ヤン・ヤンソン「日本地図」1636年アムステルダム刊 |
ヤンソン図の元ネタは、アブラハム・オルテリウス「世界の舞台」掲載の「日本地図」 1606年アントワープ刊 さらにこのオルテリウス図の元ネタはルイス・テイセラ図 さらにその元ネタは「行基図」 |
ロンドンは魅惑的な街だ。大英帝国の帝都として栄え、輝けるヴィクトリア朝時代の歴史的な遺産に溢れ、それが今に生きる街。そして数々の歴史的事件の痕跡が街角に残され、社会の発展と停頓というディケンジアン的矛盾という澱が溜まった街である。このことは古書街を巡ることでも十分肌で感じることができる。古書の集積度合い。これはその国の歴史と文化の時空スケールと深さを推し量るバロメーターである。東京神田の神保町もまた然りである。ロンドン留学時代、勤務時代には、よくチャーリングクロスやセシルコートの古書店街を歩き回った。ここもまたロンドンを、大英帝国を知ることのできる迷宮である。その時感嘆したのは、ダンジョンのような店内に並べられた古書の豊富さ、濃密さもさることながら、店頭のボックスにジャンク然とぎっしりと詰め込まれた古い銅版画プリント類の山が累々と積み重なっていることだ。これらは、19世紀以前の古書に収録されていた図版や挿画、イラスト、地図で、古書として売れなくなってしまった(装丁が壊れてしまった、痛みや落丁で本の程をなさなくなった等々)ものから抜き出したものだ。写真がない時代の細密エッチングで、モノクロもあるが手で彩色された美しい風景や風俗の銅版画プリントは。コレクションとしても人気があったし、何よりもその山の中からお宝を探す楽しみがあった。気に入ったプリントをその場で額装してくれる店もあった。どれもそれほど高い値付けではなく、気楽にコレクションできるものが多かった。もちろん中にはとんでもないレアもの発見することもあった。
特に興味を引いたのは、古地図である。16世紀〜19世紀前半のイングランド、スコットランドの地方や都市の古地図はもとより、大英帝国時代のレガシーともいうべきヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの古地図まで、極めて豊富であることに驚いた。書籍の挿画として掲載されたものが多いので、比較的小型の地図が量的には中心である。それでも大型の単体地図も豊富に並んでいる。その中に日本の古地図(主に「大航海時代」のヨーロッパ人が作成した)が散見された。大体16世紀後半から17世紀前半の、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や、その後のオランダ人、イギリス人が活用したオルテリウスの世界地図帳などから抜き出したものや、その系譜の地図製作者の地図である。大抵はアジア地図、ないしはインド/オリエント地図の右端に記された奇妙な形状の「日本:Iapan」が多いが、中には日本列島を比較的正確に描いた単体地図もある。彩色されたものもある。こちらは結構な価格だ。意を決して入手したのはヤン・ヤンソン作成の彩色版の日本地図(上掲)である。これは後述のオルテリウスの地図帳に掲載されている日本地図を原図としている。
あるとき大英博物館近くの古書店を覗いていると、なんとそのオルテリウスの「世界地図帳/世界の舞台:THE THEATRE OF THE WHOLE WORLD」が無造作に店の片隅に転がっているではないか。古地図のプリントはよく見るが、こうした地図帳は珍しい。大型の重い本で、先述の各種の古地図の原本になる地図帳である。彼は1570年にアントワープで最初の世界地図帳( THEATRVM ORBIS TERRARVM:ラテン語)を刊行したのち、オランダ語、フランス語版などが刊行され、1606年に英語版: THE THEATRE OF THE WHOLE WORLDを刊行した。店の片隅にあった地図帳は、その英語版の800冊限定の復刻版(1969年)である。店主に聞くと「なかなかこういった本は売れないから安くしとくよ」と!速攻ゲットして、その重い地図帳を抱えて帰った思い出が蘇る。今思えばよくこの時手に入れておいたものだと自分を褒めてやりたい。その後二度と古書店でお目にかかっていない。
