St Thomas Aquinas (1225~1274) トマス・アクィナス像 |
大学時代、私は法学部の学生であったが実定法にはあまり興味が湧かず、学部選択を間違えたかなと思ったものだった。しかし、手島孝先生の憲法学、伊藤不二男先生の国際法、グロチウス研究など、西洋哲学や思想史にかかる講義は大変面白かった記憶がある。なかでも水波朗先生の法哲学の講義には不思議な魅力に惹きつけられて聞き入った。もっとも難解で理解できたとは言えない。その理由の一つが、常に言及されていたトマス・アクィナスという13世紀の中世神学者/哲学者の思想と理論であった。永久法と自然法と共通善。人定法という概念を説いた。一言で言うなれば人が定める立法「人定法」である法律や規範の基礎に、誰もが理解する「人間はこうあるべき」という共通理念たる「自然法」や「共通善」という概念があるという考えである。しかしなぜ中世キリスト教神学者のいう「自然法」なのか?水波先生はカトリック教徒であったからキリスト教神学者の思想を説いているのだと、当時は考えていた。それにしても法学部の講義にトマス・アクィナスの「神学大全」が引用されるのか不可解であった。同じ大学には稲垣良典教授もいた。私は習わなかったがこのこの先生は「神学大全」の翻訳にも携わった日本におけるトマス・アクィナス研究の第一人者だ。浅学非才な私にとってはあまりにも世界が違う。法律学と神学/哲学がどう結びつくのか、キリスト教の信仰や形而上学とは程遠い自分には、その距離感が全く掴めなかった記憶がある。水波先生は非常に学生に慕われる先生で、ご自宅には多くの学生が集まっていた。私も友人と先生のお宅にまでお邪魔して色々な話を伺った。難しい研究課題のような話ではなく、気楽な談話会のようだった記憶がある。その会話の中で、結局は世の中を最後の一線で規定しているのは「自然法」「共通善」的な理解であるということを知ったような気がした。それがキリストやムハンマドやモーゼやブッダが説く一神教的な信仰や思想とは別に、いやあるいはそれらを横一線に貫く観念であることをなんとなく理解したつもりであった。また、神への信仰を前提としなくとも人間の理性を前提とした自然法をいうものがありうるとも考えた。英米法の基礎にあるコモンセンス:common senseにも通じるものがあるとも考えた。それにしても当時の70年安保闘争、新左翼系学生運動華やかなりし頃の我々学生には、エンゲルスの弁証法やマルクス、エンゲルスの上部構造、下部構造概念こそ世の中をうまく説明してくれる理論であると考えていた。そこへトマス・アクィナスという中世のキリスト教神学者が登場するわけだから驚いた。宗教は、マルクスが言う上部構造に属する「麻薬」だとして、一部の学生は「ナンセンス!」と拒否する者もいたが、今となればまさに「浅学非才の徒」と言わざるを得ないだろう。あの当時の九州大学といえばマルクス経済学のメッカで、経済学や法学の領域ではとりわけ「新左翼」思想の中心的大学であった。一方でそうした面ばかりがハイライトを浴びていて、こうした中世哲学研究の重要な拠点の一つであることに気づいていなかった。偏狭な視野と不勉強とは恐ろしい。
あれから50年。大学を卒業し、企業人も卒業し、水波先生の法哲学の講義を聞いてから半世紀が経過した。就寝前に聴くリタイアー老人のお楽しみ、NHKラジオの聞き逃しサービス「らじるらじる」。ここで東大山本芳久教授の歴史再発見「愛の思想史」の講義シリーズがあり、その中でトマス・アクィナスが語られていた。懐かしいその中世キリスト教神学者の名前に出会って、あの時の水波先生の講義の記憶が蘇ってきたという訳だ。トマス・アクィナスは中世においてキリスト教思想が、古代のギリシャ哲学とどう融合するのかを説いた。それを教会や修道院でではなく、当時盛んに創設された教会附属のラテン語神学校(スコラ)や大学(パリ、サラマンカ、ボローニャなど)で、学生との討論(Q&A)という形で説いた。いわゆる「スコラ哲学」と言われる所以だ。驚くことに現代ではヨーロッパ文明の基礎とみなされている古代ギリシャ文明が、中世においてはヨーロッパではあまり知られていなかったことである。古代ギリシャ哲学をヨーロッパキリスト教世界に持ち込んだのは、イスラム教徒である。イスラム神学者であり、イスラム哲学者であった。それまでソクラテスもプラトンもアリストテレスもヨーロッパ世界では忘れられた思想家、哲学者であり、むしろイスラム教徒に占領されたイベリア半島や、イスラムとの戦いであるレコンキスタ、数次に渡る十字軍の遠征を通じてイスラム世界から伝えられた。それをラテン語に翻訳して広められていった。これは哲学思想に限らず科学技術についても同様である。この頃はイスラム世界はヨーロッパキリスト教世界にはるかに卓越した文明世界であり、後世のヨーロッパ文明のカタリストであったわけだ。
