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2009年9月9日水曜日

天領日田 豆田町を歩く






福岡での少年期、毎夏、都会の暑さを避けて一家でくじゅうへ避暑に出かけるのが我が家の年中行事であった。
父の運転する赤いコンテッサ1300で風を切って走る。父は車の運転が好きであったのであちこち連れて行ってもらった。

当時は高速道路もなくて、福岡から国道3号線を南下し、西鉄朝倉街道駅から別れて甘木方面、日田街道へ折れ、夜明けダムまで一気に走る。ここまで来るとやっと山間の涼しげな空気を感じることが出来た。夜明けダムの駐車場で一休みしたら、もう日田はすぐ。三隈川沿いに日田の町に入る。九州の小京都とか天領日田とか称される静かで美しい町である。

しかし、当時は早く久住高原にたどり着くことばかり考えていたので日田は単なる通過地点でしかなかった。何となく雰囲気のいい町だなあとは感じていたものの降り立つことはなかった。そのまま日本三大美林の一つ、日田杉の林の中を抜けて、杖立温泉、小国経由で長者原へでるか、豊後中村から十三曲りをくねくねとよじ上ってやまなみハイウエーに合流するコースか、どちらかで天上界へ向かうのだ。当時のクーラーもない車でたどり着くくじゅうの涼しさ、さわやかさは筆舌に尽くしがたいものがあった。

そういう訳で、実は今回生まれて初めて日田の町を歩いた。広瀬淡窓の咸宜園も初めて訪ねた。
豆田町は昔はあまり話題になっていた記憶がない。最近、特に町並み保存や景観の修復が盛んになり、伝統的建造物保存地区に指定されたりしてから急に有名になったのだろう。

日田は江戸時代には徳川幕府の天領として栄えた町だ。西国筋郡代が置かれ(郡代が置かれたのは江戸と飛騨高山の三カ所だそうだ)、九州の外様大名達の動きを見張る、という戦略的にも、幕藩体制維持的にも重要な役割を果たしていた。
権力あるところにヒト/モノ/カネ集まる。もとより日田は林業が盛んな土地柄であったところに、日田金と呼ばれた金融、川や街道を利用した諸国からの物資の集散拠点、交通の要衝としても栄えた。豆田町はこうしたにぎわいを見せる天領日田の商業地として殷賑を極めた町であった。

栄枯盛衰、おごれるものは久しからず。幕府が倒れ、時代は明治へ。日田の最大のパトロン、徳川幕府という権力構造が崩壊した後の日田は、山間の町の静けさを取り戻し、美しく老いた婦人のように、豊かではないが気品を忘れない大人の熟成した町とした今に残っている。

首都圏や関西圏の「小京都」と違って、これだけの「観光資源」がありながら観光客で賑わっている訳でもなく、商業的にはもっとプロモーション出来そうな余地があって、もったいない気もするが、そもそもこれで金儲けしようと言うのはもう止めた方が良い。奈良の今井町なども。あれだけの中世、近世以降の町家がタイムカプセルのように密度濃く集積しているにもかかわらず、住民の方々のポリシーとしてお土産ややレストランなどの商業施設への転換を極力抑えている例もある。であるが故に町に気品と歴史を感じる。経済合理性で文化財や史跡の価値を計るのは止めようよ。

しかしそれにしても、かの有名な広瀬淡窓の咸宜園も広大な敷地がほとんど手つかずの空き地状況でわずかに母屋といくつかの離れや井戸が現存しているだけである。訪れる観光客もなくやや哀れをもようす。無料で公開されている建物は受付にボランティアとおぼしきおじさんが一人座ってるだけだ。隣の敷地で建物の復元移築の作業が進められているようだが、こうした地道な自治体や地域の人たちの活動には頭が下がる。

一方、豆田町は伝統的重要建造物保存地区に指定されたこともあり、町家の修復、復元、電柱の地中化、通りの舗装など、良く町が整備されお金がかかっている様子が分かる。町は八百屋さんや理髪店、電気屋さん、歯医者さん、薬屋さんから銀行、と日常の生活の場としての豆田町の顔と、文化財としての保存建築やお土産や、飲食店、駐車場、と観光地としての豆田町が混在している。住んでいるヒトにとって以前より住みやすくなったのだろうか?

どこへ行っても思うのだが、古い伝統的な町並みの保存は難しい。そこの生活を破壊してしまったら、その町並みを形成してきた歴史は終わる。テーマパークのような生活臭のない、非日常的なスケルトン都市になってしまう。地元の人々の日々の暮らしが保存された町並みと一体化されるのが望ましいが、生活の糧を旧来の伝統的な仕事から得られなくなってしまった時、なおかつその場にとどまって生きてゆく為には「観光」で食っていくしかなのも現実だろう。あるいは都会の子供夫婦を頼って街を捨てるか。空き家も目立つ。地元の人々の戸惑いと自分たちの街なのに自分たちの居場所を探している姿が気になる。

イギリスの田舎町を訪ねたときにも同じことを感じた。コッツウオルドが美しいのはそこにヒトが生活しているからだ。自分が住んでいる家を自慢し、愛し、自分の手で修復し、芝を手入れし、花を植え、歩道を掃除する。街並みの保存に常に関与し、地元自治体にも働きかける。そこに暮らしている人たちは必ずしも伝統的な産業に今でも従事している人たちではない。ロンドンから移り住んだヒトや、キャッスルクームのようにホテルにして観光客に提供しているケースもあるが、共通しているのは、そこで稼いだり、一時期を楽しんだらまたどこかへ移動するのではなく、そこでの生活を自分たちのquality of lifeとして楽しみ、自分たちをlocalizeすることに絶え間なく努力している姿だ。よそ者として過ごすのではなく、permanent residentsとして暮らす覚悟をしていることに感銘を受けた。
自分の人生の価値やライフスタイルをどう考えるかによるのだが。

けっしてNational Trust活動を否定するものではないが、博物館化した町や建物は寂しい。そうはいっても最後は破却されて、後世に歴史的な文化遺産が残らないのでは元も子もないのでlast resortとしてのNational Trustの役割は大きいが。