「関東の小京都」、「小江戸」、「関東の倉敷」、などと称される栃木。美しい蔵の街だ。この憧れの街についに足を踏み入れた。しかし、古い街並を訪ねるたびに思うが、こうした地方に残された昔ながらの美しい町を、安易に京都や江戸や倉敷になぞらえるのは,「いかにも」な観光キャッチだと思う。栃木はその歴史的経緯から観ても、地理的な立ち位置から観ても、その町の果たした役割から観ても、京都でも江戸でも倉敷でもない。江戸時代は案外、地方が繁栄していた時代だったのかもしれない。すくなくとも経済の東京一極集中、文化の京都一極集中、なんてことはなかった。それぞれの藩がある意味独立し、独自の経済圏、文化圏を誇っていた。そうした地方分権体制が、実は徳川幕藩体制の実態であっのかもしれない。地方には必ずその地域の中心として栄えた街があった、それは城下町であったり、在郷町であったり、宿場町であったり、農村の物資の集散地であったり,門前町や寺内町であったり。
そうしたかつて栄華を誇った「田舎町」は、時の流れの中で起こった「都会一極集中」のせいで、人がいなくなり、忘れ去られ、もぬけの殻になった。しかし、皮肉にも、その繁栄の記憶と、美しい町並みはタイムカプセルに閉じ込められ、奇跡のように今に残った。そのタイムカプセルを開けるワクワク感。時空の扉を開けて一歩中に入る瞬間、中から、長い時の経過とともに熟成された濃厚な景観が姿を現す。「田舎」と「都会」という二分法。「衰退」と「繁栄」の代名詞のように語られる二分法である。しかし、そうかな? 時の経過、価値観の大きな変化とともに、そろそろ人の流れが変わりつつある。
栃木は、巴波川(うずまがわ)を利用した舟運により物資の集散地として栄えた。室町時代には城下町であった事もあるそうだが廃れた。その後に日光東照宮造営に際し、江戸や全国から運ばれた材木や,建築資材が利根川、渡良瀬川、巴波川を通じて栃木に陸揚げされ、日光へと運び出される物流拠点として発達した。さらには、造営なった東照宮へ、勅使が通行する日光例幣使街道の宿場町としても発展し、水運、陸運双方の流通拠点として繁栄した。今では,静かな地方都市だが、当時は豪商が軒を連ね、見世蔵が立ち並ぶ殷賑な商都であったことだろう。往時の繁栄が偲ばれる蔵の町並みであるが、耐火性に配慮した建物は、幕末の動乱期に水戸浪士(天狗党)により街が焼かれた教訓から建替えられたもので、現存する約200棟の蔵や40棟の見世蔵などの多くは比較的新しいもののようだ(といっても幕末から、明治、大正の頃だが)。
豪商がいれば、芸術文化のパトロンがいるのは古今東西共通のならわし。江戸時代も後半になると、江戸や全国から絵師や俳人などが栃木に集まっていたという。あだち好古館には多くの浮世絵や錦絵の原画が濃密に展示されている。最近の話題は、喜多川歌麿が描いた晩年の大作で、しばらく行方不明になっていた、「深川の雪」が発見されことだ。歌麿は度々栃木に招かれ,長逗留をしては数々の作品を残したらしい事が分かっている。「深川の雪」は「品川の月」「吉原の花」とで3部作になっており、江戸の代表的遊里と自然の美を組み合わせる粋な趣向の3作品は、明治半ばフランスに流出。「品川の月」「吉原の花」がさらにアメリカへ渡っている。「深川の雪」だけ日本に戻ったが、戦後行方不明となっていたもの。その3部作,実は栃木で描かれたものではと言われている。当時、華美禁止、風紀粛正でにらまれた歌麿が、幕府の追求の眼を逃れて栃木に潜伏して描いたと考えられているのだ。当時の栃木という土地のステータスを物語るエピソードだが、真相は依然謎のままだ。現在、この3部作の原寸大のレプリカが、栃木市役所に展示されている。発見された本物は、箱根の岡田美術館に展示されている。
やがて、明治維新後の廃藩置県では、栃木県庁は栃木町に置かれた。現在残る明治期の近代建築、栃木市役所別館(旧栃木町役場)のあるところが県庁所在地であった(今も県庁堀が残っている)。その後、隣の宇都宮県を合併し、新たに栃木県となるが、いろいろな経緯で県庁は宇都宮に移った。栃木の商都、地域政治の中心としての役割は徐々に終焉に向う。こうした地方の常で、明治の近代化や、戦後の高度経済成長に取り残された街には,「破壊」の魔手が及ばず、美しい町並みが残る。とはいえ、栃木市は今でも人口8万を数える地方中核都市だから、過疎に悩む町村とは異なる。同じ蔵の街として有名な、川越のように、東京に近くて、週末毎に大勢の行楽客が押し掛ける訳でもなく、蔵の街大通りもゆったりとした歩道が整備されていて,散策が楽しい。ごった返す歩行者の横を車の列がすり抜けて行くせわしなさはない。
平成24年、栃木市の嘉右衛門町地区が「重要建造物群保存地域」に指定された。日光例幣使街道の宿場町として発展した地区だ。名主であった岡田家の邸宅や陣屋跡、別邸などがよく保存、整備されている。補助金が出るようになって、街道沿いの建物の修復工事が至る所で進められている。かなり壊れてしまった町家や、完全に今風に建替えられてしまった建物も多く、早急な修景保存が必要であったのだろう。一方で、550年続く名家の岡田家のように、子孫の方々の努力で(あるいは財団法人化し)、広大な建物や敷地を維持し、一般公開して入場料収入でなんとか繋いで行っている。しかし、こうした個人の努力には限界があるだろう。巴波川沿い、大通りの豪邸、商家、見世蔵も大変なんだろうと思う。建物の維持保存だけではなく、そこに住み、代々続く商売を維持しながらの生活、ここには別の形のsastanabilityやbusiness continuityの問題がある。いつも感じる「景観/修景保存」につきまとう課題だ。
これまでに、佐原、川越、大和今井町、宇陀松山、大和五条新町、富田林、近江八幡、伊勢関宿、えひめ内子町、土佐赤岡、筑後吉井、八女福島、筑前秋月、日田豆田町、播州竜野、倉敷、津和野と古い町並みを巡った。「時空トラベラー」冥利に尽きるタイムカプセル探訪だ。そして、いつも感じるのは、そこに住む人々の鷹揚で、暖かい「もてなし」の心だ。その町が人をそうさせるのであろうか? ここ嘉右衛門町でも、地図を持ってウロウロしていると、すれ違う御婦人が「岡田記念館はこの先ですよ〜。ゆっくりしていってくださいね〜」と声をかけてくれる。岡田記念館の御婦人は、丁寧に丁寧に中を案内してくれる。最後に、いかにこうした施設を文化財として保存、維持してゆくことが大変かを、微笑みながら話してくれる。愚痴めいた話ではなく、誇りを感じている話し振りである。慌ただしく急ぎ足で巡ることは出来ない。地元の方々とコミュニケーションする時間を充分に用意しておく事だ。ここには別の時間がゆっくり流れているのだから。こうしたちょっとした非日常体験に、忘れていた我を取り戻すことも出来る。不思議な「時空」だ。これからも,未知の町を求めて探訪を続けたい。
『ここで話題を変える。タイムマシーンを加速して、時代をぐ〜んとさかのぼろう。』
私のもう一つの「時空旅」のテーマである、稲作農耕文化が広まった弥生時代や、その後のヤマト王権確立プロセス、すなわち「倭国」の時代には、栃木県や群馬県は、どのような歴史を歩んだ地域だったのだろうか? 西日本中心の古代史観では,関東地方、東国は、遥けき「遠国」、歴史の霞の中にたゆたっている。
古代、「毛野国(けぬこく、けのこく)」という国があったと言われている。北関東(群馬、栃木一帯)あたりにあった、というのが定説のようだ。しかし、筑紫、日向、出雲、吉備、大和など、記紀に神話の時代から登場し、記述されている国々と違って、おぼろげな姿しか見えない。東国である事は間違いないだろうが、果たして「毛野」はどこにあったのか。「けぬ川」流域の国だとする説明もある。現在の鬼怒川である。魏志倭人伝にある「狗奴国」に比定する説もある。宋書「倭国伝」に「東は毛人を制する事云々」という記述から、毛野の存在を推定する説もある。しかし我が国の史書には明確な記述がない。律令時代になり、上毛野国/上野国(こうずけ。ほぼ現在の群馬県)、下毛野国/下野国(しもつけ。ほぼ現在の栃木県)に分かれたことが明らかにされている。このころ、正式に大和政権から国として認知されたようだ。しかし、分国する前の「毛野国」に関する記述はない。またヤマト王権が地方に及んだ古墳時代以前の、クニと呼ばれるような大規模な弥生集落や都邑の痕跡も見つかっていない。崇神天皇の四道将軍、景行天皇の日本武尊の東征などの伝承の中にも明確な記述が無い。「毛野国」は謎の国だ。
時代は下って7世紀後期、天武天皇/持統天皇の時代に、下野国に下野薬師寺が創建された。地元の豪族下毛野君の創建との説もあるが、この時代、藤原京薬師寺にならって全国に薬師寺が建立された。やはり天皇発願寺であったのだろう。8世紀、奈良時代に入ると、大和平城京東大寺、筑紫太宰府観世音寺とならぶ三戒壇の一つがおかれた。ここが大和政権にとって、陸奥の多賀城とともに、東国経営の重要な拠点である事を示す証拠であろう。その場所はJR宇都宮線自治医科大学駅近くにあった。しかし東大寺や観世音寺のように現代まで存続せず,その法灯は大安寺に引き継がれているものの、歴史の流れの中で消えていった。今は遺跡としてその痕跡を残すのみである。西国の古代風景とは大きく異なる東国の古代風景である。