アブラハム・オルテリウス:Abraham Ortelius(1527〜1598)
オルテリウスは、16世紀に活躍した地図製作者である。まだスペイン領であったフランドル地方アントワープ(現在のベルギー)で地図職人、彩色職人を経てギルドメンバーになる。1560年にメルカトルと出会い、本格的な地図制作技術を学び、メルカトルと共に各地を旅行したことがきっかけで後世に名を残す地図製作者、地理学者の道を歩むことになる、彼の後継者がヨアン・ブラウやヤン・ヤンソンたちである。オルテリウスはスペイン人やポルトガル人のインド、東洋方面の進出の足跡の成果である世界各地域の地図を、スペインの植民地であったフランドル地方アントワープで纏め、一冊の地図帳を作り上げた。続いて東洋へ盛んに進出していったオランダ人やイギリス人が持ち込ん新しいだ地理的な発見と新しい情報も次々に反映させていった。これが先述の世界地図帳「世界の舞台」である。いわゆる「大航海時代」にあって、航海や、交易に必要な携帯に便利な地図帳への要望が高まったことは容易に想像できる。この事業は、オランダのアムステルダムを拠点とした地図製作者ヨアン・ブラウ:Joan Blaeuの大地図帳全9巻:Grooten Atlas 1664に引き継がれた。この大地図帳はオルテリウスの「世界の舞台」を元版としており、ヤン・ヤンソン:Jan Janson(ブラウの義理の息子で弟子)の日本地図(上掲)もオルテリウスの原図を利用している。そしてそれがオランダやイングランドがスペイン、ポルトガルに続いて世界に飛躍する時代の画期となったと同時に、地図作成の中心がスペイン領のアントワープから、スペインからの独立を果たし、対外進出盛んなオランダのアムステルダムに移っていったことも象徴的である。
フェルメール「地理学者」 フェルメールは発見の時代を象徴するポートレート作品として「地理学者」を取り上げている |
オルテリウスの地図帳「世界の舞台」の特色
タイトルのTHE THEATRE OF THE WHOLE WORLD(英語) : THEATRVM ORBIS TERRAVM(ラテン語)は「世界の舞台」という意味である。単に「世界地図帳」と称するよりはロマンがあり人々を夢の世界へ誘うニュアンスがあるように思う。しかし一方で、航海や交易に必要な地図をコンパクトな形で携行できるようにという実用性、いわば現場の要請に基づき編纂、製本された地図帳でもある。
1)初めての「近代的」地図帳であること。「近代的」という意味は、単なる地図の寄せ集めではなく、各地図で示される地域や国の地理学的な解説が掲載されていること、統一された方位、版型で小型本に編集したことによる。これまでもローマ時代のプトレマイオス「地理学」、ポルトラノ海図(14世紀後半)や、イタリアで編纂された地図帳はあったが、これらは発注者の求めに応じた既存の地図の寄せ集めであった。
2)1570年の初版(ラテン語版)から版を重ね、内容にも改定を加えながら1643年まで40版を重ねる、いわばロングセラー、ベストセラーとなった。収録された地図も初版は53点であったが、1593年のオランダ語版では119点にまで増えるなど、新しい情報にアップデートしてきた。またオランダ語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、そして英語と各国語の版が出されるなど出版事業としても成功した。
3)ヨーロッパで作成された地図として初めて日本地図(単体)が加えられた(古くは中国で編纂された地図には日本が現れるが)。オルテリウス世界地図帳の1595年版から、より正確な「新版」日本地図が取り入れられた(詳細後述)。
4)当時の地図製作者の名鑑が収録されており、16世紀の地図制作に関する重要史料である。
日本地図の系譜
