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2023年2月5日日曜日

古書を巡る旅(30)Memoirs of A Captivity in Japan:ゴロヴニン「日本幽囚記」〜露西亜人が見た初めての日本〜


幽閉から解放されたのちのゴロヴニン肖像


1)ゴロヴニン「日本幽囚記」:Memoir of Captivity in Japan 英訳版第2版 1824年 ロシア人が見た初めての日本

日欧関係の歴史を振り返る時に、ファーストコンタクトのポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人、そしてセカンドコンタクトのアメリカ人、イギリス人、フランス人がよく登場する。今回は、我が隣人ロシア人による日本記録である。また、これまでの宣教師や商館長や外交使節団、あるいはお雇い外国人とは異なり、今回の主役は日本側に幽閉された帝政ロシア海軍士官である。

1811年に起きた、いわゆるゴロヴニン事件。樺太、千島列島を測量調査中に国後島に上陸したロシア海軍の測量艦ディアナ号の艦長ワシーリ・ミハエルビッチ・ゴロヴニンと数名の乗組員が日本の役人に捕えられて2年3ヶ月にわたって幽閉された事件である。この本は、彼の日本での抑留体験を回想録としてまとめたもので、さらに彼の目で見た日本観察記が付け加えられている。日本語訳では「日本幽囚記」として岩波文庫から出版されているが絶版になっているようだ。ケンペルの「日本誌」がイギリスで出版された1727年の、約90年後に出されたヨーロッパ人による日本見聞録であり、鎖国体制下の日本の「空白の90年」を埋める貴重な歴史的資料とも言える。ペリー来航の40年ほど前の出来事であり、今から約200年前の出来事の記録である。ペリーも日本遠征に当たってこのゴロヴニン「日本幽囚記」を読み、研究している。

本書は、ゴロヴニンが解放されて帰国した後、1816年に本国ロシアで初版が出版されたもの。同年にはドイツ語版、フランス語版、英語版、オランダ語版が出版された。そして早くも1818年(文政元年)には蘭学者/オランダ通詞の馬場佐十郎(貞由:さだよし)によってオランダ語版から日本語版にも重訳された。英語版はフランス語版あるいはドイツ語版からの重訳であるようだ。英訳版は1816年の初版に続き、1824年には追補、改定された第二版が出版された。手元にある本書はこの第二版である。ロシア語版との違いは、多くの追補、注記の追加がなされているほか、フランス語版訳者の解説によれば、ロシア語版には検閲による改ざんや削除があり、翻訳版のほうがゴロヴニンのオリジナル原稿に忠実だとされている。また英語版第三巻の冒頭には、英訳編集者による日欧交流史の概説(大英帝国の視点での)が掲載されている。これはケンペルの日本史の英訳版(スローン版)にも見られる点で、とくにイギリスの東洋への進出に関する事蹟を追補する形が見られる。ただ、本書の場合、英訳編集者に名前はどこにも記述がない。また英訳第二版には、この事件のきっかけとなった「文化露寇」の顛末が記録されている「フヴォストフ&ダヴィドフ日本航海記」が追加収録されている。

本書は三巻からなる。

第一巻 幽閉中のゴロヴニンの手記

第二巻 ゴロヴニンの手記の続き(解放に至る経緯が記されている)。及びゴロヴニンの後任としてディアナ号艦長となったリコルドの航海記録。リコルド・高田屋嘉兵衛によるゴロヴニン解放の交渉記録

第三巻 英訳者による日欧交流史ならびに日本解説、及びこの事件のきっかけを作った「文化露寇事件」の当事者、フヴォストフ&ダヴィドフの日本航海記

1824年 英訳第二版 オリジナルクロス装


2)ゴロヴニンの略歴

ヴァシーリイ・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニンВаси́лий Миха́йлович Головни́н Vasilii Mikhailovich Golovnin)

1776年 モスクワ郊外リャザン州グーリンキ生まれ

1790年 海軍士官学校入学14歳で海軍士官候補生に。在学中に実戦参加で活躍

在学中は、内外の航海家達の著作や、哲学、歴史、地誌、軍学、経済学、法学、文学と幅広く学ぶ。これはロシアの海軍士官学校の伝統でもあった。さらにプラトン、トマス・アキナス、ルソー、ヴォルテール、モンテスキュー、ディドロに親しみ、啓蒙主義、デモクラシーの理念や社会的・政治的思想潮流にふれた。発禁書であったプーシキンの詩篇にも影響を受けた