(栃木は、日光例幣使街道の宿場町と、巴波川(うずまがわ)を利用した舟運で発展した商都であった。栃木を代表する景観ビューポイントだ。)
(巴波川沿いに、延々と120mに渡って黒塀と白壁土蔵が続く塚田家。江戸時代後期に材木回船問屋として栄えた豪商である。現在は「塚田歴史伝説館」として公開されている)
(両側に大谷石造りの蔵を備える、珍しい両袖切妻造の横山家住宅店舗。麻問屋と銀行業を兼業していた。裏には見事な庭園と、小さいが瀟洒な洋館がある。)
(ガス灯がシンボルの横山家。美しい佇まいだ。現在は「横山郷土館」として公開されている)
(およそ200年前に建てられた土蔵三棟を改修して「とちぎ蔵の街美術館」として一般公開している。)
(かつて日光例幣使街道であった「蔵の街大通り」には,今でも数多くの見世蔵、土蔵、明治以降の近代建築が残されており、独特の景観が眼を楽しませてくれる。広い歩道が整備されていて散策しやすいのが嬉しい。)
(撮影機材:Nikon Df + AF Nikkor 28-300mm 趣のある蔵の街撮影散策にベストなコンビだ)
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2014年3月27日木曜日
2014年3月17日月曜日
上野公園は近代建築の宝庫だ 〜上野公園の謎〜
前回のブログ「謎の芝公園」でも述べたように、上野公園は明治6年の太政官布達で指定された東京5大公園の一つである。しかし、ここは他の公園と異なり、明治新政府の「近代化」への意気込みを象徴するかのように、西欧風の文化施設、それに相応しい近代建築がひしめき合っている。帝室博物館(現在の東京国立博物館)、博物館表慶館、帝室図書館(現在の国立こども図書館)、黒田記念館、音楽学校奏楽堂(保存建築)、美術学校の陳列館、正木記念館、赤煉瓦校舎、京成電鉄博物館動物園駅舎(現在は閉鎖中)など、さながら東京「明治村」「明治たてもの園」の様相を呈している。
かつては、現在の上野公園全体が、江戸幕府徳川総家の菩提寺、霊廟、東叡山寛永寺境内であった。いわば徳川家にとって芝の増上寺と並び、宗家鎮護の寺があった場所だ。江戸期のはじめ、天海僧正により、天台宗の寺院として創建された寛永寺は、平安京、京のみやこの鬼門封じの比叡山延暦寺にならい、江戸の鬼門封じとして創建された。山号も、東の「叡山」である東叡山、寺の名前も、延暦寺が天皇勅許で創建年号を用いたのと同様に、寛永年間の創建であることから「寛永寺」とした。京都の清水寺の舞台を模した清水観音堂、五重塔を配し、おまけに不忍池は琵琶湖を擬したという念の入れよう。
今、上野公園に、創建当時の壮大な寛永寺の面影を見出すことは難しい。しかし、かつてこの敷地がすべて寛永寺境内であったと知ると、その広大さに驚く。今では国立博物館敷地の右側に、わずかに堂宇が残り、あるいは再建されている。博物館裏手には再建された根本中堂、寛永寺墓地があり、ここに綱吉霊廟門などの遺構が保存されている。また、大仏様(上野大仏)は寛永寺のシンボルであったが、幾多の火災で現存しておらず、公園内にわずかにお顔がレリーフのように保存されているのみだ。かつて、現在の大噴水広場には根本中堂がそびえ立ち、国立博物館敷地には本坊が、左右に五重塔も並ぶ壮麗な伽藍配置であったが、ご存知の通り、幕末の戦乱で、ことごとくこれらの堂宇は失われた。
最後の将軍、徳川慶喜が謹慎して寛永寺に蟄居した折、将軍を官軍から守ろうと幕臣や佐幕派の浪人たちが「彰義隊」を結成し寛永寺に結集した。しかし、江戸城無血開城、慶喜の寛永寺退去後も寺にたてこもる抵抗勢力、彰義隊を官軍は徹底して壊滅させる。いわゆる戊辰戦争の上野戦争である。このとき寛永寺は灰燼に帰した。官軍総司令官の西郷隆盛の銅像と、彰義隊墓碑が並んで建っているところが上野公園の歴史を物語っているような気がする。
明治維新後、新政府は焼け野原となった寛永寺境内、上野の山一体を帝室御料地とし、医科大学の敷地などに使おうとしたが、オランダ人医師ボードウィンの提言により,日本初の公園に指定した。これが現在の上野公園の始まりだ。公園には、これまでの徳川幕藩体制のシンボルであった寛永寺に変わり、明治近代化のシンボルとも言える、数々の近代西欧建築が建ち並ぶことになる。江戸から東京へ、時代の変遷を物語る上野の景観のドラマチックな転換である。今の東京に江戸の町並みの痕跡を探し出すのが困難であるように、上野のお山から徳川幕府時代の痕跡は消し去られてしまった。そこに、まるでテーマパークのように、当時の人々の日常からは隔絶した異空間が出現したのであろう。御料地である公園は、1923年に宮内省から東京市に下賜され、「上野恩賜公園」と呼ばれるようになった。
<上野の近代建築遺産コレクションをご覧下さい。江戸の名残も少しだけ...>
(国立博物館本館。明治14年にジョサイア・コンドルが設計、竣工の帝室博物館本館は、その後の関東大震災で大きな損傷を受け、建替えられた。昭和12年(1937年)に現在の本館である「復興本館」が完成した。「日本趣味を基調とした東洋式」だそうだ。という事はこの建物には西洋近代建築的要素はない,という事なのか。設計は公募で選ばれた。)
(博物館表慶館。明治41年竣工。大正天皇が皇太子時代のご成婚記念に建てられた。片山東熊の設計。)
(国立こども図書館。明治39年(1906年)に竣工の旧帝国図書館。当初は博物館と並び近代化に必要な国家の文化施設として企画されたが、日露戦争による財政難で、本来はロの字型の壮大な建物となる予定が、全体の四分の一に縮小され、前面一列部分だけが竣工した。明治ルネッサンス様式の美しい建築だ。今見ても正面ファサードは壮大だが、横から見ると平べったい壁のような建物だ。今は安藤忠雄による補強保存改修がなされ、オリジナリティーを残しつつも耐震構造とし、安全かつ使い心地の良い施設に生まれ変わっている。)
(旧音楽学校奏楽堂。明治23年日本初の木造洋風コンサートホール。山田耕筰、滝廉太郎、三浦環が演奏した舞台や、日本最古のパイプオルガンが残る。大学構内から現在の場所に移設保存されている。)
(東京芸大陳列館。昭和4年(1929年)竣工。岡田信一郎設計。スクラッチタイルが美しい。芸大美術館本館が出来るまではこちらが本館として使用されていた。)
(東京芸大正木直彦記念館。美校校長を35年務めた同氏を記念してたてられた。昭和10年(1935年)竣工。金沢庸治設計。和様式の門と建物のコンビネーションがなかなか瀟洒。この奥のGeidai Art Plazaはコージーで楽しい。背後は陳列館。)
(黒田記念館。黒田清隆の作品をおさめる記念館として昭和3年(1924年)岡田信一郎設計により建てられた。現在は国立博物館の施設の一つとなっている。路面に展開しているコーヒーショップの看板が一寸雰囲気壊してるか。)
(京成電鉄「博物館動物園駅」駅舎。左手は黒田記念館。昭和8年(1933年)地下を走る京成本線の公園地上出入口としてもうけられたが、平成9年(1997年)営業休止。平成16年(2004年)廃止となり、現在は使用されていない。地下を走る電車の音だけが聞こえてくる廃線マニア好みの鉄道遺産だ。建物は国会議事堂を彷彿とさせる重厚なもの。ちなみに国会議事堂よりは古い創建。)
(因州池田家江戸屋敷表門。丸の内の鳥取藩上屋敷から移設されたもの。建築時期は江戸末期とされている。明治期には東宮御所に移されていたが、現在は国立博物館敷地に移設保存されている。入母屋造、唐破風屋根の左右の番所など、当時の大名屋敷がいかに壮大であったか、そのよすがを知ることができる。東京大学赤門(旧加賀藩邸)と並ぶ大名屋敷遺構。近代建築、モダン建築で満たされた国立博物館の敷地空間に佇む武家屋敷門、という唐突感にもかかわらず、辺りを制する存在パワーが際立つ。)
(徳川綱吉霊廟門。徳川幕藩体制の栄華を物語る華麗な作りだが、それだけにその時代の終焉がいかに侘しいものかを如実に物語っているようだ。この地に残る数少ない寛永寺の遺構の一つは、訪れる人も少ない国立博物館の裏手の墓地に保存されている。)
上野公園マップ:
かつては、現在の上野公園全体が、江戸幕府徳川総家の菩提寺、霊廟、東叡山寛永寺境内であった。いわば徳川家にとって芝の増上寺と並び、宗家鎮護の寺があった場所だ。江戸期のはじめ、天海僧正により、天台宗の寺院として創建された寛永寺は、平安京、京のみやこの鬼門封じの比叡山延暦寺にならい、江戸の鬼門封じとして創建された。山号も、東の「叡山」である東叡山、寺の名前も、延暦寺が天皇勅許で創建年号を用いたのと同様に、寛永年間の創建であることから「寛永寺」とした。京都の清水寺の舞台を模した清水観音堂、五重塔を配し、おまけに不忍池は琵琶湖を擬したという念の入れよう。
