「お雇い外国人」とは異なり、維新直後には幕末に来日していた宣教師を大学教師に招聘するケースが多かった。明治新政府になってから「お雇い外国人」として欧米からやってきたチェンバレンやコンドル、モースなどは、これからは宣教師ではなく、専門的な知識と実績を有する人材を大学教師として招聘すべきである、として、学界や実業界からの人材を推奨した。しかし、大学創設黎明期にあっては、幕末を知るフルベッキのような宣教師たちの功績は大きく、英語だけではなく、これまでの蘭学の世界を超えた新しい西欧文化の講義は、維新を進めたリーダーたちに大きな影響を与えた。また多くの若手を欧米に留学させた。発展段階に応じた教育人材登用としては適切であったろう。大隈重信はのちにフルベッキを早稲田大学の建学の祖として「彼が来日していなければ今日の早稲田大学はありえなかった」と賛美している。またジェームス・ヘボン:James C. Hepburnとともに明治学院の創設に関わり、神学部教授、理事、のちに理事長となっている。日本におけるミッションスクール創設の先駆けとなった。


(3)大隈重信と岩倉使節団とフルベッキ

フルベッキは長崎「致遠館」以来の大隈重信との信頼関係が強かった。のちに彼は「私の友人の中には大日本帝国の首相とした活躍した大隈重信がいた」と手紙に書いている。フルベッキが大隈重信に対して条約改定建白書を提出していたのを岩倉具視が知ることとなり、これを契機に欧米との条約改定再交渉を目指す使節団派遣が前へ進んだと言われている。しかし、フルベッキの門下生が多かった佐賀藩出身の大隈、江藤などの使節団への参加はなく、大久保、木戸などの薩長出身者で固められた。留守政府を預かった大隈、江藤、西郷などが、岩倉の言い置きを守らずに、留守中に朝鮮開国交渉やさまざまな改革断行を進めたことが政変のトリガーを引き、留守政府要人の多くが下野し、やがては江藤新平の佐賀の乱、西郷隆盛の西南戦争に繋がってゆく。このことはフルベッキを驚愕させた。また、この使節団には多くの留学生が同行した。彼らは欧米の政治思想、啓蒙主義や、哲学を学んで帰ったものも多く、中江兆民のように自由民権思想を学んで「東洋のルソー」と称された思想家も生まれた。これもフルベッキの考えた新しい日本の姿の一つであったはずだが、薩長藩閥政府にとっては歓迎されないものであった。明治14年の帝国憲法制定の草案論争では、伊藤博文主導のプロイセン型憲法草案が主流となり、イギリス流立憲君主制やアメリカ型の自由主義的な色彩が盛り込まれることはなかった。結局、大隈も副島も下野してしまい、フルベッキも二度と政府の官職にはつかなかった。彼はこののち布教活動とミッションスクールの創設に傾倒してゆく。


(4)もう一人のジャパノロジスト、ウィリアム・グリフィス

William Elliot Griffis (1843~1928)


フルベッキ自身は自叙伝や評論を出しておらず、書簡以外は著作も少ない。本書も彼の大学の後輩であるウィリアム・グリフィス:William Elliot Griffisによる評伝である。もしグリフィスがこの評伝を書かなかったらフルベッキの明治日本における功績は忘れ去られていたかもしれない。彼は本書の冒頭で「フルベッキ無くして今の日本はありえない」と言い切っている。幕末期から英語を教え、帝大創設期に教鞭を取り、欧米への視察、留学に尽力し、日本にミッションスクールを創設するなど、近代日本を担う若き日本人の育成に多大な功績を残した。こうした記録と評伝を後世に残したグリフィスの功績をも高く評価したい。