1793年 海軍士官学校卒業、以降ほとんどを海外での遠洋航海と海戦に参加する軍人人生を送る。

1802年 アレクサンドル一世の命でイギリス/ポーツマスへ留学。

1806年 サンクトペテルブルグへ戻り、ディアナ号艦長(中尉、大尉)に 北太平洋海域の調査目的であったが苦難に満ちた航海であった。ヨーロッパではイギリス、フランスとの緊張関係から、バルト海から出ることもままならない中、はるか北太平洋まで出かけた。

1811年 千島列島調査中に日本で捕縛され幽閉 2年3ヶ月に及ぶ抑留生活を送る

1814年 帰国 救出に奔走した副艦長のピョートル・リコルドとともに海軍中佐に飛び級

1816年「日本幽囚記」ロシア語版刊行 英語版など各国版翻訳

1817年 カムチャッカ号での世界就航へ 最後の航海

1819年 帰国 海軍大佐に昇進 帝国科学アカデミー会員

1821年 海軍准将 海軍兵学校校長補佐

1823年 海軍主計総監

1825年 露米会社取締役

1827〜30年 艦船建造指導 初の蒸気艦建造などロシア海軍近代化に貢献

1830年 海軍中将/副提督 聖アンナ勲章一等叙勲

1831年 サンクトペテルブルグに没す コレラで


3)ゴロヴニン事件とは その背景となる日露関係

ロシア帝国は東シベリアから北米(アラスカ北米植民地化を狙う)にかけての航路開拓のため、北太平洋の探検、測量をやっていた。またアラスカへの航路途中にある日本での補給のための不凍港をもとめていた。ロシアの伝統的な領土拡大戦略、「東進政策」「南下政策」である。このため、サハリン(樺太)、クリル(千島列島)、蝦夷地(松前)周辺にロシア船が頻繁に出没していた。蝦夷地、樺太、千島の開拓を進めていた幕府はこうして動きを警戒して、松前藩や東北各藩に北辺の警備の役割を仰せつけ、幕府直轄地として箱館奉行所を設けるなど、ロシア側の動きを強く意識していた。

日露通交の経緯を簡単に振り返ると、

ラックスマンの来航

1792〜3年、エカテリーナ二世の命令で、近衛中尉アダム・ラックスマンが根室に来航。大黒屋光太夫ほかの2名の漂流民を伴い、江戸への寄港を要求した。松前藩との交渉は難航したが、幕府(老中首座松平定信)からは、交易に関する交渉は長崎でのみ行うとして長崎入港許可書(信牌)が発行された。幕府は漂流民の帰国などで感謝の意を示し、ラックスマン一行はそれなりの好遇を受けた。ラックスマンはこの時は長崎には寄港せず一旦帰国するが、日本との通交に期待感が高まった。光太夫は9年にも及ぶ在露生活の中でエカテリーナ女帝にも謁見しており、帰国後は大槻玄沢や桂川甫周等による聞き取り、家斉との謁見で、ロシア事情について詳細な報告をしてる(「北槎聞略」に詳しい)。

レザノフ来航と「文化露寇」事件

ラックスマン来航から12年後の1805年、アレクサンドル一世の命令で、露米会社の代表ニコライ・レザノフが、先にラックスマンに発行された長崎入港許可証を持参して長崎に来航。仙台漂流民4名を伴い。しかし、すぐに認められると考えていた交易交渉は半年に渡る軟禁の末に結局は拒否される。ラックスマン来航から10年以上経過して幕府の方針も大きく変化してしまった(松平定信も退任していた)。レザノフは幕府の不誠実な態度に怒り、1806〜7年にレザノフの部下であるフヴォストフ大尉、ダヴィドフ少尉率いる部隊によって樺太・千島列島・利尻を襲撃させる。樺太、択捉における幕府番所やアイヌ居住地区における放火、略奪、暴行、住民拉致を行い、利尻沖では幕府御用船を襲撃、略奪して引き上げて行った(後述のように本書の第三巻末にこの事件の記録が掲載されている)。この事件は、幕府や日本人に大きな衝撃を与えた。この時、警備にあたっていた幕府や南部藩、弘前藩の警備部隊は旧式の火縄銃や戦国時代さながらの骨董的な大砲で応戦するも、近代兵器には敵わず大敗する。一部の部隊は戦線から逃げ出すなど無様な有様であった。この責任をとって前線で指揮をとった奉行が切腹するなど、幕府の武威・威信が大きく傷つく事件となった。いわゆる文化年間の「文化露寇」事件である。この事件が、ロシアは他国の主権を武力で侵害する野蛮な国、との印象を、現代までの200年にわたって日本人に深く刻み込まれることとなった。のちにアレクサンドル一世は、この襲撃の事実を知ると激怒し、フヴォストフ始め責任者を処罰する。本国の許可なき戦争であった。ちなみにレザノフは航海途中で病没していたので処罰を逃れた。しかし、幕府は突然の外国との戦争に直面してなすすべもなく、領土を蹂躙されたわけで、にわかに海防論が高まるきっかけとなった。武力に負けて開港することはできないという松平定信の意見書もあり、むしろますます外国船打払や鎖国の堅持に動いていった。「鎖国論」が言葉として共通認識化し、まるで家康以来の「祖法」であるとするきっかけともなり、積極的な対外政策、防衛体制の見直しに取り組まないまま、事件に蓋をしてしまった。「不都合なことはなかったことにする」典型と言えよう。こののち50年後には米国ペリー艦隊の江戸湾来航があり、あっという間に開国へと向かうことになる。その予兆ともいうべき事件であった。

