A History of Japan 全三巻 1925年初版本 |
「日本歴史」:A History of Japan は明治期の御雇外国人研究者、ジャパノロジストの一人であるゼームス(ジェームス)・マードック:James Murdoch による体系的な日本史研究書である。三巻からなる大著で、日本の上代から江戸時代までの歴史がまとめられた初めての英文 日本史全集と言って良いだろう。これまでも来日外国人による「日本史」と称される歴史史料としては、ルイス・フロイスの「日本史」や、ケンペルの「日本誌」などがあるが、これらは彼らの滞在期間中の日本見聞録であり、歴史書として古代から中世、近世、近代がまとめられたものはこれが初めて。この頃日本には、既にアーネスト・サトウやウィリアム・アストン、バジル・ホール・チェンバレンなどのジャパンノロジストの先達がおり、マードックもこの大著の執筆にあたっては、彼らの研究成果や著作に学び、本文中にも多く引用している。さらには、日本の上代、古代史を研究するにあたってはアストンやチェンバレンの日本書紀、古事記の英語版を参照するのみならず、自ら日本語の古文を学び、原典を研究している。彼に限らず、この時期のジャパノロジスト達の語学習得能力の高さには舌を巻く。ちなみにマードックは夏目漱石の一高時代の恩師である。一高では英語と英文学を教えた。漱石は、マードックをスコットランド訛りの英語で何を言っているのか分かりにくかったが、どうせ分からないことなので、と構わず飄々と語り続けるボヘミアンな先生だったと評している。よく家まで押しかけて、朝食をとっている先生と論議したり、最新の書籍の紹介を受けたりしたと回想している。漱石とマードックの交流の模様が「漱石文明論集」岩波書店刊に記述されている。後述する。
ジェームス・マードック:James Murdoch (1856-1921)略歴
1856年、スコットランド・アバディーン生まれ。アバディーン大学、オックスフォード大学、ゲッティンゲン大学、パリ大学に学び学士号、修士号を得る。
1881年、オーストラリアへ移住。
1889年(明治21年)、来日。第一高等中学英語教師に。この時の教え子が夏目漱石。
1893年、離日。
1894年、再来日。金沢の四高教師に、日本人と結婚後、1900年鹿児島の七高へ。その後教職を離れるも鹿児島に暮らし、神戸クロニクル社への寄稿などで生計。大著「日本の歴史」執筆に取り掛かる(10年以上かけて)。
1903年、最初の出版(ポルトガル人来航)
1910年、第二冊目出版(古代から足利時代)
1915年、第三冊目(徳川時代)完了。未発表。
1917年、シドニー大学日本語教授としてオーストラリアへ。
1921年、オーストラリア・シドニーで没す
1926年、「日本歴史」全三巻ロンドンにて出版
「日本歴史」:A History of Japan 全三巻
このロンドンで出版された「日本歴史」:A History of Japan 全三巻は、マードックが10余年をかけて研究、編纂に取り組んだ大作で、次のような構成になっている。
第一巻:日本の上代、古代から1542年のポルトガル人の来航まで:From The Origins To The Arrival of The Portguese In 1542 A.D.
