三十六歌仙の一人として描かれた 大伴家持 どう見ても平安貴族の出立ちだ (Wikipediaより) |
大伴家持 越中国司として赴任中の姿をイメージした像 こちらの方が平城京の官人らしい (高岡万葉歴史館HPから拝借) |
毎週楽しみにしていた、NHK ラジオの「古典購読」「歌と歴史でたどる万葉集」50回シリーズが3月で最終回を迎えた。東京大学の鉄野昌弘教授の解説は充実していたし、加賀美幸子アナウンサーの朗読は、独特の抑揚に品格を感じてなかなか面白かった。特に最終章に近づくにつれ、万葉集という歌集の性格が微妙に変化してゆく様子を感じ取ることができ、その中心にいたのが大伴家持であったことを知った。その歌とその時代背景を知るにつれて家持という人物に興味を持つようになった。そして万葉集という「謎の和歌集」の発する古代史メッセージを垣間見ることができた。
万葉歌人 大伴家持
大伴家持は、万葉集には長歌、短歌含めて473首(全体の約10%に当たる)が収録されている代表的な万葉歌人である。後に三十六歌仙の一人に選ばれ、後世に記憶される日本の代表的な和歌詠みの一人となった。万葉集は日本最古の和歌集であるが、その編纂経緯も編纂者も完成時期も解明されていない謎の多い歌集である。全20巻、飛鳥時代から奈良時代までの約4,500首が収録されている。舒明天皇から、天武/持統帝の時代の初期の巻には天皇やその宮廷への賛美の歌が多いが、後の時代になるに従って、恋や別れ、人生の喜びや悲しみなど詠み人の私的心情を歌ったものが断然多くなる。万葉歌人として登場する代表的な詠み人たちは、初期には額田王や、天武朝時代の柿本人麻呂、平城京遷都の後の山部赤人などもそれほど身分の高い貴族や高位高官ではなく、天皇行幸に付き従った中・下級官僚である。しかし彼らは、いわば歌のプロフェッショナル、「宮廷歌人」として天皇や朝廷、その治世を寿ぐ歌を多く歌った。中期になると大納言太宰帥の大伴旅人、筑前国守の山上憶良(遣唐使帰りの知識人であった)が、さらに後期になると旅人の息子の大伴家持が代表的な歌人として登場する。この頃になると「詠み人知らず」の歌も多く採られ、都だけではなく広く全国から歌が集められている。彼らは主に下級官僚や、名もなき庶民である。地元に伝わる伝承や物語を歌ったもの、東歌や、東国から徴発された「防人」の歌が登場するのもこの頃である。これらを採録したのは家持である。特に万葉集の巻17から巻20までは家持の「歌日記」と呼ばれているほどで、こうした撰録、編集に大伴家持の果たした役割は大きく、万葉集を最終的にまとめたのは家持であろうと言われている。その大伴家持は、718年(養老2年)生まれ。父は同じく万葉歌人として著名な大宰帥、大納言の大伴旅人である。母は丹比郎女。実際の養育は大伴坂上郎女。妻は大伴坂上大嬢。すなわち家持は名門大伴一族の出である。
大伴氏とは
大伴氏は、神代からの天皇側近で軍事部門の名門一族である。物部氏も軍事氏族であるが、大伴氏は天皇親衛隊、物部氏は国軍と役割が分担されていた。大伴一族は5世紀〜6世紀に活躍した大連大伴金村の時代が最盛期であった。皇統が武烈天皇で断絶したが、越前から応神天皇第5世孫であるヲヲド王を皇嗣として招請。継体天皇として樟葉宮で即位させた功労者とされている。512年、朝鮮半島任那4県を百済に割譲。さらに527年の筑紫岩井の乱では物部荒甲火とともに平定。しかし任那4県を喪失したことが倭国権益を害したとして物部氏により失脚させられ、政界の表舞台からは姿を消す。それ以降は物部氏と蘇我氏が権勢を振るう時代に。やがて廃仏/崇仏論争をめぐり物部氏が失脚、蘇我氏の時代に。しかし乙巳の変で蘇我宗家が滅びて以降は中臣氏、のちの藤原氏の時代へ。こうした飛鳥時代、奈良時代の政界勢力図変遷の中で大伴氏は政界の頂点に立つことはなかったが、朝廷を支える重要氏族として命脈を保ち続けた。
名門一族の長、官人、貴族そして政治家 大伴家持