ゴロヴニン事件 高田屋嘉兵衛とリコルド

こうしてロシアに対する不信感と警戒心が頂点に達し、北辺の警備が厳重に執り行われている最中、ゴロヴニン事件が起きた。1811年、千島列島の調査測量航海中のロシア艦艇ディアナ号が国後島泊港に薪水補給のために寄港し、乗員が上陸した。現地では最初は比較的穏便に取り扱われていたが、結果的には「上」に伺いを立て、ゴロヴニン艦長他が捕えられる。先般の露寇事件が「未解決」であることが理由である。ゴロヴニンは、調査船であること、薪水補給が目的で、直ちに出港する旨説明するも聞き入れられず、結局、松前、ついで箱館に2年3ヶ月に渡って幽閉される。その後、拘束を免れた副艦長のピョートル・リコルドと、彼に、ゴロヴニン解放のための人質として拿捕された日本人商人高田屋嘉兵衛の奔走、尽力により問題は解決に向かう。彼らの仲介による幕府、ロシア政府双方の公文書交換、交渉により、露寇事件はロシア皇帝の意思ではなかった事、責任者を処罰した事を幕府に知らせ、ロシア政府からの事件に関する公式謝罪文書が出されて、ようやく1813年にゴロヴニン達が解放された(第2巻のリコルドの記録に詳しい)。この事件の解決にこれほど手間取った背景には、国交がないとはいえ、幕府側の情報収集能力、外交交渉力の欠如があった。ロシア政府の真意の確認をせず、その結果としての事態の誤認、そしてなによりもこれに伴う意思決定の遅れがあった。こうした背景には、もちろん「鎖国」政策を長く続けたことによる「平和ボケ」「外交音痴」があったとも言えるが、そもそも幕府の消極的な問題解決姿勢に尽きる。リコルドはその記録の中で、そうした背景には、日本人が長年、長崎のオランダ人による偏った世界情報しか得ていなかったことが大きいとコメントしている。特にロシアに対する偏見に満ちた情報が交渉の妨げになった、と述懐している。そのことの当否はともかく、結局は「民間人」高田屋嘉兵衛とディアナ号艦長リコルドの尽力による日露両国への働きかけ:「外交交渉」がこの事件の解決につながった。幽閉されたゴロヴニン他の扱いによっては、再びロシアによる蝦夷地攻撃の可能性がある緊迫した事態であった。これを避けることができたのは嘉兵衛の尽力によるところが大きい。リコルドの記録によれば、ディアナ号がゴロヴニン他を連れて函館を出港する最後の場面で、ディアナ号からは「ウラー!大将(嘉兵衛のこと)」。嘉兵衛の乗った日本の見送り船団からは「ウラー!ディアナ」と、お互いの姿が見えなくなるまでに別れのエールを交換したとある。ゴロヴニンの手記にも同様の記述があり、「友人」である日本人との別れを描いている。感動的なシーンである。リコルドは帰国後、この問題解決への貢献が認められて、ゴロヴニンとともに皇帝から生涯年金1500ルーブルを受け取ることになった。一方の高田屋嘉兵衛は、幕府により「国禁を犯し」海外渡航した罪で投獄された。のちに「ロシアに拉致された」ということで許されて出獄し、見舞金5両を受け取っている。この違いはどうであろう。また、嘉兵衛引退後の高田屋は、ロシアとの密貿易云々を理由に取り潰し処分を受け、蝦夷地や千島列島の開拓に尽力した北前船の大船頭「高田屋」の名跡は嘉兵衛一代で終わる。高田屋嘉兵衛については司馬遼太郎の歴史長編小説「菜の花の沖」がある。