今、上野公園に、創建当時の壮大な寛永寺の面影を見出すことは難しい。しかし、かつてこの敷地がすべて寛永寺境内であったと知ると、その広大さに驚く。今では国立博物館敷地の右側に、わずかに堂宇が残り、あるいは再建されている。博物館裏手には再建された根本中堂、寛永寺墓地があり、ここに綱吉霊廟門などの遺構が保存されている。また、大仏様(上野大仏)は寛永寺のシンボルであったが、幾多の火災で現存しておらず、公園内にわずかにお顔がレリーフのように保存されているのみだ。かつて、現在の大噴水広場には根本中堂がそびえ立ち、国立博物館敷地には本坊が、左右に五重塔も並ぶ壮麗な伽藍配置であったが、ご存知の通り、幕末の戦乱で、ことごとくこれらの堂宇は失われた。
最後の将軍、徳川慶喜が謹慎して寛永寺に蟄居した折、将軍を官軍から守ろうと幕臣や佐幕派の浪人たちが「彰義隊」を結成し寛永寺に結集した。しかし、江戸城無血開城、慶喜の寛永寺退去後も寺にたてこもる抵抗勢力、彰義隊を官軍は徹底して壊滅させる。いわゆる戊辰戦争の上野戦争である。このとき寛永寺は灰燼に帰した。官軍総司令官の西郷隆盛の銅像と、彰義隊墓碑が並んで建っているところが上野公園の歴史を物語っているような気がする。
明治維新後、新政府は焼け野原となった寛永寺境内、上野の山一体を帝室御料地とし、医科大学の敷地などに使おうとしたが、オランダ人医師ボードウィンの提言により,日本初の公園に指定した。これが現在の上野公園の始まりだ。公園には、これまでの徳川幕藩体制のシンボルであった寛永寺に変わり、明治近代化のシンボルとも言える、数々の近代西欧建築が建ち並ぶことになる。江戸から東京へ、時代の変遷を物語る上野の景観のドラマチックな転換である。今の東京に江戸の町並みの痕跡を探し出すのが困難であるように、上野のお山から徳川幕府時代の痕跡は消し去られてしまった。そこに、まるでテーマパークのように、当時の人々の日常からは隔絶した異空間が出現したのであろう。御料地である公園は、1923年に宮内省から東京市に下賜され、「上野恩賜公園」と呼ばれるようになった。
<上野の近代建築遺産コレクションをご覧下さい。江戸の名残も少しだけ...>
(国立博物館本館。明治14年にジョサイア・コンドルが設計、竣工の帝室博物館本館は、その後の関東大震災で大きな損傷を受け、建替えられた。昭和12年(1937年)に現在の本館である「復興本館」が完成した。「日本趣味を基調とした東洋式」だそうだ。という事はこの建物には西洋近代建築的要素はない,という事なのか。設計は公募で選ばれた。)
(博物館表慶館。明治41年竣工。大正天皇が皇太子時代のご成婚記念に建てられた。片山東熊の設計。)
(国立こども図書館。明治39年(1906年)に竣工の旧帝国図書館。当初は博物館と並び近代化に必要な国家の文化施設として企画されたが、日露戦争による財政難で、本来はロの字型の壮大な建物となる予定が、全体の四分の一に縮小され、前面一列部分だけが竣工した。明治ルネッサンス様式の美しい建築だ。今見ても正面ファサードは壮大だが、横から見ると平べったい壁のような建物だ。今は安藤忠雄による補強保存改修がなされ、オリジナリティーを残しつつも耐震構造とし、安全かつ使い心地の良い施設に生まれ変わっている。)
(旧音楽学校奏楽堂。明治23年日本初の木造洋風コンサートホール。山田耕筰、滝廉太郎、三浦環が演奏した舞台や、日本最古のパイプオルガンが残る。大学構内から現在の場所に移設保存されている。)
(東京芸大陳列館。昭和4年(1929年)竣工。岡田信一郎設計。スクラッチタイルが美しい。芸大美術館本館が出来るまではこちらが本館として使用されていた。)
(東京芸大正木直彦記念館。美校校長を35年務めた同氏を記念してたてられた。昭和10年(1935年)竣工。金沢庸治設計。和様式の門と建物のコンビネーションがなかなか瀟洒。この奥のGeidai Art Plazaはコージーで楽しい。背後は陳列館。)
(黒田記念館。黒田清隆の作品をおさめる記念館として昭和3年(1924年)岡田信一郎設計により建てられた。現在は国立博物館の施設の一つとなっている。路面に展開しているコーヒーショップの看板が一寸雰囲気壊してるか。)
(京成電鉄「博物館動物園駅」駅舎。左手は黒田記念館。昭和8年(1933年)地下を走る京成本線の公園地上出入口としてもうけられたが、平成9年(1997年)営業休止。平成16年(2004年)廃止となり、現在は使用されていない。地下を走る電車の音だけが聞こえてくる廃線マニア好みの鉄道遺産だ。建物は国会議事堂を彷彿とさせる重厚なもの。ちなみに国会議事堂よりは古い創建。)
(因州池田家江戸屋敷表門。丸の内の鳥取藩上屋敷から移設されたもの。建築時期は江戸末期とされている。明治期には東宮御所に移されていたが、現在は国立博物館敷地に移設保存されている。入母屋造、唐破風屋根の左右の番所など、当時の大名屋敷がいかに壮大であったか、そのよすがを知ることができる。東京大学赤門(旧加賀藩邸)と並ぶ大名屋敷遺構。近代建築、モダン建築で満たされた国立博物館の敷地空間に佇む武家屋敷門、という唐突感にもかかわらず、辺りを制する存在パワーが際立つ。)
(徳川綱吉霊廟門。徳川幕藩体制の栄華を物語る華麗な作りだが、それだけにその時代の終焉がいかに侘しいものかを如実に物語っているようだ。この地に残る数少ない寛永寺の遺構の一つは、訪れる人も少ない国立博物館の裏手の墓地に保存されている。)
上野公園マップ:
場所:Tokyo, Japan
日本, 東京都台東区上野
2014年3月7日金曜日
増上寺と芝公園(1) 〜芝公園の謎〜
東京で「芝公園」と言えば知らない人はいない。しかし、どこが芝公園?どこからが増上寺? 芝公園のシンボルはなに?東京タワーは芝公園? 地下鉄の駅に「芝公園」があるが、駅の表示に「芝公園はあちら⇨」はない。上野公園や代々木公園や日比谷公園ならまとまった敷地がはっきりしていて「公園」を認識出来るが,芝公園の敷地はどこなのだろう。東京の不思議の一つだ。
その疑問を解く鍵の一つはその成り立ちにありそうだ。東京は意外にも公園が多い日本の街の一つで,その総面積は74.4㎢(東京デズニーランドの146倍)だそうだ。これは明治の東京遷都時に、欧米流の「公園(Park)」の概念を政府がいち早く導入し、その場所を指定した事が始まりだと言う。明治6年の太政官布達で指定された公園は、上野、浅草、芝、深川、飛鳥山、の5カ所。いずれも上野(寛永寺境内)、浅草(浅草寺境内)、芝(増上寺境内)、深川(富岡八幡境内),飛鳥山(王子権現境内)と、寺社の境内であり、今で言う公園のイメージではない。ようするにまとまった土地が確保出来る寺社地を「公園」に指定した。特に廃仏毀釈の機運が強く、まして賊軍徳川幕府縁の寺社は狙われたのかもしれない。既知の通り、上野寛永寺も芝増上寺も徳川家の菩提寺、霊廟であったところだ。,幕末に彰義隊が立てこもって抵抗した寛永寺は、上野戦争で灰燼に帰し、跡地は帝室博物館や美術学校、音楽学校となり、上野恩賜公園として整備された。
一方、芝公園の方は、その境内が太政官政府により接収され、上記の通り公園指定がなされた。そのうえでその敷地が増上寺に貸し出されたという。こうした公園と寺院境内の区分が判然としない状態が芝公園の始まりであった。しかし,上の寛永寺と異なり、幕末混乱時期にも増上寺は境内、建物は残ったのでしばらくは「芝公園」(=増上寺境内として)はまとまった形で存在した。その後、先の大戦の空襲では寺の堂宇がことごとく灰燼に帰した。戦後、敷地は増上寺,徳川家に返還されたが、公園/旧境内は様々な経緯で,秩序無くバラバラになってしまう。徳川家霊廟が整然と並んでいたところは、不動産開発会社に売却され、東京プリンスホテル、芝ゴルフ場(現在のプリンス・パークタワーホテル)となり、本堂裏手の旧境内地には東京タワーが建設された。
このような明治期の境内の接収と公園指定、戦後の返還と土地権利関係の混乱、こうした事情が現在の東京タワー/ホテル/芝公園/増上寺というカオスな佇まい、景観を作り出した。結局、芝公園は、一体何処が「公園」なのか?という有様になってしまった。かといって、増上寺の大伽藍が並んでいる訳でもなくて、その寺域も判然としない。堂々たる三解脱門と戦災後再建された本堂は鉄筋コンクリート造りの威容を誇っているが、他は徳川将軍家霊廟の痕跡を留める台徳院惣門、有章院二天門がわずかに残っているだけである。それもあるべき場所にない唐突さ、かつ荒れ果てて哀れな有様だ。
東京タワーを背にした増上寺の風景が、東京をシンボライズする観光絵ハガキの一枚になってしまったというのは,こういう経過を知るとまことに皮肉としかいいようが無い。今日も海外からの観光客がここを訪れ、増上寺山門辺りでしきりに記念写真を撮っている。彼等はここを芝公園(ShibaPark)、それとも増上寺(Zoujouji-Temple)だと思って写真撮っているのか?誰か説明してあげて下さい。「お・も・て・な・し」ですよ。
(東京タワーを背景にした増上寺。東京を代表する観光絵はがき的風景。しかしそこには複雑な経緯があった)
(でも,これはこれで結構画になる)
(堂々たる三解脱門。江戸時代にはこの山門の階上から海が見渡せたと言う。)
(梅の花の蜜を吸いにきたメジロ。都会にも春の訪れを感じさせる場所がある。これぞ「芝公園」)
