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2021年4月6日火曜日

学士会館を探訪す 〜登録有形文化財の震災復興建築は今も現役〜

学士会館 正面玄関




学士会は、旧七帝国大学(北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州)の卒業生の同窓会である。そのいわば同窓会館が学士会館である。現在の建物は昭和3年(1928年)開業で今年で93年になる。明治10年(1877年)、この地に東京開成所が設立され、のちに東京帝国大学に改組。ここは帝国大学発祥の地である。白山通りを挟んで斜め向かいには東京高等商業学校、のちの一橋大学の発祥地がある。こちらには一橋講堂跡と同窓会である如水会館がある。また同地は東京外国語学校、のちの東京外国語大学の発祥の地でもある。さらに共立女子大学、共立講堂も白山通りを隔てた反対側にある。この神田一橋界隈は日本の高等教育発祥の地といって良い。

東京都内では次々と明治以降の歴史的近代建築が取り壊されたり、外壁だけを残して建て直されたりして、建築遺産が失われていくことに胸を痛めることが多い。しかし、この学士会館だけは、幾たびかの改修は受けたものの創建当時ほぼそのままの姿で保存され使用されている。そういう意味では稀有な建物である。関東大震災直後に、時代の最先端の耐震、耐火構造の建物として建てられた震災復興建築であり、現在まで建て替えの必要がなかったことがその理由の一つであろう。もちろん建築遺産として大切にされてきたことが一番の理由であるが、こうした長年の使用に耐えうる設計がなされていたことがその背景にある。多くの歴史的建築物が耐震構造上の問題を理由に取り壊されている現状を目の当たりにしているから尚更である。2002年に登録有形文化財に指定された。

先述のように斜め向かいには一橋講堂と如水会館があった。どちらもネオゴシックの堂々たる歴史的建築であったが、残念ながらこちらは随分前に取り壊され無くなっってしまった。跡地に学術総合センタービルが建ち、現在はそのビル内に一橋講堂がある。一橋大学の同窓会館である如水会館はこちらも高層オフィスビル(如水会ビル)に建て変わってしまい、一橋大学発祥の地からネオゴシックの荘厳な建物群は消滅してしまった。どのような理由で取り壊されてしまったのかは不明だが実に惜しい。道路を隔てて対照的な運命を辿った建築物が並ぶだけに、生き延びた学士会館の存在は貴重である。

学士会館は個人的にも多くの思い出が詰まった建物である。結婚式はここで挙げた。なかなか荘厳な雰囲気で良かった記憶がある。最近流行りの派手なパフォーマンスなどは用意がない簡素な式であったが、それだけに印象深いものがあった。その後も海外赴任中に東京出張があると、よくここに泊まった。日本経済バブル真っ盛りで、世界でもっとも物価、リビングコストが高い経済都市、東京のホテルはどこもベラボーに高くて、しかも満室。やむなくここを取った。意外な穴場であった。しかし、古い建物で冬は暖房が効かない。もちろんインターネットなどないし、テレビもない。部屋は妙に広くて天井が高い。お茶の時間になるとボーイ(給仕といったほうが良いいでたちだが)が大きな薬罐にお湯を入れて部屋に持ってきてくれる。イギリスのカントリーハウスのB&Bのような雰囲気だ。チェックアウト時には、手書きの請求書と領収書をもらい「いつもニコニコ現金払い」。なんとも時代がかったプロトコルであったことか。世界第2位の経済大国の「レトロ会館」などと揶揄したものだが、今となっては貴重な経験であった。またよく同窓会や懇親会などの会合で利用した。レストランも和洋中とどれもなかなかのもので、その割には値段はリーズナブル。もっともわざわざここまで食事だけのために来ることはなかなかないが。また皇居東御苑や北の丸公園散策の後はここで一服。談話室でぼーっと座っていたり、喫茶室でお茶して帰ったものだ。こうした長い時間を共にしてきた空間が、時空を超えて今も変わらない佇まいであることはうれしい。これからも無くさないで欲しい。「ハイカラ」になったり、「トレンディー」になったり効率的になったりしなくていいから、このままでいて欲しい。