プチャーチン遣日使節と日露和親条約

その後は、ロシア帝国はクリミア半島の領土化、黒海、地中海航路の制海権をねらって、クリミア戦争(1853〜56年)を起こす。このため兵力をヨーロッパ側に割かれ、挙げ句にオスマントルコ帝国とそれを支援する英仏連合に敗れる。この間、日露が接触する機会は少なく、極東北辺の海におけるロシアの動きは比較的静かであったが、むしろ日本近海にはイギリス船やアメリカ船が頻繁に出没するようになる。ついには1853年のアメリカ・ペリー艦隊江戸湾浦賀への来航、1854年の日米和親条約締結、「開国」へと歩むことになる。その翌年、1855年、アメリカに遅れじとニコライ一世の遣日使節プチャーチン中将艦隊が長崎へ入港。日露和親条約締結へと繋がってゆく。この間の事情は、ゴンチャロフ「日本渡航記」岩波文庫に詳しい。ロシアのあくなき領土拡張主義と、日本の一切の外交接触を回避しようとする消極的鎖国主義との長きにわたる確執が続いた末の日露外交交渉であった。アメリカの場合と異なり、日露両国間には単に開港するというでけではなく、歴史的な経緯を有する国境線の確定という重要課題があった。


高田屋嘉兵衛
(淡路島出身の豪商 
北前船で活躍し、兵庫、箱館を拠点に国後、択捉航路を開いた)


4)日本観察記 ゴロヴニンの視点「公平な観察者の目」

読後の第一印象は、ゴロヴニンという人物は、グローバルな視野、啓蒙主義的な知性を感じるインテリジェンスあふれる海軍士官であり、本書は彼の啓蒙主義的な「公平な観察者の目」による日本観察の記録であるということである。こんな人物が帝政時代のロシアにいたのか、という驚きである。それと彼が描いた当時の日本人の姿にも驚いた。鎖国下の日本に高田屋嘉兵衛のようなグローバル思考を持ち、それに基づいて行動を取ることができる人物がいたことへの憧憬である。そして辺境の現場の役人や通訳の意外なほどの見識と判断能力の高さを知った。幕府上層部と現場とのギャップというか「リーダーは凡庸でも、現場は凄い」をここでも感じた。そして最初の不幸な出会いによる憎悪と侮蔑の感情は、時間を経てコミュニケーションを重ねるに従って、相互の共感とレスペクトの感情に変わってゆく。その様な感情の変化は、のちのタウンゼント・ハリスやアーネスト・サトウの記録にも現れる。それなのになぜ日本とロシアはすれ違ったままなのか。色々考えさせられるきっかけとなる本書である。

ゴロヴニンの観察は、乏しい語学力と限られた人脈(通訳、牢番、箱館奉行所や松前藩役人)の中での、彼の高い情報収集能力、鋭い観察眼、公平な評価 レスペクトを持った対人関係に基づくものである。彼が若い頃から研鑽を積み、長い航海の中で磨き上げてきた素養がこういう場面で能力を開花させるのだろう。また間宮林蔵とも面会している。ロシア語を教える一方、測量技術や世界情勢についての意見交換を行った。しかし間宮は幕府のスパイであり、また測量技術習得が目的で近寄ってきた人物だ、と鋭く指摘している。また日本政府(江戸幕府)の海外情報はオランダ人の偏見に満ちた情報源に依拠しており、貿易でも粗悪品を高く買わされている。オランダ商館に完全に牛耳られた貿易(幕府自身は幕府主導の管理貿易体制とみなしていたが)と、外交意思決定プロセスを決定づける情報の質を痛烈に批判している(先述のリコルドも同様のコメントを記述している)。

一方で、彼の回想録からは当時の日本人の教育レベルの高さ、識字率の高さはもちろん知識の豊かさが感じられる。先述のように、通詞はもちろん、牢番にも高い教育があったし、彼らは単なる下僕ではなく、サムライであると認識している。庶民階層も日本の法律や政治情勢、また海外の動向にも一定の知識を持ち、少なくとも大いなる関心を示すだけの好奇心があること。またロシア語を学ぶ若者達の熱意と吸収力にも驚嘆している。先述の本書の日本語訳を手がけた蘭学者馬場佐十郎も彼にロシア語を学んでいる。そうした日本人の知的好奇心の旺盛さに驚嘆した様子が読み手にも伝わってくる。