そして中世ヨーロッパ世界でキリスト教神学(信仰)とギリシャ哲学(理性)を融合し中世哲学として体系化したのがトマス・アクィナスであった。これは当時のカトリック教会から見れば異端とも見做されかねない画期的なことであった。現に、晩年と死後に異端審問を受ける危ている。最後は聖人に列せられたが。彼は膨大な著作集を残した。そのひとつがこの「神学大全」である。この書は、先述のように学校(スコラ)で神学生向けの神学入門書として著された。神学生の多くの問いに対する答えを記述するという形式(いわば質疑応答集)で編纂されている。大部の著作である。そのなかで「法」についての質疑があり、永久法、自然法、人定法という概念を説いた。故に水波先生の法哲学の講義で「神学大全」が盛んに引用されたということが理解できる。法律(人定法)は人間の、国家の思想的、政治的価値観の表明であるのだが、人が制定する法律が法規範として機能するその根底には、明確に意識されないが誰もが共有する「自然法」や「共通善」があるのだと。そしてその前提として神の摂理/意思たる「永久法」があるとする。ここはキリスト教の「信仰」から来る考え方だ。ただ、キリスト教神学者だけでなく、イスラム神学者、ユダヤ神学者も盛んにギリシャ哲学のアリストテレス形而上学を研究し神学・哲学に取り入れており、神の法、自然法を説いているではないか。「なぜトマス・アクィナスなのか?」という疑問を呈する哲学研究者もいる。もっともだ。しかしルネッサンス以降の西欧キリスト教文明発展の文脈の中で考えれば、その後の西洋哲学思想の発展に果たしたトマスの役割は否定できないと考える。トミスト(トマス・アクィナス研究者)は何も無理やりキリスト教の信仰や思想の絶対性を主張し、そこに誘導しようとしていると考える必要はないと思う。人間にとって「神学:信仰」と「哲学:理性」の総合的な理解は宗教の違いに関わらず普遍的な意味を持つ。このギリシャ哲学(大自然の理法)から中世キリスト教神学/哲学(神の摂理/意思)、そこから経験主義や、カントの批判主義を経て近代哲学(人間そのものの本質)へと変遷してゆく。その中で自然法も「神の意思」から「人間の持つ本性」へとその基盤が変遷してゆく。日本では、トマス・アクィナスなどの中世哲学の研究者は、明治以降、欧米から取り入れた「西洋哲学思想」はデカルトやカントなど近世以降の哲学者の思想であり、中世を哲学暗黒の時代として無視してきた。その前はいきなり古代のギリシャ哲学に遡るとして批判する。確かに、西欧諸国では一般的である中世哲学研究が、日本において再評価され、西洋哲学に新たな視点を与えてくれることは興味深い。ただ、この「神学:信仰」と「哲学:理性」という緊張関係をトマス・アクィナスは、「哲学は神学の僕」、「信仰なくして理性なし」、「理性が信仰へ導く」としており、結局、彼の哲学はキリスト教の一神、三位一体の神の存在、それへの信仰を抜きにしては語れないことも明らかである。
実家の書棚に学生時代の蔵書がわずかに残っているのを発見した。その一冊が尾高朝雄の「法哲学概論」である。ハンス・ケルゼンの「純粋法学」横田喜三郎訳も出てきた。きっとこれだけはと処分せずに取っておいたのだろう。後年の水波先生の著作「トマス主義の法哲学」は見つからなかった。どこかに隠れているかもしれない。尾高著作が法哲学を、文字通り概観し、歴史を俯瞰してみる視点を与えてくれたように思う。その中にトミズム中世哲学の位置づけが明確に記述されている。そのページを開くと、懐かしいあの時代の空気がいっぱいに湧き出てきた。鉛筆で棒線や、書き込みが随所に見られる。メモやノートの切れ端がはらりとこぼれ落ちてきた。みるとびっしりと細かい字で論点を纏めてある。我ながらあの頃はよく勉強していたものだと感心する。その向学心をすっかり失ってボーッと生きている現在の自分を、まるであの頃の若き学生の自分が叱責しているような感情に支配される。これだけ勉強したはずが、今ほとんど覚えていない。のちの人生に生かしていない証拠だ。この50年何をしていたのだろう。この思索と思考プロセスはどこへ消えてしまったのだろう。しばらく読み耽ってしまった。少しずつ蘇ってきた。一念発起。改めて、水波先生の著作と「神学大全」稲垣先生翻訳を読んでみようか。しかし、後者は日本語訳だけでも四十五巻に登る大著である。まさにこれからかじりつくには「日暮れて道遠し」だ。しかし、私的には50年前に有耶無耶にしたトマス・アクィナス評価について、いま人生の終盤に差し掛かって再考察してみるのも面白い。いや単に懐かしく思い返すにとどまるのだろうが、それでも良い。
「今頃気が付いたか!遅い!」と水波先生は彼岸で笑っておられることだろう。
Summa Theologica 1596年版 「神学大全」表紙 1265~1274にかけてトマス本人と死後は弟子によって著された |