1)館内インテリア


玄関ホール


マントルピースを型どった暖房装置

ステンドグラス

山田三良先生像

レセプションエリア




2)建物エクステリア

旧館正面ファサード
スクラッチタイルの外装

正面玄関



アーチのレリーフが美しい






左奥が昭和12年に増築された新館



3)一橋大学発祥の地/東京外国語大学発祥の地

一橋講堂、如水会館があった場所

建替えられた如水会館




東京外国語大学発祥の地





4)和気清麻呂像

皇居お堀端の「和気清麻呂」像

(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60/3.5-5.6)


学士会館の建物の由来については「学士会」のHPを引用する(学士会館HP

学士会館の沿革

 1877(明治10)年4月に創設した東京大学は、1886(明治19)年3月、「帝国大学」と改組改称いたしました。それまでの9年間、東京大学総理であった加藤弘之先生が退任されたのを機に、先生に対する謝恩会が開かれました。これが「学士会」のはじまりです。のちに、旧帝国大学(現在の国立七大学[※])出身者の親睦と知識交流を目的とした場に発展して行きました。

 ※国立七大学とは北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学のこと。

 学士会は、1913(大正2)年1月に初めて会館と呼べる西洋風の木造2階建ての施設を創建しましたが、同年2月、神田三崎町で起きた大火により焼失。この復興に向けて準備を進め、1923(大正12)年9月1日、基礎工事を開始する予定でしたが、奇しくもその日、関東大震災に襲われて計画は延期。その上、それまで利用していた仮会館も焼失しました。焼失と再建を繰り返し、ついに1928(昭和3)年、現在の学士会館が建設されました。

 長い歴史のなかで、様々な出来事もありました。1936(昭和11)年の2・26事件の際には、第14師団東京警備隊司令部が置かれ、1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発すると、翌年以降、会館屋上に高射機関銃陣地が設けられました。1945(昭和20)年には、会館の一部が空襲の被害を受ける一方、館内のいくつかの部屋を日本軍に提供することになりました。そして終戦後の同年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されて閉館。高級将校の宿舎や将校倶楽部として使用されていましたが、1956(昭和31)年7月に返還されました。

 宿泊、レストラン、会議室、結婚式場などを完備する学士会館は、学士会会員のための倶楽部施設ですが、現在では一部施設を除いて一般利用が可能となり、会員以外の多くの方々にご愛用いただいております。

落成した学士会館の全景(昭和3年5月 撮影)
会館・正面玄関(昭和3年5月 撮影)


学士会館の建築

 学士会館は、関東大震災後に建築された震災復興建築となります。外壁が昭和初期に流行したスクラッチタイルで覆われた4階建ての旧館は1926(大正15)年6月に着工、1928(昭和3)年5月20日に開業いたしました。総工費は約106万円。関東大震災の教訓をいかした、当時では極めて珍しい耐震・耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造りとなっています。

 建築推進の中心となったのは、日本の耐震工学を確立した佐野利器氏。設計者は彼の門下生でもあり、 日本橋高島屋や帝国ホテル新館などを手掛けた高橋貞太郎氏です。旧館を尊重するかのように一歩後退して建つ5階建ての新館は、1937(昭和12)年9月20日に増築開業いたしました。総工費は約60万円。設計者は藤村朗氏です。

 学士会館の地盤の基礎には約1300本の松杭が打ち込まれていますが、近年行われた松杭の調査では腐朽は全く見られませんでした。その際、切り出された松杭の一部は、現在会館1階の談話室に展示されています。
 斬新、かつモダンで重厚な雰囲気は、85年以上を経た今も大事に継承されており、2003(平成15)年1月、国の有形文化財に登録されました。

右の4階建てが旧館(昭和3年建造
左後方が新館(昭和12年増築)
戦時中の金属供出で失われた大灯籠(平成15年復元)


東京大学発祥の地

東京大学発祥の地 記念碑

 学士会館旧館の正面玄関脇には「東京大学発祥の地」 の石碑が建っています。1877(明治10)年4月12日、 この地にあった東京開成学校と、神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併して、東京大学が創立されました。

 創立当初は法学部・理学部・文学部の校舎は当地に設けられていましたが、1885(明治18)年までに東京大学は本郷へ移転しました。

 この地を我が国最初の大学すなわち「東京大学発祥の地」とし、1991(平成3)年には記念碑が建立されました。