出版元:Kegan Paul Trench, Trebner & Co.,Ltd London 1925年
初版は明治43年(1910年)ジャパンクロニクル社印刷、亜細亜協会発行
第二巻:初期の西欧との通交の世紀(1542−1651):During the Century of Early Foreign Intercourse (1542-1651)
出版元:Kegan Paul Trench, Trebner & Co.,Ltd London 1925年
初版はマードックの自費出版で明治36年(1903年)神戸クロニクル社印刷・出版
第三巻:徳川時代:The Tokugawa Epoch
マードックの没後、遺稿を基に、元イギリス長崎領事で、ロンドン大学キングスカレッジ名誉教授、ミドルテンプル法廷弁護士、英国ジャパンソサエティ副会長のJoseph H. Longfordにより改訂、編集されたもの
出版元:Kegan Paul Trench, Trebner & Co.,Ltd London 1926年
マードック先生と漱石
先述のように、マードックは漱石の一高時代の恩師である。漱石は、のちに鹿児島にいたマードック先生から、読んで欲しいと大著の「日本歴史」を受け取り、その批評と推薦を頼まれている。この頃の漱石は英国留学から戻り10年以上経っていて、東京帝大で教鞭を取るなど、当世一流の文学者、小説家として名声を確立していた。まず漱石は先生の歴史に学ぶ姿勢を真摯に受け止めている。先生は日本がこの50年で驚異的な近代化を果たしたという「現在の日本」に畏敬の念を持って、そのエネルギーの背景を理解すべく「その過去」を振り返って研究するという、漱石曰く「動物学者的な」観察者としての姿勢に感銘を受けている。アメリカのペリーが率いるたった4隻の軍艦になすすべもなく開国した日本が、そのわずか50年後には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破している。こうした急速な「富国強兵」「文明開花」を果たすことができる日本をより深く理解するために、西欧諸国との最初の遭遇(16世紀のポルトガル人の来航)から19世紀のペリー来航までの歴史をまず振り返り研究するとともに、さらにその日本という国の成り立ちと対外的な通交の歴史に関する考察を探るために、日本の上代から16世紀までの歴史を研究した。一方で漱石は、西欧における開化とはキリスト教的なカルチャーの開花と同義でなければならない、との先生の指摘に違和感を感じている。しかし、このゆえに西欧人が(キリスト教的でない開花である)日本の文明開花に驚いていること、これが西欧人の受け止め方であることを先生は指摘していることを了知し、それが正しく日本が西欧に理解されるに重要な点であることを改めて認識したと書いている。
しかし、漱石自身は、この先生の大著を目の前にして、明治維新以降、温故知新を忘れ、あたかも我々に振り返る過去はないと言わんばかりに前しか見ない日本人を、日露戦争勝利という出来事に浮かれて未来を見通す力を失っている日本人を、まさに憂えている。こうした自らの歴史を顧みることもないままに、しゃにむに突き進む日本の未来に悲観さえしている。「三四郎」の廣田先生に「日本は滅びるね」と言わせているところにもその一端が垣間見える。「一等国」などと言って浮かれていて良いのかと疑問を投げかけている。マードック先生の大著を世間に紹介するにあたって、日本の急速な文明開花に驚嘆する点はさておいて、過去の歴史を振り返り、そこから学ぶことの意義に共感すると共に、この際、それを忘れた日本の未来に対する懸念を先生に伝えたいと書いている。漱石の、時代を読む視点と目線は真っ直ぐで、まさに彼の危惧の通り、日露戦争を契機に日本は戦争の道を突き進むことになる。漱石は1916年に若くして亡くなるので、その後の数々の事変や日本の悲劇的な出来事に立ち会うことはなかったが、もし生きていたらどの様にこれを評したのであろうか。マードック先生は、漱石よりはやや長く生きた。離日後、オーストラリア、シドニー大学で、急速にアジアにおける大英帝国の脅威になりつつある大日本帝国の研究をリードし、政府のアドバイザーの役割を担うが、やはり彼も漱石が懸念した「日本の未来」を見ぬうちに、1921年亡くなっている。
また漱石の博士号辞退問題が世間の話題になった時、これを快挙としてマードック先生が賛辞を送り、世俗の名誉のために学問や文学をやっているのではない。英国でも偉大なる先人グラッドストンやカーライル、スペンサーなどが博士号を辞退しているのだから何も後ろめたがることはない。先生がそうした漱石の決断への共感を表してくれたことに感謝している。だからこそ、そのような共感の友たる漱石に大著「日本歴史」を推薦をして欲しいのだと理解し、喜んで世に知らしめたいとしている。漱石に影響を与えた外国人はロンドン留学中ののグレッグ先生を含めても、意外に少ない。そうした中、この一高時代の英国紳士らしからぬマードック先生の泰然自若たる心意気と事物を観察する眼差しに惹かれた漱石を姿が垣間見える。そして、漱石のマードック先生の「日本歴史」を手にして語るこうした短い一文の中にも、西欧人の日本への驚嘆と好奇心とは裏腹に、日本の未来に危惧を抱く漱石の心のざわめきが感じられる。
(参考)
「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店 1986(昭和61)年10月16日第1刷発行、1998(平成10)年7月24日第26刷発行
James Murdoch |
晩年の漱石(1914年) |
第一巻表紙 |
第二巻表紙 |
第三巻表紙 |
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関ヶ原合戦地図 |
大坂の陣地図 |