ゴロヴニンは彼自身がかつて感じた、西欧人が持つ日本に関する偏見に満ちた知識や、いびつな理解はどこから来るのか?と考えた(本書の序文に、この疑問が執筆するきっかけの一つであったと記述している)。そしてそれは、17世紀に日本から追い出されたカトリック宣教師達の反日プロパガンダや。出島に幽閉されて「貿易」に携わっているとするオランダ人による偏った日本観が基になっていると断じている。彼の2年半の滞在、しかも囚人として理不尽な扱いを受ける幽閉された時間においてすら、そうした西欧におけるステロタイプな概念とは異なる日本人像を得ている。先述のように、彼がコミュニケーションした人物は、インタビューに来た蘭学者やインテリジェンスある若者もいたが、おもに牢番や通訳、箱館奉行所や松前藩の役人であったが、こうした限られた日本人から得られた「日本人像」が、すでに既成概念から遥かに離れたものであった。囚われ人として受けた理不尽で耐え難い扱いにもかかわらず、憎悪と敵愾心ではなく、冷静な観察と相手へのレスペクトがあった。日本人の高い教育と礼儀正しさは、母国の庶民階層のそれとは異なると理解した。庶民にまで教育が行き届いていることへの驚き。文化的には、上流階級の知識/教養/道徳観、さらには詩歌や芸術はロシアの方が上だが、庶民のそれははるかに日本の方が上だとも書いている。

日本人の通訳と、こんな会話をした時のエピソードが記されている。豊かな国がいくつにも別れていて互いに戦争しているヨーロッパの状況を聞いた通訳が、そのヨーロッパと日本の比較して、「豊かだが争いの多い大きな町」と「貧しいが人々が助け合って暮らす田舎」と、どっちが良いと思うか?という問いを投げかけてきたという。これにゴロヴニンは、ヨーロッパでは戦争もするが、お互いに門戸を開いて情報を交換し、人が交流し、交易し、技術を競争しあって発展している、と答えたが、それ以上の説得力ある答えを彼に示すことは出来なかった、と。人の話や情報を鵜呑みにせず、自分なりの批判的な理解と解釈を持ち、それを相手にぶつけて議論を試みる。これがデモクラシーを知らない封建的身分制のもとで育った人々なのであろうか。ゴロヴニンでなくとも、現代の日本人にとっても、この「江戸時代人」の意外な姿に驚きを禁じ得ない。

一方で、ゴロヴニンは日本人には、勇気、勇敢、度胸、不屈の精神といった資質が欠けているのではないか、と書いている。これは露寇事件のときの日本側の無様な敗北から得られた印象であったのであろう。しかし、それは根本的な潜在能力の欠如ではなく、また日本人が生来臆病であるとは言えないとも書いている。なぜならば、それは単に長く戦争がなく平和で安息を得られる生活に身を委ねてきたからである。有事の準備ができていないからだと。いざとなればたちまちその潜在能力を発揮するだろうと。その惨めな文化露寇事件から90年後には、かのロシア帝国が誇るバルチック艦隊を対馬海峡に沈め、爾霊山(203高地)を奪取し、旅順港、奉天を陥落せしめた日本の姿があった。彼の観察の正しさを見事に証明することとなったわけだ。ただ、対露戦勝利をきっかけに日本帝国が戦争への道を突き進み、最後は無惨な敗北を喫することになることまでは予見する術もなかった。日本の外交戦略に枢要な目線と世界観の涵養は今なお課題である。