その疑問を解く鍵の一つはその成り立ちにありそうだ。東京は意外にも公園が多い日本の街の一つで,その総面積は74.4㎢(東京デズニーランドの146倍)だそうだ。これは明治の東京遷都時に、欧米流の「公園(Park)」の概念を政府がいち早く導入し、その場所を指定した事が始まりだと言う。明治6年の太政官布達で指定された公園は、上野、浅草、芝、深川、飛鳥山、の5カ所。いずれも上野(寛永寺境内)、浅草(浅草寺境内)、芝(増上寺境内)、深川(富岡八幡境内),飛鳥山(王子権現境内)と、寺社の境内であり、今で言う公園のイメージではない。ようするにまとまった土地が確保出来る寺社地を「公園」に指定した。特に廃仏毀釈の機運が強く、まして賊軍徳川幕府縁の寺社は狙われたのかもしれない。既知の通り、上野寛永寺も芝増上寺も徳川家の菩提寺、霊廟であったところだ。,幕末に彰義隊が立てこもって抵抗した寛永寺は、上野戦争で灰燼に帰し、跡地は帝室博物館や美術学校、音楽学校となり、上野恩賜公園として整備された。
一方、芝公園の方は、その境内が太政官政府により接収され、上記の通り公園指定がなされた。そのうえでその敷地が増上寺に貸し出されたという。こうした公園と寺院境内の区分が判然としない状態が芝公園の始まりであった。しかし,上の寛永寺と異なり、幕末混乱時期にも増上寺は境内、建物は残ったのでしばらくは「芝公園」(=増上寺境内として)はまとまった形で存在した。その後、先の大戦の空襲では寺の堂宇がことごとく灰燼に帰した。戦後、敷地は増上寺,徳川家に返還されたが、公園/旧境内は様々な経緯で,秩序無くバラバラになってしまう。徳川家霊廟が整然と並んでいたところは、不動産開発会社に売却され、東京プリンスホテル、芝ゴルフ場(現在のプリンス・パークタワーホテル)となり、本堂裏手の旧境内地には東京タワーが建設された。
このような明治期の境内の接収と公園指定、戦後の返還と土地権利関係の混乱、こうした事情が現在の東京タワー/ホテル/芝公園/増上寺というカオスな佇まい、景観を作り出した。結局、芝公園は、一体何処が「公園」なのか?という有様になってしまった。かといって、増上寺の大伽藍が並んでいる訳でもなくて、その寺域も判然としない。堂々たる三解脱門と戦災後再建された本堂は鉄筋コンクリート造りの威容を誇っているが、他は徳川将軍家霊廟の痕跡を留める台徳院惣門、有章院二天門がわずかに残っているだけである。それもあるべき場所にない唐突さ、かつ荒れ果てて哀れな有様だ。
東京タワーを背にした増上寺の風景が、東京をシンボライズする観光絵ハガキの一枚になってしまったというのは,こういう経過を知るとまことに皮肉としかいいようが無い。今日も海外からの観光客がここを訪れ、増上寺山門辺りでしきりに記念写真を撮っている。彼等はここを芝公園(ShibaPark)、それとも増上寺(Zoujouji-Temple)だと思って写真撮っているのか?誰か説明してあげて下さい。「お・も・て・な・し」ですよ。
(東京都公園協会HPによれば、この薄皮饅頭のような緑地帯が現在、東京都が管理している「芝公園」だそうだ。)
(東京タワーを背景にした増上寺。東京を代表する観光絵はがき的風景。しかしそこには複雑な経緯があった)
(堂々たる三解脱門。江戸時代にはこの山門の階上から海が見渡せたと言う。)
(梅の花の蜜を吸いにきたメジロ。都会にも春の訪れを感じさせる場所がある。これぞ「芝公園」)
場所:Tokyo, Japan
日本, 東京都港区芝
2014年2月21日金曜日
「筑紫の日向(ひむか)」は何処? 〜天孫降臨の地を探す〜
記紀神話によれば、アマテラスの誕生の地、その孫のニニギ天孫降臨の地は、「筑紫の日向(ひむか)」であると記されている。すなわち律令時代の日向国、現在の宮崎県高千穂地方である、というのが定説になっている。しかし、以前「アマテラスは宮崎出身?福岡でなくて?」で考察したように、アマテラスと天孫族が穀霊神に繋がる稲作農耕神である事を考えると、弥生時代の最初期の稲作農耕遺跡(板付遺跡、菜畑遺跡など)や、その農耕集落の発展形たる、倭国連合のクニグニ/都邑の遺跡(須玖岡本遺跡、比恵遺跡、三雲南小路遺跡、吉野ケ里遺跡等等)などの考古学的な物証が集中している北部九州こそ我が国の稲作農耕文化の発祥の地であり、葦原中津国であったのではないかと思わざるを得ない。
そう思っていたら、歴史学者のなかにも「筑紫の日向(ひむか)」は北部九州であろう、という説を唱えておられる方々がいる。なかでも上田正昭先生は、著書「私の日本古代史(上)」のなかで、やはり「韓国に向い...朝日の直射す...」は朝鮮半島が望める地域、すなわち奴国や伊都国の辺りの北部九州だろうと。また、田村圓澄先生も、著書「筑紫の古代史」のなかで、穀霊神や天孫降臨神話は朝鮮半島の新羅、伽耶辺りの王権神授説を指し示す神話と共通する点が多いとする。北部九州にそうした伝承が(稲作農耕文化伝来に伴って)引き継がれて来たのであろうか。
水稲農耕文化である弥生文化が朝鮮半島を通じて大陸から伝わった北部九州の筑紫は、まさに倭国黎明期における経済/文化の最先進地域であったことは間違いない。ここから、縄文的な社会を形成していた日本列島を東へと、徐々に弥生文化は伝搬していった。であれば、7世紀後半8世紀初頭に編纂された記紀(八百万の神々の上位に立つ皇祖神の創出、各地豪族の神々の体系化、天皇支配のレジティマシーの可視化)で創出された天孫降臨神話(「日向神話」)は、「弥生水稲農耕神であるアマテラス(天つ神)の孫ニニギノミコトが、筑紫(北部九州)に降臨した(渡来した)物語である」と理解されてもおかしくないであろう。むしろ縄文世界を色濃く残す熊襲、隼人の地である南九州、しかも記紀編纂時点でもヤマト王権に服従しなかった地を、皇祖神誕生の地、天孫降臨の地、ヤマト王権のルーツとする方が不自然であろう。
また「国譲り神話」の舞台である出雲は、背後に筑紫勢力の存在があり、筑紫の水稲農耕文化伝播の痕跡が至る所に見いだされる地域である。出雲在地の粟、稗畑作農耕神(縄文世界)の「国つ神」大国主一族が、筑紫に天下ってきた(渡来した)「天つ神」、水稲農耕神(弥生世界)たるアマテラス一族に「国を譲った」(縄文世界から弥生世界へ転換した)、とする形で語られた方が筋が通っているように思う。
また、上田先生は、記紀が編纂された7世紀後半から8世紀初期は、まだ律令制下の日向国は成立していない時期であること、記紀の国生み神話にも筑紫国、豊国、肥国、熊曾国は出てくるが、日向国の存在は語られていないことから、「筑紫の日向(ひむか)」が現在の宮崎県・鹿児島県であるとは言い切れないとしている。ニニギノミコトが降臨した地は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」で、「此地は韓国に向ヒ、笠沙の御岬にまき通りて、朝日の直射す国、夕日の日照る国なり。故、此地はいと吉き地」だと語られていることから、韓国(からくに)に向かう地は北部九州だろうとする。アマテラス、ツクヨミ、スサノオ三貴子がイザナギの禊で生まれたとする「筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あはぎはら)」も北部九州のどこかである可能性があることになる。ちなみに福岡市には日向(ひなた)峠や小戸(おど)海岸(小戸神社がある)、糸島市にはクジフル山の地名がある。
記紀に、「筑紫神話」が無い、筑紫が国の発祥の地、ヤマト王権、皇統のルーツであるとする認識が無いことを,以前から不思議に感じていたが、天孫降臨神話すなわち「日向神話」と言われる神話そのものが「筑紫神話」なのであるとしたら、その疑問は解消されることになるのだがどうであろう。邪馬台国が3世紀時点で九州にあったのか、近畿にあったのかはともかく、それ以前から弥生稲作農耕国家(クニ、都邑)は北部九州に多く発生していた。特に魏志倭人伝に記述があるように、2〜3世紀には北部九州(玄界灘沿岸から有明海沿岸まで)に倭国連合の主要なクニグニがあった。さらに紀元1世紀には奴国王のように後漢に倭国の王として柵封されていた(後漢皇帝の金印を受けていた)クニがあった。それがある時点で文化/経済/政治の中心が北部九州から近畿奈良盆地へと遷っていった。それが何時で、なぜ、どのように、という点は依然、謎に包まれているのだが。天孫族の子孫とされる神武天皇が筑紫を出て、新天地大和へ東征したエピソードも、こうした弥生文化の東遷を後世に物語化したものかもしれない。
奈良盆地に広がる豊葦原瑞穂の国の原風景が、筑紫平野のそれとオーバーラップするのは、かつてそうした遷移があった事の暗示なのだろうか。デジャヴである。
(古代奴国、現在の福岡市上空。右手が博多湾、下に那の津大橋が見える。古代筑紫の面影は、今や150万都市の街中に囲い込まれてしまった緑の荒津山(西公園)くらいだ。遠景は古代伊都国のあった糸島半島である。)
(志賀島。漢倭奴国王の金印が発見された島。また海人族である安曇一族の発祥の地。一族の氏神、志賀海神社はこの集落の中にある。博多湾を取り囲む砂州で本土と繋がる陸繋島だ)