奈良時代に、大伴旅人からその一族の当主を引き継いだのが大伴家持である。万葉集に最も多くの歌が収録された優れた万葉歌人であることは改めて述べるまでもないが、聖武、孝謙、淳仁、称徳(重祚)、光仁、桓武の六代の天皇に仕えた官人、貴族である。奈良時代の平城京政界にあって、権勢を振るう藤原一族の対局にある有力氏族の長として、影響力を有した政治家でもあった。それゆえに反藤原氏勢力からは大いに期待される存在であり、その結果として、本人が望むとの望まざるとに関わらず、多くの政治的な事件や陰謀に巻き込まれることとなった。このように家持は、万葉歌人としての顔とは異なる、官人、政治家としての顔を持つ。そこに、奈良時代の政治情勢、朝廷という大きな官僚組織の中で歴史に翻弄された一人の人間としての家持の姿が見えてくる。そうした立場からくる歌が万葉集にも多く含まれている。そう見ると万葉集を読み解く視点も異なってくる。文学作品としての和歌とは異なる、生々しい平城京政治情勢の歴史が、その和歌から読み取れる。
(経歴)下線部が家持の経歴
29歳の時、中務省の内舎人として官人(官僚)キャリアをスタート。 元正太上天皇、聖武天皇、 左大臣橘諸兄の部下として洋洋たるスタートであった。
光明皇后、阿部内親王。藤原仲麻呂との対立 738年に天然痘大流行で藤原三兄弟没
越中守 従五位下(746年)地方勤務へ 万葉集に越中時代の歌多数
聖武天皇譲位、孝謙天皇(阿部内親王)即位(749年)聖武太上天皇に 光明皇后と藤原仲麻呂が政治の実権を握る
少納言(751年)帰京 巻19巻頭、巻末に秀歌、しかし越中時代に比べ数は激減
兵部大輔(兵部省の次官)(757年)この頃、難波で防人の管理の任に 防人の歌を他数選定
反藤原仲麻呂のクーデタ、「橘奈良麻呂の乱」に連坐 大伴一族の多くが流罪、追放 家持自身は罪には問われず(757年)
孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位(758年)孝謙上皇が親政
因幡守(758年)に左遷?大国の国司ではあるが 万葉集最後の歌
朝廷の重要ポスト信部大輔に復帰(762年) 仲麻呂の推挙による?
密告により藤原仲麻呂(恵美押勝)暗殺計画に連座 しかし放免(762年)
薩摩守に左遷(764年)
「藤原仲麻呂の乱」(764年)仲麻呂殺害サル
淳仁天皇廃帝 称徳天皇重祚(764年)
大宰少弐に留め置かれる (767年)
称徳天皇の寵愛に取り入り皇位を狙ったと言われた「弓削道鏡事件(宇佐神宮御神託事件)」と道鏡の流刑(769~770年)
称徳天皇崩御 光仁天皇即位(770年)
再び中央政界に復帰 左中弁・中務大輔(770年)24年でようやく正五位下に昇進
式部大輔・在京大夫・衛門督、伊勢守、上総守、従四位下、従四位上、正四位下と順調に昇進(771〜778年)
参議(780年)従三位 公卿に列せられる
桓武天皇即位(781年)皇統が天武系から天智系へ 渡来系の母という傍流 奈良仏教勢力の排除 藤原系、大伴系などの排除 百済王氏一族を重用 光仁天皇を始祖とする新王朝(中華風易姓革命)遷都企画
「氷上川継の乱」(782年)で解任、復帰
この頃、家持により万葉集20巻完成(782年)しかし、直ちには公にはならなかった
中納言(783年) 桓武の実弟 早良親王の春宮大夫
長岡京遷都(784年)仏教寺院の移転を禁止
持節征東将軍・蝦夷征東将軍(784年)蝦夷の平定
陸奥接檫使鎮守府将軍として多賀城で死去(785年)遙任官として平城京で死去という説も
死の翌年(786年)、桓武天皇の寵臣で、造長岡京司である藤原種継の暗殺事件。早良親王は無実を訴え断食死。長岡京遷都に反対する反桓武天皇派の大伴系官人と早良親王の春宮大夫官人が関わっており多くが流罪。
一族の長である大伴家持の関与を否定できないということで、死後にも拘らず官籍除名、家財没収、埋葬不許可
平安京遷都(794年)長岡京廃都
家持没後21年、平城天皇即位に伴う恩赦で従三位に復す(806年:延暦25年)
