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2019年1月8日火曜日

年の初めは放談で!「未来を推し量る時に陥りがちな三つの誤り」とは?

 
みんな急ぎ足でどこへ行くのか?

 2019年の年が明けた。「めでたさも中くらいなりおらが春」これからの世の中はどうなってゆくのか。先行き不透明な「不確実性の時代」の始まりのようでなんとなく元気が出ない。そう思いながら新聞各紙に目を通していたら日本経済新聞(2019年1月7日月曜)のOpinion欄に目を惹く記事を見つけた。Financial TimesのChief Economics Commentator, Martin Wolfの寄稿、「中国 世界一になれぬ理由」である。欧米諸国のインテリが思ってはいてもなかなか口には出さない、潜在的な「願望」にズバリと答えるようなタイトルなので興味を引いた。ジャーナリスティックな見出しであるがその指摘は示唆に富むものである。記事の筆者は近年の状況から未来を推し量ってはならないと冒頭に書き、中国が近年目覚ましい経済成長遂げているからといって、数年内に世界の覇権を握ると結論付けられるとは思わない、としている。彼は80年代に日本が世界の「ナンバーワン」になるとみられていたのにそうはならなかったことや、56年に旧ソ連のフルシチョフ共産党第一書記が西側諸国を「葬る」としていたのに実際にはその逆になったことの2例を挙げ、「未来を推し量る時に陥りがちな3つの誤り」を指摘している。

 誤りその①  未来を近年の経験から推測すること。
 誤りその②  経済の急成長がいつまでも続くと考えること。
 誤りその③  競争原理が働く経済の仕組みより中央集権体制の利点を過大評価すること。

 これにいくつかの事象をあげて解説し、だから中国は世界一になれないと結論づける。これもまた「近年の経験」を持って未来を推し量っている感もあるが、中国が世界一になれるかどうか、覇権を握れるかどうかは別として、彼の指摘にはいくつかの大事な共感ポイントが含まれている。

 ① 未来を近年の経験から推測すること。
 近年の中国の目覚ましい経済成長の経験をもって、未来永劫そうなると考える必要はない。日本だってそうなならなかったと。その日本の例の適否はともかく、人は身近な経験から物事を判断しがちで、それが時としてわかりやすく見えるが、必ずしも正しい評価でないことは多い。人は歴史をなぜ学ぶのか、歴史認識がなぜ大事なのか。それは過去は現在と未来に続いているからである。未来を予測するだけでなく、未来を創造するためにも歴史から学ぶことが重要である。とりわけリーダーとなる人間は正しい歴史観を持っていることが重要である。しかし短いタームの出来事から、未来を見通すことは危険である。まして個人の経験はそれだけでは歴史にならない。トランプのようにニューヨークの地場の不動産商売による「ディール」やアトランティックシティーでの大損といったの経験で、歴史や世界を見渡し判断する危険、愚かしさについていまさら言うを待たないだろう。人類が共有する様々な経験はそれらが蓄積されある時間軸を経たのちに評価をへて歴史になる。そこに歴史の法則が見えてくる。20世紀後半の冷戦時代、日本の高度経済成長時代といった3〜40年の出来事だけでは十分とは言えないだろう。あるいは19世紀後半から帝国主義と戦争の時代、日本の西欧的な近代化から数えてもせいぜい150年くらいの出来事、それだけで中国の未来を見通すことはまだできないであろう。中国はなにしろ4000年の歴史が重層的に折り重なった国である。いや王朝興亡と異民族との攻防を繰り返す中で生まれてきたひとつの文明である。現在の中国共産党による独裁支配体制はようやく発足から70年ほど経過したが、漢、唐、明、清歴代王朝の支配体制に比べるとまだまだだ。その行く末も含めてもう少し巨視的、通史的に俯瞰してみる必要がありそうだ。しかも資本主義そのものが産業資本主義からいわば「デジタル資本主義」へと大きく転換しつつあるいま、ますます短期的な経験だけでは見通せないし創造することもできない。ビスマルクは言う「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。

 ② 経済の急成長がいつまでも続くと考えること。
 これは日本の「ジャパンアズナンバーワン」の例を見ずとも間違いであることは明らかだ。イギリスがそうであった、アメリカがそうであった、日本もしかり、中国もそうであろう。技術革新により新しい産業が生まれ、産業構造は輪廻転生し、一定のライフサイクルで脱皮し転換してゆく。そのサイクルの長さには違いがあるにしても経済大国の興亡は歴史の理である。問題はアメリカのように鉄鋼や造船、電機、自動車といった重厚長大な製造業から脱皮して、あたらしいサービス産業やはハイテク産業に転換できるかどうかである。日本の問題はそこにある。歴史的な使命を終え、海外へ移っていった過去の成長産業から、次のフェーズへ転換できていない。過去の成功体験に酔いしれてビジネスモデルイノベーションが起きていない。むしろ中国の方が後から成長してきて、早くも「成長の罠」に気づき、ビジネスモデルイノベーションと産業構造のフェーズ転換の必要性に気づき始めている。後発の方が気づきも早いし、転換も早い。これが成功すれば中国のさらなる成長はありうるだろう。もちろん日本にもチャンスがある。