(「韓国に向い....朝日の直刺す国、夕日の火照る国なり」。ニニギノミコトが天上界から降り立った時に見た地上界の光景は、まさにこれだったのかもしれない)
(福岡市シーサイド百道から、夕日に映える糸島半島のランドマーク加也山(かやさん)を望む。古代伊都国の残像、その名は、朝鮮半島の伽耶(かや)は加羅(から)から来ていると言われる。故郷を懐かしんで命名したのであろうか)
そう思っていたら、歴史学者のなかにも「筑紫の日向(ひむか)」は北部九州であろう、という説を唱えておられる方々がいる。なかでも上田正昭先生は、著書「私の日本古代史(上)」のなかで、やはり「韓国に向い...朝日の直射す...」は朝鮮半島が望める地域、すなわち奴国や伊都国の辺りの北部九州だろうと。また、田村圓澄先生も、著書「筑紫の古代史」のなかで、穀霊神や天孫降臨神話は朝鮮半島の新羅、伽耶辺りの王権神授説を指し示す神話と共通する点が多いとする。北部九州にそうした伝承が(稲作農耕文化伝来に伴って)引き継がれて来たのであろうか。
水稲農耕文化である弥生文化が朝鮮半島を通じて大陸から伝わった北部九州の筑紫は、まさに倭国黎明期における経済/文化の最先進地域であったことは間違いない。ここから、縄文的な社会を形成していた日本列島を東へと、徐々に弥生文化は伝搬していった。であれば、7世紀後半8世紀初頭に編纂された記紀(八百万の神々の上位に立つ皇祖神の創出、各地豪族の神々の体系化、天皇支配のレジティマシーの可視化)で創出された天孫降臨神話(「日向神話」)は、「弥生水稲農耕神であるアマテラス(天つ神)の孫ニニギノミコトが、筑紫(北部九州)に降臨した(渡来した)物語である」と理解されてもおかしくないであろう。むしろ縄文世界を色濃く残す熊襲、隼人の地である南九州、しかも記紀編纂時点でもヤマト王権に服従しなかった地を、皇祖神誕生の地、天孫降臨の地、ヤマト王権のルーツとする方が不自然であろう。
また「国譲り神話」の舞台である出雲は、背後に筑紫勢力の存在があり、筑紫の水稲農耕文化伝播の痕跡が至る所に見いだされる地域である。出雲在地の粟、稗畑作農耕神(縄文世界)の「国つ神」大国主一族が、筑紫に天下ってきた(渡来した)「天つ神」、水稲農耕神(弥生世界)たるアマテラス一族に「国を譲った」(縄文世界から弥生世界へ転換した)、とする形で語られた方が筋が通っているように思う。
また、上田先生は、記紀が編纂された7世紀後半から8世紀初期は、まだ律令制下の日向国は成立していない時期であること、記紀の国生み神話にも筑紫国、豊国、肥国、熊曾国は出てくるが、日向国の存在は語られていないことから、「筑紫の日向(ひむか)」が現在の宮崎県・鹿児島県であるとは言い切れないとしている。ニニギノミコトが降臨した地は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」で、「此地は韓国に向ヒ、笠沙の御岬にまき通りて、朝日の直射す国、夕日の日照る国なり。故、此地はいと吉き地」だと語られていることから、韓国(からくに)に向かう地は北部九州だろうとする。アマテラス、ツクヨミ、スサノオ三貴子がイザナギの禊で生まれたとする「筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あはぎはら)」も北部九州のどこかである可能性があることになる。ちなみに福岡市には日向(ひなた)峠や小戸(おど)海岸(小戸神社がある)、糸島市にはクジフル山の地名がある。
記紀に、「筑紫神話」が無い、筑紫が国の発祥の地、ヤマト王権、皇統のルーツであるとする認識が無いことを,以前から不思議に感じていたが、天孫降臨神話すなわち「日向神話」と言われる神話そのものが「筑紫神話」なのであるとしたら、その疑問は解消されることになるのだがどうであろう。邪馬台国が3世紀時点で九州にあったのか、近畿にあったのかはともかく、それ以前から弥生稲作農耕国家(クニ、都邑)は北部九州に多く発生していた。特に魏志倭人伝に記述があるように、2〜3世紀には北部九州(玄界灘沿岸から有明海沿岸まで)に倭国連合の主要なクニグニがあった。さらに紀元1世紀には奴国王のように後漢に倭国の王として柵封されていた(後漢皇帝の金印を受けていた)クニがあった。それがある時点で文化/経済/政治の中心が北部九州から近畿奈良盆地へと遷っていった。それが何時で、なぜ、どのように、という点は依然、謎に包まれているのだが。天孫族の子孫とされる神武天皇が筑紫を出て、新天地大和へ東征したエピソードも、こうした弥生文化の東遷を後世に物語化したものかもしれない。
奈良盆地に広がる豊葦原瑞穂の国の原風景が、筑紫平野のそれとオーバーラップするのは、かつてそうした遷移があった事の暗示なのだろうか。デジャヴである。
(古代奴国、現在の福岡市上空。右手が博多湾、下に那の津大橋が見える。古代筑紫の面影は、今や150万都市の街中に囲い込まれてしまった緑の荒津山(西公園)くらいだ。遠景は古代伊都国のあった糸島半島である。)
(志賀島。漢倭奴国王の金印が発見された島。また海人族である安曇一族の発祥の地。一族の氏神、志賀海神社はこの集落の中にある。博多湾を取り囲む砂州で本土と繋がる陸繋島だ)
(「韓国に向い....朝日の直刺す国、夕日の火照る国なり」。ニニギノミコトが天上界から降り立った時に見た地上界の光景は、まさにこれだったのかもしれない)(福岡市シーサイド百道から、夕日に映える糸島半島のランドマーク加也山(かやさん)を望む。古代伊都国の残像、その名は、朝鮮半島の伽耶(かや)は加羅(から)から来ていると言われる。故郷を懐かしんで命名したのであろうか)
2014年2月15日土曜日
Leica X Varioの使用感 〜ライカがデジカメ造るとこうなる?〜
ライカ社が、一昨年の10月に新製品発表ティーザー広告で、ミ二Mとして紹介し、いよいよフルサイズセンサー、Mレンズ交換式ミラーレスがデビューか?とファンが大いに期待した。しかし翌年の6月に市場に登場したのはAPS-CサイズCMOSセンサー(1620万画素)で、固定式28ー70mmズームレンズ付きコンデジだった。すなわちXシリーズのズームレンズバージョン。こりゃMじゃないよ、という事で多くのファンがガッカリ。そういう騒ぎを提供したのがこのカメラだ。ズームレンズも28−70mmという極めてコンサバなレンジで、しかもF値が3.5-6.4という暗いもの。これで市場価格は34万円というから、誰が買うんだ?と。
私自身、発売以来、その話題には興味があったが、手を出すつもりは全くなかったこのX Vario。遅まきながらこのたび、使用する機会を得たので、私なりの使用感を述べてみたい。一言で言えば、やはりこのX Varioはいい意味でも悪い意味でも、極めて「ライカ的」なカメラだ、ということ。高らかにMade in Germanyのデジタルカメラであることを唱っている。ライカが独自に(パナソニックのOEMでなく)デジタルカメラを開発するとコウなる、と言いたいようだ。ううん〜、そういわれると安易に日本製のコンパクトデジタルカメラ、あるはミラーレスと比較してはいけないのかな、と感じ始めた。そこには写真機に対する思想と文化の違いみたいなものがありそうだし。
先ず,私なりのPros and Consを書き出してみた。
Pros:
1)ライカらしいソリッドな金属ボディー。無理にコンパクトさを狙わずホールド感がいい。
2)妥協の無い優れた描写性能のズームレンズ(Mにはズームレンズのラインアップがない)。歪曲も少なく、隅々までシャープ。ライカ独特の立体感まで表現している(M240+単体レンズのように、とまではいかないが)。
3)望遠70mm端で最短30cmまで寄れる(その他は40cm。ただ、これを欠点だという人もいるが)。開放f.6.4にしてはボケ味も悪くないし、結像部分はきわめてシャープ。
4)AFからマニュアルフォーカスへの切り替えがリニアに出来る操作性(マニュアルフォーカスアシスト機能があり、結構効果的)。
Cons:
1)ズーム域が今時コンサバすぎる。せめて24ー100mmくらい欲しい(超解像ズームは望まないまでも)
2)レンズが暗い。特に70mmのf.6.4は現代レンズとしては暗すぎ。f4通しにしてくれた方が良いが、レンズサイズ上これが限界か。
3)AF合焦速度は、明るいところではまずまずだが、暗いところでの合焦はなかなかむつかしい(だからマニュアルを使え..か)。
4)画像再生/読込速度が遅い。再生画面の切り替えに非常に時間がかかる(Mもそうだが、そもそも遅いプロセッサー、バッファーメモリーを使用しているらしい)。
5)背面の十字キーの位置と操作性は何とかならないか(真ん中にファンクションキーではなく、セットキーを置いて欲しい。M240のそれと変えた意味は?)。また撮影時に、親指付け根でキーを不用意に触ってしまい設定が変わる。
6)EVF付けたとき、露出補正がファインダー覗いたままできない(いちいち眼を離して液晶画面で確認しなくてはならない)。これは何のマネだ?