この頃、万葉集が完成?とする説。あるいは発見?説。これは家持の死後、没収された家財の中に「万葉集」遺稿が見つかり、これを書写して公になった、とする説。この場合、誰が書写、公表したのか論争あり。いずれにせよ平安時代以前には万葉集は世の中には知られることはなかった。
皇位継承争いに翻弄された人生
それにしても見ての通りの「花も嵐も」の波乱に満ちた人生である。6代の天皇に仕え、その間、中央と地方を行き来し、皇位継承を巡る政争や反乱事件で連座、左遷、復帰を繰り返し、昇進が24年も塩漬けになったかと思うと、天皇が変わるとトントン拍子で出世し、公卿(貴族)になる。その間絶えず陰謀に巻き込まれて解任されたり復職したり。驚くほど浮き沈みの激しい人生を送った。挙げ句の果てに、死んでからも官位剥奪されるなど、まさに激動の時代に翻弄された。聖武天皇の皇位継承問題が尾を引いて、孝謙天皇、称徳天皇重祚の時代は密告、讒言が飛び交う混乱した時代であった。藤原仲麻呂(恵美押勝)や弓削道鏡のような皇位を窺うような人物が登場するなど、権力中枢に問題多発の時代に、大伴氏一族の名誉をかけての壮絶な家持の戦いがあったことが偲ばれる。絶えず藤原氏という(大伴氏からみると)新興の氏族が政敵として立ちはだかり、大伴氏の血脈を守り、家名を汚さず、朝廷におけるポジション確保をかけて家持は苦闘した。勇ましい武勇伝や、華々しく脚色された事績が記録されることもなく、ひたすら隠忍自重しながら天皇への忠節と家名を守る一生だった。そんな政治家家持が万葉歌人として秀歌を生み出し、その編纂に重要な役割を果たしたのである。家持の没後、平安の時代になって万葉集がようやく世に現れ、家持も歌人として「三十六歌仙」の一人として列せられることで後世に記憶されて、ようやく平和な名誉を回復したと言えるのかもしれない。
このように名門氏族の長であったから、いやでも政争に巻き込まれ、藤原氏への対抗軸、皇位継承争いの一方の勢力に担ぎ出される運命にあった。密告により4回もの「反逆事件」に悉く関連付けられたのは、家持自身の本意ではなかったかもしれない。しかし、多くの大伴一族が事件に連坐し処罰されたこともあり、家持は一定の距離をとって政争に巻き込まれることを警戒していたし、密告、讒言に巻き込まれて大伴氏を危機に巻き込まないよう、一族に言動に気をつけるよう諭してもいる。しかし、それでも敬愛する上司である左大臣橘諸兄を讒言で辞任に追いやった阿部内親王、藤原仲麻呂に対する怨念は燃やし続けた。ただ、やはり、かつての大伴氏の長であったの古麻呂、安麻呂などの大物に比べると、家持にそれだけの政治的な影響力を発揮する力量はなかったとの評価もある。しかし、彼の父である旅人も、遠く太宰府にいて中央政界の激震(長屋王事件)に何らの影響力を行使できなかったことを嘆いたように、権勢を振るう藤原一族の前には、いかに大伴一族が古来からの名門とは言え、すでに政界をリードする力はなく、反藤原抵抗勢力として担ぎ出されることはあっても、家持に「政権交代能力」を求めるのも無理であろう。むしろ大伴氏が滅亡の道を歩まぬようその命脈を保ち、後世に一族を存続させた功績は評価されるべきかもしれない。物部氏や蘇我氏と異なり、中世、近世まで一族の系譜が連綿と続いたのだから。
家持から見える万葉集の性格
万葉集の歌の中に、家持の置かれた政治的な立場や心情に根ざした歌も多くみられる。歌人としての家持の繊細な感性と評価と、官人、政治家としての能力と評価とは必ずしもリンクしないが、彼の歌の背景には生々しい政治の世界に身を置く家持の官僚、政治家としての姿があったことは否定できない。聖武帝退位ののち孝謙帝時代の歌は、必ずしも天皇に奏上された歌ではなく、むしろ遠ざけられていたことを示す歌が多い。越中時代の歌は、友が去り、都を思う「孤独」の歌が多いが、望みかなって帰京してからは、家持の代表的な秀歌(巻19の巻頭、巻末の歌群)が現れるものの、これまでと比べ数が減り、むしろ「孤立」を歌ったものとなる。これは家持の都における政治的な立場の表れと見られている。