日本が西欧流の知見と技術や制度を取り入れたら、数年の後には東洋の王者となり、後には西欧諸国を脅かす存在になるだろう。そうなれば清国も同じ方針を取らざるを得なくなり、この2つの東洋の帝国はすぐにでもヨーロッパ情勢を別に局面に塗り替えてしまうだろう、と予見している。このゴロヴニンの洞察の意味は、残念ながら今は様々な理由からその真価が見失われている。ロシア人は1904年の日露戦争敗北を目の当たりにして、あの時のゴロヴニンの指摘をなぜもう少し真摯に受け止めなかったのかと後悔したのかもしれないが、その後の対日観にも、このゴロヴニンの視点と理解が生きているようには思えない。一方、日本でも、ロシアに対する拭えぬ不信感がこの200年の間に植え付けられてしまった。かつ領土的野心を露わにする「仮想敵国」への不信感はいまだに払拭されていない。ゴロヴニンの、理不尽な逆境にあってもなお日本人への人としてのレスペクトと鋭い洞察と公平な評価を思い出し、そのようなロシア人の存在を思い起こすべきであろう。また彼は、手記の中で、日本の役人がロシア皇帝からの謝罪文に皇帝のサインがあることを確認すると、全員が皇帝のサインにむかって最敬礼をした、と書いている。お互いが信頼し合ったときに、相手へのレスペクトが生まれ、最後は「友人」として別れることができた。彼が偉大な英雄として後世に名声を得たのは、理不尽な幽囚からの解放を勝ち取った冒険者だからではなく、幽閉中に示された日本人の露骨な憎悪の中においても、その行動を理解し、それを許すという理性的な公平さを示したからであろう。そして彼の観察と予見が、その後の歴史をみれば的確であったことが証明されたからでもある。また高田屋嘉兵衛とリコルドの人間としての相互のレスペクトと信頼関係が問題の解決に繋がったという、彼らが我々に残した教訓にも学ばねばならないだろう。国と国の関係は人と人との関係によって規定される。


5)ロシアというパラドックス

それにしても、こうしたゴロヴニンやリコルドのような、啓蒙主義的知性を備え、「公平な観察者の目」を持ったロシア人のイメージが、この200年でなぜ消え去ってしまったのか。いや、日本人にとってレザノフの部下による理不尽で残虐な事件による負のイメージが200年も歴史観の基層に巣食い、このゴロヴニンにような「目」を日露両国の人々が共有することなく、不信感と憎悪を修正できなかったのは何故なのか。歴史的には、明治維新の後に、いみじくもゴロヴニンが予見したとおり、いやそれ以上に日本が軍事的大国として成長し、ついには暴発して世界平和の脅威になったことにも原因があるだろう。また、ロシアの伝統的な南下政策という領土的な野心に加えて、ロシア革命による共産主義国家ソビエトの登場が世界平和の脅威となったことも原因であろう。また、日本人がかつて経験した「受け入れ難い体験」を忘れることができないからかもしれない。今でもソ連に不法占拠された北方領土問題(まさにゴロヴニンもリコルドも日本の領土だと認識していた島々)が解決していないことにも原因がある。日露両国は隣人ではあるが、残念ながら真の友好国になったことはない。しかし、そんな政治的緊張関係や歴史の記憶もさることながら、ロシアにおいては帝政ロシア時代に花開きつつあった西ヨーロッパ的な啓蒙主義の思想や文化や、デモクラシーの萌芽、そうした教養を備えた人物が十分に育たず、あのロシア革命で抹殺されてしまったのではないだろうかと、最近考えるようになった。ゴロヴニンやリコルドのような人間はどこへ行ってしまったのか。あの頃は軍人の中にもこういう人物がいたではないか。トルストイやドストエフスキー、チャイコフスキーのようなヒューマンでおおらかなロシア人はどこへ行ってしまったのか。国家としての過ちを認め、皇帝が謝罪するロシア。そういう観点で振り返ると、ロシア革命は何をなしたのか?何を失ったのか?スターリンのような独裁者と恐怖政治を生み出しただけか?その結果、近代民主主義国家が共有する「共通の価値観」を共有できない国家になってしまったのではないか。さらにその「共産主義革命」という歴史的な実験の破綻が、近代民主主義国家に転換する事に繋がらず、歪(いびつ)な社会と価値観を生み出し、再びプーチンのような怪物が登場することになってしまった。嗚呼!大ロシア主義。時代錯誤と笑い飛ばすにはあまりにも悲劇的であろう。ロシアにとっても世界にとっても。ロシア帝国海軍士官ゴロヴニンは今のロシアと日本と世界を見てなんと言うだろう。


参考ブログ:

日露戦争奉天会戦のクロパトキン将軍による「敗軍の将、兵を語る」書。この敗戦を記録し、後世のために残したロシア軍人の矜持。そして、当時のロシアはこのような出版ができた国だった。ロシア革命の8年前のことであった。

2022年3月21日 戦争の只中に「敗軍の将兵を語る」書と遭遇する





第一巻 表紙
英訳第二版 1824年


第三巻 日本観察記

第三巻 「フヴォストフ&ダビドフ航海記」
文化露寇事件の当事者による記録


参考図書:

「日本幽囚記」ゴロヴニーン 井上満訳 岩波文庫 (絶版)

「日本幽囚記」ゴロヴニン 斉藤智之訳 私家本

「菜の花の沖」司馬遼太郎 文藝春秋