7)他社製品との相対で価格が高すぎる(多分これが最大のCon)
昨今の日本の各社が相次いで市場に投入しているミラーレス機と比較すると、これ以外にも言いたい事がつぎつぎ出てくるが(手振れ補正が無い等)、あえてそれは封じた。それにしてもProsは、少なすぎるように思えるかもしれないが、要は、数字上のスペックを狙わず、無理の無い設計で、ズームレンズの描写性能に挑戦した点と、ライカらしい質感を大事にした点、この二つに尽きる。特にズームレンズ性能の秀逸さは他社ミラーレスの及ぶところではない。
ライカ社はMシリーズはあくまでも、レンジファインダーが主でライブビューは従だ、と頑に位置づけている。したがって、レンジファインダーであるが故のレンズ設計の制約(ズームレンズはダメ、0.7m以下の最短撮影距離もダメ、望遠、マクロレンズも制約)をそのまま受け入れて、今後も変えるつもりはないようだ。そのかわり、M240にライブビュー機能を搭載し(あくまでも補助的に)、従来の一眼レフレンズ群であるRレンズ用にアダプターを用意して、M240ボディーでズーム、マクロ、望遠使用を可能とする手段に出た。
これに加えて、コンパクトなXシリーズ用に新たにズームレンズVario Elmarを開発した、ということなのだろう。これはあくまでXシリーズであって、Mではないのだが、ただ、このVario-Elmarは、なかなかの名レンズの素地を持っていると思う。なにしろズームレンズ特有の欠点が極力取り除かれている。画面の隅々までよく写るし、ヌケもよい。単焦点レンズにこだわるライカ社のレンズ設計基準に近い画質のズームレンズだけをライカ名のラインアップに加える、というポリシーみたいなものを感じる。歪曲収差や周辺光量不足、解像度などのレンズの基本的描写性能を守り、コンパクトにしようとすると、このような保守的なスペックになったのだという。このズームレンズを専用にチューンしたXボディーに固定した。普及版のコンデジではないぞ、と。
結論。X Varioは、単焦点レンズMシリーズに加えて、どうしてもライカのズームが欲しい人用のカメラだと思う。日本製のコンデジやミラーレスの対抗馬として企画されたのではないだろう。逆に言えば、Mシリーズにズームレンズラインアップが期待出来ないなら、APS-CセンサーのXボディー付きのズームレンズ、Vario Elmarが手に入るようになったと思えばよい。価格もそう思えば単焦点Mレンズが一本30万円〜が当たり前(!)の中,「お買い得」と言えるのかもしれない。もちろん、これに同意する人は極めて少数派だろう。これを認めない人には,とんでもないお高くとまったデジタルカメラ、という評価になる。繰り返すが、あくまでもこれはXである。Mではないのだから。まあ、いろんなカメラがあって選択肢が増えるのはいい。別に人気ランキング一位のカメラが「いいカメラ」という訳ではないのだし。
そもそも、ライカ社と日本のカメラメーカとの間には、カメラという商品に対する基本思想の違いがあるように感じる。あくまで画質優先。基本性能にこだわる(日本製がこれらで必ずしも劣るとは思わないが)。そして(これが重要なのだが)そのためにはコストと手間を惜しまない(コストパフォーマンスの良さなど求めない)。基本性能向上に不要な機能は盛り込まない。きわめてコンサバな姿勢だ。だから日本の市場では、一部の趣味人を除いて、なかなか受け入れられないのかも。ネット通販のMカメラのサイトを発売以来ウオッチしていたが、新製品発売直後のユーザの反応が面白い。「買うに値しないカメラ」という「炎上寸前の」酷評から、「ライカらしくて欲しくなる」という評価まで,これほど毀誉褒貶の激しいカメラも珍しい。けなしている人は他社のミラーレスを念頭に,価格表を眺めているのだろう。褒めている人も「ライカらしい」という経済合理性とは異なる評価基準によるものであるところが面白い。この頃はようやくそのレンズ性能を評価するコメントも増えて来たが、一方、早くも中古市場には「美品」クラスの在庫が山積みだ。
それでもライカ社は、値引きもせず、今後も安易に市場に迎合しないであろう。その頑な姿勢を評価すべきかもしれない。価格競争とスペック競争のジレンマに陥り、業界自体が自滅して行く、という悪循環から脱する商品戦略とはこういう事なのかもしれない。ブランド価値という差異化戦略だ。しかし、その一方、ニコンのように、新しい技術や機能を、まずは普及機に搭載して、ユーザや市場の反応を見極め、技術的な信頼度が熟してから、ハイエンド機に搭載してゆく、というようなマイグレーション戦略も、きわめて合理的な差異化戦略だとも思うのだが。それにしても,ライカ社はもう少しデジタル化のための技術をブラッシュアップしてもらいたいものだ。バグの多いカメラはやはりブランドイメージを傷つける。デジタルカメラとなった以上、それが基本性能のブラッシュアップなのだから。
(LeicaM Type240との比較。確かにデザイン的な統一感を出すことには成功している。一回りコンパクトなサイズだが、ミ二Mというには...)
(軍艦部にはシャッターダイアル、絞りダイアル。露出補正ダイアルはない。アクセサリーシューには別売りのEVFを装着出来る。やはり、このスペックにしてもレンズがデカイ。しかしズーミングによるレンズ繰り出し量は少ない。)
(大雪に見舞われた東京。ようやく「平常運転状態」へ。歪曲も周辺光量不足も少なく安心出来るズームレンズだ)
(雪の中から梅の花が咲き始めた。望遠側70mmで最短30cmまで寄ることができる。結構なクローズアップ効果が得られ、開放f値がf.6.7にもかかわらず、背景のボケも良い感じだ)
(羽田国際線ターミナル。広角28mmエンドで撮影。下方の水平方向の直線に全く樽型歪曲も見られない秀逸なズームレンズ)
私自身、発売以来、その話題には興味があったが、手を出すつもりは全くなかったこのX Vario。遅まきながらこのたび、使用する機会を得たので、私なりの使用感を述べてみたい。一言で言えば、やはりこのX Varioはいい意味でも悪い意味でも、極めて「ライカ的」なカメラだ、ということ。高らかにMade in Germanyのデジタルカメラであることを唱っている。ライカが独自に(パナソニックのOEMでなく)デジタルカメラを開発するとコウなる、と言いたいようだ。ううん〜、そういわれると安易に日本製のコンパクトデジタルカメラ、あるはミラーレスと比較してはいけないのかな、と感じ始めた。そこには写真機に対する思想と文化の違いみたいなものがありそうだし。
先ず,私なりのPros and Consを書き出してみた。
Pros:
1)ライカらしいソリッドな金属ボディー。無理にコンパクトさを狙わずホールド感がいい。
2)妥協の無い優れた描写性能のズームレンズ(Mにはズームレンズのラインアップがない)。歪曲も少なく、隅々までシャープ。ライカ独特の立体感まで表現している(M240+単体レンズのように、とまではいかないが)。
3)望遠70mm端で最短30cmまで寄れる(その他は40cm。ただ、これを欠点だという人もいるが)。開放f.6.4にしてはボケ味も悪くないし、結像部分はきわめてシャープ。
4)AFからマニュアルフォーカスへの切り替えがリニアに出来る操作性(マニュアルフォーカスアシスト機能があり、結構効果的)。
Cons:
1)ズーム域が今時コンサバすぎる。せめて24ー100mmくらい欲しい(超解像ズームは望まないまでも)
2)レンズが暗い。特に70mmのf.6.4は現代レンズとしては暗すぎ。f4通しにしてくれた方が良いが、レンズサイズ上これが限界か。
3)AF合焦速度は、明るいところではまずまずだが、暗いところでの合焦はなかなかむつかしい(だからマニュアルを使え..か)。
4)画像再生/読込速度が遅い。再生画面の切り替えに非常に時間がかかる(Mもそうだが、そもそも遅いプロセッサー、バッファーメモリーを使用しているらしい)。
5)背面の十字キーの位置と操作性は何とかならないか(真ん中にファンクションキーではなく、セットキーを置いて欲しい。M240のそれと変えた意味は?)。また撮影時に、親指付け根でキーを不用意に触ってしまい設定が変わる。
6)EVF付けたとき、露出補正がファインダー覗いたままできない(いちいち眼を離して液晶画面で確認しなくてはならない)。これは何のマネだ?
7)他社製品との相対で価格が高すぎる(多分これが最大のCon)
昨今の日本の各社が相次いで市場に投入しているミラーレス機と比較すると、これ以外にも言いたい事がつぎつぎ出てくるが(手振れ補正が無い等)、あえてそれは封じた。それにしてもProsは、少なすぎるように思えるかもしれないが、要は、数字上のスペックを狙わず、無理の無い設計で、ズームレンズの描写性能に挑戦した点と、ライカらしい質感を大事にした点、この二つに尽きる。特にズームレンズ性能の秀逸さは他社ミラーレスの及ぶところではない。
ライカ社はMシリーズはあくまでも、レンジファインダーが主でライブビューは従だ、と頑に位置づけている。したがって、レンジファインダーであるが故のレンズ設計の制約(ズームレンズはダメ、0.7m以下の最短撮影距離もダメ、望遠、マクロレンズも制約)をそのまま受け入れて、今後も変えるつもりはないようだ。そのかわり、M240にライブビュー機能を搭載し(あくまでも補助的に)、従来の一眼レフレンズ群であるRレンズ用にアダプターを用意して、M240ボディーでズーム、マクロ、望遠使用を可能とする手段に出た。
これに加えて、コンパクトなXシリーズ用に新たにズームレンズVario Elmarを開発した、ということなのだろう。これはあくまでXシリーズであって、Mではないのだが、ただ、このVario-Elmarは、なかなかの名レンズの素地を持っていると思う。なにしろズームレンズ特有の欠点が極力取り除かれている。画面の隅々までよく写るし、ヌケもよい。単焦点レンズにこだわるライカ社のレンズ設計基準に近い画質のズームレンズだけをライカ名のラインアップに加える、というポリシーみたいなものを感じる。歪曲収差や周辺光量不足、解像度などのレンズの基本的描写性能を守り、コンパクトにしようとすると、このような保守的なスペックになったのだという。このズームレンズを専用にチューンしたXボディーに固定した。普及版のコンデジではないぞ、と。
結論。X Varioは、単焦点レンズMシリーズに加えて、どうしてもライカのズームが欲しい人用のカメラだと思う。日本製のコンデジやミラーレスの対抗馬として企画されたのではないだろう。逆に言えば、Mシリーズにズームレンズラインアップが期待出来ないなら、APS-CセンサーのXボディー付きのズームレンズ、Vario Elmarが手に入るようになったと思えばよい。価格もそう思えば単焦点Mレンズが一本30万円〜が当たり前(!)の中,「お買い得」と言えるのかもしれない。もちろん、これに同意する人は極めて少数派だろう。これを認めない人には,とんでもないお高くとまったデジタルカメラ、という評価になる。繰り返すが、あくまでもこれはXである。Mではないのだから。まあ、いろんなカメラがあって選択肢が増えるのはいい。別に人気ランキング一位のカメラが「いいカメラ」という訳ではないのだし。
そもそも、ライカ社と日本のカメラメーカとの間には、カメラという商品に対する基本思想の違いがあるように感じる。あくまで画質優先。基本性能にこだわる(日本製がこれらで必ずしも劣るとは思わないが)。そして(これが重要なのだが)そのためにはコストと手間を惜しまない(コストパフォーマンスの良さなど求めない)。基本性能向上に不要な機能は盛り込まない。きわめてコンサバな姿勢だ。だから日本の市場では、一部の趣味人を除いて、なかなか受け入れられないのかも。ネット通販のMカメラのサイトを発売以来ウオッチしていたが、新製品発売直後のユーザの反応が面白い。「買うに値しないカメラ」という「炎上寸前の」酷評から、「ライカらしくて欲しくなる」という評価まで,これほど毀誉褒貶の激しいカメラも珍しい。けなしている人は他社のミラーレスを念頭に,価格表を眺めているのだろう。褒めている人も「ライカらしい」という経済合理性とは異なる評価基準によるものであるところが面白い。この頃はようやくそのレンズ性能を評価するコメントも増えて来たが、一方、早くも中古市場には「美品」クラスの在庫が山積みだ。
それでもライカ社は、値引きもせず、今後も安易に市場に迎合しないであろう。その頑な姿勢を評価すべきかもしれない。価格競争とスペック競争のジレンマに陥り、業界自体が自滅して行く、という悪循環から脱する商品戦略とはこういう事なのかもしれない。ブランド価値という差異化戦略だ。しかし、その一方、ニコンのように、新しい技術や機能を、まずは普及機に搭載して、ユーザや市場の反応を見極め、技術的な信頼度が熟してから、ハイエンド機に搭載してゆく、というようなマイグレーション戦略も、きわめて合理的な差異化戦略だとも思うのだが。それにしても,ライカ社はもう少しデジタル化のための技術をブラッシュアップしてもらいたいものだ。バグの多いカメラはやはりブランドイメージを傷つける。デジタルカメラとなった以上、それが基本性能のブラッシュアップなのだから。
(LeicaM Type240との比較。確かにデザイン的な統一感を出すことには成功している。一回りコンパクトなサイズだが、ミ二Mというには...)