万葉集にはそうした朝廷における様々な政治抗争にまつわる歌、特に無実の罪で死に至らしめられた皇子(大津皇子のような)への挽歌も多く集録されており、万葉集が読み人の心情をおおらかに歌う文学書、歌集としての性格だけでなく、政治抗争の世界が反映された「歴史書」としての性格を持っていることを示している。しかし他の歴史書と異なるのは、万葉集が「勝者による歴史書」ではなく、いわば家持という政治的な「敗者による歴史書」である点だろう。正史として編纂された日本書紀や、古事記、続日本紀からは読み取れない、ある意味で生々しい歴史の鼓動が和歌という形で表現されているのである。家持の歌は「橘奈良麻呂の乱」で左遷された因幡国時代の歌が最後で、それ以降、中央復帰してからの歌は採録されていない。おそらく歌は多く詠んだに違いないのだが、むしろ称徳帝崩御、代替わりによって中央でようやく順調に出世階段を昇り始め、公卿にまで至った時期の歌が見えない。また、家持が事実上の万葉集の編者であり、彼が公卿となった後、782年に完成したと言われているにも関わらず、実際には彼の死後の平安時代に入った806年まで世に出ることがなかった。なぜこのいわば国家的事業としての歌集編纂が頓挫したのか。藤原種継暗殺事件の影響を指摘する説もあるが、万葉集の成立経緯の背景に横たわる政治情勢がこの長い雌伏の時間を産んだと考えられるだろう。万葉集に採録されなかった(ないしは削除された)家持の歌があったのかもしれない。万葉集の謎の一つである。そもそものちの時代の古今和歌集や新古今和歌集が、勅撰和歌集であり、選者も撰録経緯もはっきり記録として残されているのに対し、万葉集は序文もなく選者や撰録の経緯を知る手立ても残っていない。「万葉集」という名前の由来すらはっきりしていない。国家的な詩歌編纂事業として舒明帝の時代に遡って和歌の選定が始まったのだが、奈良朝末期には、ややそうした企画が放棄された嫌いすら感じる。結局、家持が過去に遡って再編纂を手がけ、現在残る形にまとめたと考えられている。平安時代になってようやく歌集として日の目を見ることができ、そしてそのことが皮肉にも(意図せず)政治的敗者の側から見た歴史書として残ることとなった。万葉集はこのように日本書紀や古事記のような正史とは異なる歴史的メッセージが込められているのだ。それは偶然の出来事であった。このように「政治家家持」の生きた時代背景を知ることにより、「万葉歌人家持」の実像が描き出せるとともに、それが万葉集という、謎の多い日本初の和歌集に、意図せず歴史的なメッセージが込められていることに気づくことつながる。
「泣くな家持くん!」
家持の人生を現代のサラリーマン社会に準えるならば、毛並みの良い名家出身の御曹司が、社内派閥による社長レースに巻き込まれ、社長が変わるたびに上司が変わり、栄転、左遷を繰り返す。ライバルにチクられては辺地の支店に飛ばされ、ライバルが失敗して蹴落とされされると、再び本社の陽の当たるイスに復帰するという転勤人生。花も嵐も踏み越えて、その苦労、その悲哀。でもなんとか最後は取締役まで上り詰め、画期的な全社あげての文化事業?も完成させた。こうして大伴家の名誉を守り、後世に名を残した苦労人、と勝手なアナロジーを妄想すると、まるでサラリーマン小説を読んでいるようではないか。身につまされる現代サラリーマンも多いことだろう。いや「事実は小説よりも奇なり」である。しかし、人はあなたを優れた歌人として記憶している。権謀術数に翻弄され切歯扼腕、涙した「サラーリーマン」としてではなく。大伴家持 偉大なり!
最後に、家持の代表的な歌は多数あるが、聞き覚えのある長歌の一部を紹介したい。
「... 海行(ゆ)かば、水漬(みづ)く屍(かばね)、山行(ゆ)かば、草生(くさむ)す屍(かばね)、大君の、辺(へ)にこそ死なめ、かへり見はせじ... 」
戦時中、ラジヲから盛んに流れたこの歌は家持の歌だったのだ。命を賭して天皇に忠節を誓う武門の氏族、大伴氏の心情を歌ったものだ。しかしこの部分は、聖武天皇の大仏建立事業に必要な金が陸奥で発見されたことを寿ぐ長歌の一部である。戦時中はこの部分だけが切り取られて天皇への忠誠と戦意高揚に利用されたというわけだ。