 ③ 競争原理が働く経済の仕組みより中央集権体制の利点を過大評価すること。
 これが実は一番大きな誤りだ。日本も戦後の高度経済成長期には、欧米諸国の経済学者や経済史家から「社会主義的資本主義国」とみなされたものである。すなわち国家主導(その中心は官僚だが)による経済成長だ。「神の見えざる手」による市場主義経済モデルからみると、英国の厚生経済や福祉政策などのケインジアンモデルとも異なる、異質な「資本主義的経済成長モデル」が日本であった。私が79〜81年に学んだLSE: London School of Economics and Plitical Scienceで、ハーバード大学から来た教授が、「日本は官僚主導の経済体制で、産業分野規制や、輸出政策を立案し効率よく実行している。その優秀なエリート官僚のリーダーシップは、がやがては民間企業トップに天下って官民一体となって「護送船団方式」で世界に打って出るかじ取り役を担うことによってさらに発揮される」と評していたことを思い出す。経済や産業が未成熟、あるいは戦後の荒廃からの立ち上がり途上で、金融資本市場から十分に資金が調達できない、賃金水準が低くて消費が活発でない、社会的インフラが未整備といったフェーズにおいては国の役割が重要となる。公共事業や国営企業による雇用の創出、インフラの整備。助成金、規制による保護政策が産業の成長を助ける。しかし、やがてそうした方式はその歴史的役割を終える。日本は80年代にはいり、高度経済成長、グローバル経済体制の時代に入ると、次のフェーズに向けて成長しなくてはならなくなる。新自由主義経済イデオロギーによる手法を取り入れて、あらたな経済成長をめざす。すなわち国営企業の民営化、規制緩和、官僚の天下り規制、資本市場の開放を進めていった。90年代に入ると情報/マネーのボーダレス化が一層進み通信産業や金融サービスなどの規制産業領域のさらなる規制緩和を進めていった。

 日本が高度経済成長を遂げていた78〜92年、中国は鄧小平が毛沢東時代の経済政策の失敗、文化大革命による国内の混乱という深刻な事態から立ち直るべく改革開放路線に舵を切った。共産党一党独裁のもとでの資本主義的な自由競争導入という、前代未聞の成長戦略を取っていった。さらに92年からは「社会主義市場経済」を標榜し、安い労働力とコモディティー化されたプロダクトの大量生産というフェーズにおいてこれが成功し、かつてイギリスが、日本が、世界の工場となって経済成長したように、中国が世界の工場となった。そうして現在の中国の経済成長につながっている。しかし、先の日本の経済成長が「国主導」で安い労働力と大量生産による高品質低価格か路線のモノつくり中心の経済成長であったことで戦後未曾有の成長を遂げたが、やがては「自由主義市場経済」という資本主義ロジックの元での成長に切り替えていった。ただその過程で次世代の産業への構造転換に手間取っているわけだが、そのことも含め、中国が日本の経験に学ぶとすれば、共産党一党独裁という政治体制下でいつまでも「共産党主導」の経済成長が保証されることはないという気づきであろう。逆に言えば、経済成長無くして共産党一党独裁体制維持はありえないという自己矛盾が見て取れる。技術イノベーションが、ビジネスモデルイノベーションを促し、自由な経済活動が経済システムの柔軟な変換を促してゆく。それが成長の原動力となる。そんなサイクルを共産党一党独裁体制下で実現できるのか。いくら官僚や党幹部の腐敗を無くしても、国営企業と党官僚が主導する経済システム(いわば擬似資本主義体験)を終息させなければ次の成長フェーズへは転換できない。そもそも、ドグマ的言い方をすると、カール・マルクスの主張する共産主義は、アダム・スミスが主張する資本主義をの矛盾を批判して「打倒すべきもの」として登場してきたはずである。失うものは「鉄の鎖」しかないはずの労働者が資本家になる。それはすなわち資本主義への移行である。共産主義の終焉である。それは経済システムにおいてのみならず、政治システムにおいてもである。共産党が最大の資本家として労働者を「搾取」する。この中国の現状こそ歴史上の大いなる「矛盾」である。経済政策の失敗で崩壊したソビエトという実験国家の運命とは異なる、歴史的出来事が近い将来に起こりそうだ。これこそ「中国が世界一になれるか否か」より大きな問題だし、それができれば「中国は世界一になれる」かもしれない。独裁体制は確かに効率が良い。民主主義は手間がかかる。自由主義市場経済は無駄が多い。独裁体制は独裁者への信頼に基づくシステムである。民主主義は王様であれ独裁者であれ、民主的に選出された指導者であれ、彼らへの不信に基づくシステムである。「信頼の政治」はナチが喧伝したスローガンである。これは我々人類が経験し、やがて歴史の教訓に昇華されようとしている記憶である。民主主義的な政治体制と自由主義的な経済システムは表裏一体である。結果的には自由主義経済体制、民主主義政治体制が、手間暇かかって、無駄が多く時間がかかろうとも持続的な成長を保証する。もはや日本も中国もかつてのような資本主義的自由主義経済の発展途上段階ではないのだ。将来、もっと長期的に見れば、自由民主主義を止揚するあたらしい思想、仕組みが生まれてくるかもしれないが、自由民主主義に絶望してはならない。少なくとも中央集権的で独裁的な政治思想やナショナリズムがそれに取って代わることがあってはならないし、そうなることはない。

 こう考えてくると、これからの「不確実な」世界の問題の一つが、共産党の独裁政治体制にコントロールされた中国の経済成長と覇権の問題であるにしても、さらに大きな問題はこうした自由民主主義体制を疑い始め、不安視しているアメリカやEUなどの西欧諸国の「ゆらぎ」「自信のなさ」の方である。特にアメリカの「トランプリスク」は看過できない。この流動的な世界において少なくとも4年間もアメリカがうちに爆弾を抱え不安定で疑心暗鬼の状況に置かれることは世界の大きなリスクである。そんな中で日本は、それこそ近年の経験に基づく歴史認識だけではなく、よりスパンの長い「正しい歴史認識」に基づき、ぶれない立ち位置で政治と政策の見直しに全力をそそがなくてはならない。それが成熟社会における安定的、持続的な経済成長の条件である。