(軍艦部にはシャッターダイアル、絞りダイアル。露出補正ダイアルはない。アクセサリーシューには別売りのEVFを装着出来る。やはり、このスペックにしてもレンズがデカイ。しかしズーミングによるレンズ繰り出し量は少ない。)
(大雪に見舞われた東京。ようやく「平常運転状態」へ。歪曲も周辺光量不足も少なく安心出来るズームレンズだ)
(雪の中から梅の花が咲き始めた。望遠側70mmで最短30cmまで寄ることができる。結構なクローズアップ効果が得られ、開放f値がf.6.7にもかかわらず、背景のボケも良い感じだ)
(羽田国際線ターミナル。広角28mmエンドで撮影。下方の水平方向の直線に全く樽型歪曲も見られない秀逸なズームレンズ)
2014年1月29日水曜日
伊豆逍遥 〜今も昔も「愛の流刑地」〜
この週末はいつもの伊豆の隠れ家へ。吹きすさぶ都会の寒風を避け、ここは東京からも行きやすい避寒地だ。加茂郡東伊豆町奈良本、といっても知らない人が多いだろうが、伊豆熱川温泉といえばその名を知らない人は居ない。伊豆熱川駅からだと、温泉街は急な坂を下った海岸ベリだが、奈良本の里は、急な坂を上らねばならない。天城山系の東側の山麓に佇む集落で、みかん園やイチゴ園などの広がる農村地帯である。
伊豆と言えば海を思い浮かべるかもしれないが、伊豆半島は娥娥たる山に覆われた平地の少ない半島。小さな尾根や谷間に隠れ里のような集落が点在している。この山里に築300年の豪壮な古民家がある。かつては奈良本の名主の家であり、一時は奈良本村の役場であったこともあるそうだ。伊豆独特のナマコ格子塀の土蔵や、黒光りした大黒柱、太い梁といった骨格のしっかりした母屋。内装は板戸を改修して組子を入れた障子、へっついのあった台所を改装して玄関とするなど、多少の改装はあるが、江戸時代中期の庄屋建築の特徴を今にとどめる。縁側からは庭が楽しめるし、居間には昔ながらの囲炉裏があり、なんとも心和む空間になっている。また年季の入った立派な組子細工の作り付けの仏壇があり、ご先祖様と一緒に家族で食事をするのだそうだ。
地元の新鮮な海の幸、山の幸をあしらった食事を囲炉裏端でいただきながら聞く、ここの女将の話が興味深い。元々旧名主である名家に嫁いできたのだが、今は我々のような隠れ処族に和みの場を提供してくれている。女将は熱川から南に行った、蓮台寺の生まれで、ここ奈良本に嫁いできたのだそうだが、自分の実家は山の中の隠れ里のような所にあるそうだ。子供の頃から祖母や母から、下田の人は、みやこにいにしえのルーツを持つ高貴な家系の人が多くて、嫁入りや嫁取りはなかなか大変、と聞かされてきたという。奥さんのことは「お方様」と呼ばなくてはいけない、など、何かと「みやこ風」だ、と。この女将もとても風格があり、言葉使いにも品があって、どっしりとした存在感がある。奈良本にも落人伝説があり、下田ほどではないが、やはり古くからの風習や言葉に、どこか鄙にはまれな雅が残っていると言う。
そもそも「奈良本」という地名で想像するのは、やはり「奈良」に関係あるところなのだろうか?ということだ。奈良本の真ん中にある水神社には、その昔、奈良からやってきた人々により開かれた里であることから「奈良本」という地名がついた、と由来が記されている。やはりそうなのか。ではどういう人々がどういう理由でここ伊豆の天城山の東にやってきたのか?
伊豆(伊豆諸島を含む)はいにしえより、流刑の地であったことが知られている。源頼朝が伊豆の蛭が小島に流され、のちに挙兵、源氏再興の決起した話は有名だが、そのずっと前、奈良時代、平安時代から流刑地であった。律令制の時代の724年、配流地として、伊豆(静岡)、安房(千葉)、 常陸(茨城)、佐渡(新潟)、隠岐(島根)、土佐(高知)が 遠流の地と定められた。以降、江戸時代にかけて、伊豆諸島(大島や八丈島など)が遠流(しまながし)の地としては有名だが、伊豆半島にも多くのみやこ人が流されたという。多くは罪人というよりは,政治的な敗者。無念の思いを抱いて送られた人々が多かったのだろう。じっさいに流刑になった人々で、記録に残っているものは少ないようだが、天城山の南、下田にトキノミツクリ(石偏に蠣のつくり+杵、道作)を祀る小さな祠、箕作八幡宮がある。かの壬申の乱後に、大津皇子が謀反の疑いをかけられ非業の死を遂げているが、その舎人であったトキノミツクリが668年に、伊豆に流され、この地で果てたのだそうだ。記録に残る伊豆最初の流刑者だといわれている。
この他にも天城山の北、伊豆市の善名寺には館山薬師如来という、流刑者の霊を鎮める仏像が祀られている。小さなものでは路傍に塞の神様やお地蔵様などが、地域の守り神として今も祀られている。1300年以上も前の出来事と、その一族の記憶が受け継がれているのも、その子孫が地元に血脈を受け継いでいるために他ならない。同時に非業の死を遂げた人々が怨霊となって祟りをなす、という奈良時代、平安時代の怨霊信仰によるものでもあろう。みやこにも数々の怨霊鎮めの社や寺があることは既知の通りであるが、こうした遠くはなれた伊豆にも、疫病や、天変地異は、こうした怨霊のなせる技、という考えがあったのだろう。
今は首都圏から簡単に訪れることの出来る温泉地、避寒地で、夏場は海辺や高原のリゾートとしてにぎわう伊豆であるが、こうした歴史を知るのもまた楽しい。まして地元の人から聞く話は、時空を超えていにしえ人と直接会話しているようでワクワクする。女将は、最近は温泉地が寂れて、熱川の駅前も閑散としているし、老舗旅館も二代目、三代目になって人手に渡り、変わってしまったと嘆いていた。それでも、熱川駅で見ていると、電車から降りてくるのは年齢に関係なくカップルが多いようだ。なるほどここは「愛の流刑地」なのだ。私も「温泉付き流刑地」で女房とのんびりするのも悪くないな。
(下田の港。1854年米国ペリー艦隊(黒船)がここに停泊し、ペリー一行が上陸。了仙寺で幕府と下田条約が締結された)
(築300年の古民家のいろりが心和む時間をくれる)
(奈良本の水神社のご神木。ここに奈良本の地名の由来が記されている)
(奈良本の里の路傍には、このようなお地蔵様や,塞の神様が祀られている。お供えが蜜柑というのが伊豆らしい)
スライドショーはこちらから。春を告げる花の写真がイッパイです。⇒
伊豆と言えば海を思い浮かべるかもしれないが、伊豆半島は娥娥たる山に覆われた平地の少ない半島。小さな尾根や谷間に隠れ里のような集落が点在している。この山里に築300年の豪壮な古民家がある。かつては奈良本の名主の家であり、一時は奈良本村の役場であったこともあるそうだ。伊豆独特のナマコ格子塀の土蔵や、黒光りした大黒柱、太い梁といった骨格のしっかりした母屋。内装は板戸を改修して組子を入れた障子、へっついのあった台所を改装して玄関とするなど、多少の改装はあるが、江戸時代中期の庄屋建築の特徴を今にとどめる。縁側からは庭が楽しめるし、居間には昔ながらの囲炉裏があり、なんとも心和む空間になっている。また年季の入った立派な組子細工の作り付けの仏壇があり、ご先祖様と一緒に家族で食事をするのだそうだ。
地元の新鮮な海の幸、山の幸をあしらった食事を囲炉裏端でいただきながら聞く、ここの女将の話が興味深い。元々旧名主である名家に嫁いできたのだが、今は我々のような隠れ処族に和みの場を提供してくれている。女将は熱川から南に行った、蓮台寺の生まれで、ここ奈良本に嫁いできたのだそうだが、自分の実家は山の中の隠れ里のような所にあるそうだ。子供の頃から祖母や母から、下田の人は、みやこにいにしえのルーツを持つ高貴な家系の人が多くて、嫁入りや嫁取りはなかなか大変、と聞かされてきたという。奥さんのことは「お方様」と呼ばなくてはいけない、など、何かと「みやこ風」だ、と。この女将もとても風格があり、言葉使いにも品があって、どっしりとした存在感がある。奈良本にも落人伝説があり、下田ほどではないが、やはり古くからの風習や言葉に、どこか鄙にはまれな雅が残っていると言う。
そもそも「奈良本」という地名で想像するのは、やはり「奈良」に関係あるところなのだろうか?ということだ。奈良本の真ん中にある水神社には、その昔、奈良からやってきた人々により開かれた里であることから「奈良本」という地名がついた、と由来が記されている。やはりそうなのか。ではどういう人々がどういう理由でここ伊豆の天城山の東にやってきたのか?