このオルテリウスの世界地図帳に掲載された「日本:Iapan」地図を見てゆくと、ポルトガル人やスペイン人の宣教師からの情報に基づいて描かれた日本地図(オタマジャクシ型、サモサ型など)から、日本で手に入れたと思われる地図(いわゆる「行基図」)をもとにしたより正確な日本地図へと進化が見られる。初期の地図(日本単体ではなくアジア/インド/オリエント地図の一部)に現れる日本は、のちに単体で掲載されるようになった日本地図とは形状が大きく異なっている。まだ日本が未知の国で十分に認識されていない時代には、日本列島はいわゆる「サモサ型」、「オタマジャクシ型」で南北に伸びる列島と認識されていた。この頃の日本図はザビエルなどのイエズス会宣教師たちが布教のために訪問した地域、都市を中心に描かれており、琉球列島、九州、山口、四国、瀬戸内海、ミヤコの周辺に限られている。すなわち彼らが見聞した地域の地図である。逆に言えば、彼らの東洋における布教拠点、ゴア、マカオから日本への足跡を辿ることのできる貴重な布教「足跡図」とも言える。その後、イエズス会宣教師ルイス・テイセラが日本で入手したと言われる日本人による地図「行基図」。これをもとに、彼らが見聞した地域の情報を加えて作成された日本単体地図がオルテリウスにより地図帳にも採り入れられるようになる。こうして2種類の形状の日本列島図が同じ地図帳に併記されるようになったわけである。この単体日本地図は、表題に「新版日本地図:IAPONIAE INSVLAE DESCRIPTIO、IAPONIA NOVA DESCRIPTIO」と記されている。現在の北海道(蝦夷地)は見えず、朝鮮半島も「半島なのか島なのか不明」と注記がある。しかし、日本は東西に伸びる列島として描かれ、律令制による国の位置など比較的正確に記載され、かつ平戸や博多、堺などの重要な港湾都市、鹿児島、山口、ミヤコといった権力者、有力者の拠点都市、さらには新しく発見された石見銀山など、当時の最新情報が改訂版ごとに追加されてゆく。
「行基図」とは?
ところで、その「行基図」とはどのような地図であったのか。行基は奈良時代初期の高僧であるが、彼が活躍した時代に日本全体の地図が作成されていた記録はないし、またそのような現物も残っていない。日本地図の最古のものは平安後期から中世に律令制に基づく国制を表す図が初見であるようだ。これ以降に制作された地図を総じて「行基図」と呼んでいたようだが、行基が作成した地図というわけではない。しかも大和奈良中心の五畿七道ではなく山城(すなわち京都)中心となっており、時代も奈良時代のものではないことが明らかである。なのに何故「行基図」などと彼の事績であるが如く呼ばれることになったのか。直接的には地図に「行基」の名が記されていることに由来しているが、先述のような理由からこれは後世に付記されたものである。数々の社会事業をおこなって庶民を救済したとされる聖人のレガシーの一つとして「伝説化」され、後世に伝承されていった。そうした権威づけのために「行基」の名を書き入れたのだろう。超人として人々の記憶に残る吉備真備や空海、菅公の奇跡伝説にも通じるものがある。史実かどうかよりもレジェンドの事績であって欲しいという願望や権威を求める心理の表れであろう。
1)行基図は中世から江戸時代初期の日本で作られていた日本地図の総称のこと。
2)実際に行基が作ったわけではないと考えられる。
3)独鈷杵になぞらえられた形が特徴で、南を上にしたものが多い。
4)五畿七道の道や調庸物運搬日数、国土に関する情報などが盛り込まれている。
5)役割としては案内図、追儺での使用、魔除けとしてなどが考えらえる。
6)中国や朝鮮、ヨーロッパに伝わり、行基図を原図とする地図が作られた。
英語版の表紙 |
イングランド国王への献辞 |
地図の索引 |
アブラハム・オルテリウス肖像 |
世界地図 南極大陸が未知の巨大大陸として描かれている |
ヨーロッパ図 比較的現状に近い |
アジア図 右上に日本が南北に長い「オタマジャクシ型」の列島として描かれている。 |
1595年版から単体の日本地図が初めて掲載された いわゆる「行基図」が元になっている |
日本:Iapanに関する記述も詳細で、地理書としても重要な役割を果たしている。 |
1969年の復刻版の表紙 縦47cm×横31cmの大型版 |
2015年6月8日「東西文明の邂逅 知のラビリンス東洋文庫を探訪する」