このウィリアム・グリフィス(1843〜1928年)も明治期のジャパノロジストの一人である。日本に関する多くの著作を残しており、The Mikado's Empire, Japanese Fairy World, Japan: In History, Folk-Lore, and Artなどがある。他にもペリーやハリスの評伝を表している。彼は帝国大学で教鞭を取り、多くの門弟を輩出している。アメリカ・ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ。ニュージャージー州のオランダ改革派教会系のラトガース大学卒業。そこで教鞭を取る。福井藩士で幕末に幕府留学生としてラトガース大学に留学していた日下部太郎の縁で、1871年(明治4年)日本に渡り、福井藩藩校「明新館」で1年間理科(化学と物理)を教えた。版籍奉還で福井藩が無くなると、1872年(明治5年)フルベッキの要請で大学南校へ移籍。物理と化学を教えた。帰国後は宣教師となり、日本に関する著作の執筆や講演に精力的に取り組んだ。「The Mikado's Empire;皇国」は彼の代表的な著作である。グリフィスの功績の一つは、幕末/明治期の「お雇い外国人」の記録を後世に残すべく、1858〜1900年の間に日本政府に雇われて来日した外国人の資料を収集し整備したことである。このために本人だけでなく、その子孫や親族、教え子や友人などの関係者を巡り、聞き取りや手紙、日記などの資料収集に努めた。本書、Verbeck of Japanもそうした研究をまとめた著作の一つである。この一連の資料と、グリフィスが収集した膨大な日本関係資料が、母校ラトガース大学図書館に保管されている。

この日下部太郎も、留学前に長崎の「済美館」でフルベッキに英語を学び薫陶を受けている。しかし、ラトガース大学留学中に結核で夭折。グリフィスはその才を惜しみ、名誉学位を授け、卒業生名簿にその名を残した。彼の墓はニュージャージーにあり「日本国福井藩士日下部太郎墓」と日本語で墓碑銘が刻まれている。歴史の表舞台でハイライトを浴びる英傑ばかりが近代国家建設の黎明期に活躍したわけではないこと、志半ばで異国の土となった若き「命」があったことを改めて知る。奈良時代の遣唐留学生で、唐土に短い人生を終えた井真成(いのまなり)のことをふと思い出した。ここでも彼の才を惜しんだ唐人によって墓碑に刻まれた「日本国留学生井真成墓」の文字と、彼を讃える玄宗皇帝の勅辞が見つかっている。


(5)いわゆる「フルベッキ群像写真 維新の英傑が全員集合」とは

フルベッキといえば、テレビの「歴史探偵モノ」番組や、幾つかの「トンデモ歴史本」で話題になった「フルベッキ群像写真」が知られている。ネットで「フルベッキ」で検索すると、ズラリとこの種の集合写真関連記事が出てくる。「幕末明治維新の志士揃い踏み写真発見!」とか、「フルベッキを囲む集合写真の名前が解明された。なんと!ここに写っているのは全員、誰もが知る維新英傑である」といった類のハナシ。「西郷隆盛の顔写真ついに発見!」なんてキャッチや、実はフルベッキはフリーメーソンで、これはその集合写真だという「陰謀論」めいたハナシ、果ては、若き明治天皇も参加していて写っていた!etc,etc,etc... 全員の名前を記した写真が新聞紙上を賑わしたり、お土産屋で売られたりしたこともある。詳細をここでこれ以上説明するつもりはない。写真はリアルだが、この「全員集合」バナシはフェイクである。この写真は先述の長崎の佐賀藩藩校「致遠館」の生徒の集合写真で、1867年(慶応3年)ないしは1868年(明治元年)に上野彦馬が長崎で撮影したものである。したがって、そもそも高杉晋作や坂本龍馬が写っているはずがない。人物が特定できるのは大隈重信、副島種臣、岩倉具視の子息二人だけである。もっとも最近の研究で幾人かの佐賀藩士が追加で特定されており、明治新政府に出仕して活躍した人物であることがわかっている。ちなみにこの写真は本書には掲載されていない。代わりに、同じ場所(上野彦馬の長崎のスタジオであろう)で撮影された幕府学問所「済美館」生徒の集合写真(上記写真参照)が掲載されている。もし「致遠館集合写真」が本当に「維新群像揃い踏み」写真であれば、グリフィスは必ず本書に取り上げていたはずだ。掲載しなかったということは、少なくとも彼は、この集合写真がそのような「貴重な」写真であるという認識は無かったことになる。歴史の世界には面白おかしい「トンデモ話」が創作され、それがさもホントのように出回りがちであることを知っておくべきだろう。そんなことで有名になっているフルベッキ。草葉の陰で泣いていることだろう。この際、あらためて彼の本当の姿を知ってもらいたいものだ。

    「この写真、オレの写真かと西郷云い」

以上。


佐賀藩長崎藩校「致遠館」集合写真

維新群像写真として名前を記したフェイクリスト

長崎市に残る「致遠館」跡