伊豆(伊豆諸島を含む)はいにしえより、流刑の地であったことが知られている。源頼朝が伊豆の蛭が小島に流され、のちに挙兵、源氏再興の決起した話は有名だが、そのずっと前、奈良時代、平安時代から流刑地であった。律令制の時代の724年、配流地として、伊豆(静岡)、安房(千葉)、 常陸(茨城)、佐渡(新潟)、隠岐(島根)、土佐(高知)が 遠流の地と定められた。以降、江戸時代にかけて、伊豆諸島(大島や八丈島など)が遠流(しまながし)の地としては有名だが、伊豆半島にも多くのみやこ人が流されたという。多くは罪人というよりは,政治的な敗者。無念の思いを抱いて送られた人々が多かったのだろう。じっさいに流刑になった人々で、記録に残っているものは少ないようだが、天城山の南、下田にトキノミツクリ(石偏に蠣のつくり+杵、道作)を祀る小さな祠、箕作八幡宮がある。かの壬申の乱後に、大津皇子が謀反の疑いをかけられ非業の死を遂げているが、その舎人であったトキノミツクリが668年に、伊豆に流され、この地で果てたのだそうだ。記録に残る伊豆最初の流刑者だといわれている。
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| 「箕作八幡宮」 伊豆急稲梓駅から下田街道沿いに進むと、 田んぼの脇の山中にある 発見するのは容易ではないが。 |
この他にも天城山の北、伊豆市の善名寺には館山薬師如来という、流刑者の霊を鎮める仏像が祀られている。小さなものでは路傍に塞の神様やお地蔵様などが、地域の守り神として今も祀られている。1300年以上も前の出来事と、その一族の記憶が受け継がれているのも、その子孫が地元に血脈を受け継いでいるために他ならない。同時に非業の死を遂げた人々が怨霊となって祟りをなす、という奈良時代、平安時代の怨霊信仰によるものでもあろう。みやこにも数々の怨霊鎮めの社や寺があることは既知の通りであるが、こうした遠くはなれた伊豆にも、疫病や、天変地異は、こうした怨霊のなせる技、という考えがあったのだろう。
今は首都圏から簡単に訪れることの出来る温泉地、避寒地で、夏場は海辺や高原のリゾートとしてにぎわう伊豆であるが、こうした歴史を知るのもまた楽しい。まして地元の人から聞く話は、時空を超えていにしえ人と直接会話しているようでワクワクする。女将は、最近は温泉地が寂れて、熱川の駅前も閑散としているし、老舗旅館も二代目、三代目になって人手に渡り、変わってしまったと嘆いていた。それでも、熱川駅で見ていると、電車から降りてくるのは年齢に関係なくカップルが多いようだ。なるほどここは「愛の流刑地」なのだ。私も「温泉付き流刑地」で女房とのんびりするのも悪くないな。
(下田の港。1854年米国ペリー艦隊(黒船)がここに停泊し、ペリー一行が上陸。了仙寺で幕府と下田条約が締結された)
(築300年の古民家のいろりが心和む時間をくれる)
(奈良本の水神社のご神木。ここに奈良本の地名の由来が記されている)
(奈良本の里の路傍には、このようなお地蔵様や,塞の神様が祀られている。お供えが蜜柑というのが伊豆らしい)
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ラベル:
伊豆散策
場所:Tokyo, Japan
日本, 静岡県賀茂郡東伊豆町奈良本
2014年1月16日木曜日
旧前田侯爵邸 〜東京の近代建築を巡る〜
旧前田公爵家邸宅跡を訪ねた。現在はその広大な屋敷跡は駒場公園となっており、都心では貴重な緑濃い閑静な公園である。英国チューダー様式の洋館(昭和4年竣工)と書院造りの和館(昭和5年竣工)が並立している。和洋並立は明治期以来の大名華族家の邸宅の特色の一つである。洋館の方は関東大震災の後の建築なので鉄筋コンクリート造り。翌年完成した和館は純和風木造建築である。当時は東洋一の豪邸と称されたそうだ。
既知の通り加賀前田家の江戸本邸は本郷にあった。現在の東京大学本郷キャンパス、通称「赤門」のあるところである。その後明治に入り、前田家はこの本郷本邸の土地を東京帝国大学に提供、駒場農学校の土地の一部と交換し、邸宅を構えたのが現在の駒場公園となっている場所である。ちなみに駒場には現在、東京大学の教養学部と先端科学技術研究センター(いわゆる先端研)がある。これらはもともと農学校であったが、後に東京帝国大学農学部となる。さらに本郷キャンパス北の旧水戸邸あとに設立されていた旧制第一高等中学校と交換し、農学部は本郷に、旧制一高が駒場に移った。これが現在の教養学部である。
この建物や加賀前田家については、様々な書籍や案内で説明されているので、ここでの説明の繰り返しは避けるが、興味深いのは、この建物の隣に前田育徳会の建物と書庫がある。特に、ここの尊経閣文庫は日本の古文書、古美術など、国宝、重要文化財の宝庫である。歴史研究でたびたび登場する日本書紀の最古の写本はここに保存されている(残念ながら研究者以外には非公開だが)。前田の殿様は文化芸術の保護、育成、振興に歴代尽くしてきたことは、既知の通りだし、加賀百万石の城下町金沢を訪ねればその馥郁たる文化の香りが街にみちみちていることがすぐに理解出来るが、ここ東京においてもその片鱗を窺い知ることが出来る。関東大震災や戦時中の空襲にも関わらず、また明治維新時の混乱、戦後の混乱の中でもこれらの「文化財」が残ったことは、人類にとっての幸運であろう。これも前田家当主利為侯爵が早くからこれらの文化財を保護するために公益法人を設立して財団に移管し、私有物として散逸を防ぐ努力をしてきたことによる。名家には名家としての文化財保護に役割を果たして来た歴史と、それに伴うなみなみならぬ努力があったことの証だと思う。敬意を表したい。
なお、駒場公園内には日本近代文学館がある。また一角には柳宗悦の民芸運動の拠点、日本民芸館と柳の自宅であった北館がある。散策に楽しみの多いところだ。
目黒区の駒場公園のサイトに建物の詳しい説明がありますのでご覧ください。
http://www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/koen/komaba.html
(チューダー様式の洋館)
(書院造りの和館)
(二階の書斎)
(テラスから庭園を望む)
(階段室のステンドグラス。)
スライドショーはこちらから→
(撮影機材:Leica M240, Elmarit 28mm, Summilux 50mm, Tri-Elmar 16-18-21mm)
周辺地図:
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既知の通り加賀前田家の江戸本邸は本郷にあった。現在の東京大学本郷キャンパス、通称「赤門」のあるところである。その後明治に入り、前田家はこの本郷本邸の土地を東京帝国大学に提供、駒場農学校の土地の一部と交換し、邸宅を構えたのが現在の駒場公園となっている場所である。ちなみに駒場には現在、東京大学の教養学部と先端科学技術研究センター(いわゆる先端研)がある。これらはもともと農学校であったが、後に東京帝国大学農学部となる。さらに本郷キャンパス北の旧水戸邸あとに設立されていた旧制第一高等中学校と交換し、農学部は本郷に、旧制一高が駒場に移った。これが現在の教養学部である。
この建物や加賀前田家については、様々な書籍や案内で説明されているので、ここでの説明の繰り返しは避けるが、興味深いのは、この建物の隣に前田育徳会の建物と書庫がある。特に、ここの尊経閣文庫は日本の古文書、古美術など、国宝、重要文化財の宝庫である。歴史研究でたびたび登場する日本書紀の最古の写本はここに保存されている(残念ながら研究者以外には非公開だが)。前田の殿様は文化芸術の保護、育成、振興に歴代尽くしてきたことは、既知の通りだし、加賀百万石の城下町金沢を訪ねればその馥郁たる文化の香りが街にみちみちていることがすぐに理解出来るが、ここ東京においてもその片鱗を窺い知ることが出来る。関東大震災や戦時中の空襲にも関わらず、また明治維新時の混乱、戦後の混乱の中でもこれらの「文化財」が残ったことは、人類にとっての幸運であろう。これも前田家当主利為侯爵が早くからこれらの文化財を保護するために公益法人を設立して財団に移管し、私有物として散逸を防ぐ努力をしてきたことによる。名家には名家としての文化財保護に役割を果たして来た歴史と、それに伴うなみなみならぬ努力があったことの証だと思う。敬意を表したい。
なお、駒場公園内には日本近代文学館がある。また一角には柳宗悦の民芸運動の拠点、日本民芸館と柳の自宅であった北館がある。散策に楽しみの多いところだ。
目黒区の駒場公園のサイトに建物の詳しい説明がありますのでご覧ください。
http://www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/koen/komaba.html
(チューダー様式の洋館)
(書院造りの和館)
(二階の書斎)
(テラスから庭園を望む)
(階段室のステンドグラス。)
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(撮影機材:Leica M240, Elmarit 28mm, Summilux 50mm, Tri-Elmar 16-18-21mm)
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場所:Tokyo, Japan
日本, 東京都目黒区駒場
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